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真宗研究23号全

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(1)

長宗連合墜曾研究紀要

一一第二十三輯一一

回召 $口 54 ま手 3 Fヨヨ

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F『ミ e主主歩

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りh .7L 第 二 十 三 輯

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親驚教学における﹁諸仏﹂の地位・

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清沢満之の精神主義・:

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||進化論的人間観への批判||

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日間

代 俊 孝 ︵

、、ー” 水 忠 原 徹 男 ︵ 一 二 ︶ 了 ︵ 三 一 ︶ 戸 和 麿 ︵ 一 美 ︶ 谷 慧 茂 仰 昭 ︵ 四 九 ︶ 順︵ E 九 ︶

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1 1 肢体障害者の母としての||

帰命と無我の定義について

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坂東本﹁教行信証﹂成立時期再考

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再説西方指南抄の編者について:・

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ー ー ー 奥 書 の 解 明 を 手 が か り と し て | |

親鷺聖人の太子信何の形成と四天王寺

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聖徳太子略絵伝について:−

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村 正 道 こ ︵ 四 ︶ 林 信

山 勝 田 賢 崎

葉 秀 手 ︿ ︵ 七 七 ︶ 行︵九 O ︶ 海 ︵ 一 00 ︶ 寿 ︵ 一 一 二 ︶ 遵 ︵ 三 回 ︶ 賢 ︵ 三 七 ︶

( 三玉 、 . . ..,

親驚教と精神医学の接点::

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親驚教学における

﹁諸仏﹂の地位

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は じ め に ひとえに、弥陀一仏を念じて﹁ふたつならふことをきら﹂い、 ﹁ よ の こ と な ら は す と な り ﹂ と は 、 専修念仏教団を 貫く不動の伝統である。 一方、このような伝統を有するにもかかわらず、元久元年︵一二

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四 ︶ の へ キ チ ヤ ウ シ ス イ マ タ ウ カ ガ ハ ノ ヲ タ テ マ ツ ル コ ト ヲ ハ シ ヲ ハ ウ シ ヨ フ チ ホ サ ツ ヲ ロ ト ① ﹁ 可 下 下 停 下 止 未 三 窺 一 一 一 句 文 一 奉

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破 一 一 真 言 止 観 一 語 中 余 仏 菩 薩 ム 事 ﹂ と、諸仏を誹詩すべきでない旨を厳しく誠めている。それ故、師教に随順する親驚は、 s y l − − i ② 同時に﹁ゆめ L L 余の善根をそしり余の仏聖をいやしがすることなかれとなり﹂ ﹁ 七 箇 条 起 請 文 ﹄ こ 工 、

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そ の 第 一 に 、 ︵ ﹁ 西 方 指 南 抄 ﹄ 中 末 ︶

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) び と も こ 廃 れ 立 を を 伝 先 承 と す し る つ

コペ ところで、周知のごとく親驚は、第十七願の領解について、 ﹃教行信証﹄の﹁行の巻﹂に﹁諸仏称名之願 L を 挙 げ 、 正面から諸仏を問題とし、 ついで﹁信の巻﹂現生十種の益のうち、第四と第五に、諸仏護念、諸仏称讃の両益を述べ る。このことは、諸仏について、何らかの意義と地位が見出されたことを物語る。 しからば、それはいかに領解せら 親 臨 時 教 学 に お け る ﹁ 諸 仏 ﹂ の 地 位

(8)

親 鷲 教 学 に お け る ﹁ 諸 仏 ﹂ の 地 位 れたであろうか。まず、親驚教学において、諸仏とは何たるかその概念を確認するところから考えて見たい。 親驚においては、直接には善導、法然をうけて﹁釈迦の発遣、弥陀の招喚﹂と説示され、釈迦・弥陀二尊を挙げる。 と同時に、第十七願成就の諸仏に重要な意義を認めている。しかも、その諸仏の証誠の中に大行の根源を見るのである。 ところで、親驚の場合、諸仏は、ある時は弥陀に摂まるものとして見られ、 あ る 時 は 釈 迦 と 同 じ く 見 ら れ る 。 前 者 は 、 い わ ゆ る ﹁ 諸 仏 弥 陀 ﹂ ﹁ 諸 仏 如 来 ﹂ と い わ れ る 立 場 で あ る 。 例 え ば 、 文明本によれば﹁弥陀の大悲ふかければ 変成男子の願をたて ③ とある。これに対し、専修寺国宝本によれば﹁諸仏の大悲ふかければ:::﹂とあり、しかも、わざわざ﹁諸仏﹂に﹁み ⑤ くわとにんたうのこ L ろなり﹂と左訓が施してある。すなわち、大経異訳の﹃仏説諸仏阿弥 仏智の不思議をあらはして 巴司 浄 土 和 讃 6 女 今 人 大 成 準 仏

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主筆

ひ 首 た ) り ③ に 」 t土 たをしよふちとまふす 陀三那三仏薩棲仏檀過度人道経﹄のこころから、諸仏即阿弥陀と見られたのである。 また﹃教行信証﹄では、本経は四度引用され、そのうち三ケ所にこの経名が出されている。 の巻﹂では﹃大阿弥陀経﹄という名が用いられてい旬。 さ ら に そ の 中 で 、 信 ﹃ 選 択 集 ﹄ を は じ め 、 法然の著述にはほとんどこの名が用い られていることからすれば、少なくとも吉水門下ではこの名が一般的であったように思われる。 ⑦ ⑥ の 巻 ﹂ ﹁ 真 仏 土 の 巻 ﹂ で は 、 にもかかわらず﹁行 具 名 が 用 い ら れ て い る 。 ことさら、この長い﹃仏説諸仏阿弥陀三那三仏薩棲仏檀過度人道経﹄という @ しかも﹁行の巻﹂では上欄外に﹁大阿弥陀経云、廿四願経ト云﹂と註さえ付して説明してい い ず れ も 、 る 。 ﹁行の巻﹂においては、第十七願を異訳で確認するのに本経を引き、 ﹁ 真 仏 土 の 巻 ﹂ に お い て は 、 諸 イ ム 中 之 王 也 光 明 中 之 極 「 尊 真 也品仏 」 曹 」 の 音 ﹁ み 義 を 明 か す の に 本 経 を 引 く 。 いずれも、弥陀と諸仏の本質が問題となる所で、

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たをしよふちとまふす﹂という本経のこころによって、それを確認しているのである。 ﹁無碍光仏のひかりには 無数の阿弥陀ましまして ⑬ 化仏おの午、ふ無数の光明無量無辺なり﹂ ︵ ﹃ 現 世 利 益 讃 ﹄ ﹀ と、示されるごとく、諸仏とは、弥陀からの智慧の来生である。 ﹃讃阿弥陀仏偏和讃﹄第九首の﹁智慧光仏﹂の左訓

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ま ⑫ ﹁ゐちさいしょふちの仏になりたまふことはこのあみたのちゑにてなりたまふなり﹂ と、示される。諸仏の無上の智慧は、阿弥陀つまり、如来の智慧である。従って、無量無数の諸仏は、無量無数の弥 陀の智慧である。故に諸仏は阿弥陀であり、同時に一一の諸仏は、弥陀の分身である。弥陀はいわゆる諸仏の本師本 いずれも阿弥陀の徳、阿弥 ⑬ 陀の智慧である。すなわち、諸仏は弥陀に統合せられ、弥陀は﹁一切諸仏の智慧をあつめたまへる御かたちなり﹂と 仏 で あ る 。 ﹃阿弥陀経﹄によれば、六方に恒河沙の諸仏がまします。 し か し 、 そ の 徳 は 、 せ ら れ る の で あ る 。 次に、後者の立場は、諸仏の代表が釈迦で諸仏は釈迦に即するものと見られる場合である。 そ 「 「 の 弟 釈 例 子 迦 と 者,、諸し 釈仏,、て 迦 是ν 諸 真 仏 実 之

弟慈

子ナ悲ノ

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ロ 出 門 伺 煩 等 が 挙 げ ら れ る 。 また﹃大経﹄の出世本懐の﹁如来﹂を釈すにあたり ⑮ ﹁如来所以輿出於世は如来とまふすは諸仏とまふす也:::︵略︶:::釈迦如来のみことをふかく信受すへしと也﹂ ︵ ﹃ 尊 号 真 像 銘 文 ﹄ 広 木 末 ︶ 親 驚 教 学 に お け る ﹁ 諸 仏 ﹂ の 地 位

