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弘願助正説の意味するもの|| 立盆 日賢
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ここに謂ゆる実践論とは浬繋への道としての実践論ではなく、信心獲得の上からの報思行としての実践論である。 しかるに浄土真宗における報恩行は、単に宗教的実践︵道場内の行儀︶に限らるべきでなく、広く道徳的実践・社会 的実践にまで拡充せらるべきであるが、あらゆる報恩行の原型としての意義を持つものは、何と云っても、宗教的実 践である。宗教的実践は、真宗伝統の上に整備せる規定がなされていて、天親によって創設され、曇鷺によって進展 された五念門と、善導によって創唱され、法然によって拡充された五正行とがある。この信後の宗教的実践を、 五 念 門 に よ る か 、 五正行によるかによって、道徳的実践その他に相当の影響を及ぼすことになるのであるから、実践論の 立場における五念・五正の研究は重大である。本稿は宗教的実践を五正行とする石泉僧叡の弘願助正説を述べ、 そ の 有する意味について、考えてみたいと思う。 浄土真宗の実践論報
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先ず五念開けとは﹃浄土論﹄に明すところであって ﹁ は 嗣 註 ﹄ に は こ れ を 詰 釈 し て い る Q こ の 五 念 円 に つ い て 辻 、 7こ みの行法とするものと、凡夫税患の行業とするものとがある。この問問題は、大い で あ る で な い か ら 、 、 炉、
ω し、 作 こ の 中 、 の て − 作 願 の 勝 凡夫相応の行業となしていること に止めておこう e つ ぎ に 五 正 行 は ﹃ 教 養 議 ﹄ に 出 て い る が 、 こ れ に 正 定 業 と 助 業 と が 分 裂 さ れ 、 第 四 の 称 名 を も っ て 正 定 一 葉 ? と な し 、 前三後一の密行をもって助業とされている。これ全く凡夫相応の行法である。法然上人の﹃選択集﹂には二一行章にお い て 、 こ の 吋 教 義 義 い の 五 正 行 の 文 を 引 思 し 、 更 に 私 釈 を 設 け て 詳 照 明 し て い る 。 市 し て ⋮ 一 一 議 案 に お い て 、 ﹁ 大 経 ﹄ の つ い て 擁 立 ・ 助 正 ・ の 法 掛 か ︸ 設 け 、 こ の 中 、 助 正 に つ い て − 異 蛸 測 の 助 業 合 説 い て い る 。 間 同 額 の 助 こ の っ て 、 0)﹁ 諦 目
さて親鴛聖人はこの衆生倍後の行業たる ﹁ 議 註 ﹄ を 引 用 す る 中 、 ﹁ 論 ﹄ の 欝 二 文 た る こ 利 成 就 及 び コ ⋮ 一 ど の 第 二 文 た る 備 の さ 五 , 山 内 の 釈 、 更 に ﹁ 註 ﹂ の 見 て い の で あ ろ う か 。 ︿ 十 一 一 丁 ﹀ に 下巻の在桓還起の文を依用せるより見れ法、議驚辻﹃行巻﹄に玉念門を設けるものであって、衆生詰後の行業は玉念 の 如 く で あ る 。 黙 し ま た 吋 行 巻 ﹄ ︵ 三 十 七 了 ︶ に 吋 選 択 集 い の 標 挙 と 三 選 の 文 と を 引 一 訟 せ る も の は 、 石 泉 や 議 一 昨 哉 の い う2
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カ 女 ︿ そ の 市 町 簡 の 全 部 合 依 用 せ る も の と 見 る 姥 は の にあることになるから信後の行業は五正行の如くでもある。更にまた﹃化巻﹄︵十二丁︶に﹃散善義﹄の五正行の文を引用するより見れば、 五正行は仮の行業であって、弘願の行業にあらざるが如くであり、 ﹃ 信 巻 ﹄ ︵ 十 丁 ︶ に 正 助 二 業 の 文 を 引 用 す る よ り 考 うれば、助正は弘願に属すべきが如くでもある。この外に﹃二巻紗﹄には五正行を分類解釈し、 ﹃ 三 門 偏 ﹄ に は 五 念 門をもって法蔵所修の五念としている。 かくの如く親鷺には、五念五正の扱いが頗る錯雑せるものがあるから、古来 助正論の研究を生じ、弘願助正説を立てるあり、方便助正説を設けるあり、従って信後の報恩行についても、 五念門 をもって、これに当てんとするものあり、五正行をもって、これに配せんとするものがあって、 その説は一概するこ と は 出 来 な い 。 真宗諸学派の中、大漉を派祖とし、道振・道命等によって継承された百園学派等は、信後の報恩行は五念門による べしと説き、石泉を鼻祖とし、慧海・義山等によって受けつがれた石泉学派は五正行によるべしと説いている。本論 は、この中、石泉一派によって主張せられる弘願助正説について、大濡等の学説と比較対照しつつ、その意味すると こ ろ を 明 ら か に し て み よ う と 思 う 。
