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真宗研究49号全

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(1)

ISBN 0288-1911

員宗連合準舎研究紀要

第四十九輯一一

平 成 17年 1月

主主活ミ主主壬ミー等茎虐雪

(2)
(3)

亘 ︿

第四十九輯

(4)

’二士, 刀'

第四十九輯

'TO ブし

真宗伝道における実践論の教義的研究・

j

i

﹁真仏土巻﹂所引﹃浬繋経﹄の文の意義:::大

−|﹁乃至﹂された箇所を手がかりとして 1 1 谷 派 伊 東 恵 葛 野 洋

法然門下における

理解の諸相について

﹁顕浄土真実信文類﹂開顕の意義

||至心釈の考察を中心として

l

谷 大 学

﹁普賢之徳﹂についての一考察

l

三願的証に関連して

l

・ ・

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・ 京

都 女

子 大

善 幸 豆玉

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佐々木恵精︵六五︶

田 派 稲 垣

﹃恵信尼消息﹄第五通に関する一考察・::::大谷派鹿田

||﹃往生要集﹄との引用文の比較を通して||

麿

,,句、 亡コ 、、ー’F

(5)

楊仁山と小栗栖香頂:−

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特に﹃念仏国通﹄を通して i

村 薫 ︵ 三 七 ︶ ノ\

正七

願 寺 派

田 雅 教 ︵ 豆 一 ︶ 弓子 ,,6.. Z三Z 藁 報 4コ ブU l』 員 異

(6)

本願、における欲生心と唯除の意義

大谷派

は じ め まず、この小論において私が何を課題にしているのか、明確にしておきたい。 ﹁本願における欲生心と唯除の意義﹂というテ 1 マのもとで考察しようと思っている問いは、本願における欲生 心の意義は﹁唯除﹂の文を欠くことのできない事柄として明らかにせねばならないのではないか、又もしそうであ るなら、本願の欲生心究明において、﹁唯除﹂の文は、どのような意義を開示するのかという課題である。﹁信巻﹂ ﹁欲生釈﹂は、﹁唯除﹂の意義を積極的に明かす箇所ではないために、本願における欲生心究明という課題におい の文の必然性が課題的に考察されるということはほとんどなかったと言ってよいであろう。しかし、こ て ﹁ 唯 除 ﹂ の問題は親鷺聖人にとって本願および本願成就における﹁唯除﹂という課題の考察に不可欠な視点であり、決して 忽せにできない問いであると考える。 そ こ で 、 具体的に、この課題を考察するにあたって、本論では、﹁信巻﹂における欲生心究明の意義をまず押さ 本願における欲生心と唯除の意義

(7)

本願における欲生心と唯除の意義 えて、欲生心と唯除についての聞いの核心を探りあてたい。その上で、﹁信巻﹂において﹁唯除﹂の課題がどのよ うに表現、展開されているのかを確かめ、 さらに﹁唯除﹂という課題がいかなる内実を有するのかを明らかにした ぃ。そして、最後にそれまでの考察を踏まえて、﹁本願における欲生心と唯除の意義﹂について明らかにできたら と 思 っ て い る 。 で は 、 早 速 、 その次第にそって﹁信巻﹂における﹁欲生釈﹂の課題についての考察から、論を進めていこう。

まず、﹁信巻﹂における﹁欲生釈﹂の課題を確かめておきたい。 親鷺聖人は、﹁欲生釈﹂官頭の御自釈に ト セ ウ ク ワ 〆 シ タ マ フ ノ ヲ ナ リ F 4 ︶ 言ニ欲生一者則是如来招ニ喚諸有群生↓之勅命 と表現される。ここで、﹁至心信楽欲生﹂という本願三心のうち、その言葉の端的な定義として、至心は如来の ﹁真実心﹂と、また、信楽は如来の﹁信心海﹂として確かめられ、そこに衆生という契機が直裁示されないのに対 して、欲生心は明確に衆生との関わりをその根本的な意義として持つことが明示されていることに注目すべきであ つまり、本願の欲生心とは、﹁本願信、い願成駅﹂として明かされる真実信心を衆生に成就させようとしては ろ ﹀ フ 。 たらく、知来の根源的な願心なのである。 このように、衆生に根源的にはたらく如来の願心として、欲生心の意義を見定める聖人は、さらにその深義を尋 ねられていく。それは、﹁欲生釈﹂の御自釈における 如来持ニ哀一切苦悩群生海一行二菩薩行−時三業所修乃至一念一利那・回向心馬首︸得三成ご就大悲心一故 オ ホ キ ニ ア ワ レ ム

(8)

という一匂に見て取ることができる。この御自釈は、その背景に、﹃浄土論﹄﹃論註﹂の ンタマヘルスシテテノヲニニスラクヲシテトエタマへルカコトヲタニ︵叩︶ 云何廻向不三捨二一切苦悩衆生一心常作願廻向局ニ首一得三成=就大悲心−故 という表現を有し、さらにこの言葉を確かめるように、それにもとづいて、聖人は和讃を作られている。それは、 ﹃ 正 像 末 和 讃 ﹄ ﹁ 草 稿 本 ﹂ に 如来の作願をたづぬれば み た に よ ら い の ひ ︿ わ ん を お こ し た ま ひ し こ と を 一 ま ふ す な り 苦悩の衆生をすてずして 廻向を首としたまひて か し ら と し 砿 し め て 大 悲 心 お ば 成 就 せ り ︵ 日 ︶ み た の た い し た い ひ し む を え た ま へ り と し る へ し と な り と著されている和讃である。この和讃で聖人は、知来の作願︵発願︶そのものに、苦悩の衆生を捨てずという誓願 その苦悩の衆生に対して、回向を﹁慈悲の首︵はじめごとして、苦悩の衆生を捨てないという の 根 本 を 見 出 し 、 大悲心を成就されたという、本願の根源的なはたらきを見出している。要するに、苦悩の衆生を捨てないという如 来の本願は、知来の廻向という根源的なはたらきによって成就するというととである。このような如来の発願の根 本的な意義を究明するという課題が、ここでの和讃、﹃論﹂﹃論註﹄の文、そして﹁欲生釈﹂を貫く問題となってい る。したがって、欲生心の究明は、本願そのものを発起されたその意義を、もっとも根源的な願心に遡って究明し ようという課題と受け取ることができるのである。そうであるなら、﹁本願欲生心﹂という聖人の表現は、本願三 心の中における如来の願、むを意味するとともに、苦情の衆生をたすけんとする本願そのものが起こされたもっとも 根源的な願心を指し示しているのであって、そのもっとも根源的な願心の究明とその願心の成就の内実を明かす ﹁欲生釈﹂﹁本願欲生心成就文﹂において、なぜ﹁唯除﹂の文が明示されねばならないのかということが、本論の 問 題 の 核 心 で あ る 。 本 願 に お け る 欲 生 心 と 唯 除 の 意 義

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本願における欲生心と唯除の意義 四 このことを﹁信巻﹂そのものにおける﹁唯除﹂という課題の解明と共に以下考察していきたい。

では、﹁信巻﹂そのものにおける﹁唯除﹂ の意義について考えていこう。 の物語、あるいは﹁論註﹂ 従来、本願および本願成就における﹁唯除﹂の文についての究明は、﹁信巻﹂所引の﹁浬繋経﹂における阿閤世 それを受けての善導大師の﹁抑止門釈﹂についての考察、又﹁尊競 の ﹁ 八 番 問 答 ﹂ と 、 真像銘文﹂における本願文の﹁唯除﹂についての聖人自身の注釈などによって考察されることが多く、またその結 果として﹁唯除﹂の意義とは、﹁本願の機﹂を明らかにする文という理解と、﹁抑止門釈﹂にもとづいた掻取抑止の 二義を示すという理解がその大半を占めているように思われる。また、そのような理解の仕方とは一線を画する形 で、いわゆる﹁三願転入﹂という視点から、特に第二十・至心回向の願との関係において、至心信楽の願における の意義の解明が行われている。このような﹁唯除﹂についての了解・研究を踏まえた上で、親鷺聖人が ﹁ 唯 除 ﹂ ﹁信巻﹂において明らかにされている﹁唯除﹂の意義を厳密に考察するためには、﹁信巻﹂そのものの文脈および 構成からの究明が不可欠なのではないかと考える。 ﹁ 信 巻 ﹂ の文に対する課題の確かめは、 の文脈および構成に大きく関わっていると考えることができるからであり、具体的には、本願成就文の引 それは、親鷺聖人の﹁唯除﹂ き方および﹁信巻﹂の論述展開を不可欠な視点として取り上げた時、 そこに見出すことのできる﹁唯除﹂ の 意 義 が 存在するからである。 で は 、 その視点のもとに、﹁信巻﹂において﹁唯除﹂とは一体どのような意義を持つのかに ついて考察していきたい。 そもそも、親鷺聖人が、﹁信巻﹂において明らかにしようとするもっとも根本的な事柄は、﹁至心信楽之願 正定