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親 驚 教 学 に お け る ﹁ 諸 仏 ﹂ の 地 位 四 と、示される。すなわち、これは釈迦を如来と表現し、釈迦が諸仏であり、 釈迦が諸仏を代表するという立場である。 ﹃阿弥陀経﹄における六方証誠の経説は、諸仏の讃嘆がその主である。 また﹁大経﹄の﹁仏々相念﹂も、釈迦と諸仏 相互におけるものである。諸仏の称揚讃嘆によって、衆生が信心を獲るとするならば、諸仏は、衆生の教化者という 立 場 に あ る こ と に な る 。 いわゆる﹁釈迦諸仏 L と い わ れ る 立 場 で あ る 。 これらの領解に対し、親驚は、もう一つ特筆すべき、諸仏の理解をしている。 す な わ ち 、 ﹃ 真 蹟 書 簡 ﹄ 、 及 び ﹃ 末 灯 紗 ﹄ 七 に 、 ﹁ こ の こ L ろのさたまるを、十方諸仏のよろこひて、諸仏の御こ‘ふろにひとしとほめたまふなり。 ⑫ まことの信心の人をは、諸仏とひとしと申なり﹂ こ の ゆ へ に 、 ︵ 浄 信 宛 御 返 事 ︶ と 、 示 さ れ る ご と く 、 ま こ と の 信 心 の 人 は 、 諸仏と等しいという領解である。 そ の ほ か 、 同じく寸真蹟書簡﹄及び ﹃ 末 灯 妙 ﹄ 一 五 に も ⑬ ﹁真実信心をえたる人をは如来とひとしとおほせられて候也﹂ ︵ 浄 信 御 一 房 御 返 事 ︶ ⑮ と、示され、御消息の中では﹁浄信一房一の上書﹄も含めて再三に渡り、言及されるところである。親驚の場合、 @ と﹁等﹂では、厳密にはその意が異なるものとせられ、 ﹁ 同 門 ﹂ そ れ 故 に 、

3 ょ っ こ 、 φJ ふ J φ ν − b w まことの信心を獲る人がそのまま諸仏 であるとは言えないものがある。しかし、これらによれば、 弥陀をほめとなえる諸仏の中には、獲信の人をも含めて い る と 見 ら れ る の で あ っ て 、 ﹁諸仏とひとし﹂とは、獲信の人を φ 諸仏に準ずる e 。 諸 仏 に 含 め る e の意味と解される も の と 言 う こ と が で き る 。 さ ら に 、 ﹃ 略 論 浄 土 安 楽 義 ﹄ に は 、 ﹁ 一 者 若 使 下 鉱 山 ニ 第 二 仏 一 乃 至 無 申 阿 僧 祇 恒 沙 諸 仏 主 者 、 仏 便 不 レ 能 レ 度 ニ 一 切 衆 生 ﹁ 以 三 実 能 度 一 一 一 切 衆 一 故 則 有 一 一

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チ ノ ノ ν タ マ フ テ ν , 、 ナ リ @ 十方無量諸仏﹁諸仏即是前仏所レ度衆生﹂ と あ る 。 こ の 文 は 、 ただちに上述のごとく獲信者すなわち仏を証するものとは言えないにしても、 ﹁ 前 仏 の 度 し た ま ふところ﹂という点において﹁獲信の衆生即仏﹂を認めるものである。 故に﹁行の巻﹂に引用せられる七祖と、中国 十師が各々、諸仏の具体相として領受せられるのである。前仏によって、先だって度せられたところの無量の衆生こ そ 、 諸 仏 に ほ か な ら ず 、 しかも、その十方無量の諸仏の存在意義は、 十方衆生を度したまふことにあるとされるので あ る 。 ﹃教行信証﹄後序の﹃安楽集﹄による ス メ ム ト ユ ム ノ ハ ヒ キ ヲ 晶 ム モ ノ ハ ト フ ヲ へ ヲ Z シ テ ハ ヲ セ @ ﹁欲下下使下前生者導一一後﹁後生者訪前一連続無窮願不中休止と う な ず か れ る の で あ る 。 か く し て 、 と は 、 されば、諸仏は、十方衆生の宗教的要求に応じて、十方に具現ぜられ、それは、十方衆生をして、弥陀を念ぜしめ る存在である。それこそ、われわれにとって﹁よきひと﹂であり ﹁ 善 知 識 ﹂ と し て 、 我 々 を 導 く 存 在 で あ る 。 かくして、我々は今、親驚教学の上に、諸仏に対する三つの概念を見た。 しからば、その﹁諸仏称揚之願﹂とはい かなる意義を持つのであろうか。 さて、親驚は 第十七願に﹁設我得仏十方世界無量諸仏不悉盗瑳称我名者不取正覚﹂とある﹁称我名者﹂の一旬に 注意せられ、そこに﹁称揚﹂と﹁称名﹂の意を認めることとなった。 そ れ は 、 ﹁ 唯 信 抄 文 青 山 ﹄ に 、 ﹁おほよそ十方世界にあまねくひろまることは法蔵菩薩の四十八大願の中に第十七の願に十方無量の諸仏にわか @ なをほめられむとなえられむとちかひたまへる一乗大智海の誓願成就したまへるによりなり﹂ 親 艦 購 教 学 に お け る ﹁ 諸 仏 ﹂ の 地 位 五

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親 驚 教 学 に お け る ﹁ 諸 仏 ﹂ の 地 位 ム ノ、 と釈されるが如くであって、それはまた﹁諸仏称名﹂の願名で示されるが如くである。 さらに﹁我が名を称する者を 啓監す﹂という意にも解して、 ﹁ 大 経 ﹄ の ﹁ 見 敬 得 大 敬 則 我 善 親 友 ﹂ の 文 に も こ れ を 確 か め て い る ︵ ﹃ 末 灯 紗 ﹄ 四 ﹀ 。 つまり、諸仏の能讃、称揚はもとより、所讃の称名までも誓われていると領解されたのである。 ほめられるところ の名号は、念仏往生の願意をその内容とするところであって、 第十八願が、第十七願諸仏にちかわれているところの 名号・願心の意となる。したがって、第十八願と第十七願は﹁乃至十念﹂の称名の本願、 すなわち願心という一点に お い て 、 ﹃ 唯 信 抄 文 意 ﹄ に 、 @ ﹁また称名の本願選択の正因この悲願にあらわれたり﹂ まったくその領域を同じくしている。 と示されるごとく、第十八願の意が、第十七願の上に先だって顕されていると領解せられたのである。 ﹃ 教 行 信 証 ﹄ の

「 で 然=間 斯ノう 行 な 者,、ら 出,ば

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『ま 大 さ 悲 ノ に

L @ という一文である。同時に、この文は称名、が廻向の行であるゆえんをあかし、 大行そのものであることを示している。 親驚が﹁選択称名之願 L という願名を付された意も、ここに見られるのである。 は、十方衆生に誓われたものであるが、その十方衆生の称名は、 ﹁乃至十念﹂は、第十八願において @ ﹁十方世界普流行﹂をその心とする諸仏の称名にお いて初めて可能となるのである。第十七願の諸仏称名において、 はじめて第十八願が具現せられるのである。故に衆 生における称名は、第十七願廻向成就の行であり、その大行を顕す為に﹁行の巻﹂には、 この願を以って標挙とする の で あ る 。 つ ま り 、 親 驚 に お い て は 、 諸仏は第十八願に対して ﹁十方世界普流行﹂という普遍的、実践的世界を開 くものとして、その意義を領解せられたのである。 一方、このような﹁行﹂の問題のみならず﹁証﹂の問題についても、 諸仏の意義が認められている。 ﹃ 愚 禿 紗 ﹄ に

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お し 、 「 て 証 は 誠 二 第 者,、十 二 一 七 往 功 願 生 徳 成 証 証 就 成 成 の 諸 釈 諸

色型仏

つ つ 証 い 誠 」 @ 『 こ

て と述ベ、往生を諸仏が証誠するというのである。 さらに﹁唯信抄文意﹄では、 ﹃唯信抄﹄にしたがって、第十八願の内容を顕すとも言うべき﹁但有称名皆得往 観 音 勢 至 自 来 迎 ﹂ ︵﹃五会法事讃﹄﹀までも第十七願意とみて、その釈文中で﹁白来迎﹂より、現生正定棄に至る独自の証 果論を展開している。すなわち﹁若不生者﹂の意を第十七願意にみて、 往生の証誠を積極的に述べようとするのであ る。往生もまた、諸仏の証誠を得て完きを得るのである。 続いて﹁信﹂の問題について考えてみたい。 ﹃ 唯 信 抄 文 意 ﹄ で は 、 ﹁唯信抄﹄で第十八願意とみられている﹁聞名 念 我 総 迎 来 ﹂ ︵ ﹃ 五 会 法 事 讃 ﹄ ﹀ を 次 の よ う に 釈 す 。 ﹁聞名念我といふは聞はきくといふ信心をあらわす御のりなり 三t E甘 イ ム 称 名 の 悲 名 願 は に 御 あ な ら と わ ま せ ふ り品す 」明な り 如来のちかひの名号な り念我とまふすはちかひのみなを憶念せよとなり す な わ ち 、 ﹁信﹂をあらわすところの﹁聞﹂を第十七願﹁諸仏称名の悲願﹂の上に領解しているのである。 しかのみ ならず、信心、名号、憶念までも第十七願上に領解しているのである。本来、親驚においては、第十八願は第十七願 の諸仏の名号讃嘆を﹁聞き﹂信ずる衆生の立場を示すものとする。 それは、念仏往生の願意を聞信することであり、 それには ⑮ ﹁ 如 来 の ち か ひ の 名 号 な り ﹂ ︵ ﹃ 唯 信 抄 文 意 ﹄ ﹀ @ ﹁如来のちかひの名号をとなえむことをす L め た ま ふ ﹂ ︵ ﹃ 尊 号 真 像 銘 文 ﹄ 広 木 ・ 略 本 共 ︶ 親 驚 教 学 に お け る ﹁ 諸 仏 ﹂ の 地 位 七

