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員宗連合撃曾研究紀要
一 一 第 六 輯 一 一
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親驚における四海同朋思想の形成について
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一 九 ︶ 西 州 ︵ 一 毛 ︶ 猷 麿︵三一八︶ 和 敬︵一四九︶ 秀 腎 H ︵ 一 五 三 一 ︶ 信 勝︵一五九︶ 達 朗︵一六一C
性 実︵一六九︶ 広 度︵一七六︶聖
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浄土真宗の元祖と仰ぐ法然上人と親驚聖人との聞には、 その化風にそれぞれの特色が多々あるので、あたかも、そ の信仰内容までが異なっているかのように考えられ、親驚聖人な背師自立とさえ他の諸流より非難され、今日におい てもなおこのような論難を時折耳にするのである。これに関しては宗学勃興以来夙に幾多の学匠等が心血を注いで、 両 者 の 同 一 性 を 論 一 証 し て 来 て い る の で あ る 。 云うまでもなく、親驚聖人が法然上人の法建に連らなった当時は、 上人滅後に著わされた上人の諸伝記に名を記さ れるような高弟とは全く異なって、 いわば無名にも近き存在として過ごされたようである。 し か し な が ら 、 上人の滅 後、その教義の正統性が乱れたことを痛傷し ﹁教行信証﹂六巻を始めとして幾多の述作そものし、その念悌往生義 を開顕せられたのである。こ L に、師法然上人の教義とは一見全く異なるかのような唯信独達の法義を打ち出して、 法然上人の真意を闘揚せられているのである。 この真意の闇揚乙そ、聖人の己証と云うべきものである。 而して、聖人の己証法義の教化に当つては、聖覚・隆寛の二先輩にその証権を見出していられることを知るのであ る。そこで本論においては、聖覚法印と親驚聖人との教義的な一面を考察し、聖人の御己証と云われる信心正因義の 聖覚法印と親鷺聖人聖覚法印と親驚聖人 教化の面に、法印が如何なる意義を有していたかを明らかにして、法然
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親驚の系譜を究めようとするのであ る 法印と聖人の教義的な一面を考察するに先きだって、 上人と法印と聖人の関係を概観しておこう。法印については 法然上人及び親驚聖人との直接而援の関係を立証する確実な資料が今のところ見出されないので、歴史家の聞には多 くの問題を提起せしめるのである しかしながら ﹁明義進行集﹂の著者をして 上人ツネニノタマヒケルハ吾ガ後ニ念僻往生ノ義スグニイハムズル人ハ聖覚ト隆寛トナリト云云 と言わせ、さらに諸種の法然上人伝中に法印の名が記されているところより考えても、 その関係の一班を知ることが できる 3 また、親驚聖人をして さきにくだしまいらせさふらひし唯信抄・自力他力などのふ λ にて御覧さふらふベし、 ぞれこそこの世にとりては よきひとびとにておわします、すでに往生をもしておはしますひとびとにてさふらへば、そのふみどもにかかれて さふらふには、なにごともなにごともすぐべくもさふらはず、法然上人の御おしえをよくよく御こころえたるひと びとにておはしますにてさふらひき︵未燈紗十九通 ① とその御消息等に幾度か推挙させ、聖人御自筆の書写本唯信抄やその註釈書等を著わされている’︶とは、法印と法然 真聖全二ノ六八六頁︶ 上人との間に深い関係のあった F ﹂とを表わすと共に、法印と親驚聖人との繋がりを一不すものである。しかしながら、 これらの資料は、伝承の一一粧を示すものであって、これのみでその全貌を知る戸︶とができない。 @ また法印の著述も、その数わずかであって、而も﹁十六門記﹂の如きは真撰ならさる事が論証されており、 ③ 八願釈﹂についても疑義を投ぜられており、 ﹁ 四 十 ④ ﹁大原問答しについてもその原形云云が論じられている有様である v れに反して﹁唯信抄﹂のみが、 聖人の書写本を通して真撰とせられている。従って、こ L に聖覚法印の教義を考察するに当っても ﹁唯信抄﹂の記述を中心として、相承観・経典観・本願観・正因観の四項日にわたり、 こ の 論 述 、 そ 進 めたいと思う。勿論﹁唯信抄﹂の叙述のみをもって法印の浄土教の全貌が尽くされると云うのではない。他の撰述と 云われるものの究明を通して、更らにその全貌に近きものが浮き出されるのであろうが、 この点については後日機会 を改めて、批判を仰ぐこととしたい。
相
承
観 先ず相承観についてみると、聖覚法印にあっては、直接の記述を唯信抄の上に見る事はできない。 しかし古来﹁選 択集﹂の要約書と一五われる﹁唯信抄﹂に見られるものは、善導・法然を伝承していることである。即ちその前半の法 義釈とも云ラベき部分は、全く﹁選択集﹂のそれを承けている。冒頭の聖浄一一門判、正雑二行の廃立、往生行の選択 と、内容は云うまでもなく、 その叙述の順序も﹁選択集﹂のそれと同様である。またそこに引証された五会法事讃の 二文中一文は法印の附加せるものであるが他の一文は全く同じである。コ一心釈に至っては、法然上人がその論述の殆 んどを善導の引文で終始しているように、法印にあっても、その引証に善導の言説をもってしている。これらによっ て見るならば二祖相承が明瞭にうか父えるであろう。市もこのような二祖相承も、詮ずるところ師資相承たる一師相 承を一不すことにもなるのである。それは﹁唯信抄﹂の論述様式が談義本的な性格を備えているために、 ﹁ 選 択 集 ﹂ を 承けながらも、法印独自の風格を備えて二祖伝承的に見えている。これについては、 ﹁尊号真像銘文﹂所収の法印作 の銘文がよくこの事を示している。即ち 然我大師聖人、為釈尊之使者、弘念悌一門、為善導之再誕、勧称名一行︵真聖全二ノ五九七頁︶ と述ベて、法然上人を我大師聖人と仰ぎ、釈尊の使者・善導の再誕とたたえているのである。 これは、法印自身が法 聖 覚 法 印 と 担 割 溝 型 人聖 覚 法 印 と 親 鷺 聖 人 四 然上人を我大師聖人と云う表現をとることによって、善導の法義を承け継いだ法然一師を相承していることを示すも のであり、叉、こ L に釈尊・善導を承けた法然上人を師と仰ぐことは、親驚聖人が銘文にわざわざ法師の銘文を加え たことに於けると同様に特に注意すべき点である。 し か し このような法然一師の相承ばかりでなく 法印にあっては 念傍往生義の闇揚のために 更に他の釈義 の伝承もうか交われるのである。即ち﹁唯信抄﹂後半四個の異解批判においては、 ﹁安楽集﹂にその批判の基を見出 されているものが二個もある。その一つは、第二異解批判の業障を信じて十念による浄土往生に疑義をはさむ者に対 する批判の基底として、 ﹁業ははかりのごとしおもきものまづひく﹂と一亦されている。この釈義はもと﹁浄土論註﹂ ⑤ に見えるが、今は﹁安楽集﹂所引の文を通して、依用されていると考えられるのである。