(10)

緊之機﹂と標挙細註されるように 設 我 得 悌 十 方 衆 生 至 心 信 楽 欲 生 我 園 乃 至 十 念 若 不 生 者 不 取 正 鶴 見 唯 除 五 逆 誹 誇 正 法 と誓われた﹁至心信繁之願﹂ の 意 義 と 、 その願が成就する﹁正定衆之機﹂である。聖人は、 その第十八・至心信楽 の願の意義を明らかにしようとされる際に、本願文と同時に、 その本願成就文の意義を明確化することに、大きな 重点を置かれている。殊に、﹁正定取水之機﹂を具体的に明らかにするには、本願成就文、 つ ま り 願生彼園即得往生住不退轄 と説かれる経言の意義をどのように開顕することができるかということがもっとも根本的な課題となる。 諸有衆生 聞其名競信心歓喜乃至一念 至心回向 唯除五逆誹誘正法 し た が つ て、﹁信巻﹂において、この本願成就文をどのように引文されているのかという視点は、当然﹁信巻﹂の課題の究 明そのものと深い関係があり、同時に、 その引文の仕方は、本願および本願成就における﹁唯除﹂ の意義の解明に 対しても、大きな示唆を与えるのである。では、その点を具体的に究明していこう。 聖人は、﹁信巻﹂において、﹁至心信策本願﹂の成就の文を冒頭に﹁本願成就文﹂として、﹁唯除﹂まで引文され ている。また、﹁三心一心問答﹂における﹁第二問答﹂では、その本願成就文を二つに分けて﹁本願信心願成就文﹂ 及び﹁本願欲生心成就文﹂として引かれるが、その際にも本願成就文は﹁唯除﹂の文まですべて引文されている。 それに対し、同じ﹁信巻﹂において﹁信の一念釈﹂直後における本願成就文の引き方は、﹁唯除﹂の文が引かれ の文を記さない引文の仕方は、その箇所に、﹁唯除﹂の文が ない形での引文である。しかしながら、この﹁唯除﹂ 単に必要でないから引文しないということではない。なぜなら、﹁信巻﹂そのものの課題と文脈を踏まえるなら、 聖 人 が ﹁ 唯 除 ﹂ き る か ら で あ る 。 の文を引かずに本願成就文を引文されるのは、明確な確かめの上でなされていると考えることがで つまり、この﹁信の一念釈﹂後における本願成就文の引き方は、﹁難治機﹂を説く﹃浬般市経﹄か らの引文を終えた、直後の御白釈に呼応しており、 し た が っ て 、 その御白釈に﹁唯除﹂の文を引かない本願成就の 本願における欲生心と唯除の意義 五

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本願における欲生心と唯除の意義 ム ノ 、 意義を聖人は明確に教示しているのである。それは 大悲弘誓一師二利他信海−持ニ哀斯一治憐二欄斯一療 オ ホ キ ニ ア ハ レ ム ア ハ レ ミ ア ハ レ ム 時 如 三 醍 醐 妙 薬 療 二 一 切 病 − 濁 世 庶 類 積 悪 群 生 雁 = 一 求 ニ 念 金 剛 不 壊 真 心 − 可 三 執 ニ 持 本 願 醍 醐 妙 薬 一 也 臆 知 一 モロ/︷\ ヲ テ ヨ ル 是以今描 ニ ノ ノ ハ タ ノ ミ 大 聖 員 説 一 難 化 三 機 難 治 三 病 者 懇 ニ という箇所である。ここで、聖人ははっきりと逆諒闇提という﹁難治機﹂ つまり、本願における﹁唯除﹂の機は、 大悲の弘誓において治癒したまうことを明言しており、この確かめに、﹁唯除﹂ の文を記さずに本願成就の文を引 文される聖人の意図を見定めることができるのである。 その上で、聖人はこの御自釈のすぐ後﹁信巻﹂ ニ ケ リ ノ ヲ ニ ハ 夫描ニ諸大乗一説ニ難化機−今﹃大経﹂言ニ の 最 末 尾 に 唯除五逆誹詩正法一或言=唯除造元間悪業誹誘正法及諸聖人一 と 記 さ れ 、 再 度 ﹁ 唯 除 ﹂ の 文 の 意 義 を 、 ﹃ 論 註 ﹄ ﹁ 八 番 問 答 ﹂ 、 ﹃ 観 経 疏 ﹄ ﹁ 抑 止 門 釈 ﹂ 、 ﹁ 法 事 讃 ﹄ 、 ﹃ 往 生 拾 因 ﹄ に 拠 の文を引いて、尋ねていかれるのである。これが、本願成就文の引き方を注目する時に見出される﹁信 る ﹁ 溜 州 ﹂ 巻﹂の大きな流れである。 さらに、聖人にとって、﹁唯除﹂という課題が、どのような質の問題であるのかを明らかにするために、﹁信巻﹂ の論述展開について考察したい。それは﹁悲嘆込慨﹂に結ばれ、﹁難治機釈﹂にはじまる﹁信巻﹂の転開である。 ﹁信の一念釈﹂から、﹁信巻﹂は、本願成就において生み出される機の内実を具体的に究明する論述が重点的にな その本願成就の機が明らかになることによって、その究明の最後の一点において明瞭にされ さ れ て い る 。 さ ら に 、 願に反逆するほかない衆生の現実を、 ねばならない事として、﹁誠知悲哉﹂と表白せざるをえない仏弟子の自覚の収飲する事実がある。ここで聖人は本 わが身の事実において問われ、悲嘆されているのである。また、ここに、悲

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喫されている内実は、決して﹁定衆之敷﹂に入ることへの不可能性でも、﹁真謹之謹﹂に近づくことへの絶望でも ない。一切の衆生に、無上仏道として開かれる本願念仏の仏法こそ、煩悩具足の凡夫に﹁定衆之数﹂に入ることを 成就するのであり、そのような本願の教えに出遇い、その教えの根源である仏願を聞信することをのみ課題とする 仏弟子が、必ず自覚せざるをえない﹁不喜﹂﹁不快﹂という﹁機﹂の事実を、﹁悲嘆述懐﹂は語り告げている。この 悲嘆にこそ、﹁難治機﹂と仏が説き明かさねばならない衆生の課題的在り方の質が教え示されているのである。し たがって、﹁難治機﹂つまり、本願および本願成就における﹁唯除﹂の機とは、本願そのものに出遇うという事実 のただ中に見出される衆生の現実、換言すれば本願に背くものとしての衆生の在り方をこそ課題として表現してい る言葉なのである。そうすると、﹁信巻﹂における﹁唯除﹂の意義とは、本願に反逆するほかない衆生の在り方そ のものを、本願の﹁ことば﹂のうちに明確化し、﹁唯、除く﹂と言い切ることにおいて、衆生における本願への目 覚めを待ち続ける大悲の﹁ことば﹂であると言いうるであろう。

本願欲生心成就における﹁唯除﹂

の意義 以上のように﹁信巻﹂における﹁唯除﹂の意義を確かめることができるなら、本願の欲生心という如来のもっと も根源的な願心の推究において、確かめられねばならない﹁唯除﹂の意義とは何か。 今までの確かめを踏まえて、そのことを考察するなら、一切苦悩の衆生を捨てずして、その衆生に、 を施与し、あらゆる生死に流転する苦悩の衆生をたすげんがために、その生死の世界へと、回向したまう知来の願 一 切 の 功 徳 心のうちに、﹁唯、除く﹂と知らせねばならない如来の大悲の内実を開示する言葉が﹁唯除﹂の意義と考えられる だ ろ う 。 本願におげる欲生心と唯除の意義 七

(13)