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親 驚 教 学 に お け る ﹁ 諸 仏 L の 地 位 八 と言われるごとく、選択本願の名号を称すれば、 必ず救うという如来の願心がこもっているのである。衆生は、この 願心を聞くところに信心を獲る。故に第十七願、第十八願は、 ﹁ 行 ﹂ ﹁ 信 ﹂ に 配 当 さ れ つ つ も 、 第 十 七 願 の ﹁ 称 我 名 ﹂ は、第十八願の﹁乃至十念﹂と同視せられ、第十七願は行成就の願と見られるのである。 したがって、その﹁行﹂に は、すでに願心がこめられており いわゆる信具の行が第十七願に誓われたと考えなければならない。 故 に 、 今 ﹁聞名念我﹂がすでに﹁諸仏称名の悲願にあらわせり﹂といわれるのも、額けるのである。 か く し て ﹁ 行 ﹂ ﹁ 信 ﹁証﹂各々において、第十七願成就の諸仏の立場は決定的なものとなった。すなわち、詰 仏は啓瑳称揚ということによって、念仏往生そのものの、 全法界に承認せられたところの真実性を立証せられたので ある。また、諸仏称名ということにおいて、他力廻向が成就せられ、 これによって我々の真実の救いが現生において 確 認 せ ら れ た の で あ る 。 と こ ろ で ﹁ 信 の 巻 ﹂

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﹁ 獲 一 一 得 金 剛 真 心 一 者 横 超 二 五 趣 八 難 道 一 必 獲 − 一 現 生 十 種 益 一 何 者 為 ニ 十 二 者 冥 衆 護 持 益 二 者 至 徳 具 足 益 三 者 転 悪 成 善益四者諸仏護念益五者諸仏称讃益六者心光常護益七者心多歓喜益八者知恩報徳益九者常行大悲益十者入ニ正定 @ 褒 一 益 也 ﹂ と、現生十種の益が説示せられる。すなわち、その第四と第五に諸仏護念、諸仏称讃の両益が挙げられている。 つ ま り、諸仏が念仏の行者を護念、称讃せられるということであるが、ここにも諸仏の重要な意義があると思われる。 し うまでもなく、これが現生の利益である以上、それが具体的に現実生活に顕れるか、 否かということは、その意義の

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本質を問う時、たいへん重要な問題となる。 思うに、真仏弟子釈下における触光柔軟の願文以下の経釈の引用は、 この十種の益を具体的に説明したものである。 その各々は、信における護持と具徳を明かしながら、歓喜報謝の実践を展開しているものである。 されば親驚におい ては、現生十種の益を獲るところの﹁獲得金剛真心者﹂と﹁真仏弟子﹂は互いに重なり合うものとして領解せられて い る 。 しかも、先に述べたところの、獲信の人が諸仏に等しいという意からすれば、 ﹂の十種の益には、現実面に顕 れたいっそう積極的な実践性がうかがわれるのである。 ざれば、諸仏の護念、称讃というのは、現実生活において、信心の行者が諸仏如来の徳を持ち、諸仏如来と等しい 位に住すること、そのことを目醒めさせるという極めて、積極的な意義を有することとなるのである。信心の行者に おいては、如来の徳を廻施されることによって大浬繋を超証し、 諸仏と等しい位に住したという厳しい自覚が促され たことになるのである。無数の化仏、無数の諸仏に、 諸仏に等しい位に位したという自覚を促されることにおいて、 真実信心は退転することなく、金剛の信となるのである。 ﹁南無阿弥陀仏をとなふれは十方無量の諸仏は 百重千重回議して @ よ ろ こ ひ ま も り た ま ふ な り ﹂ ︵ ﹃ 現 世 利 益 和 讃 ﹄ ︶ と一万されるごとく、念仏をとなえるとき、我々は ﹁ よ ろ こ ひ ま も ﹂ ら れ る と い う こ と に お い て 、 自身に実感される ものとして、諸仏の働きを感得するのである。 四 十方にこだまする称名念仏は、諸仏の声であり それは仏の大悲心が我々にまで来たる唯一の道路である。諸仏の 親 驚 教 学 に お け る ﹁ 諸 仏 ﹂ の 地 位 九

(16)

親 驚 教 学 に お け る ﹁ 諸 仏 ﹂ の 地 位

流布によって阿弥陀の徳が知らされるのである。 まさに、還相の世界における諸仏の相である。衆生を教化し、信心 の行人を囲鶴することは﹁よきひと﹂を仰ぎ、親しき友を持ち、 阿弥陀の本願を互いに証誠する世界である。往相の 行信は、そこに諸仏に証誠護念せられる利益を、 よろこび感得するのであり、 そこに他力廻向の世界を実感として領 解するのである。他力の信はそれを信ずる諸仏があってこそ、はじめて信ぜられるのである。 専修念仏とは、余仏余菩薩を捨てるものではない。弥陀に専ら帰するとは、諸仏に帰することである。弥陀を念じ て諸仏に護念せられるのである。釈迦出世の本懐は、そのまま諸仏出世の本懐となり、諸仏の化導は、そのまま弥陀 シテチギ−一 ν @ @ ﹁汝一心正念直来﹂︵﹁散善義﹂﹀の﹁直﹂は、親驚によるならば、﹁諸仏出世之直説﹂ の誓願の顕彰となるのである。 ︵ ﹁ 愚 禿 紗 じ で あ る 。 ﹁二諸仏、 又

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百 た

ー十−. E『 光’大

韓 上 為ーの 十 方ノ 説キ 徴 町、 足グノ 法, 京日牟 是ノ 諸 イ ム 畠 @ 各各安一一立無量衆生於仏正道吋﹂ という華光出仏もまた、第十七諸仏称揚之願に基くところの護念証誠である。親驚教学においては、弥陀と諸仏は、 一 仏 即 ち 一 切 仏 、 一切仏即ち一仏という完全な融合が両者に見られるのである。 ここに本質面における諸仏の地位と その意義を領受するのである。同時に南都北嶺の念仏弾圧によってもたらされた ﹁ 愛 専 修 之 身 不 レ 礼 一 一 余 仏 ﹁ 口 不 レ 称 ニ 余 号 ﹁ 其 余 仏 余 号 者 即 釈 迦 等 諸 仏 お ︵ ﹃ 興 福 寺 奏 状 ﹄ ︶ という論難に、教義的に答えるとともに、他力廻向の念仏として、念仏が真実普遍の大行であるとの事実を証明する こととなったのである。 ※ 駐 親 驚 に 関 す る 引 文 は ﹁ 親 鷲 聖 人 真 蹟 集 成 ﹄ ︵ 以 下 ﹃ 真 蹟 集 成 ﹄ と 略 す ︶ に よ っ た 。 た だ し 、 そ れ に 収 録 さ れ な い も の は ﹃ 定 本 親 驚 聖 人 全 集 ﹄ ︵ ﹃ 親 驚 全 ﹄ ︶ 、 ﹃ 真 宗 聖 教 全 書 ﹄ ︵ ﹃ 聖 全 ﹄ ﹀ 等 に よ っ た 。 尚 、 か た か な は ひ ら が な に 改 め た 。

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﹃真蹟集成﹄五三九一 ﹃ 同 ﹄ 八 三 三 二 ﹃親驚全﹄和讃篇三八 ﹃ 真 蹟 集 成 ﹄ 一 一 一

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同 ﹁ 真 蹟 集 成 ﹄ 一 ー ー 一 一 一 一 一 九 ﹃ 同 ﹄ 一 | 二 九 ﹃ 同 ﹄ 二

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四 ﹁同﹄一一一九、この外﹃愚禿妙﹄でも﹁諸仏阿 弥陀三那三仏薩棲仏檀過度人道経﹄の経名が用いられて い る 。 ﹃ 同 L 二 四

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六 ﹃同﹂一一一

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一 一 一 九 ﹃ 同 ﹄ 三 | 二 七 ﹃ 唯 信 抄 文 意 ﹄ 、 ﹃ 真 蹟 集 成 ﹄ 八 一 一 六 一 一 ﹃親驚全﹄漢文篇一二四 ﹃ 真 蹟 集 成 ﹄ 一 | 二 四 二 ﹃同﹄四二七一二、このほか﹃尊号真像銘文﹄略 本 、 コ 念 多 念 文 品 目 ど に も 同 様 の 記 述 が あ る 。 ﹁ 浄 信 宛 御 返 事 ﹂ ・ ﹃ 真 蹟 集 成 ﹄ 四

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四 二

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、 ﹃ 末 灯 紗 ﹄ 七 ・ ﹃ 親 驚 全 ﹄ 書 簡 篇

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一 一 四 、 ﹃ 善 性 本 ﹄ ・ ﹃ 親 驚 全 ﹄ 書 簡 篇

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七 八 ﹁ 浄 信 一 房 御 返 事 ﹂ ・ ﹃ 真 蹟 集 成 ﹄ 四 | 四 一 一 六 、 ⑨ ③ ⑦ ⑥ ⑤ ④ ③ ② ① ⑮ ⑮ ⑭ ⑬ ⑫ ⑪ ⑩ ⑫ ⑬ 親驚教学における﹁諸仏﹂の地位 ﹁ 末 灯 紗 ﹄ ⑬ 一五・﹃親驚全﹄書簡篤九八 こ の ほ か ﹃ 末 灯 妙 ﹄ 三 ・ 四 ・ 一 四 ・ 一 八 、 一