又第三異解批判の十念往生 @ と宿善の関係に疑義をはさむ者に対する批判の基底も﹁安楽集﹂をうけていると考えられる。更らに前半法義釈中に ⑦ 於ける専修・雑修については懐感・恵心の思想を承けている事が知られる。これらは、偏依善導一師を打ち出した法 然上人の上にも五祖相承の一面があり、法印はこれ宏もうけついで、もって念僻義の光闘につとめられたのである。 さて、親驚聖人の相承観を窺ってみるとさ一様になる。その一は七祖相承であり、そのこは誇導・法然の二祖相承、 そ の コ 一 は 法 然 一 師 相 承 で あ る 。 こ れ ら 二 一 様 の 相 承 系 譜 の 中 、 七祖相承は親驚聖人の己証ではあるが、後の二系譜は全 く法印と軌を一にする。即ちこの二様の相承において、師資相承の一面を一不すと共に更らに法印の釈尊の使者、善導 @ この事は、当時の念偶者排撃の一因とされた釈尊を軽んずると云う非難に対 の再誕としての立場を打ち出している。 する反証を示し、浄土門の正統性佐立証するものであることが窺い知られるのである。更らに、後にも述べようと思 うが、この二師相承において、軌を一にして信に重点を置く考え方へと進んでいる事は注目すべき点である。
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観 次に本願観については、法然上人の一願建立の立場を承けて、第十八願をもって生因を誓う願とし、念伸往生願と みることは、法印・聖人ともに同じである。而も両者にあっては、その念悌往生の論拠として、 同じく第十七願に着 目しているのである。この点、法然上人の主著﹁選択集しにおいては言及されていないので、法印の発揮と云っても @ よいであろう。然し、このような着眼が法然上人の上になかったとは云えないが、何と云ってもその主著の上に見出 し得ないのは残念なことである。即ち﹁唯信抄﹂には 第十七願に諸悌にわが名字そ称揚せられむといふ願をおこしたまえり、 この願ふかくこ L ろふベし、名字をもてあ まねく衆生をみちびかんとおぼしめすゆへに、 かつかつ名号をほめられむとちかひたまへり とある。これは明らかに第十七願の諸併による名号讃嘆が、衆生の称名の導師としての役割を果している事を論証す るものであり、従来の十七願観である悌徳乃至併体の称揚讃嘆とみる摂法身之願に、大きな転換を与えたことになる。 同様に親驚聖人にあっても、慶西房宛の御消息には 諸併称名の願とまふし、諸僻杏嵯の願とまふしさふらふなることは十方衆生をすすめんためときこえたり、 また十 方衆生の疑心をとどめん料ときこえてさふらふ︵真聖全二ノ七一一頁︶ と一示され、更にまた専信坊宛のものには 十七願にわがなをとなえられむとちかひ給て、十八の願に信心まことならば、もしむまれずば併にならじとちかひ 給 へ り ︵ 真 聖 全 二 の 七 一 四 頁 ︶ と 述 べ ら れ 、 ﹁教行信証﹂行巻には 聖覚法印と親驚聖人 五翠覚法印と親鷺聖人 ム ノ 、 浄土真実之行 選訳本願之行 と標願細註せられている。これは、 諸悌称名之願 ︵ 真 聖 金 二 ノ 五 頁 ︶ まさしく第十八願所誓の念悌往生の意趣を、 この第十七願によって開顕しようと するものである。このように両者にあっては同じ傾向の着眼を示しているのであるが、法印にあっては、念梯往生の 願たる第十八願に対する立場は乃至十念に中心がおかれているので、折角第十七願に乃至十念の意趣を認めながらも 乃至十念の口称義なる立証のためには﹁観経﹂下々品の叙述をもってせねばならなかったのである。 一 方 親 驚 聖 人 に あっては、十七・十八の両願に行信を配し、他力廻向義を基礎とする信心正困義を樹立し、 もって念悌往生義の﹁乃 至﹂の真意を発揚せられたのである。 し か し な が ら 、 か Lふ る 親 驚 聖 人 の 御 己 一 証 が 、 ﹂の﹁唯信抄﹂と軌を一にしてい ることは注目すべきである。 ま た こ L に一言しておきたいのは来迎についてである。これについては法印も聖人も共に第十九願の所誓と見られ る点は変りがないが、法印にあっては、その来迎なるものは念悌の行者にあると見ていられたようである。即ち﹁唯 信抄﹂に 念珠をとらば弥陀の名号をとなふベし、本尊にむかはば弥陀の形像にむかふベし、ただちに弥陀の来迎をまつベし と一不されている。また前述の第十七願の志趣を一証するために引かれた﹁五会法事讃 L の﹁但有称名皆得往観音勢至自 来 迎 ﹂ の 来 迎 も 、 か 1 A 念悌行者の如実性を一市すものとしていられるのである ω 従って、来迎は専修念併の者にのみあ る も の で あ り 、 たとえそれが臨終の正念を得させるための手段であったとしても、諸行往生者のために誓われたもの ではないことになる。ところが聖人にあっては、全くこれとは逆な立場を取っている。即ち末燈紗︵第一通︶には 来迎は諸行往生にあり、自力の行者なるがゆえに::::::自力の行人は米迎をまたずしては辺地胎生僻慢界までも む ま る べ か ら ず 、 このゆえに第十九の誓願にもろもろの善をして浄土に廻向して往生せんとねがふ人の臨終には、
われ現じてむかへんとちかひたまへり︵真聖全二ノ六五七頁︶ と述べられて、来迎は諸行往生の者のために必要なのであって、専修念帥仰の者は来迎をたのむ必要はないと云うので ⑩ ある。こ L においてこそ平生業成の義も完全なることを得るのであり、聖人己証の来迎釈も首肯されるのであって、 この点大いに両者の聞に義を異にするのである。
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観 次に正因観については、先きにもふれたように、 両者ともに正因を誓える願は、念悌往生の願たる第十八願とする ことには異存はない。その正困については、法印は乃至十念の称名念併にありとして、善導・法然の立場をそのまま 伝承しているのである。親驚聖人にあっては こ L に唯信独達の御己証左展開し、至心信楽欲生の三心に、その正因 義を見出されているのである。云うまでもなく親驚聖人の御己証と讃えられる信心往生義は法然上人の念悌往生義を 承けたものであって、背師自立の説ではざらざらないのである。今こ﹂では法然上人の念悌往生義と親驚聖人の信心 往生義については詳しく論述するいとまがない。立たこの点については諸先輩がすでに詳論されているのである。と もあれ法然上人の念悌往生義は所謂無信但行、即ち単なる口称義のみの生因説ではなくして、信を摂した立場におい ての生因説である。今親驚聖人の信心往生義は、 か Lふる行中摂信の信を表顕とする立場に立つての法義なのであって、 往因決定の時刻の極促においての所談なのである。従って口称にのぼった所よりすれば、全く法然上人の念伸往生義 たる専修念悌の法義と異ならないのである。 ところが今、法然上人の専修念悌義をうけられた法印にあっては、更ら に唯信義とおぼしき主張・表現が多く見られるのである。例すれば、 ⑬ ︵E
︶ 次 に ﹁ 十 住 毘 婆 沙 論 ﹂ ︵ 実 は 往 生 論 註 ︶ の 難 易 二 道 判 を 、 つ け て 、 ︵I