本願における欲生心と唯除の意義 }\ そうすると、本願の欲生心のうちに確かめられねばならない いのであり、本願招喚の勅命である欲生の願心のうちに、本願に久遠劫来反逆しつづける衆生の現実を、妥協する ﹁唯除﹂とは、端的に﹁本願の唯除﹂にほかならな 一点の余地無く、絶対否定の﹁ことば﹂によって徹底して批判・吟味し、その衆生の在り方を白目の下に曝すはた らきを持つ厳格な﹁ことば﹂が﹁たずのぞくといふことば﹂としての﹁唯除﹂であると、 一度どうしても確認しな くてはならないと考える。したがって、﹁唯除﹂という大悲の言葉は、 いかなる在り方をしている衆生も、本願に 反逆するという一点において、 どこまでも妥協することなく、 その衆生に﹁唯、除く﹂と言い切って、衆生の在り 方そのものの重き﹁つみ、 とが﹂を知らせんとしてはたらきつづける大悲の﹁ことば﹂だということである。 こ の こ と を 踏 ま え 、 さらに考察を進めるなら、﹁唯、除く﹂という言葉は、根本的には本願の欲生心つまり、如 来が発願されたその根本的な願心のもとで、 はじめて明瞭に確かめることができるような如来大悲の﹁ことば﹂な の で あ る 。 つまり、本願の欲生心成就のうちに﹁唯除﹂という如来の大悲の﹁ことば﹂を確かめねばならないとい うことは、如来の根源的な願心のうちに、﹁唯、除く﹂という﹁ことば﹂によってのみ知来の大悲がはたらく衆生 の存在そのものの課題が見出されたということである。その課題を親鷺聖人は自らの外において推究するのではな く、﹁信巻﹂における﹁悲嘆述懐﹂のうちに、本願に出遇った一人の事実において本願に反逆する衆生の在り方そ さらに﹁唯除﹂という﹁ことば﹂が、本願の大悲の言葉であることを、身をもって究明されて の も の を 悲 嘆 さ れ 、 いくのである。その究明が﹁難治機釈﹂以降の﹁信巻﹂の課題であり、さらには﹁化身土巻﹂全体を貫ぬくものと 考える。したがって、﹁本願欲生心成就文﹂における﹁唯除﹂の意義は、﹁信巻﹂における﹁悲嘆述懐﹂の意義と、 質を同じくする事柄なのであり、いわば﹁信巻﹂における﹁悲嘆述懐﹂の内実を生み出す、根源としての﹁こと ば﹂が﹁本願欲生心成就文﹂のうちに確かめられる﹁唯除﹂の意義と押さえられるのではないかと考える。 以上の考察から、欲生心成就のうちに、﹁唯除﹂ の文を確かめている聖人の引文の仕方は、﹁信巻﹂そのものの展

(14)

聞においてなくてはならない視点を示しているのであり、 また同時に、聖人にとって﹁唯除﹂ の文の意義を推究す るもっとも根源的な基点を明示するものなのである。

誰一人もれることなく、皆に斉しく同じく誓われ、喚びかける如来の願心こそ、親鷺聖人が﹁誓願一悌乗﹂と開 顕し、﹁大乗のなかの主配﹂と領かれた浄土真宗の根源である。その具体性を﹁本願欲生心成就﹂の中に、﹁唯除﹂ という大悲の﹁ことば﹂にまで確かめられた聖人の聞思の内実を考えるなら、﹁唯除﹂という﹁ことば﹂とは、徹 頭徹尾、虚妄・虚偽を生き、本願に反逆しつづけるほかないわれら衆生に、本願が成就する一点を指し示しつづけ ているのである。したがって、﹁本願欲生心成就﹂において、﹁唯除﹂の意義を究明するという課題は、明らかにし なくてはならない必然的課題なのであり、ここにこそ本願および本願成就における﹁唯除﹂の意義を考察していく 基本的視点が存在するのである。 なお、本論において一言触れたにすぎず、これからの課題ということになるが、﹁信巻﹂と﹁化身土巻﹂との連 の意義の究明の展開として考えることができないかという問題提起をした。特に 闘 を 、 ﹁ 信 巻 ﹂ に お け る ﹁ 唯 除 ﹂ この問題に関しては﹁信巻﹂の最後、﹃論註﹄﹁八番問答﹂から、﹁往生十因﹂による﹁溜州﹂の文における﹁五逆﹂ の確かめまでの展開で、聖人が何を課題とされていたのかということを明らかにしなければならない。さらにその 上 で 、 そこでの課題と﹁化身土巻﹂において展開される課題とが必然的な連関を有しているのかが問われよう。そ の問いに対しては、﹁信巻﹂における﹁唯除﹂ の機つまり逆語という課題と、﹁化身土巻﹂における課題の質がどこ まで明らかになるかということが、究明すべき最大の点であるが、このことについては今後の課題としたい。 本願における欲生心と唯除の意義 九

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設 ︵ 1 本 願 に お け る 欲 生 心 と 唯 除 の 意 義

是ヲ親 以テ驚 本 聖 願ノ人 欲 は 生

1

i

説巻

文 「 「 欲 経ニ生 』 釈 言マ」 2の 至 御 心 自 回 釈 向シの 3後 願ハ 生ト 彼ノ 園ニ llP 得ェ 往 生ヲ 住セ ニ ム 不 退 縛ニ 二 唯 定除ず

本云

P

整蓮ト

T

I

誹 信 誘

法ト /¥ 頁 と記され、﹁本願欲生心成就﹂に、﹁唯除﹂の文を明確に確かめられている。 ︵ 2 ︶﹃定本教行信設﹄一一一七

1

一 一 一 一 一 一 頁 。 ︵ 3 ︶たとえば、﹁教行信証講義集成第六巻信証 H ﹄︵仏教体系刊行会編二七六

1

二七八頁︶に見られる深励、道 隠の理解や、鳳嶺﹃広文類聞書﹄︵﹃真宗大系﹄第十六巻一五九頁︶などの理解を参照。 ︵4 ︶﹃定本教行信証﹄一二七頁。 ︵ 5 ︶斯心則是不可思議・不可稽・不可説一乗大智願海回向利益他之異質心是名ニ至心−︵﹃定本教行信証﹄一一九頁︶。 ︵ 6 ︶ 言 − 一 信 楽 一 者 則 是 如 来 満 足 大 悲 園 融 元 号 信 心 海 。 ︵ ﹃ 定 本 教 行 信 証 ﹄ 一 二

O

頁 ︶ 。 ︵ 7 ︶﹃定本教行信証﹄=二頁。 ︵ 8 ︶言ニ欲生一者則是如来招コ喚諸有群生一之勅命即以ニ員賓信樹木戸国局二欲生鐙−也、誠是非ニ大小凡聖定散自力之 マ ネ キ ヨ プ 回向−故名工不回向一也、然微塵界有情・流ヱ縛煩悩海−粛ニ波生死海−元ニ異質回向心−元ニ清浄回向心−是故如 来持ニ哀一切苦悩群生海−行ニ菩薩行−時三業所修乃至一念一利那・回向心局首−得三成ニ就大悲心−故以ニ利 他員賓欲生心一廻ニ施諸有海一欲生即是廻向心斯則大悲心故疑蓋元二雑− ︵ ﹁ 定 本 教 行 信 証 ﹄ 一 一 一 七

1

一 二 八 頁 ︶ 。 ︵ 9 ︶ ︵ 川 ︶︵日︶ ︵ 口 ︶ 廻る苦サ口~rr

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一 二 七 頁 。 一 五 一 頁 。

(16)

大 悲 心 お ば 成 就 せ り ︵ ﹃ 定 本 親 驚 聖 人 全 集 ﹂ 第 二 巻 和 讃 篇 一 七 七 頁 ︶ 。 と著されて、﹁廻向を首としたまひて﹂の左訓に、﹁しひのはしめとしかしらとして﹂と確かめられている。 ︵ 日 ︶ ﹃ 定 本 教 行 信 謹 ﹄ 一 二 八 頁 。 ︵H ︶たとえば、法住﹁教行信証金剛録﹄︵﹁続真宗体系﹄第八巻九

O

頁 ︶ を 参 照 。 ︵日︶深励の﹁康文類曾読記﹄︵たとえば、﹁真宗体系﹄第十五巻四二頁︶や道隠の﹁教行信証略讃﹄︵たとえば﹃教 行信証講義集成﹄︵仏教体系刊行会編︶第五巻一三六

1

一 三 七 ︶ に お け る 理 解 を 参 照 。 ︵同︶贋瀬呆著﹁真宗救済論﹄一八四

1

コ 二 八 頁 。 ︵ 口 ︶ ﹃ 定 本 教 行 信 謹 ﹄ 九 五 頁 。 ︵日︶﹁真宗聖教全書一﹂九頁。 ︵凹︶同右二四頁。 ︵ 却 ︶ ﹃ 定 本 教 行 信 謹 ﹄ 九 七 頁 。 ︵ 幻 ︶ 同 右 。 ︵泣︶ノタ茨経﹄一三口諸有衆生聞ニ其名競信心歓喜乃至一念至心廻向願三生三彼固即得三往生住二不退時又 言 ・ : : ・ ︵ ﹃ 定 本 教 行 信 設 ﹂ 一 三 七 頁 ︶ 。 ︵ お ︶ ﹁ 定 本 教 行 信 設 ﹄ 一 五 三 頁 。 ︵但︶同右一八二一