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で も 述 べ る 。 稲葉秀賢氏﹁使同弥勅と与如来等に就いて﹂ 報 ﹄ 一 七 | 一 一 ﹀ 参 照 。 ﹃聖全﹄一三七二 ﹃真蹟集成﹄二六七九 ﹃ 同 ﹄ 八 | 二 七 八 ﹁ 同 ﹄ 八 | 二 八

O

﹃ 同 ﹄ 一 一 一 五 ﹃ 五 会 法 事 讃 ﹄ 、 親 鷺 は ﹃ 唯 信 抄 文 意 ﹄ で こ の 文 を 釈 す 。 すなわち、﹃唯信抄﹄をうけて、この文に第十七願意を み る 。 ﹃ 親 驚 全 ﹄ 漢 文 篇

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七 ﹃真蹟集成﹄八二八五 ﹃ 同 ﹄ 八 | 二 八 五 広本﹃同﹄四

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一 一 一 一 七 、 略 本 ﹃ 同 ﹄ 四 ! 一 七 ﹃問﹄一ーー二三四 ﹃同﹄一一一

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一 一 一 一

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﹃ 親 驚 全 ﹄ 加 点 篇 同

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一 八 一 二 ﹃同﹄漢文篇|四七 ﹃ 聖 全 ﹄ 一 I I 一 一 一 一 一 ﹃ 大 日 本 仏 教 全 書 ﹄ 一 一 一 四 | 一

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四 ﹃ 御 消 息 集 ﹄ @ ︵ ﹃ 大 谷 学 ⑧ ③ ⑧ ③ ② @ ⑧ ③ @ @ @ @ @ @ ⑧ ②

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一 蘭 提 往 生 の 本 誓

士 口

第十八願に於ける﹁唯除五逆誹諺正法﹂に就ては振古の諸哲異解紛転たるものがある。然し、 学二切法一貫綜棲練 せし康僧鎧が翻訳なされた此の八個の文字その憧を、如来正覚の理念から最も純粋に素直に拝読するならば、それは、 五 逆 と 誹 詩 正 法 と を 、 唯 、 専 ら 、 しっかりと、実除することを顕す。 即 ち 此 の 聖 語 は 、 一 二 信 一 念 に よ っ て 一 一 間 提 が そ の罪体を断除せられて往生せしめられることを決定せるところの一闇提往生の本誓である。 除くのは、逆詩の罪であって、逆請の人ではない。 一 一 闘 提 の 業 を 取 り 除 い て 一間提その人を往生させるというの が唯除の誓語の意味である。従来、先哲が実除を怖れたのは、 人が除かれると解釈せられるからである。然し、此の 聖語に於ける唯除の目的・対象は罪体である。若しも罪人を目的・対象として漢訳するのであれば、僧鎧は﹁唯助五 逆誹詩正法者﹂或は﹁即時摂取五逆誹誇正法者﹂等と表現なされたことであろう。 逆読を実除するとは、徳として実除するのである。実除とは横超断である。横超断は切り花である。根を断ち切る のである。根を切られた活け花は、花は咲けども実はならぬ。横超断は六字の功徳の断である。功徳の断である故に 切った憧が切っていない。断市不断である。完全に断じてはいるが、 その果が顕れるのは目的の世界即ち極楽に於て

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である。廻心しても即身に成仏しない。往生成仏である。 一闘提の罪体は横超断にかかるけれども、不断煩悩の放に、 一関提の相は一生涯付き纏わせてある。裟婆の命のあらん限りは一間提の憧で置いておかれるのである。然し、極楽 へは煩悩具足で往生しない。逆詩の罪を持った憧で罪人が往生するのであれば、 極楽は悪人共の阿鼻大地獄となるで あ ろ う 。 此の、大経に於けるあらゆる経典に超越せる仏の本願の深理に就て、 一般では平俗な除を引いて、もしも公園にい たずらをする者が入らなければ、此の花を折るべからずという禁止の札を立てる必要はないのだが、悪人が公園の中 へ入る故に斯る禁止の立札が置かれているように、第十八願にも、悪人が極楽へ往く故に、極楽へ往く者は悪事をす べからずという禁止の札が立てられている。 そ れ が 唯 除 の 誓 文 で あ る 、 と見ょうとするのである。また銘文三十一丁 に ﹁ 唯 除 は 、 た だ の ぞ く と い う こ と ば な り 。 五逆のつみひとをきらひ、詩法のおもきとがをしらせんとなり。このふ たつのつみのおもきことをしめして、 十方一切の衆生みなもれず往生すへしとしらせんとなり。﹂それは、 本当に除 く の で は な く 、 た だ の ぞ く 。 方 便 抑 止 。 言うことを聞かぬからお菓子をやらぬと一応は言うが、後から御八つに与え るのだと論定するのである。然し、第十八願にそのような軽い方便の言葉が含まれているであろうか。罪の重きこと や ︸ 一 不 し て 、 とは注意書きである。唯除の聖語が然様な注意書きや公閣の立札の如き程度のものであろうか。それでは、 王本願は余りにも軽きに失するのである。般舟讃四丁に、 ニ シ テ ナ P ナ リ セ γ ガ ト ト ト ヲ 円門不同八万四為レ滅ニ無明果業困一 ハ チ ν ノ ミ ナ ナ リ ス ル 畠 ハ ナ ノ ゾ コ ル 利 剣 即 是 弥 陀 号 一 声 称 念 罪 皆 除 唯除とは専除であり、滅除であり、断除であり、頓絶であり、横超断である。横超断には摂取も抑止もかからない のである。それ故に、唯除の誓一語に就て、抑止と摂取、仮除、暫除、二罪の共単、己造と禾造、弥陀につくか釈迦に 一 周 提 往 生 の 本 誓

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一 闘 提 往 生 の 木 誓 四 つくか、等の論議は凡て付会の議論と見てもよいのである。信巻末四丁に、 一 三 一 日 ニ 横 超 断 固 流 一 者 乃 至 言 レ 断 者 発 一 一 起 往 相 一 心 一 故 無 ニ 生 市 当 レ 受 生 一 無 ニ 趣 而 更 応 レ 到 趣 一 己 六 趣 回 生 因 亡 果 滅 ベ キ ベ や 故 即 頓 断 一 一 絶 三 有 生 死 一 故 日 レ 断 也 と、親驚聖人は深遠な解釈を述べられている。間信一念に仏の願力を以て五悪趣に堕する罪業を横さまに超断する。 罪業の体が超断せられている故に、逆詩の業相があってもそれは生死の因種にならない。現実の生活の相には何等の 変化も見出されないけれども、地獄の苦はもはや実体無き仮象に堕しているのである。 六道の因が取り除かれる故に 輪廻の果は自づから誠する。因果が巳に亡ぶ故に身も名も頓に絶えることを経には無人と名付けているのである。我 々は未来が我々をどのように導きつつあるかを見抜き、未来の摂取の必然性を自覚せねばならない。未来へ往く者に 過去は無い。過去が完全に清算せられるのを横超断と名付けるのである。 横超とは、時間系列の竪的性格を破壊し、理念の領域に解脱せしめることである。 この絶対的直観の飛躍を信楽の 一 念 と い う 。 そ れ を 、 ν ズル晶 夫 按 一 一 真 実 信 楽 一 信 楽 有 一 二 念 二 念 者 斯 顕 一 一 信 楽 開 発 時 起 之 極 促 一 と、絶対体験の極限を顕示せられている。斯様な瞬間的極限には如何なる人間性も人倫性も介入の余地は全く存しな いのである。本典の如何なる場所に於ても倫理的法則が措定せられていないのは、 本典が純粋宗教の理念を開顕する ものであるからである。宗教的真理の倫理化を根源的に克服せる保証が教行信証の全体系の本質的な意味である。 楽 邦 文 類 云 宗 釈 禅 師 云 畏 丹 一 粒 変 レ 鉄 成 レ 金 真 理 一 一 一 二 口 転 = 悪 業 一 成 一 一 善 業 一 ︵ 行 巻 四 七 丁 ︶ 阿闘世が如何に極悪を尽そうとも、如来正覚の理念に包摂せられ、 仏陀の感化によってその根底を突き破られて、 聖なる解脱の領域にまで意志が昇華せられた時には 巳に犯した罪が大悲聞提の菩提心にまで転化せられるのである。