︶先ず著作名たる﹁唯信抄﹂がそれである。 ﹁ 易 行 道 と い う は た ど 帥 仰 を 信 ず る 因 縁 の ゆ へ 聖 覚 法 印 と 親 鷺 聖 人 一 七聖 覚 法 印 と 親 鷺 聖 人 /\、 に浄土に往生するなりといへりしといい ︵皿︶また﹁観経﹂の具コ一心者必生彼国の意を述べて ﹁ た い ふ 名 号 を と な ふ る こ と は 、 たれの人か一念十念の功をそなえざる、しかはあれども往生するものはきわめてまれなり、これすなわ ち三心を具せざるによりてなり﹂とといい ︵町︶また、三心中の深心を釈して二種深信を挙げ、それを結んで﹁傍 力をうたがい、願力をたのまさる人は菩提の岸にのぼることかたし、 たいふ信心の手をのべて誓願のつなをとるべし﹂ と い い ︵
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︶また、三心一心の関係をのベて ﹁信心を要とす、そのほかをばかへりみざるなり、信心決定しぬれ は三心おのづからそなわる、本願を信ずることまことなれば、虚仮のこ tふろなし、浄土をまつことうたがいなければ 廻 向 の お も ひ あ り 、 このゆえに一二心ことなるににたれどもみな信心にそなわるなり﹂といつであって、 これのみを見 るならば、全く信心正因義を主張しているように見えるのである。 し か し な が ら 、 これらの叙述は、前後を通じて見 ると、何れも称名念伸の如実性を示すための前提要件としての信心であることが知られる。換言するならば、行中摂 信の信の説明なのである。従って、 一巻の精要を示す著名の﹁唯信抄﹂も、 か L る意味に於いての唯信抄なのである。 念伸を信ずる人の異解をあげて﹁信心決定しぬるにはあながちに称 念を要とせず、経にすでに乃至一念ととけり、このゆえに一念にてたれりとす、遍数をかされむとするは、かえりて ぞれ故に ﹁唯信抄﹂後半異解批判の第四に 悌の願を信ぜざるなり、念悌を信ぜざる人としておほきにあざけり、ふかくそしる﹂と述べている b この異解者の立 場は信一念往生を強くうち出しているように見えるが、これを批判して﹁一念すくなしとおもひて偏数そかさねず は L と云うよりすると、この一念は信の一念ではなく、称名の一念にとっていられるのである。また第一異解批判に は、臨終念悌と尋常念併に対する呉解を批判して 最後の剃那にいたらずとも信心決定しなば一称一念の功徳みな臨終の念併にひとしかるべし と述べていることによっても、その聞の事情を知ることができる。とは云え、 か L る唯信的な叙述の強調は大いに注目すべきものであり、殊に二一心と信心との関係を明示していることは特筆すべきものであろう。
五
経
典
観 最後に、両者の経典観について見ることにしたい。勿論法印の上には直接に法然上人のような三経一論の正明浄土 の経論と云った設定は見えない。 たに上述の論究を通してのみ結論づけられるのである。即ち、法印にあっては称名 念悌往生を本願の中心とし、而もそれは観経下々口聞の叙述をもって論成しうるとするのである。 か ー ふ る 立 証 を へ て こ そ、念悌往生義が為凡のための、否、普益の宗教たる地位を確立するのである。こ与に善導・法然の所調観経中心の 経典観を承けていることを窺知することができる。 し か し 一面、法然上人の上に既に見られるような立場 即 ち ﹁大経﹂に根拠を見ょうとする考え方が承け継がれている。 か tふ る 考 え 方 の 顕 著 な も の が 、 上述の本願観に見たよう な考え、即ち第十七願に乃至十念の論拠を見出したのであろう。 この立場は﹁大経﹂を釈するに﹁大経﹂をもってす るということであり、本願を釈するに本願をもってするという﹁大経﹂据りの釈相である。このような釈相は、親驚 聖 人 が 本 願 の 論 証 に 、 あくまでも﹁大経﹂そのものに据してなされているものと照合して、教義展開の一視点を示す ものである。これはあくまで展開過程に於ける一視点であって、聖人のように徹底して﹁大経﹂そのものに依って解 明しようとする態度、即ち﹁大無量寿経﹂を中心に、異訳の﹁大経﹂を依用することによって、その義理の閥揚に努 め て は い な い 。 かような聖人の立場においてこそ唯信独達の道が開示されるに至るのである。 .ゐ−'
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結 び 以上、詳しく論究することはできなかったが、 ほど聖覚法印と親驚聖人との教義面における四点について窺った。 聖覚法印と親驚聖人 九聖覚法印と親鷺聖人
。
こ L に至って、聖人が﹁唯信抄﹂を幾度も門弟に推挙し、もってその教化に証権としていられたことを知ると共に、 その聞に介在する意義が明瞭になると思う。即ち ー、聖覚法印が法然上人の法義宏充分よく承け継いでいた。 2 、聖覚法印が親驚聖人の四法門︵五願開示・唯信 E 因義︶に近い考えを持っていて、三法門︵一一願建立・念仏往生義︶ より四法門へのかけ橋の役割を果たしていた 3 、聖覚法印の一般悌教界並に一般社会における地位・名声等が、法印を証権とする乙とによって、 一層その教化 に役立った。 等の三点にまとめることができよう。こ L に法然 1 聖覚l
親驚の一系譜そ窺うことができるである G 詮 ① ﹁ 御 消 息 集 ﹂ 第 六 通 ︵ 真 聖 全 二 ノ 六 九 五 頁 ︶ 、 第 入 通 ︵ 同 六 九 八 頁 ︶ 、 第 十 一 通 ︵ 向 七O
五 頁 ︶ 、 第 十 二 通 ︵ 同 七O
七 頁 ︶ 、 ﹁ 血 脈 文 集 ﹂ 第 二 通 ︵ 同 七 一 七 頁 ﹀ 、 ﹁ 尊 口 写 真 像 銘 文 ﹂ ︵ 同 五 六 一 頁 ︶ 等 、 ②大屋徳城著﹁日本仏教史の研究﹂第三巻二四五1
二五七頁、藤枝昌道著﹁聖覚法印の研究﹂五三参照 ⑦④藤枝昌道著﹁聖覚法印の研究﹂五凶l
五 七 頁 参 照 ⑦ ﹁ 安 楽 集 L 上巻︵真聖全一ノ凶OO
頁 ︶ 参 照 ⑦﹁安楽集し上巻︵真聖全一ノ三九八頁︶参照 ⑦松野純孝氏﹁鎌倉仏教の諸問題 L ︵ ﹁ 印 度 学 仏 教 学 研 究 ﹂ 第 九 巻 第 三 号 一 J 四 九 頁 ︶ 参 照 舟興福寺奏状﹁第三軽釈尊失﹂︵大屋徳城著﹁日本仏教史の研究﹂第三巻一七八頁︶参照 ①﹁和語姥録 L 巻一、三経釈︵真聖全凶ノ五五三頁︶参照 ⑩﹁唯信紗文意﹂︵真聖全二ノ六二四頁︶参照 ⑪﹁十住毘婆沙諭﹂第五﹁易行口問 L 第 九 ︵ 真 聖 全 一 ノ 二 五 四 頁 ︶ 、 頁 ︶ 、 ﹁ 選 択 集 ﹂ 巻 上 ︵ 同 九 三 二 頁 ︶ 参 照 ﹁ 往 生 論 註 ﹂ 巻 上 ︵ 同 二 七 九 頁 ︶ ﹁ 安 楽 集 L 巻上︵同問。慈信一房義絶状に
つ
いて
栴原
隆
章 高田専修寺蔵の、顕智書写にかかるもので 一般に﹁慈信房義絶状﹂とよばれているものが現存している。 親驚聖人の御消息類の編集の根底に、横曾根門徒、高田門徒、本願寺などの面接直弟の正統性を主張する権威づけ の材料として、尊重し、編集伝持されたことが推察される ①﹁親驚聖人御消息集﹂は常陸または下野の門弟に与えられたものが多く、恐らく常陸︵又は下野︶の門弟が集成 したものと考えられる。 ④﹁親驚聖人血脈文集﹂は、性信系の横曾根門徒の手になったものである c そして、源空l