1

一 八 四 頁 。 ︵お︶同右一八四頁。 コ ト ヲ ニ サ ル コ ト ヲ ︵却︶誠知悲哉愚禿鷲沈三波於=愛欲康海−迷三惑於ニ名利太山一不三喜−一入ニ定衆之数一不周快三近=員護之謹一可ニ 恥 一 一 弘 一 鼠 ブ ム 失 ハ マ マ ︶ ︵ ﹃ 定 本 教 行 信 証 ﹂ 一 五 三 頁 ︶ 。 ︵ 幻 ︶ 具 体 的 に は 、 ﹁ 現 生 十 種 の 益 ﹂ ・ ﹁ 横 超 断 四 流 釈 ﹂ ・ ﹁ 真 仏 弟 子 釈 ﹂ ・ ﹁ 便 同 弥 勅 釈 ﹂ ・ ﹁ 仮 偽 釈 ﹂ な ど 。 ︵却︶﹃定本親鷺聖人全集第三巻﹄和文篇七五頁。 ︵ 却 ︶ 同 右 。 ︵ 却 ︶ ﹁ 定 本 教 行 信 護 ﹄ 七 六 頁 。 ︵訂︶﹁定本親驚聖人全集第三巻﹂ 本 願 に お け る 欲 生 心 と 唯 除 の 意 義 書簡篇 六 二 頁 。

(17)

真宗伝道における実践論の教義的研究

本願寺派

十 易

は じ め 浄土真宗における伝道論は、﹁自信教人信﹂を理念の基底として論じられてきた。伝道の理念を研究し、その思 想的あるいは教義的な論理を明らかにすることは大いに意義のあることと考える。しかし、伝道は理念によっての み構成されているのではない。実際には法を讃嘆する者と、その法を聞き喜ぶ立場の者という実践的な現場によっ て構成されている。このことから、真宗伝道論は実践論を離れた、その理念にのみ焦点を絞った研究だけでは十全 とは言い難い。それ故に伝道論の研究は具体的な実践の現場を視野に入れつつ研究されなければならない。 伝道の実践論を研究する場合、伝道の具体的な方法論や技術論を取り上げることも有効な面はあるが、その教義 的背景を踏まえずに研究を行うと、単に種々の具体的事例を列挙し、その是非や有効性の勝劣などを検討するだけ に終始し、時には浄土真宗としては不相応な実践論を押し進めてしまう危険性がある。 このようなことから、伝道の実践論について教義的な研究をする意義は大きいと考える。念仏者の行業論あるい

(18)

は実践に関わる諸説を概観し、真宗伝道の実践論について、最も重要視しなければならない視点を解明したい。

一、念仏者の実践論

浄土真宗の教義的背景において、念仏者の実践について論じている代表的なものは、﹃浄土論﹄や﹃往生論註﹄ に説かれた五念門行や、善導大師の著作に示された五正行などがあげられる。 五 念 門 行 に つ い て 五念門行は﹃浄土論﹄において、浄土願生し自利利他成就して阿梼多羅三貌三菩提を得ょうとする願生行者、 ま たは従因至果の菩薩が修める行として説かれていた。しかし親鴛聖人の解釈では、五念門行は法蔵菩薩の所修の行 とし、その五念二利の徳が名号に円かに具せられており、その名号が衆生に至り届いたのが信心であるので、 の信心に五念の徳が具せられているとする、 'L' ﹃ 浄 土 論 ﹄ の偏煩に﹁観仏本願力 遇無空過者 いわゆる﹁体具の五念﹂と理解されてきた。 功徳大宝海﹂とあるのは、仏の不虚作住持功徳と 能令速満足 して説かれであって、仏の本願力に遇うものは功徳の大宝海を満足すると記されていることや、﹃大経﹄法蔵修行 に﹁令諸衆生功徳成就﹂と説かれ、法蔵菩薩の兆載永劫の修行が衆生の功徳を成就せしめることであったことから も 一心の信心に五念二利の徳が具せられていることが伺い知ることができる。 善譲師は﹃真宗要論﹄に 一心帰命を初起の安心と見れば則ち聞信一念に五念二利の徳を体具す。:::又一心帰命を等流の大信と見れば ︵ 3 ︶ 則 ち 相 発 を 必 具 す 。 真宗伝道における実践論の教義的研究

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真宗伝道におげる実践論の教義的研究 四 と 釈 し て お り 、 一心に五念の徳があることから、その信心獲得の念仏者に礼拝、讃嘆、作願、観察、回向と相に発 いわゆる﹁相発の五念﹂とも釈されている。 る と す る 、 また義山師が﹁真宗百題啓蒙﹂に 法もと互具すと云ふは、信の一念に帰命の相あって勅命に帰依帰順すれば、即ち仏の尊高を知って恭敬心生ず ればなり。此心あるもの、信後相続に於て宣に仏を礼敬せざるべけんや、又信の一念に於て尽十方無碍光知来 を所帰とするは、我を摂取するの諸仏超過の徳あるを知ればなり、此人信後に於て、何ぞ仏徳を讃嘆せざらん や、又信の一念に作得生想の心あって往生を一定と期するものは、三塗の苦難を免る﹀の安楽土に生ずべきを 析楽すればなり、此人信後に於て何ぞ﹁さきつ y く花みるたびになほもまた、いとねがはしきにしのかのき し﹂と云ふ等の作願をなさざらんや。又信の一念既に相好円満の仏、 七宝荘厳の浄土にましまして、正覚華中 に生ぜしめたまふと知るもの、室に時々之を観想︵おもひうかぶ︶して慶嘆せざるべけんや、又信の一念既に ︵ 4 ︶ 自の大益を得るを歓喜す、信後何ぞ之を他に及ぽすの教人信の回向心を発起せざらんや、 と釈しているのは、一心といわれる信心は五念門行の功徳を具しており、その信心を獲得せしめられた人には、 ﹁浄土論﹄当面に説かれる﹁作願﹂﹁観察﹂を中心とした止観の行としてではないが、凡夫相応の礼拝、讃嘆、作 願、観察、回向が相に発るとされている。 特に﹁信の一念既に自の大益を得るを歓喜す、信後何ぞ之を他に及ぼすの教入信の回向、むを発起せざらんや、﹂ という釈は、自らが阿弥陀仏の法を聞き受けている﹁信心﹂が根源となって、他の人にも同じ喜びを味わってもら いたいという心が起きると記されていて、真宗伝道の実践論を考える上には、大きな示唆を受けることができると 思 わ れ る 。

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五 正 行 に つ い て 善導大師は五念門行を相承しつつも、独創的な行業論をうち立てた。特に﹁往生礼讃﹄に安心、起行、作業を詳 説されていることは、念仏者の実践論の基本となる枠組みを示したといわれている。 安心とは決定往生の信心を安立することをいい、正因門あるいは業因門といってもよいものであり、念仏者の実 践の根本となっている信心を確立することである。ここでは﹁観経﹂の三心を起こすことであるが、この中の第二 の深心とは真実の信心であり、その深心を釈する二種深信の釈下、法の深信を釈するなかに就行立信釈が設けられ ︵ 6 ︶ ている。ここに往生行を正雑二行に分判し、その正行を読調、観察、礼拝、称名、讃嘆供養といういわゆる五正行 をもって説かれている。この五正行の第四の称名を本願に順じた正定業として、前三後一は助業として廃捨して、 本願所誓の称名一行を決定往生の行と信ずることを深信とするのであった。 起行とは安心と相応して実践される行業を、身口意の三業に分けて具体的に示したものであり、念仏往生の安心 に随伴して起こす行業のことであるから相続門というべきものである。ここに﹁浄土論﹄に説かれる礼拝、讃嘆、 作 願 、 観 察 、 回 向 の 五 念 門 が 説 示 さ れ て い 九 記 。 ただしここでは五念門の配列が変更され、﹁観察﹂﹁作願﹂の順と記されている。これによって善導大師において は﹁浄土論﹄の五念門行を継承しながらも、独特な五念門観があったと既に指摘されている。それは﹃浄土論﹂に 説かれた五念門行が﹁作願﹂﹁観察﹂が中心の止観の行であったのに対して、ここでは、安心門において確立した 信心の相続相として﹁観察﹂﹁作願﹂の順で説かれ、もはや止観の行ではなく凡夫相応の五念門として説示された のである。この起行門において説かれる五念門行は安心門において廃捨された助業と内容的には同じものである。 作業とは起行門の行業を修する時の修相策励の方軌を示したもので、﹁恭敬修﹂﹁無余修﹂﹁無間修﹂﹁長時修﹂の 真宗伝道におりる実践論の教義的研究 五