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市園学派の﹃助正賓﹄ ︵真全三六二頁︶によると、報愚行は五念門に限り、余他の善行に通ぜしめない。凡そ真宗の 正意は、安心行儀ともに廃立を先とする。行儀の廃立とは余伸に係属し、余乗余土に共通するものを廃する。されば 真宗の報恩の行儀においては弥陀に対するもののみを取り、更に余悌余土に通ずる諸善は報恩の行犠に摂属すべきで はない。而して、弥陀一伸のみに対して、更に余伸余土に通ぜざる行と云えば五念であるから、真宗においては、報 恩 行 は 五 念 に 限 る と す る 。 浄土真宗の実践論浄土真宗の実践論 四 しかし、この報思行を単に五念に限るというは、あまりにも偏狭な考え方である。若し五念以外の善行は報思行に あらずと云えば、歴代の善知識を始め、 一般行者が堂宇を建立し、像を造りて安置し、燃燈焼香するが如きは報恩行 ではないであらうか。真宗は廃立に立脚すると云えばとて、 一切の善行を報思行にあらずと廃すべきではない。自力 心をもって修せられる善行ならば勿論磨せねばならないが、他力報恩の心よりする善行は報思行として弘願に属すベ きである。戒に大小なけれども、受者の心期によって大小の差別を生ずる如く、 たとい非本願の行といえども能修の 心相によって要門行ともなれば、弘願行ともなると思う。 これに反し、石泉の弘願助正説は、報恩行の範囲を世出世の一切の善行に通ぜしめる。凡そ﹃選択集﹄三輩章には 助業に同類のそれと異類のそれとを設ける。非本願の行という点より云えば異類のみでなく同類も亦然りである。同 類・異類ともに非本願の行であるが、弘願の他力心より修する時は、何れも弘願の行儀となる。殊に異類の助業は、 その行体より云えば、雑行であるが、自力心を離れ全く他力心より修するが故に、弘願の報思行に摂して助業と名づ けたのである。而してこの同類の助業とは道場内の行儀の制規であり、異類の助業とは道場の内外に通ずる行業であ る。されば助業とは報恩の思いよりする道場の内外の一切の行儀、換言すれば世出世の一切の善行を摂尽するものと 云わねばならない。従って宗祖や中興蓮如が消息の中に、諸宗諸法を誹誘し、諸悌菩薩神祇冥道を蔑視し、非理の行 為を誠め、王法公事を重んじ、忠孝仁載を謹めと教えるが如き、皆この助業の中に摂せられる。今その一々の文をあ 平 ノ 玉 、
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’t 中 / 1 v カ ﹃ 和 語 灯 ﹄ ︵ 五 ノ ニ 七 丁 ︶ の 次 の 一 文 を あ ぐ れ ば 充 分 で あ る 。 現世の過ぐべき様は念俳の申されん様に過ぐベし。念僻の妨に成りぬベくば何なりとも厭い捨て是を止むべし。 云く聖りにて申されずば妻を儲けて申すベし、妻を儲けて申されずば聖りで申すベし、住所にて申されずば流行 にて申すベし、流行して申されずば家にて申すベし、自力の衣食にて申されずば他人に助けられて申すベし、他人に助けられて申されずば自力の衣食にて申すべし、 れずば一人寵居して申すベし。衣食住の三つは念併の助業なり。 一 人 に て 申 さ れ ず ば 同 朋 に て 共 に 申 す ベ し 、 共行して申さ されば信後の行儀は五正行による時は、称名を正業となし、世出世の一切の善根を助業となし、もって報恩生活をい そ し む こ と が 出 来 る の で あ る 。 四 称 名 中 心 の 報 思 行 市圏学派のひとびとは、五念門をもって報恩行とするが、この王念門について、聖者の行法とするものと、凡夫相 応の行業とするものとの二つの見方の存することは、すでに上に述べた通りである。