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性信の三代伝持 を主張する意図を持っていたと考えられる。 ⑥﹁末灯紗﹂は、本願寺第三世覚如上人の次男である、従覚上人の編集であって、内題のはじめに、 ﹁ 本 願 寺 親 驚 大師御己証等弁辺州所々御消息等類楽紗﹂とある乙とは、他の文献と同様、親驚聖人の正統血脈は本願寺にうけつが れていることを主張する意図があるとしてよい。 ④﹁慈信房義絶状﹂は高田専修寺にあるもので、顕知日の吉一日写は、高田の正統をほこる意味が背景にあるとも考えら 慈信房義絶状について慈障問房義絶状について h る 以上の各種編集消息を通観すると、 血脈の正統性を主張するために、本願寺系以外は、特に慈信一房の義絶をとりあ げることに重点を置いている理由が、感知されるのである。 こ己に問題となるのは、顕智書写の﹁義絶状﹂は、平一平間驚義絶の経緯を詳しくうけ L /一る唯一の典拠となるものである が、その文態が二種のスタイルを混じている点、宛名が慈信一房であって、これが﹁顕智﹂経由で慈信一房に送られたも のか、あるいは慈信一房に送られたものを入手した顕智が、それを書写したものか、あるいは、顕智がこれを創作した かの疑問が生ずるのである。 ︵ 昭 和 初 年 4 月四目、大会レヂメ︶ 右のレヂメを真宗連合学会に送ったのは二月十日のことであったが、それから発表までの問、 色々とテキスト・ク リティ!ク︵史料批判︶を行っているうちに、 色々の疑問がわいてきた。それで研究大会当日は、右のレヂメより更 に発展した史料解釈を行った 慈信一房義絶について直接これを取扱っている根本史料は、次の二種が重要なものであるとされ、現在までこの両史 料は疑問をさしはさむ余地のないものとして、そのま L 依用されてきた。特に高田専修寺蔵の顕智書写本は現在それ が顕智真筆本として存在し、家庭の中の問題や ﹁ 第 十 八 の 本 願 を ば 、 しぼめるはなにたとえ﹂たことを具体的に記 しているために、何等の批判もなく、そのま L 採用されて、慈信一房義絶に関する論争にまで、発展する際の典拠とさ れ て き 親 た 驚 聖 二 人 史 血
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第う 通 ① ② 高田派専修寺蔵﹁慈信一房義絶状﹂顕智書写@である 3 前者にも問題があるが、最も詳細に事情牢記している顕智書写のものを、親驚聖人全集、書簡篤より左に引 用する・記号は訟が付したものである ⑧ おほせられたる事くはしくきミてさふらうコなによりは、あいみむばうとかやと、 まふすなる人の、京よりふみ をえたるとかやとまふされさふらうなる、 返 々 、 占 し さ に さ ふ ら う 。 いまだかたらおもみず、ふみ、 一度もたまはり さふらはず、これよりもまふすこともなきに、京よりふみをえたるとまふすなる、あさましきことなり。又、慈信 一 房 の ほ ふ も ん の や う 、 みやうもくをだにもきかず、 しらぬことを慈信一人に、 よる親驚がおしえたるなりと、人に 慈信一房まふされてさふらうとて、これにも常陸・下野の人々は、みなしむらむが、そらごとをまふしたるよしをま ③ lil − − I l l i − − 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 i p i l l i − − − ふしあはれてさふらえば、今は父子のぎはあるべからずさふらう。 ⑮ 叉、母のあまにもふしぎのそらごとをいひつげられたること、 まふすかぎりなきこと、あさましうさふらう。 み ぶ の 女 房 の 、 じしむばうがたうたるふみとて、もちてきたれるふみこれにおきてさふ @ I l l l i − − l i l i − − 1 l i l i − − − − ー ー らうめり。慈信房がふみとてこれにあり、そのふみつやノ\いろはぬことゆえに、ま L は与にいゐまどわされたる これえきたりてまふすこと、 と か tふれたること、ことにあさましきことなり。ょにありけるを、 ま t A は L のあまのいゐまどわせりといふこと、 あさましきそらごとなり。叉、 こ の 世 に 、 いかにしてありけりともしらぬことを、 みぶのによばうのもとえも、ふ みのあること、こ L ろもおよばぬほどのそらごと、 こ lふ ろ う き こ と な り と な 、 げ き さ ふ ら う 。
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まことにか L るそらごとどもをいひて、六波羅のへむ、 か ま く ら な む ど に 、 ひろうせられたること、 こ t A ろ hっ き ことなり。これらほどのそらごとはこのよのことなれば、 いかでもあるべし。それだにも、そらごとをいうこと、 にそらごとをいひつけたる ζ と 、 いかにいはむや、往生極楽の大事をいひまどわして、ひたち・しもづけの念梯者をまどわし、おや。
I l l i − − 11111111lili − − − l i l − − こ tふろうきことなり。第十八の本願をば、しぼめるはなにたとえて、人ごとに、 う た て き な り 、 慈 信 房 義 絶 状 に つ い て慈 信 房 義 絶 状 に つ い て 四 @ みなすてまいらせたりときこゆること、まことにはうぼふのとが、叉五逆のつみをこのみで、人をそむじまどわさ ⑮ 1 l i l − l i l i − − 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 I l l i − − 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 I l l i − − l i l i − − − 1 1 1 1 1 1 t る L こと、かなしきことなり。ことに破僧の罪とまふすつみは、五逆のその一なり。親驚にそらごとをまふしつけ δ たるは、ち L をころすなり、五逆のその一なり。このことどもったえきくこと、あさましさまふすかぎりなければ、 l i l i − − 1 1 l i l i − − 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 I l l i − − lili − − I l i l i − − ① | 1 1 1 1 − − − − − − − − − − − − − − − − − − いまはおやといふことあるべからず、ことおもふことおもいきりたり c 三宝・神明にまふしきりおわりぬ。かなし きことなり。わがほうもんににずとて、 ひたちの念悌者みなまどわさむと、 このまる L と き く 乙 そ 、 こ lふ ろ う く さ ふ ら え 。 しむらむがおしえにて、 ひた%の余帥脚立ふす人々を、ぞむぜよと慈信一房におしえたると、 かまくらにてき こ え む こ と 、 あさまし/