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真宗伝道における実践論の教義的研究 ム ノ 、 恭敬修とは、阿弥陀仏とその聖衆を恭敬し、礼拝をし、尊重することであり、無余修とは 称名を中心に阿弥陀仏とその聖衆を、三業をもって、専念、専想、専礼、専讃し余行を雑えないことである。無間 修とは安心、起行を相続して間断せしめないことで、長時修とは前の三修を生涯相続して決して中止しないと誓つ ︵8 ︶ て い る こ と で あ る 。 四修があげられている 起行に説かれる五念門と四修の関係は、行体とその修相の関係を表していた。 善導大師の行業論は、正定業たる称名一行をもって信心を確立し︵安心︶、称名を中心に五念門︵起行︶を四修 という修相︵作業︶をもって、生涯相続していくのが、浄土往生を願う者の実践論であるとしている。 この安心、起行、作業という枠組みを明確に踏まえておかなければ、念仏者の実践論に混乱を来すこととなるの で 、 注 意 が 必 要 で あ る 。 法然聖人の行業論 ﹁偏依善導一師﹂といわれた法然聖人は、善導大師の行業論を相承しつつ、﹁選択﹂の思想をもって、阿弥陀仏 の本願の救済をより鮮明に示された。選択は選取選捨の義であり、廃立の義が際だつ名目である。このことは﹁選 択 集 ﹂ 総 結 三 選 之 文 に 、 計也夫速欲離生死二種勝法中且閣聖道門選入浄土門欲入浄土門正雑二行中

E

拠諸雑行選応帰正行欲修於正行正 助二業中猶傍於助業選応専正定正定之業者即是称仏名称名必得生依仏本願故 計れば、夫速やかに生死を離れむと欲はば、二種の勝法の中に、且く聖道門を閣いて選びて浄土門に入るべし。 浄土門に入らむと欲はば、正雑二行の中に、且く諸の雑行を拠てて選びて正行に帰すべし。正行を修せむと欲 はば、正助二業の中に、猶し助業を傍らにして選びて正定を専らにすべし。正定の業とは即ち是仏名を称する

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︵ 刊 ︶ なり。名を称すれば必ず生ずることを得。仏の本願に依るが故なり。 と端的に示されている。 これによると、元来は阿弥陀仏の滞土に往生する為の行業でなかった非往生行を、発願して往生行とする邪雑な る行、諸善万行をその行体とする雑多の行、 また人天及び三乗に通じ、十方浄土にも通じる雑通なる行と釈される 雑行は、当然のごとく拠てて、阿弥陀仏の浄土に往生する行として正当であり正直な行である正行に帰すべきであ り、その正行のなかでも、非本願の行である助業は傍らにして正定業である称名一行を専らにするべきであると結 論づけられている。今さら言う必要はないが、この三選の文の選択の主体は、文言の上からは念仏者が主体となっ ているが、阿弥陀仏の選択本願に値遇したものは、選択の主体は阿弥陀仏であることに気づかしめられているので あ る 。 信心の安立といわれる安心門において、﹁正しく往生決定の行業・業因﹂である正定業は、阿弥陀仏の選択され た称名念仏一行であって、それ以外のすべての行業は廃されている。つまりこの安心門において選択、廃立された 本願所誓の称名念仏一行以外の行業、正行のなかの前三後一の助業は非本願の行であり、所廃である。 さて、安心門において廃捨される助業の﹁助﹂とは如何なる意味であろうか。 ﹃和語灯録﹄に所収される﹁諸人伝説の詞﹄に 本 願 の 念 仏 に は 、 ひとりだちをせさせて助をささぬ也。助さす程の人は、極楽の辺地にむまる。すけと申すは、 智慧をも助にさし、持戒をもすけにさし、道心をも助にさし、慈悲をもすけにさす也。それに善人は善人なが す(ら 也旦念 。 仏 し 悪 人 は 悪 人

カま ら 念 仏 し て ただむまれつきのままにて念仏する人を、念仏にすけささぬとは申 と示して﹁本願の念仏には、 ひとりだちをせさせて助をささぬ也﹂とあるととから伺うと、本願の念仏は﹁ひとり 真宗伝道における実践論の教義的研究 七

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真宗伝道におりる実践論の教義的研究 「 \ だち﹂しており、何ものの助けをも必要としないというのであるから、助は扶助あるいは資助の意味として、業因 を扶助することとは考えられない。業因扶助ではない助は助伴の義であって、称名正定業に随伴する行業を助業と す る の で あ る 。 もし﹁助﹂を扶助の義とする時は、信後の称名相続を助縁するという意味に於いての扶助であり、 やはり業因扶 助 は 認 め ら れ な い 。 正定業に随伴し、業因にはかからない助業は、浄土往生の正行ではあるが、安心門においては所廃の行であった。 しかし起行門においては、念仏者の実践として称名正定業に任運随伴して念仏生活を荘厳していく意味において、 勧 励 さ れ て い る 。 この安心門において廃捨される助業が起行門において勧励されるという点は、真宗の伝道論を考究するときに重 要な示唆を与えると考える。 義山師の﹃真宗百題啓蒙﹂には 助業と名くるものは:::一説には利他の辺に就いて弘通を助くるとする義あり という指摘があるように、読請、観察、礼拝、讃嘆供養の前三後一の助業や、起行門に説かれた礼拝、讃嘆、観察、 作願、回向の五念門行は、伝道に深く関わる内容だと考えるからである。特に讃嘆や回向、読請という行業は伝道 弘通に直接しているからである。 また助業に関して、同類の助業とは別に異類の助業を示されたことも真宗の伝道論を考究する際には見逃せない 視点と考える。異類の助業とは、安心門では雑行として廃捨された、布施持戒等の阿弥陀仏やその浄土に正当して い な い 諸 行 で あ る 。 これらの助業は、安心門においては廃捨されることは明白であるが、念仏の相続を妨げることなく、毎日の日暮

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しを豊かな念仏生活にしていく場合に、念仏の助業として認めていくのである。前出の﹃諸人伝説の調﹄には﹁衣 ︵ 日 ︶ 食住の三は、念仏の助業也﹂とあって、雑行に位置付げられる諸行万行だけに限らず、毎日の生活のさまざまな行 為をも含めて念仏の助業と認める一面がある。 ただし、ここで安心門と起行門の枠組みを無視し、雑行も日常の生活行為も、無条件で念仏の助業となるという わけではない。安心門で確立された念仏往生の信心と矛盾なく、統合されている場合に限られる。元来、阿弥陀仏 の浄土往生の行でないものや、まったく仏道とは異なる生活行為などであるから、余程の注意を払っておかなけれ ば混乱を来してしまうのは自明である。 助 正 論 さて、このような教義的背景をもっ念仏者の実践論であるが、親鴛聖人は先に述べた正助二業を、﹃信文類﹄と ﹃化身土文類﹄に引用されている。このことから、後の宗学において念仏者の実践論を解明する、いわゆる助正論 として、微に入り細に入り非常に細やかな論義が行われている。 ﹃散善義﹄に説かれた五正行の文は五正行を並べて記す、いわゆる開列五正とその第四の称名を正定業とし、前 三後一を助業とするこ門に分けて記す、いわゆる合門助正の文から構成されている。親驚聖人はこの文から合門助 正の一文を﹁信文類﹄に引用し、一方﹃化身土文類﹄には開列五正から合門助正までを引用し、後に﹁従此要門出 正助雑三行﹂と一不されている。このことから、後世、助正は真仮のどちらに属するのかが争点となってきた。 いまその代表的な説を概観すると、僧叡師に代表される弘願助正、また鮮妙師に代表される方便助正等がある。 弘願助正は、阿弥陀仏の本願︵弘願︶に値遇し得た念仏者は称名を正定業として、前三後一の助業がその正定業 に随伴し催され起こると考える。この時の助業は当然ながら業因扶助の助業ではなく、助伴、随伴という意味での 真宗伝道における実践論の教義的研究 九

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真宗伝道における実践論の教義的研究

助 業 で あ る 。 弘願の救済の上に行われる行業は、本願所誓の称名をもって正定業として、他の正行は助業として、助正が弘願 のうえで言い得るとするものである。 方便助正では、前出の﹃化身土文類﹂に﹁従此要門出正助雑三行︵この要門より正助雑の三行を出せりごとあ ることから、助正という名目は方便門から出たものであって、念仏者の行業に助正の別を見るときは、方便の自力 念仏の法門を表すとするものである。 この方便助正の説からすると、信心の念仏者の行業はすべて阿弥陀仏の徳を讃嘆する報思行として価値的に互角 で あ る と す る の で あ る 。 つまり念仏者の仏徳讃嘆の報思行には助正の別はなく、 一切の行業は名号の顕現であると 主 張 す る の で あ る 。 この様な簡略に概観するだけで、それぞれの学説の特徴や真意を明らかにしつくすことはできないが、しかし信 心を安立する安心門においては、阿弥陀仏の本願成就の南無阿弥陀仏を聞信することにかわりはなく、その名号法 が念仏者の行業として、どのように発露されるのかが争点になっていたとも言い得る。 ま と め 念仏者の実践論に関して、雑薄ではあるがおおよその概観を試みた。 五念門行は願生行者や従因至果の菩薩の修する行ではなく、一切の修行を成し得ない凡夫の救済を発願した法蔵 菩薩の所修として、一心にこの五念二利の徳が具せられていると理解されていた。 善導大師の一示す安心門、つまり信心を安立するのは、阿弥陀仏の本願に順じた称名念仏一行、後に法然聖人が阿 弥陀仏の選定であるとした、この名号法をもって信心を安立する以外なかったということが明らかであった。