この中、聖者の行法とするもの は、止観中心の行業であることは、周知の通りであるから、今ここに述べる必要はあるまい。これに対し、 五 念 門 を もって凡夫相応の行業とするとは、作願を一心願生の相続たる作得生想とし、観察を信後味道の散心の観想とし、廻 向を一心所具の度衆生心とするものである。大詰の一派はこの凡夫相応の玉念門をもって報恩行とするのであるが、 この場合、信後の行業には助正の分別を見ない。何となれば、道命の﹃助正賓﹄ ︵ 真 全 五 O ノ 三 五 一 頁 ︶ によれば、如 来は五念二利の行を法体において成就し、これを衆生に廻施し、衆生は間信のところに五念二利の功徳を成満する。 この信処に成満する功徳が、衆生の三業に相発するものが報恩の五念門行である。この五念は当体全く悌行にして、 五行ともに真法なるが故にその聞に真仮勝劣の別なく、同じく一心所読の報思行である。従って、信後の報恩行には 更に助正の別の見るべきなく、若し助正ある時は、それは生因門土における往因助成の義となし、これをもって仮を 帯びたる方便の行業とするのである。 五正行をもって報恩行とする石泉は、その著﹃助正釈間﹄ ︵ 真 全 五 O ノ 三 一 一 四 頁 ︶ には助正に真あり仮ありとなし 浄土真宗の実践論 五
ム ノ、 授 の 酷 正 と は 爵 正 を も っ て 往 伎 の 業 調 と 議 、 ず る も の で あ っ て 、 こ れ は 要 胞 は 棄 問 げ に 属 し 、 真 宗 の 取 る と こ ろ で は な い 。 真 の 場 正 と は 弘 嶺 報 恩 の 上 に お い て 議 、 ず る も の で あ っ て 、 これこそ真宗の窃正である。石泉は廃立安心・場正行犠を 談じ、勤正を起行門、若しくは行畿内の上に於げる報愚行としてその位霊を規定するものである。ざれば石泉におい ては、助正は往国助成の震にあらずして、同協後の報愚行の修紹助法とするものと云わねばならない。 で の は 、 お 泉 の ︿ ム ハ / 一 ︿ 爽 会 五 O ノ 問 。 一 覧 ﹀ る と こ ろ に よ る と 、 の の 中 、 の 葬 名 は 本 願 の 行 な る が 故 に 、 きものである この称名はまた拙の所開となって を 能 く 弘 還 す る 。 故 に 第 四 の 都 名 の 語 弘 の 辺 に つ い て こ れ を 正 業 と な し 、 諒 一 一 一 後 一 は こ れ が 扶 助 を な し て 、 益 々 ⋮ 締 法 弘通を墨んならしむるが故に、これを助業とする。君威は乗輿百宮これに蕗従することによって、益さぐの光輝を増 すが招く、正業は諸行が念伸を扶助することによって、愈々締法を紹墜する。正業に助業が従うことによって、報窓 の行犠はいよいよその 遂行しうるのであるから、行議開においては飴正がなければならないことにな る 。 か か 切 の 役 務 営 の 灘 間 殺 を 称 名 に よ っ て 綜名中心 奇〉 な ら な い 。
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さてしから話、由正の方式をもって、出活後の報恩行としての実読を説くことには、 いかなる意味があるのであろう か。思うに報開路行の意義が、もっとも完全に、且つ明確に示されているもむは、伺と去っても正業たる弥名である。 そして綜名、が報暴行となる明白については、吉来より上讃併繍・ の惑があるからだと去われてい ヲ伊 丸一掃 才、はまことに、もっともなる解明と云わねばならない。上讃傍徳とは称名が悌徳讃膜をすることになるという意味で、 このことは、称名が讃嘆門中の略讃であるに徴しても、無理なく理解せられる。感極まって言語を絶し、ただその名 を呼ぶことが、讃嘆の究極であることは、常にわれわれの経験するところである。親鷺聖人が﹃尊号真像銘文﹄に 称悌六字といふは、南無阿弥陀悌の六字をとなえるなり、即嘆悌といふは、すなはち南無阿弥陀悌をとなふる は、ほめたてまつることになるなり。 というている通りである。下化衆生とは現生十益中に説かれる常行大悲に相当するのであって、これは傍名を称する ことが、悌の大悲を十万に伝えることになるという意味である。真実に悌恩を感戴し、称名もろともの生活をする人 の行為室見聞するとき、白から他のひとびとをして悌の大悲に目ざめしむることになることは、疑うことは出来ぬ。 聖人が﹃和讃﹄に 無断無悌のこの身にて まことのこころはなけれども 弥陀廻向の御名なれば 功徳は十万にみちたまふ と 云 い 染香人のその身には 香気あるが如くなり これをすなはち名づけてぞ 香光荘厳とまふすなる と歌うていられるのは、この風光であると考えられる。而して梯徳讃嘆と常行大悲とは、相即の関係にあるものであ って、梯徳を讃嘆することによって、大悲を行ずることが出来るのであり、大悲を行ずることによって、伸徳を讃嘆 することが出来るのである。 かくて報恩行としての称名には、悌徳讃嘆と常行大悲とのこつの意味があるが、この称名が中心となって、信後の 浄土真宗の実践論 七