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五 月 廿 ~ A 九 建山同即日 長 六A
月年廿
六 七 月 日 廿 到 七 来 日註
之 在 判 慈 信 房嘉
③
翌
元 事年
七 月 廿 七 日 書 写 了 この義絶状は、建長八年六月廿七日に慈信房善驚大徳がうけとり、到来日と年号とを註記したものとせねばならぬ。 建長八年は西暦二一五六年で、顕智が書写した時は嘉元三年七月廿七日であるから、 一 つ 一O
五年であってこの間実に 五十年の時間の経過があることをまず注目せねばならない c ま た 、 慈 信 一 房 御 返 事 と あ る か ら 、 この消息は親驚聖人が 善驚大徳に書かれた文書であると理解されるが、どうしてこれが高田の顕智上人の手に入ったかということが疑問と な る親驚聖人の血族系と直弟子系との抗争対立というものがあって、その犠牲として善驚義絶という事件が起ったと考 えられるが、当時の敵対関係にあるものに、どうしてこのよ−つな義絶状が入手されたかということは、 一つの問題を なげかけている。 ﹁慈信一房義絶状﹂というものの内容を検討しても、色々の問題がある。 第一に二種のスタイルの文章が組合わされているという乙とは、心を担しくして読了するときに、誰しも容易に感 さ て ぜられることと思う。即ち⑧と⑮は﹁候文しであり@以下は、 ﹁云々なり﹂という文章であって、宗祖が法文の解釈 や註釈の場合によく用いられる形の文態である。血脈文集の性信一房宛の義絶通告状と比べても、同一人の同日付の消 息としては、何か問題とする必要があるように考えられる。 次に、文中で二箇所にわたって義絶のことを述べている。@と@の二筒所である c これは重複に過ぎ、何等かの技 巧が入っておらぬかという疑問を持つ第二点である。 第 一 二 に 、 親 驚 聖 人 が 、 わが子をさばくに五逆の罪をもってするという点が、どうも親驚聖人の思想体系から考えて 不思議であることである。@と@の二筒所であるが、勿論、親驚聖人は末燈紗第二十通に﹁すでに誘法のひとなり。 五逆のひとなり、なれむつぶべからず。﹂という記述はしておられるが、 実子を義絶する論理に五逆の罪を採用する こ と は まことに親驚聖人らしくない論法である。 ﹁非僧非俗﹂は聖人のモットーである。すでに僧というものそ否 定した人が ﹁破僧の罪﹂というのはどうしても自己撞着である。念僻者たちの平和含みだすというのならば、 ま だ わかるが破僧の罪というのは、 ふさわしくない G また教行信証の信巻に、阿闇世王が五逆の罪をおかして﹁王舎城の 悲劇﹂とよばれる事件によって逆詩闘提が如来の大悲によって救われる正所被であることを発見したことを述べてい る。もっと突込んで言えば親驚聖人自身が、阿闘世王と同様に五逆の罪人であると考えて、その上で他力の信仰を発 慈信房義絶状について 一 五
慈 信 房 義 絶 状 に つ い て 一 六 見したのであるとも解釈できるのである。教行信証総序の文に 然則、浄邦縁熟、調達閣世輿逆害、浄業機彰、釈迦牟提選安養、斯乃、権化仁斉救済苦悩群蔚、世雄悲正欲恵逆諦 閣 提 。 とあることからも、このことは言えるであろう。 右のように見てくると、義絶について五逆罪をか L げて処罰の論拠とすることは、全く親驚聖人の思想体系の眼目 に矛盾することになると判断されるのである。 第四に、⑤のところで﹃三宝・神明にまふしきりおわりぬ﹄という起請文の形は、親驚聖人のあり方としてふさわ しくない。しかも同日に書かれた、性信宛の﹁義絶通告状﹂には、次のような起請文の形を用いている。 ﹁まづ慈信がまうしさふらふ法文の様、名目をもきかず、 いはんやならひたることもさふらはねば、慈信にひそか にをしふべき様もさふらはず。またよるもひるも慈信一人に、人にはかくして法文をしへたることさふらはず。もし このこと慈信にまうしながら、そらごとをもまうしかくして、人にもしらせずしてをしへたることさふらは父、ゴ一宝 を本として、三界の諸天・善神、 四海の龍神入部、閤魔王界の神祇冥道の罰を親驚が身にこと人\くかふりさふらふ ベし。自今己後は慈信にをきでは子の儀おもひきりでさふらふなり。﹂ と 血 脈 文 集 第 二 通 に は 記 し て あ る 。 こ の 場 合 に コ 一 一 宝 を 本 と し て 、 一 一 一 界 の 諸 天 ・ 善 神 、 四海の龍神入部、閤魔王界 の神祇冥道の罰﹂を親驚自らの身にことごとく受けるということであっ℃、先の義絶状とは文一言も異り、義絶状では 親子の縁在切ったことを﹁三宝・神明にまふしきりおわりぬ L としている。起請文の形式を採用することも、親驚聖 人 と し て は 、 ふさわしくないような気がするが、誓約の対象そのものが両者では異っており、その文言内容も両者は 同様でない。このようなことが同じ五月廿九日付の両方の消息に起っていることは、問題を残しているものであると
考えねばならない Q 参考とすべきものに、歎異紗第二条に﹁詮ずるところ、愚身の信心におきてはかくのごとし、 こ の う へ は 念 帥 仰 を と り て 信 じ た て ま つ ら ん と も 、 またすてんとも、面々の御はからひなり﹂と言い切った親驚聖人の態 度と比べて、義絶状の表現はあまりにも弱々しく、 また一一一宝・神明をわざわさ煩わさなくても、弥陀如来の照覧を願 うことが最も親驚聖人の思想体系にふさわしいのではあるまいか c 以上、大約四箇条に指摘したような内容的な問題を検討するときに、 いわゆる﹁慈信一房義絶状﹂は、顕智上人の自 筆書写本があるからといって、無条件にそのまま採用することには、 いささか賭膳せざるを得ないことになるのであ る。従来、これをそのま L 採用して親驚聖人伝研究において問題となっている主なるものは、左の二点である。 ④、@に書かれた ﹁ ま 与 は L にいゐまどわされたる﹂という個所であって、親驚聖人の妻が、 一 人 で あ っ た か 人であったかという問題を投げかけている。継母という一言葉はこの義絶状にのみ、具体的に書かれているものであっ て、この消息が問題であるというときは、根抵から立論がゆらぐのである。 ②、のに述べられた ﹁ 第 十 八 の 本 願 を ば 、 しぼめるはなにたとえ﹂たという記述は、他の文献には無いのであっ て、血脈文集第二通の追由にも ﹁第十八の本願をすてまいらせあふてさふらふ人々﹂あるいは文中にも、 ﹁ 釈 迦 の を し へ 弥陀の本願はひがごとなりとおほせらるとも 一念もうたがひあるべからず﹂ と述べられであるだけで、 ﹃しぼめるはな﹄とたとえたという記述は慈信一房義絶状だけに存する言葉である c も し 、 これをそのままうけとるに は問題があるということになれば、異安心についての研究に於ても、慎重な再検討が必要となってくるのである。 私は、義絶という事件を、直弟子系の門弟が特に過大に評価した面があると考えている。それは親驚聖人自身が思 っていたよりはもっと大きくクローズアップして、直弟子系の立場を有利にしようとした面が幾分かはあったであろ うと思う ο また、その直弟子系の門弟の間でも、その相互間の対抗意識があったということも併せて考えねばならな 慈 信 房 義 絶 状 に つ い て 七