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安心門において廃捨された助業について検討してみると、安心門においては所廃の行であるが、起行門において は念仏に随伴する行業、もしくは念仏相続を助成する行業であると理解されていた。 また法然聖人が示した、異類の助業を含む助業の勧励は伝道論を考える際に、大きな示唆を与えている。 助正論については、起行相続の上に助正を見るか否か、という点が諸学説の顕著な相違点であり、信心の安立に 関しては阿弥陀仏の本願成就の南無阿弥陀仏を聞信することで、共通していたことを確認した。 このように、念仏者の実践論を、浄土真宗の教義的一面から伺い検討したところ、それぞれのの所顕は異なるが、 知何なる場合も阿弥陀仏の本願成就の南無阿弥陀仏による救い、 その名号法を聞信する安心門を根源として考えな ければならないことが明らかとなった。 真宗伝道の実践論も、この阿弥陀仏の本願の救いに値遇し得た、喜びが基底となった活動でなければならないと 考 え ら れ る 。

二、伝道の実践的現場の事例

浄土真宗の伝道における活動のなかで、もっとも広範囲に行われ、 また歴史のある方法は、各種法要を厳修し法 座を設け、法話を聴聞することが主として執り行われてきたと言える。 伝統的に厳修されてきた法要についても、種々の試みがなされている。総体的には簡素化へと向かっていると見 聞する。例えば音楽法要にしたり、法要時の照明や様々な工夫を凝らして、荘厳や演出の方法を斬新なものに試み ているところもある。未だ浄土真宗の教えに触れる機会のなかった者が、最初の縁となるのは葬儀の縁が多い。伝 道の一つの縁と考えることができる葬儀も多様化が進み、従来どおりでは終わらない。 一 考 を 要 す る で あ ろ う 。 真宗伝道における実践論の教義的研究

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真宗伝道における実践論の教義的研究 法 座 に つ い て も 、 一方的な講演型から、話し合い法座へと転換されることもある。とにかく﹁わかりやすく、親 しみやすく﹂と要望される。また高座説教が復活し、節談説教らしき法話が改めて注目を集めるなど、多様化が進 み種々様々な新しい試みがなされている。 また、真宗伝道の実践とは直接していないように見られる、社会的活動、老人介護のボランティアやカルチャー セ ン タ ー 活 動 、 メディテ l ションや写経会を開催していることもある。 これらの種々様々な伝道活動は、その現場に携わる人々のそれぞれの問題意識の持ち方や、創意工夫によるもの であるので、敬意を表するべきであって一慨に批判をすることなどはできない。 し か し 、 どの様な活動も無条件で容認されるわけではない。 例えば浄土真宗に直接的には相応していないと思われる活動の場合、先に論究したように﹁真宗伝道の実践論は、 阿弥陀仏の本願の救いに値遇し得た、喜びが基底となった活動でなければならない﹂という点から考えると、 し〉 か にそのような活動であっても、本人が阿弥陀仏の救いに値遇し得た、その喜びを基底とした活動ならば、真宗伝道 の活動、あるいは念仏者の実践として、位置付けることは可能である。ただし、その行為によって浄土真宗という み教えについて誤解を招いたり、妨げになるようなことは容認されることはない。まして自らが阿弥陀仏の本願の 救 い に 値 遇 し 得 た 、 その喜びを基底としない活動であるならば、 そ れ は 論 外 で あ る 。 再度、真宗伝道の実践的現場を考えてみると、毎年厳修される報思講や、恒常的に勤まる年団法事等の仏事が、 形式的には浄土真宗に相応しい活動形態であっても、真宗伝道の実践あるいは念仏者の実践とは言い得ないことも ある。なぜなら、真宗伝道における実践論は、 弥陀仏の救いに値遇し得た、喜びがあるのか、 どのような活動を実践するかではなく、 その実践の根底に自らが阿 その喜びを基底とした活動であるか否かにかかっているからである。

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む す び 真宗伝道における実践論を教義的に解明しようとして、念仏者の実践論について概観した。これによって、真宗 伝道の実践的現場において、執り行われている種々様々な活動が、本当に真宗伝道の実践と言い得るのは、 その実 践の根底に自らが阿弥陀仏の救いに値遇し得た、喜びがあり、 その喜びを基底とした実践であるか否かに依ること が明らかとなった。 ﹁自信教人信﹂を理念の基底として論じられる浄土真宗の伝道は、この視点を最も重要視しなければならないと 結んでおきたい。 註 ︵ 1 ︶ ︵2 ︶ ︵ 3 ︶ ︵ 4 ︶ ︵ 5 ︶ ︵ 6 ︶ ︵ 7 ︶ ︵ 8 ︶ ︵ 9 ︶ ︵ 叩 ︶︵日︶ ︵ ロ ︶ ﹃ 浄 土 真 宗 聖 典 七 祖 篇 ﹄ ︵ 原 典 版 ︶ 三 五 頁 。 ﹁ 浄 土 真 宗 聖 典 ﹄ ︵ 原 典 版 ︶ 一 ニ 三 頁 。 ﹁ 真 宗 叢 書 ﹂ 二 ・ 三 三 頁 。 ﹃ 真 宗 叢 書 ﹄ 二 ・ 四 一 頁 。 ﹃ 浄 土 真 宗 聖 典 七 祖 篇 ﹄ ︵ 原 典 版 ︶ 七 三 六 頁 。 ﹃ 浄 土 真 宗 聖 典 七 祖 篇 ﹄ ︵ 原 典 版 ︶ 五 二 五 頁 。 ﹃ 浄 土 真 宗 聖 典 七 祖 篇 ﹄ ︵ 原 典 版 ︶ 七 三 七

1

七 三 八 頁 。 ﹁ 浄 土 真 宗 聖 典 七 祖 篇 ﹄ ︵ 原 典 版 ︶ 七 三 一 九 頁 。 ﹃選択集﹄後述﹁浄土真宗聖典七祖篇﹄︵原典版︶一四三

O

頁 。 ﹁ 浄 土 真 宗 聖 典 七 祖 篇 ﹄ ︵ 原 典 版 ︶ 一 四 二 九

1

一 四 一 二

O

頁 。 ﹃ 和 語 灯 録 ﹂ ﹃ 真 宗 聖 教 全 書 ﹂ 四 ・ 六 八 二

1

六 八 三 頁 。 ﹃ 真 宗 叢 書 ﹄ 二 ・ 二 五 二 頁 。 真 宗 伝 道 に お け る 実 践 論 の 教 義 的 研 究

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真宗伝道における実践論の教義的研究 ︵ 日 ︶ ︵H ︶ ︵ 日 ︶︵日︶ ﹃和語灯録﹄﹁真宗聖教全書﹄四・六八三頁。 ﹃ 浄 土 真 宗 聖 典 ﹄ ︵ 原 典 版 ︶ 二 七 五 頁 。 ﹃浄土真宗聖典﹄︵原典版︶四八七

1

四 八 八 頁 。 ﹁ 浄 土 真 宗 聖 典 ﹄ ︵ 原 典 版 ︶ 四 九 五 頁 。 四

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所引

の文の意義

1

i

﹁乃至﹂された箇所を手がかりとして

i

l

大谷派

珪子 JじA、

は じ め 親驚は、﹁教行信証﹄﹁真仏土巻﹂回目頭の白釈において、真仏土とはいかなる仏土であるのかということを示して、 次のように述べている。 テ レ ヲ ハ ハ ナ リ 、 レ ハ チ シ ユ ス ル カ ノ ニ ニ プ ナ リ ノ ト テ ニ 謹按ニ真仏土一者仏者則是不可思議光如来土者亦是無量光明土也、然則酬二報大悲誓願一故日ニ真報仏土−既 而 有 ニ 願 一 即 ・ 光 明 寿 命 之 願 是 也 ︵ ﹃ 定 親 全 ﹄ 一 ・ 二 二 七 頁 ︶ これによれば、真仏とは﹁不可思議光如来﹂であり、真土とは﹁無量光明土﹂であって、それは阿弥陀の大悲の 誓願に酬報するが故に﹁真の報仏土﹂である。真の報仏土とは、﹁酬﹂の左訓に﹁コタフ﹂と施されているように、 本願に報い応える仏土、すなわち本願成就の真実報土である。 ﹁真仏土巻﹂は、上述の仏土観を基点として、真実報士を開顕するという思想課題に応えるべく展開されている。 しかし、このような視座のもとに、﹃大無量寿経﹂に始まる諸文を精読するとき、﹁浬繋経﹄の文においては、それ ﹁ 真 仏 土 巻 ﹂ 所 引 ﹃ 浬 繋 経 ﹂ の 文 の 意 義 五