浄土真宗の実践論 A 報恩行為一切を統摂して行くものとするのが、弘願助正説の主張である。換言すれば、報恩行としての称名のもっと ころのこつの意味によって、念梯者の生活一切は意義づけられることになる。即ち念梯者の生活に、若し人の非難を 招くが如きことある場合は、宛も暗夜に明玉を投ずるが如く、念悌そのものに誹疑を受け、悌法弘通に大害あること になる。これに反して、世出世の助業をかつて行為をつつしみ、生活をたしなむときは、それが白から念出怖を荘厳す ることになり、梯法弘通は期せずして成ることになる。念悌者が世出世にわたり、その生活をつつしむことは、 そ オも がそのまま、上は伸徳を讃嘆し、下は衆生に大悲を伝えることになる。ざれば助正を報思行とすることは、世出世の 益百を称名もろともにいそしむことであって、その目的は偏えに念悌一法を十方に流布し、大悲伝化に励むにある。報 恩行の意義は称名のもっところの梯徳讃嘆と常行大悲につきているというべきである。 回 品 圃 J
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自 然 法 爾 の 行 為 道徳的実践は人間理性の力を認め、それによって行為するものである。しかるに真宗信仰の立場は、人聞は逆誘の 死骸であり、智慧の目盲い行業の足なえたる曽無一善の凡夫であるから、理性の力は全く認める余地はない。そこで は人聞に於ける理性は有即無である。従って っ 自 ら な す ま ま が 、 おのずからなさしめられている﹂と云わねばなら: 、 。
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石泉の如く王正行をとる時は非相発説となる。それは何故なりやというに、凡そ衆庄の身口意三業の中、傍廻向の名号が相発せるものとして何人にも異論のないものは信心と称名とであって、その他 の行業については、名号の相発せるものなりや否やは学者によって大いに異議がある。何となれば名号は衆生の信心 となり、称名となるように、法蔵菩薩によってすでに選択摂取されたものであるから、信心と称名とが名号の相発な る こ と は 疑 う べ く も な い が 、 その他の三業はこの問題に対して確固たる論理を欠くからである。石泉は報恩行をもっ て五正行となし、傍廻向法たる名号の相発せるものは、正定業たる称名のみにして、他の行業はすべて名号の相発に あらずとなし、これに対し、大濡は報思行を五念門となし、信後の行業はすべて名号の相発せるものであり、三業行 はすべて一心顕現のものとするのである。古来、前者を五念非相発説と呼び、後者を五念相発説とよばれている。 以上の相発・非相発説によると、大瀧の立場は報恩行のすべてを﹁みずからなしつつ、なさしめられている﹂とい う真宗独自の特殊性をよく示しているようであるが、石泉の立場は称名以外の三業行を非相発とするのであるから、 それが充分に顕されていないように見うけられる。この点は、石泉一派の学者は如何に考えていたのであろうか。石 泉学派に属する義山の如きは、この点につき、 五念は相発でないが、信心に催されてなされるものと説明している。 あたかも酒を飲めば歌い且つ舞うけれども、この歌舞は酒に催されて行われるものであって、酒そのものが出るので はない。五念行も亦然りであって、名号そのものが相発するにあらずして、信心に催されて行われるものであると説 明している。されば石泉においても、大棋と意味は異るけれども、 ﹁ 自 ら な し つ つ なさしめられている﹂という、 真 宗 報 恩 行 の 特 殊 性 が 、 よく示されていると思われる。 さ て 大 講 の 相 発 説 は 、 業行をすべて名号相発とするのであるから、 そこには全く自力の計度をいれる余地はな い。これは同師が三業帰命説を説破する立場より、当然の結果として、導き出された用意周到なる学説であるという こ と が 出 来 る 。 しかしながら、不惜身命でなさねばならぬ報思行を、兎角、名号の相発にさしまかせて、報思行の積 券土真宗の実践論 九