慈信房義絶状について i¥ い。つまり自分が親驚聖人から特別な優遇を wつけているという地位を誇示できる材料を持ちたいという傾向があった ことは考えられるであろう。 善 驚 は 、 横 目 世 田 根 ︵ 常 陸 ︶ の 性 信 、 下 野 の 真 梯 ︵ 顕 知 日 に つ け λ く︶の二系統の有力門弟の地盤をさわがしたのである。 そのために、義絶という結果が生じたとき、①慈信一房にその旨を由し送った義絶状がありうる。②性信に対しては右 の旨を通告した。③真悌にも同様の通知を行った υ ということは可能性のあることである。慈信一房義絶状が高田の真 悌に送られたり、性信に送られる筈はない。もし性信宛の通告状に信がおけるとすれば、 ほぼこれと同様の趣旨のも のが高田の真仰にも送られたことであろう。 しかし真併がこれを焼却したか、あるいは他見を許さなかったと判断せ ね ば な ら な い 。 三河念併相承日記を見ても、高田の真悌、顕智、専信、下人の随念が義絶の年に上京したことが見ら れ、義絶についての善後処置に関連があるようである。そして現存する親驚聖人の自筆の名号本尊五幅のうち、西本 願寺にある一幅を除けば、他の四幅は高田専修寺系に現存し、 しかも義絶年の秋 康 一 克 元 年 ︵ 一 二 五 六 年 ︶ 十月廿五 日、廿八日のものであることは、義絶についての何等かの消息伝うけとった後の高田門徒の動向を語っている。 しかるに、顕智上人の自筆の慈信一房義絶状が建長八年の五十年後に書写されたということについては、 色々の解釈 が 成 立 す る が 、 もし高田門徒による創作であるとすれば、自派が親驚聖人に特別の信頼が厚く、高田をとおして慈信 一房に義絶状を渡すように依頼され、通告状に同封して送られたもので、性信系統よりは、 はるかに優位に立っていた ということを示すために、慈信一房宛のものを写したと称して、真伸宛のものを材料として創作したのではあるまいか という想定も成立する しかし、高田の真悌上人、顕智上人はともに親驚聖人の高弟であり、本願寺や親驚聖人の血族の人々の護持のため に心魂を傾けた念悌者である。高田本の教行信証の奥書によっても、親驚聖人の御入滅の折に、専信と顕智は上洛し
て臨終に侍っている。親驚聖人なきあとの真宗教団の長老として、念僻者の和合のために、最大の努力をした人物で あることが明白である。このような見地より解釈すれば、嘉元三年の頃に、真宗の念悌者集団の中に、善驚の義絶に 関してデマとしてではあるが﹁慈信一房義絶状﹂という創作文書が流通していて、 たまたまそれを入手した顕智は、自 分はその内容を全面的には信用しないとしても、親驚聖人に関係のある事件でもあるから、参考のためのメモとして 書写しておいたのではなかろうか。教団の長老としての顕智上人の当然の配慮であったと思う。この書写消息が発見 されたのは大正十年のことであって、高田正統伝にもこれが収載されていないことは、顕智上人が自ら信用しておら れなかった文書であったからではあるまいか。 要するに、慈信一房を親驚の子であると思うことを思い切ったという程度の表現はあるが、これが世俗にいう義絶、 勘当という程の、深いものであったかどうかは問題である。また、 ﹁慈信一房義絶状﹂にふくまれているような事件が全 く無かったと断言する積極的な意図も現在の私は持っていない。これに類したような事情はやはり存在したであろう。 しかしながら、これを第一級の正確な史料として使用することは、私のテキストクリテイ I クによって、やや問題を 残しているということを理解していたいふければよいのである。そして、この消息だけに存在している文言を以て論議 を進める場合には、特に慎重な配慮を必要とすると考える。この提案を縁として、更に慈信房義絶についての研究が 一一層深められることを念願して、真宗連合学会の研究発表の要旨をとりまとめた次第である。諸賢の御教示を願って 筆 含 置 く 。 ︵ 昭 和 三 十 六 年 四 月 三 十 日 ︶ 慈 信 房 義 絶 状 に つ い て 九
行 巻 の 称 名 に 就 い て
ニ
O行
巻
の
称
名
に
就
いて
桐 渓 順忍
行巻の大行とは何かという問題は、古来行信論として、真宗学の問題としては最も重要なものであり、本願寺派で は行信半学といわれてより、宗学の半分以上は行信問題にあることを意味し、多くの学轍に分かれたのも、その中心 になるものは行信論の相違によるのであることからも、此の行信論は如何に重要なものであるかが了解出来るであろ ぅ。しかも、行信論と申してもその中心は大行の問題であり、行巻の大行とは第十七願の諸伸の称名であり、私にと つては所開位にある名号であるか、衆生の称名であるかが論評の中心となっておるのである。 此の問題は、何によって救われるのかという大行の問題と、 いかにして救われて行くかの大信の問題であるから宗 教としては最も大切な、根本的な問題である。特に大行に関するものは、行巻には、大行を一不すに諸併の称名と第十七 願で一不されながらその本文に入って﹁大行とは則ち無碍光如来の名を称するなり﹂と衆生の称名とされてある Q そ の 外にも名号の立場で示された所と、称名の立場で示された所とが、 しばしば出ておるので、行巻の大行とは名号か称 名かという疑問を生じ、 しかも、それは救済の根本的な問題であるため、古来の学匠は心血をそそいで研究し、正しい宗祖の意志を理解しようと努力し、その主張を力説したために、深刻な論誇を展開するに至ったのである。 今の私の主張は、古来の此の重要な論評の解決の方法の一として、行巻に一不された称名の内容について、先哲の意 志によって研鎖し、その決定によって大行論の解決の一の方向を与えたいという念願からである。 行巻の取扱いについては古来種々の方法があって、そこに学説の相違も生ずるのではあるが、何んというても第十 七願の諸僻の称名が中心であり、第十七願の巻であるといってよいのではないか。標挙の諸悌称名之願。浄土真実之 行、選択本願之行︵脚註︶の文から見ても また﹁然るに斯の行は大悲の願より出たり 即ち是れそ諸悌称揚の願 と名く﹂等とある点から見ても、行巻の大行は第十七願にあることは極めて明瞭なことであり、その点は動かすこと の出来ないものだといってよいのではないだろうか。 此の意味からいえば、行巻は諸悌称名の巻であり、衆生にとっては所聞の巻であり、所信の巻であると説く先哲の 説は十分首肯出来るのである。従って次の信巻に一不された信心の対象を示されたものと見るボへきであろう。しかも、 第十七願を中心として一不されておるかぎりにおいては、その所信となるものは諸俳の称名であって、衆生の称名では ないと一往はいってよいのではないか。 此のことは極めて明瞭なことのようではあるが、その所信が衆生の称名であると所謂能行立信を主張する学者も多 くあったのではあるが、行巻の出願等から見れば第十七願の諸僻の称名と見るべきであろう。若し衆生の称名が所信 となるものであるなら、第十八の念帥往生の願が出さるべきではないか。 また、大行を所信の名号と見る説の有力な根拠とされるものの一に、行巻の六字釈が古来注意されておる。行巻の 行 巻 の 称 名 に 就 い て