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﹁ 真 仏 土 巻 ﹂ 所 引 ﹁ 浬 繋 経 ﹄ の 文 の 意 義 ー ム ノ、 までとは異なる課題が推究されているように思われる。 ﹁ 大 経 ﹄ と 、 その異訳の﹃如来会﹄﹁平等覚経﹄﹃大阿弥陀経﹂の文では、第十二光明無量・第十三寿命無量の願 とその願成就文によって、真仏真土は一切苦悩の衆生に積極的に用く光明を本質とすることが明らかにされている。 また、真言陀羅尼を説く﹃不空調索神変真言経﹂ の文によって、衆生がまさに生まれるべきところとして阿弥陀の 清浄報土が確かめられている。 それに対して、﹁浬般市経﹄の文は、同じ経証として引用されているのであるが、それは﹁解脱﹂﹁浬繋﹂﹁仏性﹂ を軸として、言わば如来の性︵本質︶そのものが究明されているのである。このように、﹃大経﹄等の引文の課題 との間に連続性が見られず、一見唐突な印象を受ける﹃浬般市経﹄の文が、ここに位置づけられるのは、 は た し て い かなる理由によるのであろうか。 そこで本論では、親鷺が﹁浬繋経﹄引用に際して用いなかった文、すなわち﹁乃至﹂された箇所を確かめ、所引 の文と比較・検討することによって、親驚の思想的営為の意図を推究しようと思う。﹁乃至﹂とは、ある課題を明 確にするために、不必要・不適切な文を削除・整理したことを示す思索の痕跡であるが、その視点から親驚の思索 の過程を窺うことによって、﹁真仏土巻﹂における﹃浬繋経﹄の文の課題の一端を明らかにすることが本論の目的 で あ る 。

周知のように、親驚が用いた﹃浬繋経﹂は、詳しくは﹃大般浬般市経﹄と言い、部派仏教において編纂された、 わゆる小乗の﹃浬繋経﹂とは別して、﹁如来の法身常住﹂﹁浬繋の常楽我浄﹂﹁一切衆生悉有仏性﹂の三つの主題を し3

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乃 「 (13) (12) (10 (10) (9) (8) (7) (6) (5) (4) (3) (2) (1) 至 真 言 言 同 詰 孟 同 三 三 三 三 同 三 三 」 仏

貧 責 右 責 蚕 右 責 貧 責 責 右 買 責 の 土

回 巻 数 」 も 中 合 の わ 『 せ 浬 て 繋 列 経 挙 』 す に る っ と し 〉 次 て の も と お こ り の で = あ 芸

沿 な カf ら 十

カま 引 用 さ れ て る そ 含 ま れ る 教 説 す る 、 いわゆる大乗の﹁浬繋経﹄である。 ﹁ 四 相 品 ﹂ |

l

知来の法身常住 ﹁ 四 依 品 ﹂ ー ー ー 同 右 ﹁ 聖 行 品 ﹂ |

l

浬繋の常徳 ﹁ 党 行 品 ﹂ | | 同 右 ﹁徳王品﹂||浬繋の楽徳 ﹁徳王品﹂||浬繋の浄徳 ﹁徳王品﹂| i 同 右 ﹁迦葉品﹂||一切衆生悉有仏性 ﹁ 迦 葉 品 ﹂

ii

同右 ﹁ 党 行 品 ﹂ i | 同 右 ﹁ 迦 葉 品 ﹂

l

|同右 ﹁ 迦 葉 品 ﹂

l

l

同右 ﹁ 師 子 肌 品 ﹂ | | 同 右 ︿ ﹁ 乃 至 ﹂ 五 回 ﹀ ︿ な し ﹀ ︿ ﹁ 乃 至 ﹂ ︿ ﹁ 乃 至 ﹂ 二 回 ﹀ ︿ な し ﹀ ︿ な し ﹀ ︿ な し ﹀ ︿ な し ﹀ ︿ ﹁ 乃 至 L 四 回 ﹀ ︿ ﹁ 乃 至 ﹂ ︿ な し ﹀ ︿ ﹁ 乃 至 ﹂ ︿ ﹁ 乃 至 ﹂ 一 回 ﹀ 一 回 ﹀ 一 回 ﹀ 一 回 ﹀ ︵頁数は﹃定親全﹄一のものであり、品名は南本に拠った︶ 大 別 す る と 、

ω

から的までの文は、浬繋の体とその果徳を説示し、浬般木の実相を論じる。附以降では、悉有仏性 の義を教示する仏性論が展開する。今、これらの中から、﹁乃至﹂の回数がもっとも多い

ω

﹁ 四 相 品 ﹂ の 文 を 取 り ﹁真仏土巻﹂所引﹁浬繋経﹄の文の意義 七

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﹁真仏土巻﹂所引﹁浬繋経﹂の文の意義 /¥ 上げて考察を加えてみたい。

﹁四相品﹂と乃至された箇所

ト ナ リ ナ リ ナ リ ノ ナ リ ー ﹃ 浬 繋 経 ﹂ 一 言 口 A 又解脱者名目二虚無一虚無即是・解脱解脱即是如来如来即是虚無非作所作献① B 真解 ニ ナ リ カ ナ リ ニ シ テ ス ノ ニ テ ノ ノ ヲ ニ テ 脱者不生不滅是故解脱即是知来如来亦爾不生・不滅・不老・不死・不破不壊非二有為法一以二是義−故名日一 如 来 入 大 浬 崎 一 制 命 C 又 解 脱 説 。 和 二 無 上

L

一 割 窃 D 無 上 上 主 即 真 解 脱 リ 真 解 脱 主 即 是 如 占 拠 リ 闘 争 E 若 伺 ﹁ 此 一 ト ヲ 於 ニ 阿 薦 多 羅 三 親 三 菩 丸 呈 愛 護 リ 無 愛 無 見 即 真 展 リ 真 解 脱 志 望 如 札 リ 意 F 如来春即是浬県リ喜志即日疋無尽リ懇話 ナ リ ト シ テ ニ サ ク シ ト ト ト ト 是仏性仏性者即是決定決定者即是阿蒋多羅三貌三菩提迦葉菩薩白二仏一言・世尊若浬繋仏性決定如来是一 ナ ラ ハ ソ テ タ マ ヘ ル ヤ ト 卜 ハ ク ニ ヰ ス ル カ ヲ こ ム ヲ ノ ヲ ニ ル ナ リ ト 義名云何説言三有ニ三帰依−仏告二迦葉−善男子一切衆生怖二畏生死一故求二三帰一以二三帰−故則・知ニ仏 ト 、 ナ リ ナ レ ナ リ ヲ 性決定浬繋一善男子有二法名一義異−有二法名義倶異−名一義異者仏常法常比丘僧常浬繋虚空皆亦是常是名ニ名 一 義 異 ︸ 名 義 倶 異 者 仏 名 為 二 覚 一 法 名 二 不 覚 − 僧 名 ニ 和 合 一 浬 繋 ・ 名 二 解 脱 一 虚 空 名 ニ 非 善 一 亦 名 ニ 無 碍 − 是 為 二 名 義 倶 異 一 善男子三帰仇者亦 l 復 札 一 日 早 捕 ︵ ﹃ 定 親 全 ﹄ 一・二三一三二三四頁、記号及び網掛筆者︶ こ の す ︿ は 、 五つの短い文︵ AiE ︶ と仏と迦葉菩薩の﹁三帰依﹂についての問答︵ F ︶ か ら な る 。 一 読 し て 分 か る よ う に 、 A か ら E の五文を一貫する主題は﹁解脱﹂﹁如来﹂である。﹁解脱は如来である﹂ことが、 それぞれ﹁虚 無﹂﹁不生不滅﹂﹁無上上﹂﹁無愛無疑﹂の転釈をとおして押さえられている。 そして F では、前文で示された﹁如来﹂は、﹁浬繋﹂﹁無尽﹂﹁仏性﹂﹁決定﹂﹁阿輯多羅三貌三菩提﹂であること が、仏と迦葉菩薩の問答をとおして明らかにされている。それが﹁名一義異﹂﹁名義倶異﹂である。この二つの説