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宗釈禅師の此の誓除は錬金術に似ているけれども、行巻に於ける大行の体系的な深釈は唯此の一句に尽るのである。 神的理念は如何なる悪をも普化し得る絶対性を意味する。宗教に於ける真理のロゴスは、如来正覚の理念自体を意味 すると同時に、それは仏行としてのタ l ト で あ る か ら で あ る 。 浬繋経が一切衆生の仏性を認めながらも、 一闇提堕地獄の義||蟻子を殺すも殺罪を得るが 一闇提を殺すとも罪 を見ずという経語|! i は、浬繋経自体の矛盾であった。然るに浬梁経の全体が翻訳せられて、遂に、犯四重禁作五逆 罪 一 闇 提 等 皆 有 ニ 仏 性 − ︵ 真 仏 土 巻 一 四 丁 ︶ の 聖 語 に よ っ て そ の 背 反 性 の 難 過 を 完 全 に 取 り 除 い た の で あ る 。 即ち、仏教 が そ れ ま で 排 除 し て 来 た 一 間 提 の 極 悪 の 機 の 成 仏 、 か ↓ 証 明 せ ら れ た 。 この意味で浬柴経は、善悪一機立の聖道一代の教え の不可欠の領域を肯定する経典となったのである。 今、浄土真宗で悪人正機を論じても、若しも此の浬繋経の体義が第十八願成就の中に見出されなければ、悪人正機 の実義は妄想に堕するものである。然るに、浬繋経の中に大信心は仏性なりと論明されたその大信心自体は、第十八 願に於て仏の方に成就せし仏心そのものであって、此の仏心を聞信の極促に無智の凡夫に廻向することによって、如 来の仏性が悪人の性体に充満するのである。浬繋経は闇提仏性を論じて証の側の開顕となり、第十八願は十方衆生の 機の上に仏性を成就し給う。即ち第十八願は浬繋経の体義である仏性を、 信楽の一念によって真実報土に於て具体的 に開顕するのである。真仏土巻二九丁に、 チ ズ ス ヲ ル ガ ノ 墨 ナ 9 9 品 へ p ハ 品 シ シ テ 故 知 到 ニ 安 楽 仏 国 一 即 必 顕 ニ 仏 性 一 白 二 本 願 力 回 向 一 故 亦 経 言 下 衆 生 未 来 具 三 足 荘 一 一 厳 清 浄 之 身 一 一 向 得 予 見 一 一 仏 性 一 浬喋経では浬喋の徳による破砕によって一聞提の現身成仏を要請しており、 大経では仏の本願の功徳の大益として、 万善万行の総体である仏の正覚の名によって、 無善の凡夫が浬撲の徳の領域にまで止揚せられるのである。浬柴経の 優位性は闇提成仏にあるけれども、浬梁経の立場ではその成仏が現身成仏である故に、 自証に於ける実践的困難性が 一 闇 提 往 生 の 本 誓 五

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一 闇 提 往 生 の 本 誓 一 六 オ ポ シ テ ナ リ マ γ ト 付き纏っている。然るに、大経に於ては、本典総序に欲レ恵一一逆諒闇提一と開顕せし如く、 一閣提に南無阿弥陀仏の 功徳が充実すれば、その表面は一闇提その憧の相であるけれども、 その本質は煩悩を断絶せる大浬撲の生活が徹底す るのである。本願力の法は未来法である故に、現実の一間提は此の未来法に引きずられて浬梁の都に入るという絶対 宗教の最高極限の表示が教行信証であり、その証の具体的内容を取り扱ったのが浬柴経である。斯の浬繋経で取り扱 われた法門を略門一法句すれば、易往而無人の五字の指標である。 善導の四帖の疏は、善人は仏道を得るも悪人は仏道を得ないという仏教一般の通義に泥んだ偏見を超えて、純粋宗 教の上で、観経の下三品から、悪人正機を革命的に論証したのであるが、其処には猶善悪療立の余薫が残っているよ うに見える。というのは、法を受ける機を限定して、詩法無信等は法を得るに由無き者として、朽林や大石には潤い を生ずる期が無いという誓除を玄義分七丁に引いているのである。然し、現身成仏の思想が草木国土皆悉成仏を論じ ているのは、むしろ、第十八願成就の真実報土に於て絶対的に先証的な必然性を有っていることを看破しなければな らないのである。詩法無信に誓えられているその朽林碩石も報土に於ては七宝の樹林を意味し、 八難の場所に於ける 地獄餓鬼畜生も総て如来正覚の場所に作仏せしめられてゆくのである。報土は、世界の全体が成正覚している純粋荘 厳を意味するものである。然らば世界全体は如何にして如来正覚の中に超凡者として作仏せしめられるかは、 ノ イ ズ コ Z 毛 ル ユ メ テ シ ヲ ゼ ナ ル ロ ト ヲ シ タ マ ヲ タ 巷 ν テ や コ ト ヲ タ ノ , メ エ 又英国土微妙安楽清浄若レ此何不三力為レ善念一一道之臼然一著下於無−王下一洞達無中辺際主宜下各 a F , マ ヘ バ ヲ ズ シ テ ィ テ ス ν パ ノ ニ サ マ ニ リ ヲ ハ ユ ジ ル コ ト ハ s p ク シ テ キ 唾 勤精進努力自求レ之必得中超絶去往一一生安養国一横裁一二立悪趣一悪趣自然閉昇レ道無一一窮極一易レ往市 サ ト p ノ ト u m − − セ ト ナ ル ヲ ク イ ズ a z 号 ル 畠 テ ヲ シ テ 無人其因不ニ逆違一自然之所 e 牽何不下棄一一世事一勤行求中道徳ム可下獲一一極長生一寿楽無 L 伺 レ 極 ︵ 大 経 下 十 丁 願 生 控 口 薩 横 超 易 往 分 ﹀ と、若不生者の本願の成就を開顕している。 もし唯善人のみの往生で第十八願の真理が尽るとしたならば、此経語に

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続く五悪段胎化段の開示を要しない。 五悪段の対象は一関提であって、 一闘提が易往而無人の横超の直道によって直 ちに報土に入ることを顕示されたのである。 玄義分の誓にある朽林も碩石も総て往生することを顕開せられたのであ る 。 小西迦葉師云諸有衆生身中各有一言億万粒細胞二一細胞中各有二阿弥陀仏−是故於二切世界一無レ有ニ一闇提一是 以 一 切 衆 生 体 一 一 達 弥 陀 正 覚 大 世 界 一 仏の法門は八万四千に余れども、 八万四千の法門の終帰は真実報土の往生即成仏の証の義に於て究覚するのである。 易往市無人は、信を獲れば易く極楽ヘ往けるのだが人に信慧あること難ければ往く人無し、 という難信の義に解釈 せられている。然し、往き易いが往く人無しとは矛盾の論理である。弥陀は如何なる個体にも一々に南無阿弥陀仏の 本願を成就し給う故に、往く人無しという否定的結語は存しないのである。 易往市無人の易往とは、南無阿弥陀仏によって如何なる機も報土に直入し得るということであり、 本願三信の易往 の極限を意味する純粋原因である。無人は、易往に即する結果が成仏であることを顕す。 無人の無は、虚無之身無極 之体、即ち第十一願成就の無上浬壊の意味から見るべきである。 此の往生は生即無生である故に、無人とは浬繋を証 することであり、無上上の真解脱の証徳を得た人である。 ﹂れは真諦の辺より見た無人であって、信楽の辺より見れ ば無作の人である。即ち、易往市無人とは、本願力に値遇する瞬間に、唯除の本誓によって人間のあらゆる与件から 超越し解脱せしめられることを意味する。それは、易往にして市も直ちに成仏するという聞信一念即得往生の意味で あって、絶対未来の永劫性を瞬間に即する因果同時の極限を開示するものである。論註上六丁に、 テ タ リ テ ノ ユ ク ヤ ト テ タ テ ノ ノ ノ ノ 品 セ シ ム ル 品 ヲ ト ル ト ノ ノ ト ノ ノ ハ ν テ 問 日 依 一 一 何 義 一 説 ニ 往 生 一 答 日 於 一 一 此 間 仮 名 人 中 一 修 一 一 五 念 門 一 前 念 与 一 一 後 念 一 作 レ 因 積 土 仮 名 人 浄 土 仮 名 人 不 レ 得 一 一 決 定 ナ ル ヲ ν テ ナ ル ヨ ト ヲ 毛 モ タ タ シ ノ ヲ テ ノ − 一 シ ナ ラ ︿ チ ケ ン シ ナ ヲ バ チ ズ 手 ノ ハ ズ ル ノ ヲ ナ リ 了 不 レ 得 一 一 決 定 異 一 前 心 後 心 亦 復 如 レ 是 何 以 故 若 一 則 無 一 一 因 果 一 若 異 則 非 一 一 相 続 一 是 義 観 一 一 一 異 一 門 一 闇 提 往 生 の 本 誓 七