行 巻 の 称 名 に 就 い て 六 字 釈 は 、 七祖引用の途中、即ち龍樹・天親・曇驚・道縛・善導と順次に引用して、善導の引文が終って、次に支那 の諸師の文を引用される中間にほどこされた御自釈である。しかも、此の六字釈は板めて特色のあるものであって、 六字の一二義を共に伸辺で解釈されてある。即ち、帰命の字訓によって﹁帰命とは本願招喚の勅命なり﹂と示し、発願 廻向をば﹁発願廻向と言うは、如来己に発願して衆生の行を廻施したまうの心なり﹂と。 ﹁即是其行と言うは即ち選 択本願是れなり﹂と示したまう G 此れは六字全体が如来の所に成就することを示し、その悌辺成就の六字によって必 得往生であると決定されるものである。此れは明白に悌辺成就の名号が衆生往生の行体であることを示すものであっ て、行巻はそれを示すものであると主張するのである 此の六字釈は真宗教学の特異性を端的に示すものであって、特に帰命の解釈には古来種々の異説があったにしても、 いやつれも衆生が悌に帰命することであり、宗祖にも銘文をはじめ他の聖教には衆生の帰命であると釈されてあるのに、 今は本願招喚の勅命とされたのは衆生往生の全体が名号の独用によるものであることを示さんとされた試みと理解す べ き で あ ろ う 。 以上極めて簡単ではあるが行巻の全体的な立場から見れば、第十七願の諸悌の称名が大行であるということが許さ れるのではないだろうか。勿論、称名大行を主張する人々にとっては、 そのような簡単なことでは納得することは出 来ないかも知れないが、 し か し 、 それは今の主なる論証ではないから簡単に結論だけを出したにすぎないのである。 行巻を第十七願の諸抽仰の称名、所聞所信の名号だとすれば、行巻に極めて明瞭に大行とは衆生の称名であると示し たもうものをいかに理解すべきであるか。それは法体大行説を説く学匠の苦心する所であるが、今もその解決法の一
として、行巻の称名に関して論究しようとするものである。従って今は一往行巻の大行は法体大行であるという立場 に立つての論攻であることも許されたいのである 大行を衆生の称名とする最も大切な文は、行巻初めの﹁大行とは則ち無碍光如来の名を称するなり﹂と示された文 である。称名大行を主張する人々は、此の文こそ宗祖自身が大行を指示し、決定された文であるから、他に如何なる 文があっても、此の文だけは動かすことの出来ないものであり、大行を決定づけるものであるというのである Q 此 れ は確かに正当な論理であるというやへきであろう。その外、称名破満の文、行一念釈の女、念悌諸善比校対論の文など によれば大行は衆生の称名であると見るべきである。 更にまた重要な問題は相承の問題である。即丸、道稗禅師以来、浄土教の相承に於いては念悌往生、 しかもその念 悌とは称名の義に取られ、称名往生と主張されて来たものであり、 それが善導法然の教学の中心を形成しておったこ とは否定することが出来ない。また、宗祖晩年の御撰述にも常に念僻往生の主張が示されてある。 かくの如く、相承の意味から見ても、行巻の文からも、更に他の撰述から見ても称名大行の主張には十分な論理性 と論拠とを是認せなければならないものが存在するのである。そこに古来の行信論解決の困難さと、学匠によって論 誇された所以もあるのである。 しかも、それ等の理由を承認しながらも、前述の如く、標挙、出願、信巻との関係、 全体の意味などから見て、 やはり法体大行論を主張せなければならないものもあるのであるがその法体大行を主張す る 場 合 、 二の問題が考えられるようである 一には称名大行の如く見る文をいかに理解すべきか。二には何故に宗祖 は大行を衆生の称名の上に談ぜられたのか。その点が十分考察されなければならないのである。
四
行巻の称名に就いて行巻の称名に就いて 二 四 行巻の大行を法体大行と見る場合、先づ問題になるのは、第十七願名として示された諸悌称名之願の称名の意味で ある。六要妙には﹁称名と−一一同うは此れ称念に非ず、今は彼の名号を称揚するなり﹂と示されてある文によって此の称 名は称揚の義で広讃の意味だとする義はあるが、此れは古来の学者が注意しておるように外に称揚と杏底の願名が挙 げられており、更に大行釈には衆生の称名と示された点から見て略讃の称名と見るべきではないだろうか。そのこと は次の結論に大きな影響を与えるものではあるが 一往諸併の称名は略讃の称名と見ることにしたいのである。 では諸併の称名たるべきものを衆生の称名として﹁大行とは則ち無碍光如来の名を称するなり﹂と示された意味を いかに理解すべきか G 法体大行を主張する人の最も苦心する所ではあるがそこには能所不二の論理を用いて法体大行 なることを論証せんとするものである。即ち称即名、称名即名号の論理を用い、称名のまま名号に即するのであると い う 論 理 で あ る 。 その称名即名号の論理に二のいい方が用いらられており、 一は能称の称名はそのまま所称の名号の全体の功徳を具 しておるから称名のまま名号であるという主張であり、即ち称名を大行というのはその所称の名号の全徳を具するか らであるというのである。第二には衆生の称名がそのまま諸併の称名と同位になるという説である。此の第一説は広 く用いられており、現在多く用いられておる学説は此の立場をとっておるようであり、それは理解し易き説であるとい う こ と が 出 来 よ う 。 しかも此の説はあまり説明せなくても理解出来ることと思う。しかし、私が今主張しようとする 説は第二の説で、自己の称名のまま、諸仰の称名と同位になるという思想に非常に深い学問的興味をもつものである。 此れは或る意味では、行巻の大行を衆生の称名を以て示された組意をうかがう鍵となるように思われるのである。 衆生の称名は、行巻の場合には如来の称名と同位になるという思想は空華学轍では早くから主張されたものではあ るが、その内容に関しては十分な説明がほどこされていなかったようである。文類区東紗聞書にも所行を一亦すべき行巻