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示によって、これらは、用きの側面に応じて名付けられているのであって、 その本質はなんら相違ないことが究明 されている。このことは、この﹁四相品﹂の文において、煩墳な転釈の解読や文脈の整合性が求められているので はないことを教示するものである。 次に、﹁乃至﹂された箇所を確認してみたい。 ま ず 、 乃 韮 m w で は 、 凡是作者猶如城郭楼観却敵。真解脱者則不如是。是故解脱即是如来。又解脱者即無為法。警如陶師作己還破。 解 脱 不 爾 。 ︵ 北 本 ・ 三 九 二 頁

a

、南本・六三二頁 b ︶ ︵ 4 ︶ の文が省略されている。これは、直前の﹁非作所作﹂の語を受けて、衆生における﹁作﹂について説明を加える一 文である。おおよそ﹁作﹂とは、城郭楼観を造作したり、陶芸家が器を作ったり壊したりするようなもので、有為 を超えた真解脱はそれらと全く異なることが示されている。 乃避窃では、二一

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九字が省略されている。概見するに、﹁解脱﹂の別名が誓喰や具体例に依りながら明示され て い る の で あ る が 、 一例を挙げれば次のとおりである。 不老不死。有何等義。老者名為遷変。髪白面敏。死者身壊命終。如是等法解脱中無。以無是事故名解脱。如来 亦無髪白面簸有為之法。是故如来無有老也。無有老故則無有死。︵北本・三九一一頁

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、南本・六三二頁 b ︶ 解脱は﹁不老不死﹂にして﹁有為法﹂でないことが、﹁髪が白くなり顔に雛ができる︵老︶﹂﹁身が尽き命が終わ る︵死こという人間の現実状況と対比することによって確かめていることが窺える。この文は、前文 B 中の﹁不 老不死﹂の内実を補説するものである。 乃 査 窃 は 、 警知北方之於東方為無上上。解脱亦爾無有上上。 ︵ 北 本 ・ コ 一 九 三 頁

c

、南本・六三三頁

c

﹁真仏土巻﹂所引﹃浬繋経﹄の文の意義 九

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﹁真仏土巻﹂所引﹃浬繋経﹄の文の意義

と、﹁解脱﹂はこの上なく優れた﹁無上上﹂であることを、方角の優位という警轍でもって示している箇所である。 また乃歪ゅでは、二九一一字が割愛されている。その中から、 E の直前の言葉を引用することにしよう。

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解脱者名目離愛。警如有人愛心稀望釈提桓因大究天王自在天王。解脱不爾。 ︵ 北 本 ・ 二 一 九 五 頁

c

、南本・六三五頁 C ︶ 解脱が﹁離愛﹂と名付けられるのは、我々が抱く執着心を離れていることによることが、誓喰をもって語られて い る の で あ る 。 乃査場は以下のとおりである。 若言解脱有愛疑者無有是処。又解脱者断諸有貧。断一切相一切繋縛一切煩悩一切生死一切因縁一切果報。如是 解脱即是如来。知来即是浬繋。一切衆生怖畏生死諸煩悩故故受三帰。警知群鹿怖畏猟師。既得免離若得一跳則 轍一帰。如是三跳則時三帰。以三跳故得受安楽。衆生亦爾怖畏四魔悪猟師故受三帰依。一ニ帰依故則得安楽。受 安 楽 者 即 真 解 脱 。 真 解 脱 者 即 是 如 来 。 ︵ 北 本 ・ 三 九 五 頁 c 、 南 本 ・ 六 三 一 六

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︶ まず、前文 E の﹁無愛無疑﹂を受けて、もし解脱に﹁愛・疑﹂があるならば、それは﹁如来﹂﹁浬繋﹂ではない と定義する。さらに、衆生が三帰依を求めることについて、鹿が三つの跳躍をもって猟師の危機を回避するという 警仏慨を出し、衆生も三つの帰依によって安楽を得ると説かれ、 る の で あ る 。 その安楽とは﹁真解脱﹂であることが明らかにされ

二、﹁四相品﹂に託された意義

﹁真仏土巻﹂に引用される﹁四相品﹂は、﹃浬繋経﹄本文では、﹃大正大蔵経﹄において約四員にも及ぶ文の中か

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︵ 日 ︶ ら選び取られている。したがって、これら六文の選択には何らかの必然性があるに違いない。そこで、﹁乃至﹂さ 一つの共通する事柄が浮かび上がってくる。 それは、具体的な例や警輸を用いている箇所が何れも﹁乃至﹂されていることである。例えば乃至③に端的に 窺えるように、﹁解脱﹂が﹁無上上 L であることを、方角の警えをもって説明するわずか二

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文字の短い一文を れ た 箇 所 を 確 か め る と 、 ﹁ 乃 至 ﹂ し て 、 ﹁ ま た 解 脱 は 無 上 上 と 名 づ く 。 ﹂ ︵ C ︶ と﹁無上上はすなわち真解脱なり。﹂︵ D ︶ の 文 を 、 一 連 の 展 開として読むように配置されている。このような操作は、他の﹁乃至﹂ の箇所についても同様であって、我々の現 実に即して説かれた具体的な例や警輸を、 その長短を問わず意図的に﹁乃至﹂していることが分かるのである。 とのような営為によって教示されていることは、真仏土は、我々人間の観念や想像の及ばない、人間界を超越し た浬繋の境界であるということである。もとより真仏土は、衆生を救済しようとする大悲の誓願に酬報する仏土で あり、救済を求める衆生の現実に相応する本願の浄土であるが、この浄土︵即ち真仏土︶は根源的・本来的に大般 浬繋界である。このことを示すのが、﹁真仏土巻﹂の文脈における﹃浬繋経﹄﹁四相品﹂の文であるといえよう。こ れによって、﹃大経﹂とその異訳の経典に説かれる本願の浄土が、大般浬繋界であることを明証するのである。 き て 、 ﹃ 浬 繋 経 ﹂ の文にこのような見定めができるならば、続いて引用される﹃浄土論﹂﹃浄土論註﹂ へ の 展 開 も 明 瞭 に な る で あ ろ う 。 ﹁浄土論﹂日世尊我一心帰二命尽十方無碍光如来一願=一生ニ安楽国一観二彼世界相−勝二過三界道−究寛如ニ虚 空 − 広 大 無 二 辺 際 − 日 ︵ ﹃ 定 親 全 ﹄ 一 ・ 二 四 九 頁 ︶ こ の ﹁ 浄 土 論 ﹂ の 文 は 、 まず﹁帰命願生﹂によって浬繋・仏性が開顕されることが示されるのであるが、 そ こ に 説かれる﹁荘厳清浄功徳成就﹂﹁荘厳量功徳成就﹂は、真仏土の清浄無量性、すなわち真実報土の浬繋性を確かめ る 文 言 で あ る 。 ﹁真仏土巻﹂所引﹃浬繋経﹄の文の意義

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﹁真仏土巻﹂所引﹁浬繋経﹂の文の意義 続いて引用される、﹃論註﹂の﹁荘厳清浄功徳成就﹂の文で、﹁煩悩成就の凡夫が浄土に生まれることを得れば、 煩悩を断ぜずして浬繋分を得る﹂と説示されるのも、浄土は何よりも浬繋の境界であるからである。そして﹁荘厳 性功徳成就﹂は、﹃論註﹂自身の文脈においては浄土の性功徳を説くのであるが、それは仏の性と別ではない。 また、善導が真仏土を﹁極楽無為浬繋界﹂と説かれるのも、まさしく﹃浬繋経﹂の教示によるものである。親鷺 は、﹃唯信紗文意﹄にこの語を解釈して、﹁極楽﹂は﹁安楽浄土﹂であり﹁安養﹂であり﹁蓮華蔵世界﹂であり﹁無 為﹂であると述べる。そしてさらに、﹁浬繋﹂を滅度・無為・安楽などと転釈し、﹁仏性すなわち如来なり﹂と結語 している。ここに真仏土の本質的内実を示していることが窺えよう。 このように、﹃浬繋経﹄の文は、無上浬繋としての如来を示し、真仏真土が大浬繋界であるということを示す意 義 を 有 す の で あ る 。 お わ り ﹁真仏土巻﹂における﹃浬繋経﹄の文は、例えば、 ﹁ 浬 繋 経 ﹄ の 御 引 用 の 御 思 召 は 、 一口にいえば、報身のすがたを示すことであるが、文が多いのと、義が複雑 な の と で 、 一見してはっきりと御引用の旨意を補足することはできない。 ︵山辺習学・赤沼智善﹃教行信証講義﹂真仏土・化身土巻、 と、煩墳な転釈や教義的表現が多いために、この﹁浬繋経﹂の諸文に託した親鷺の真意を正確に窺うことは困難で 一 一 一

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頁 ︶ あ る と 了 解 さ れ て き た 。 しかしながら、既に明らかなように、﹃浬繋経﹄の文は、﹃大経﹂に説かれるところの本願の浄土は、実は大般浬

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