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一 一 畑 提 往 生 の 本 誓 八 第十八願の真実なる信楽に於て、現生正定棄という菩薩の位に住するが故に、裟婆に居りながら裟婆の如何なる条 件にも支配せられぬから裟婆の仮名人であり、浄土に生れながら未だ浄土に居らぬから浄土の仮名人である。この仮 象のままを背反性の絶対的統一に於て、 親驚聖人は何のことは無く九十才の生涯を自然に過されたのである。 大経に難信の証示があるけれども、その立場は釈尊の出世本懐の場所から誓願一仏乗の絶対的価値を保証せるもの で あ っ て 、 これを弥陀招喚の願力的転換から見るならば、 キ ノ ハ ノ − − シ テ ル コ ト タ ヨ ト ヲ − p u v 包 テ ユ キ テ ヲ タ ズ ル ハ 如来輿世易レ値易レ見諸仏経道易レ得易レ聞菩薩勝法諸波羅蜜得レ聞亦易遇一一善知識日開レ法能行此 キ テ ノ ヲ セ y ハ シ ギ タ ル ハ ノ 品 ノ 晶 ノ ハ タ ノ シ タ ノ 牟 タ ノ ヲ カ ナ ラ J A S ν テ 亦為レ易若聞コ斯経一信楽受持易中之易無レ過一一此易一是故本願修起法如レ是作如レ是説如レ是教応当一一信順如法 修 行 一 聖道の難行は行そのものが困難である。浄土の難信とは値遇の難であって、自力の行を以て他力の信を獲ょうとす るから極難信の法となるのである。然し、此の値遇の難は機の方から言うのであって、 法の方から論定すれば往き易 くして直ちに成仏するのである。寒に、易往而無人は他力の極意を示す。信ずれば往生するという言い方をする為に、 此の信の一字が呑み込めないで、何時までも疑情の雲に覆われたように見えるけれども、 ズ ル − 一 ノ ヲ フ テ シ ν タ 〆 ル P ム カ 昌 也 観 ニ 仏 本 願 力 一 遇 無 ニ 空 過 者 一 能 令 三 速 満 一 一 足 功 徳 大 宝 海 一 ︵ 浄 土 論 二 丁 ︶ カミ 一心願生の内容を示している。即ち、値遇することが直ちに信である。仏力によって本願力に遇わせて頂くそれ が直ちに廻向の信である。寒に、南無阿弥陀仏を聞く一念に往生の正因は究寛するのである。第十八願成就文に言く、 辛 テ ノ ヲ ヲ シ イ マ シ ル ノ − 一 ヲ シ タ マ へ リ ズ ν, 、 ν ν ト ノ 品 チ テ ヲ 骨 ν z 〆 諸 有 衆 生 聞 ニ 其 名 号 一 信 心 歓 喜 乃 至 二 念 一 至 心 廻 向 願 レ 生 一 一 彼 国 一 即 得 一 一 往 生 一 住 ニ 不 退 転 一 唯 除 一 二 立 逆 誹 誘 正 法 一 仏を除いて如何なる者も一聞提に非ざる者はない。 我々は一日として誹詩正法せぬ日は無い。然し、誹詩正法する ユ カ カ ラ ソ ヤ 何等世界無ニ仏法功徳宝一と。 仏法功徳の宝無きことを許さ とも邪魔にはならないのである。浄土論二丁に日く、

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ぬ 。 誹 誇 正 法 と 言 う 以 上 、 そこには己に誹詩せられる正法が存在する。誹諒する直下が最早、正法である。仏法であ る。寒に、仏法を信じようとも又語ろうとも、仏から見れば同じである。 一 つ で あ る 。 悪人正機とは、悪が理念の王国への契機となるという意味ではない。 それは、人聞が理念からの反照によって批判 せられた領域であって、人倫の場所に於ける善悪の措定を意味しない。若しも人聞が人間自身の能力を以て善を為し 遂げ得たとすれば、その善の為に却って最高善を産み出す神的理念の道を閉塞するのである。 悪人正機は、信前や初 一念で言うべきものではなく、信後から翻って自己の正機を自覚する状態である。弥陀の本願によって助けられてみ れば、自己の過去はどこまでも一閣提であったという自覚が深まる。大経では唯除の本誓によって、 聞 信 の 利 那 に 一 闇提の禍根を断絶せられる故に、 五悪段に来て自己の一閣提を自覚するのである。 浄土真宗に帰すれども 真実の心はありかたし 虚仮不実のわが身にて 清浄の心もさらになし ︵ 悲 歎 讃 ︶ これが大経の五悪段である。信を獲て後に出て来る。信を獲たからとて善人になりきることは無い。我々の日暮しが 五悪段である。五悪段で往生するのである。 五悪段に於ける深還なる意味規定は、永遠に繰り展げられている人間運 命の挟悪の領域即ち宿業の内観である。親驚聖人は大悲の本願に任せきった生活を宿業にまで演鐸なされたのである。 大聖おのおのもろともに 凡愚底下のつみひとを 逆悪もらさぬ誓願に 一 間 提 往 生 の 本 誓 九

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一 間 提 往 生 の 本 誓 二

O

方便引入せしめけり ︵ 観 経 讃 ﹀ 悲化段五悪段は如来正覚の智慧によって照顕せられた我々の姿である。 この一闇提は永劫に救われないのではない か と い う 聞 に 対 す る 答 が 、 五悪段に続く霊山現土である。霊山現土の聖文は、誓願一仏乗の出拠であり、念仏は無碍 ヨ リ ズ ヲ の一道なりの根拠である。十方無碍人一道出ニ生死吋皆同一色は五乗斉入であり、皆同一色に包まれると現生正定粟 で あ る 。 一切光明皆悉隠蔽は、諸仏菩薩の光明さえも見えない。 こ の よ う な 光 り の 中 で は 、 一闇提の如きものは徽菌 の一つにも及ばず、顕微鏡で見ても見えない。唯見仏光明曜顕赫は、唯、摂取の光明のみ。これは一切衆生即得往生 の 益 を 顕 す 。 一間提が諸仏の仲間入りをして、弥陀の光明と一つになるのである。 光雲無碍如虚空 一切の有碍にさはりなし 光沢かふらぬものぞなき 難思議を帰命せよ ν チ ノ ︽ タ ν ノ ヲ ノ ハ ジ ク オ ポ シ テ ナ リ マ γ ト 晶 畠 y m ノ ハ A V ヲ ス ノ ト ノ ハ キ 斯 乃 権 化 仁 斉 救 一 一 済 苦 悩 群 商 一 世 雄 悲 正 欲 レ 恵 一 一 逆 諒 闇 提 一 故 知 円 融 至 徳 嘉 号 転 レ 悪 成 レ 徳 正 智 難 信 金 剛 信 楽 除 レ 疑獲レ証真理也 ︵ 讃 偏 讃 ︶ ︵ 本 典 総 序 ︶ 人聞が真の宗教ヘタ l ト す る の は 、 そ の 善 か ら で は な い 。 又、最高善を為し遂げようとするが如き自己の限界を自 覚しない偽善的な立場ではない。人間の現実は己に一一闘提の悲劇の運命に陥っているのである。 この一間提性に対し て、神になり得ベく制約するものが、神的理念から直接に与えられた制約性である。 それ故に、此の総序に開聞せる 如く、世界史の上に有る聖者の意志は 一闇提の悲劇の運命の只中に在る者を直ちに無上覚の座へ止揚するのである。 此の無制約の場所への解放が神的理念の絶対的真理である。

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− 一 〆 ノ ヲ リ ジ リ テ レ a ν ノ ヲ フ ノ ヲ ク テ ノ キ ヨ ト ヲ ヂ ノ ヲ h v セ ム ・ ’ ’ 良 仰 ニ 師 教 思 厚 一 慶 喜 弥 至 至 孝 弥 重 因 レ 蕊 紗 一 一 真 宗 詮 一 掠 − 一 浄 土 要 一 唯 念 コ 仏 恩 深 一 不 レ 恥 一 一 人 倫 明 一 若 見 = 聞 斯 書 ︸ 者 信 順 為 レ 因 疑 詩 為 レ 縁 信 楽 彰 一 一 於 願 力 一 妙 果 顕 ニ 於 安 養 一 安 楽 集 云 採 一 一 集 真 言 一 助 コ 修 往 益 一 何 者 欲 レ 使 一 − 一 前 生 者 導 レ 後 ヲ 屯 ノ サ ソ ガ ノ ヲ ナ リ ト レ パ ノ ハ キ ィ , テ ス ν ル シ ノ a74H 後生者訪レ前連続無窮願不ニ休止一為レ尽一一無辺生死海一故爾者未代道俗可ニ仰信敬一也可レ知如一一華厳経偲云一 若 有 下 見 三 菩 薩 修 一 一 行 種 種 行 一 起 中 善 不 善 心 ム 主 主 丘 陵 皆 摂 取 ︵ 化 巻 末 四 一 丁 ︶ 信順を因と為し疑詩を縁と為して信楽を願力に彰し妙果を安養に顕さんという化巻の最後の此の言葉こそ、本典著 作の究極の目的を開顕せられた最高なる結示の聖語である。 信順為因は往相の大慈であり、逆誘為縁は還相の大悲で ある。信楽彰於願力は往相の究克であり、妙果顕於安養は還相の始めである。 教行信証は、信誘の背反性を純粋に統一し、時聞を超越して、 あらゆる人格を如来正覚の御座にまで永遠的に秩序 付けてゆくのである。宗教現象から見れば生死海は無辺際である。 然し、宗教理性の絶対的推理から見れば、この無 辺際の生死海を永遠に断絶し尽すことが最高のタ I トでなければならない。寒に、本典の此の聖語こそは、絶対的推 理の真理を具体的に開顕する無限結語である。 あ と カ三 き 昭和三十一年の秋、昼間我量深師とのご縁により高円寺の浄雲寺に於て偶々小西迦葉師に遇い、 其信仰と学問と体験 に常ならぬものを感じた。希有の善知識に値い得たのである。爾来、遷化される、迄別懇誇篤な慈導を蒙った。迦葉師 は明治二十四年七月二十四日香川県丸亀市福島町に出生。倉本茂。十九才の秋、宿縁開発して、本願他力の真実の大 信に遇う。一一十一才より松島善海和上の膝下にて空華学徹を学ぶ。大正七年上京。難思寮、空華荘及び華園勧学院に 於て親驚聖人の思想及び宗教全般の哲学的研究を指導。親驚様の如く賀古の沙弥教信の生活を理想として自由自在に 一 間 提 往 生 の 本 誓