に能行称名を示された五義の中、第二の諸悌同等を顕わさんが為の故にの下でも、念梯者は末灯紗の文等によって諸 悌等同の義があるから諸併の称名を示すべき所に衆生の称名が示されてあると説れてある。 此れでは善海師の主張 ︵雲山和上の語︶の衆生の称名は所聞位にまきあがり、忠作︵ 9 ・︶の称名のようなものだという説とは少し意味を異 に す る も の が あ る 。 称名即名号に関しての説として私の注意する所は、衆生の称名が諸悌の称名と同位になり、所開位にまき上がると いういい方の理解のし方である。その点で注意すべきは雲山和上から聞いた善海師の説明である。雲山和上の説明に よると、善海師に称即名のいい方のうちで所聞位にまき上がるとはどう意味ですかと聞いた時、善海師は、それは仲 仲いいあらわしにくいので、忠作の称名のようなものでしょうと答えられたということである。その忠作の称名とい うことがまた問題にはなるのだが、能称のまま所聞位にまき上がるという思想は十分理解出来るのである。 能称のまま所聞位にまき上がるから称即名であるという説は、衆生の称名がそのまま諸悌の称名と同位になるとい う思想であるが、その場合の称名は単に衆生が称えておる辺ではなく、自分の口から出て下さる南無阿弥陀伸を自分 で聴聞することである。諸悌の称名は私にとっては常に所聞の立場であって、大経の第十七願成就と第十八願成就と の関係の如くであるコ此の両成就の関係は、今更ら説くまでのことのないもので、第十七願成就で十方恒沙の諸悌如 来が皆ともに、無量寿悌の威神功徳不可思議を讃嘆したまうのを、第十八願成就では、その諸僻の讃嘆したまう名号 を聞いて信心歓喜して往生を得ると示されてあるものである。勿論、第十七願成就文の当分は十方諸悌の広讃嘆では あるが、その諸悌讃嘆の名号を聞いて行者は信心歓喜するのである。今の行巻では諸僻の称名︵一往略讃と見る︶を 衆生が聞いて信心するのであるから、行巻の諸悌の称名は所聞であり所信であり、信巻の信心は能聞であり能信であ るということが出来よう。その諸悌の称名を説くべき行巻に衆生の称名を説いてあるのは、自己の称名がそのまま如 行巻の称名に就いて 二 五
行巻の称名に就いて 一 一 六 来の称名と同位になり、自己の称名がそのまま称えものではなく聞きものとまき上がっておると見るのが此の説の主 張である。従って此の説では、行巻での私の称名は称名でありながら称える辺ではなく、私の口業に発露する名号炉﹂ 聴聞するという立場であると説くものである 此の説はあまり広く説かれていないように思われるのと、此の思想は行巻の称名の解釈だけではなく、親驚教学の 理解にも特異な立場を与えるもののように思われる ι 即ち、念悌は称名のまま所開位になるとい’つ思想はただに行巻 の称名の問題の解決ばかりでなく、親驚聖人の念僻往生の真意が明かになり、晩年に盛んに主張された念悌往生の義も、 善導法然の主張されたものとは思想内容から見て大きな展開があったことそ知ることが出来るのではないだろうか。 称名しながら自己の称名を聴聞するという思想は真宗教学を示すのに極めて意義深いものがあるのではないか。此 の具体的なものは大巌の﹁喜びに堪えたり吾れ称え五口れ聞くと難も、此れは是れ大悲招喚の声﹂という詩、此れを短 歌にした針水の﹁我れ称え我れ聞くなれど此れはこれ つれて行くぞの弥陀の呼び声﹂にも明瞭にあらわれておるも のであって、諸悌の称名を聞いて﹁あの名号で往生﹂と信ずるのと、自分の口から出て下さる名号を聞いて﹁この名 号で往生﹂と喜ぶのとでは全く同じことではないか。行巻に諸悌の称名と示しながら衆生の称名を示すのは、衆生の 称名も称えながら聞きものとなる諸僻の称名と同伎なる立場での教一不であると見るのが最も穏当な理解であると見る ベきではないか かくの如く行巻の称名そ衆生の称名のまを諸併の称名、所聞の名号位で理解する時は﹁大行とは則ち無碍光如来の 名を称するなり﹂との教示と、諸悌の称名を示されるものとの聞にいささかの矛盾もなくなるのである。
五
此の諸悌の称名を特に衆生の称名の上で談じたまうた祖意には、幾つかの意図があったように思われる。その第一 に考えられることは、善導法然によって主張された念悌往生の真意は称即名と、称名が称えられておるまま所聞位に まき上がっておる所にあるのであって、称名そのもので往生を談ずるのではなく、称名となって顕現しておる名号の 所に往生の因となるものが存在すると主張しようとされたものではないか。その真意を発揮せんがために、諸悌の称 名と示しながら 一一向では衆生の称名で表現されたものと見るへきではないだろうか c 第二に考えられることは、名号とは単に概念的な存在ではなく、常に称名となって衆生の口業に現れるものである ことを一不さんとされたものでないか。聞其名号とは何にも諸併の称名そ聞くだけではなく、私の口業に顕れて下さる 名号を聞くことであり、名号は諸併の称名となって具現するだけではなく、私の口業の上に具体的に現れることを明 かさんがためであると見るべきではないか。親驚聖人の思想には、自分を通じて如来の意志が顕われ、自分の口業を とおして名号が具現するという考え方が強く流れておるのである。 ﹁親驚は弟子一人ももたずさふらふしとか﹁念悌 は行者のためには非行非善なり﹂と一不されるものは、弟子を育てることも、念併の大行大善も自己を通じて具現する 大悲の法、名号の法にあるものであって、自己にとっては何等の意味もないことを一不されるものであり、自己を通じ て法が具現することを示されるものである 蕊に他力廻向の真意があらわれるともいうことが出来るのではないでしょうか。信心を如来廻向の信心と称せられ るのも、信じておりながら、 その信心は全く如来廻向の名号の具現であるという思想に立ちたまうたから信心の如来 廻向説が主張されたのであろう
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J、、 行巻の称名に就いて 七行巻の称名に就いて 二 八 行巻の称名をかくの如く、自己の口業に具現した名号を聞くという意味での称名であって、報恩の称名といわれる ものと一往の区別を見て、名号正定業の立場で見る時に、親驚聖人の念傍観に、在来の解釈と異なるものが生ずるの ではないか。それは宗祖の和語聖教にあらわれる念悌往生の理解に、行巻の称名の如く、念悌ではあるが、それは常 に所聞位にまき上がっておる念伸、聞きものとなっておる念悌であると理解すれば、念悌といっても名号の独用で往 生と説きたまうものと見ることが出来るのではないか。 親驚聖人の念梯往生は、行巻の諸悌の称名を大行とされる思想を通じて見る時、善導法然の念悌往生とは趣を異に するものがあると見るべきではないか。勿論、宗祖その人に問えば、自分の主張は全く法然上人のとおりであると答 え ら れ る で あ ろ う 。 しかし、終吉の念悌往生はあくまでも念備することで往生するのであり、それが悌願に順ずるか らであると主張されるもので、念悌は名号を聴聞することであり、称名そのものは私の口業を通じて出て下さる如来 招喚の勅命であるという思想は、少なくとも文の当分からは出て来ないのではないだろうか。 親驚聖人が法然上人のもとで念悌往生の教を聞き、その後法然門下の厳しい思想論評の結果、信心往生を説き、更 に晩年には念悌往生を力説されたのは、勿論偏信の徒のために説かれたものではあるが、思想はある一の展開を通つ た 後 に は 、 たとえ言葉は同一であっても内容的に発展しておる場合が多いのであるから、同じ念悌往生の語が用いら れでも、法然膝下時代のものと晩年とでは異なるものがあると見るべきではないか。特に信心正因説が主張され、 ま た一念に非ず多念に非ずという思想を通過した上での念伸往生には、初期の念倒往生とは異なるものがあると見るべ き で は な い か 。 此の問題の解決の一方法として、行巻の称名の如く、称名即名号、称えながら所聞位にまきあがる念悌が考えられ てよいのではないだろうか。念悌には報思行の面と正定業の面とがあるが、その正定業の面は所開位の立場であると 理解することが行巻の称名の解決ともなり、親驚聖人の御晩年の念悌往生の意味を正しく理解するものではないか。