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一 閣 提 往 生 の 本 誓 八十五年の信仰と学問の生涯を了えて飛ぶ烏がその足跡を大空に残さない様に昭和五十二年三月十三日浄土へ還帰さ れた。私達を弘願の本座へ躍入させる為に一生涯を非僧非俗の相で貫徹された還相の菩薩、小西迦葉師の出世は寒に 二 十 世 紀 日 本 の 驚 異 で あ る と 思 う 。 此の小論は、師説の一端を述べたもので、 我 聞 如 レ 是 で あ る 。 唯、浅学非才の閣不具足のために師のご冥 徳を汚さんことを只管虞れるのみである。諸賢の厳密なるご批判と懇篤なるご善導を蒙りたく衷心より念願致すもの で あ る 。 ︵ 白 万 一 ︶

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易行品の無量寿経とその展開

序 易行口問弥陀章の中の一備と浄土論五念門の建立は寿経の成就文に取材され、 やがて観経の請出までに発展した。こ のいきさつの確証は三十数年に亘り、 積み重ねて来た究文研究の成果と自信し、 したがって旧著﹁大無量寿経の名 所 l-︵サンスクリット文に依る案内﹀の続稿である。しかしいよいよ老眼、孤介の一田舎漢のことゆえ、定めて独断の多 きを恐れ、大方先達の土の叱正を仰ぐや切なりと云か。

平生見仏に就いて

一 、 成 就 文 に よ る 見 仏 四 種 易 行 品 の 無 量 寿 経 と そ の 展 開

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易 行 品 の 無 量 寿 経 と そ の 展 開 二 、 平 生 見 仏 と 浄 土 論 の 対 照 三 、 観 無 量 寿 経 の 請 出 ぃ 、 寿 経 小 経 の 誤 り を 伝 え た 部 分 ろ 、 維 摩 経 よ り の 取 材 は 、 浬 柴 経 よ り の 取 材 四 、 龍 樹 の 転 用 一、成就文による見仏四種 無量寿経の往生因願は一八、 一 九 、 二

O

の三願、これに相当する党文は一八 八 を 別 立 し 、 一 九 、 二

O

を三輩として四品なるに究文は並列して五品とした。 この開合と品名は次の如し。

1

1

1

1

党 文 寿 経 一 党 文 一 寿 経 一 第 一 品 一 住 正 定 家 一 一 九 一 一 八 一 第 二 品 一 上 輩 一 一 八 一 一 九 一 第 三 品 十 グ 一 一 九 一 二

O

一 第 四 品 一 中 輩 一 一 八 一 一 九 一 第 五 品 一 下 輩 一 一 九 一 一 八 一 一、聞名信楽住正定緊 一 九 の 二 願 。 二 四 その成就文を寿経は

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二、真仏臨終現前 、真仏平生現前 四、化仏臨終現前 五、平生夢中現前 初品を除いた四品は見仏に於いて、真仏と化仏、臨終と平生、正見と夢聞の区別がある。見仏にかかわらない初品 は 龍 樹 に よ り 次 の 一 備 と な っ た 。 人能念是仏 無量力功徳 即時入必定 是 故 我 常 念 。 この必定︵正定褒︶を主眼と取る理由は前段の散文﹁若人念我

1

即時入必定、得アノク菩提﹂との相望である。 見仏四品のうち、最も一般的なものは伺の平生夢中見仏、宗教に於いて夢の重視される例は甚だ多く﹁真宗研究﹂ の第二十輯に浅野教信氏の﹁親驚聖人と夢﹂には大ピバ沙、智度論、般舟三味経、無量寿経、観経四帖疏、往生要集、 夢感聖相記、本典後序、夢告讃と詳細な記事がある。これらの諸文かねてより筆者の関心、 特に宗師の呈証、高祖の 夢告讃には襟を正した。又法華経安楽行品の終結部は羅什の訳風を一示す一例として見逃せない。 彼処に無漏法を宜ベ説きつ 多億の生類を浬繋せしめ 因尽き灯火滅するが如 彼が夢こそかくあらめ︵七二︶ こ れ が 説無漏妙法、度無量衆生、後当入浬葉、如煙尽灯滅。 易 行 ロ 問 の 無 量 寿 経 と そ の 展 開 二 五

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易 行 品 の 無 量 寿 経 と そ の 展 開 一 一 六 となって第四行が欠除しているのは若於夢中、但見妙事︵六

O

︶ 開 法 為 入 説 、 ① 行詣於道場︵六九︶に重複をさけんがためであったと思われる。 常有是好夢︵六八︶又夢作国王

J

高 で あ る 。

ω

と仰の臨終現前は所謂ご来迎往生にて浄土教徒の最大願望、 小経大経観経を貫く関門で、宗教画の画題として最 付 二 、 平 生 見 仏 と 浄 土 論 の 交 渉 党 漢 対 岡 山 ︵ 下 の 数 字 は 経 文 の 次 第 ︶ 1 現 生 に 欲於今世 2 2 彼無量光如来を 無量寿仏 4 3 拝見せんと欲する 見 3 4 善家男子、或は善家女子は 其有衆生 1 5 無上なる正等覚に心を発し 応発無上菩提之心 5 6 強き深心の相続を以て × 願生彼国 7 7 彼仏国に生るる為に × 修行功徳 6 8 念 を 係 け 、 且 ペ コ × 9 諸善根を 大谷光瑞師訳には

ω

の 前 に ﹁ 如 何 に し て ﹂

E

S

ω

の﹁拝見せん﹂の次に﹁と言いて﹂正の語を加う、 10 回向すベし ﹁ 如 何 に し

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て﹂の語は﹁云何﹂と論に七回継がれている。 1 × 。党支と浄土論の対照︵上の数字は党文、下の数字は論文の次第︶ 2 観彼安楽世界、見阿弥陀仏 3 願見弥陀仏︵願生倍末章︶ 4 若 離 善 順 男 菩 子 提 善 門②女 人 5 6 云何回向 J 回向為首得成就大悲心故 ﹁ 観 彼 世 界 相 ﹂ ﹁ 観 仏 本 願 力 ﹂ 宮 田 ヨ ヨ

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。 6 心常作願一心専念︵作願門︶ 畢寛往生安楽園 7

8 × 9 修五念門行 10

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の ﹁ 観 ﹂ ﹁ 見 ﹂ 、

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﹁ 常 ﹂ 相 続 目 白

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1 2 7 4 5 3 ﹁ 一 心 専 念 ﹂ は 、 包 ﹃ 吉 田 昌 白 ﹁ 作 願 ﹂

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小 経 の 発 願 は 、 同

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官 民 同

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建章﹁我一心﹂の一心と同語。 易 行 口 聞 の 無 量 寿 経 と そ の 展 開 小経の一心不乱︵不散乱心︶ミ符己主

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同法華経序品の一心除乱開宮田

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丘 三 曲 目 に簡びまたこのアドヒヤ 二 七

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易 行 品 の 無 量 寿 経 と そ の 展 開 二 八 シ ャ に プ ラ サ ダ を 加 え て 初 日 間 の 信 心 歓 喜 、 論 註 の 淳 、 て相続の三心、 一 向 専 念 。 経には﹁諸善根を回向すベし﹂とあるものを論には能所を混じて回向も所修と見るから﹁礼拝等、 五 種 修 行 、 切 功 徳 善 根 ﹂ と 一 括 し た 。 経の諸善根を聞いて前四念としこれに回向を加えて五念としたが初めの三念は論註指示の如く建章備に見られ、経 は見仏の過程にある往生を論は見仏の目的に振り替えた。 経には唯一回使用の﹁云何﹂の徴を五念の一一にかむらせ、 また云何観に礼拝讃歎観察の三門を、云何生信心に作 願 回 向 の 二 門 を 統 摂 し た 。 五念︵仏︶門はたしかに浄土の行であるが、 その所修の目的は礼拝門のほかは一般仏教の行目なれば 礼拝︵身業︶為生安楽国意故 讃歎︵口業︶如実修行相応故 作願︵意業︶如実修行シヤマタ故 観察︵智業︶如実修行ピパシヤナ故 回向︵方便智業︶得大悲心故 と対配され、讃歎門の相応はユガの訳名であるから﹁如実にユガを修行するが故に﹂と訓じ、 か く て 次 の シ ヤ マ 夕 、 ピパシヤナと比肩される。但し﹁如実修行相応は、 信心ひとつにさだめたり﹂は論註相承の宗釈の訓である。 驚師が成上起下と称す、第二行備の ﹁与仏教相応﹂も﹁仏教ユガのために﹂ の 訓 と な る 。 したがって ﹁ 我 依 修 多 羅﹂の修多羅も三部経以外に亘り、 現に国土荘厳十七句の摂大乗論の十八円浄を模したことは既に鎌倉の良忠定善義 伝通記に照合し、今の五念門もユガ論の巻一八の修学七法に基きて止観中心とするのは工藤成性氏の﹁世親教学の体

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系的研究﹂の主張、氏によればユガ論の少分観察の法討が今の云付観に、 少分観察の信行が云何生信心に相当し、浄 土論の上には法行のみを説きて信行は有標無釈なりと決断した Q 経が修行の目的とした平生見仏の具象は二十四行の 願生偽中、第三行より第二十三行に至る二十一行中に明かされる三種二十九種山政にありと雌も二十九旬がすべての 怪文即ち真実功徳相と一致せざるのみならず、 かの大義門功徳の二乗程不生は経と背反しているのはユガ論の相承に 難 功 徳 、 よる。しかし一荘厳句毎に﹁荘厳何々功徳成就者﹂と冠するは小経の結章句﹁成就如是功徳荘厳﹂の形であり、無所 一切所求満足功徳の如きは功徳名と内容と経文に符合している。 触功徳の﹁カセンリンダに過ぎたり﹂のカ 1 チリンデイカは究文に存し、 現存の植物名である。 小経閲章の﹁号阿弥陀今現在説法﹂、 寸 今 現 に 住 持 し 日 を 送 り 、 且つ法を説く﹂より主功徳﹁正覚阿弥陀、 法

住持﹂が作られ、不虚作住持功徳の意にもつながるのであろう。 一、観無量寿経の請出 い、前訳の誤りを伝えた部分 この一極血︿の中国撰述に就いての詳細は月輪賢龍先生の﹁仏政︿の批判的研究 L 中 、 ﹁仏典の始終﹂の第六節﹁観無量 寿町桂の検討﹂に論ぜられ﹁ここに観経作者は党文を知らぬと云う難点を留めるであろう︿一四六頁︶﹁先きには調達と 云い後には提婆達多と云う J 由来シナの作経には斯かる混用が故意にされる傾向がある。 それは一には其作経者の知 識の該博さが顕われると共に、これは幾分その博覧を街い誇るが如き点がある。 それが逆効果となって問題化されて 来るのであるこ四七頁︶と述べてある。 作経者には整文家も包含されるものとすれば無量寿経の訳者とてその分に洩れやす、 平等覚経との対照は之を証して 易 行 ロ 聞 の 無 量 寿 経 と そ の 展 開 九

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易 行 ロ 聞 の 無 量 寿 経 と そ の 展 開

充 分 で あ る 。 阿弥陀経の七宝池段に上有楼閣と云うに就いて﹁上﹂は無論﹁ほとり﹂の訓として﹁楼閣﹂を党文経は﹁宝樹﹂で ③ あ っ た 。 ﹁池の岸には宝樹が生じている﹂︵チベ γ ト訳︶にて﹁有﹂は生えている程の義である。 かく解せば観経第六観の﹁衆宝国土一一界上、 有五百億宝楼﹂の界と上と有の関係は不可解となった。 寿経の宝樹段に﹁諸樹の根、茎、枝、条、葉、華、果実は触るるに柔軟にして好呑あり、 諸樹は風の吹くとき又は ゆるがさるる時、微妙悦意の音を出し、厭足なく、聞くに不快を感ぜざるなり。﹂が ﹁ 此 諸 宝 樹 、 行 々 相 値 、 茎 々 相 望 、 枝 々 相 準 、 葉 ん ベ 相 向 、 華 々 相 順 、 実 々 相 当 、 栄 色 光 降 、 不 可 勝 視 、 清 風 時 発 、 出五音声、微妙宮商、自然相和﹂ と潤色された。就中﹁行々﹂は﹁木々﹂とすべきが覚経の相承により不統一の訳語となったものである。 この不明確 がそのまま観経には ﹁此諸宝樹、行々相当、葉々相次、於衆葉問、生諸抄華、華上自然、有七宝果﹂ と な っ た 。 ろ、維摩経より取材 一 、 教 輿 病床に臥す維摩居士への問疾 玉城に幽閉された后井提への慰問 二、共通の法数経句

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五 百 、 八万四千 ボサツ三万二千。文殊師利法王子 唯願世尊。説諸ボサツ浄土之行 仏 言 、 諦 聴 々 三 一 音 思 念 之 作 是 観 者 名 為 正 観 、 若 他 観 者 、 名 為 邪 観 ︵ 見 ア シ ユ グ 仏 日 間 ︶ 略 説 法 要 、 謂 無 常 、 苦 無 我 、 寂 滅 義 ︵ 弟 子 口 問 ︶ 念 作 仏 声 、 演 出 無 常 、 苦 空 、 無 我 之 本 日 ︵ 不 思 議 口 問 ︶ ︵ 観 経 は 水 想 と 宝 池 と 中 上 ロ 聞 の 三 所 に ︶ ︵ 浄 土 の 体 十 六 心 の う ち ︶ 一直心、二深心、三、回向心 U 至 誠 心 、 深 心 、 回 向 発 一 願 心 。 、サブタイトル 経の宗とすべき不思議品の旨帰は雑想観に取り入れた。 阿弥陀仏、神通如意、於十方国、変現自在、或現大身、満虚空中、或現小身丈六八尺。高楠博士の英訳の﹁十六 又は十八﹂は丈六丈八の義となる。 印度では人身の丈を八尺とし、仏身は尊高のあらわれとして倍数の一丈六尺、奈良の大仏さまも始め行基ボサツ等 執行部は更にその十倍の十六丈の案を立てたが、 財力と技術の上から十丈の半数の五丈と六丈の二十分一の三尺に決 着 せ る も の と 云 う 。 寿 経 の 五 悪 段 ﹁ 壁 一 如 大 火 焚 焼 人 身 J 獲其福徳度世長寿泥一担之道﹂のうち﹁独作諸善﹂が ﹁ 名 為 正 観 ﹂ ﹁ 不 為 衆 悪 ﹂ が﹁名為邪観﹂となり、善悪正邪相対。 小経は﹁成就如是功徳荘厳﹂ ﹁当信是称讃不可思議功徳﹂と正と善のだけの 易 行 品 の 無 量 寿 経 と そ の 展 開

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易 行 口 聞 の 無 量 寿 経 と そ の 展 開 主張である。これが三部経中反復の経語である。 小経は章段の接属に﹁又﹂を用いたのは極楽荘厳と云う平面的叙事の故であろう。 観経の発起序には盛んに﹁時﹂ の語を使ったのは歴史的叙事の故であろう。 かくの如き見解ありてか或は偶然か知らぬが大経の現流本の因行段には 高麗、宋、元、明の四本にも無きこの﹁時﹂が挿入されて﹁時法蔵比丘於其仏所﹂とあるは観経よりの逆輸入である ま い か 。 は、浬築経より取材 維摩の住居をピシヤリ国のアムラ樹園と云い、 浬梁経に﹁世尊は仏性を見ること掌中のアマロ菓の如し、十住のボ サツ仏性を聞見するに了々ならず﹂の除は観世音観の﹁亦令明了如観掌中﹂に通じ、 了々と−−とは使用量度重なる 副 詞 で あ る 。 信巻未巻に引用さるる浬柴経の三機三病に見る三分法は世戒行の一二善、 一 一 一 琴 平 、 九口同等三科の割り出しとなり、又 ﹁臣聞ピタ論経説、劫初以来有諸悪玉﹂の記事は悉知義大臣の言葉に着想せしものならん︵月輪、 一 五 五 頁 ︶ 観 経 の 大 詰 め 、 下 品 下 生 に 来 り て 、 維 摩 仏 国 口 聞 の 十 不 善 道 為 種 を は 六 諸 不 善 と し 、 ﹁ 作 不 苦 業 五 逆 十 悪 ﹂ も 、 担 喋 を 止 揚 し た 。 伝巻未巻には前記浬繋経に寄せて寿経と観経と三経相望の逆詩除取論が展開した。 却説この観経は菩提流支の浄土論を見た人の作と提唱するのが筆者の立場である。 か く て は ﹁ 宋 元 嘉 中 カ ラ 耶 舎 訳﹂の語に抵触することは寿経の康僧鎧訳と共に棚上げして、 組経を取り上げた最初の人は論註であろう。懐感の群 疑 論 巻 三 ︵ 浄 土 宗 全 書 六 、 三 四 ︶ 逆 誇 除 取 論 に 十 五 家 の 説 を 挙 げ 、 道忠の探要記︵同二八

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﹀によればその第一番は元暁、 三 番 は 興 師 、 第 三 番 を 論 註 、 七番を浄影、九番を士宮導とするから恐く論註師こそ観経と浄土論を併せ見た最初の方

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で あ ろ う 。 先ず論の﹁云何観 L を﹁云何当見、阿弥陀仏極楽世界﹂として、 水、地、池、宝樹に聞き﹁当云何観無量寿仏、及 二害薩﹂として華座、像、真身、観音、勢主、普、雑想の七種に聞いた。 このうち華座の建立は正しく如来荘厳座功 徳の継承で、像観の組み入れは日想観と同じく従化入真の作法である。 ④ ﹁云何生信心﹂を至誠、深心、回向発願の三心に代えて五念門と牛角の法門を建てた。 論の﹁三種成就願心荘厳﹂を像観に﹁是本法蔵比丘願力所成﹂とし﹁第一義諦﹂の語は上中品に入れ、寿経の﹁開 甚深法心不疑懐﹂の義を加えて﹁於第一義心不驚動﹂とした。 華厳の賢首が十大教判に数えた流支の一音教は維摩経の﹁仏以一音演説法﹂により、 論註には身業功徳の﹁相好光 一尋﹂に対する数字上の難が出されている。観経が平気で通過する数字上の不釣合い彼此思い合ぜて流支と作経者に は相通ずるものがある。或は同一人か、これには流支の訳風、教学を究むべきであるを課題とする。 付同義の異語となれるもの 浄土論 ウパデ舎と章句 経と修多羅 無量寿と阿弥陀 観 経 調達と提婆達多 修多羅と十二部経 易 行 口 聞 の 無 量 寿 経 と そ の 展 開

参照

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