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縦牲を晃失うという欠点がなきにしもあらずと批評することは、強、ゆり無理でないであろう。これに対するとお泉の非 相発説は報愚行の積極牲を充分に発揮しているということが出来る。 部 州 ち 啓 名 を も っ て 名 号 棺 発 と す る こ と に よ っ て、称名正出掛説に聾することを排すると共に、その他の三業行については、それを非相発とすることによって、報思 符としての嶺極性、を明らかに、またそれそ信心によって催されてなされるものとすることによって、真宗報慰行とし て い な い と と が 出 来 日 令 。 (1) つ も へ JL i 耳 品 々 1 3 ユ 耳 し て で い る こ テ ﹂ L L ぃ 。 こ の を 発 展 ぜ し め て 、 持っている課題に、阿等かの解答を与えたいと患うのが、筆者の念顕である。歎異紗解読の一
二の問題
瓜
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真京学は組織神学の形式をもっところ し て の 援 命 が あ る と 回 思 考 し て い る 。 然 し そ の 棋 命 安 楽 、 す 上 に 従 来 の 捺 学を無視してはならぬと患う。従来の宗学誌大体に於て註釈学としてその大部分の使命が架されて来たと思う。黙し 近時、親鷺堅人の思想念究鵠して行く上に、従来の註釈学としての、 正 し き 理 解な謬る傾向がある。ぞ γ﹂ で い ま を 設 り あ げ て の 問 題 を 考 え >、
V 0 護 教 の 理 解 の 上 に 心 縛 ベ き 要 点 辻 、 に蓮如上人が吋御一代謡番﹄に 聖教は句閣の知く心持べし、その上にて 附松口業はあるべきなり 習 に 、 府 さ れ た 郭 く 、 付 ﹁ 句 麗 の 却 く 心 得 る ﹂ と い う こ と と 件 と 点 が 大 切 で あ る 。 蔀 の 如 く と こ ろ う る い と は 、 法認の交友に心捧ると とであり﹁師伝口業﹂とは、その匂磁の心得 方 に 於 け る 京 謹 の 語 講 で あ ろ う 。 歎 田 持 妙 解 説 の 二 制 問 緩歎 呉 紗 解 読 の 一 一 一 問 題
一、句面と
口
伝
句面の如く心得るということに就て、私は真宗聖教、特に宗祖の撰述及び列祖の撰述は漢和の聖教の全体が何れも その時代の国語による和語の聖教と私は心得ているのである。ただ漢語を多く用いられているか和語による延書であ るかの相違あるのみである。従って和語の聖教は言う迄もなく、 一般に漢字聖教と言われているものまで全て、その 撰述の時代に用いられた国語の約束の下に撰述せられである。従って宗祖及び列祖の撰述を心得る為には近古の国語 に対する基礎知識をもたねばならぬと思う。国字聖教であるから誰にでも文意は知られると軽く扱って基礎的な国語 の知識を欠くときは思わざる誤読をする結果を将来すると思う。 例えば真宗本願寺派の宗学史の上に於て三業帰命の異安心が唱えられて、三業惑乱の名に於て当時の治安の上の法 律問題となって、江戸に於て社寺奉行の裁きをうけたことはあまりにも有名な出来事である。此の三業帰命の異安心 にしても、その問題を集約して窺うと蓮師の御文章に於ける﹁たすけたまへとたのむ﹂の用語に対する理解の誤謬に 起 因 す る と 言 え る 。 一体﹁たすけたまへ﹂という用語は蓮如上人の当時に於ては一般に﹁どうぞお助け下さいませ﹂という請求を意味 する言葉としても用いられていたことは、鎮西派の宗義の要諦を﹁心に助け給えと思うて口に南無阿弥陀悌と称うる 所謂﹁心存助給口称南無﹂の旗色のもとに、宗載を顕彰し、西山派に於ても﹁助け給へと思うて本願をたのむ﹂こと をもって宗義としていたのである。此の場合の﹁たすけ給へ﹂の用語法は請求を意味する言葉であった。この他派に 用いられていた﹁助け給へ﹂の用語を転用して﹁助け給へ﹂とは﹁たすけまします﹂或は﹁御助け候へ﹂という意味 と転用して浄土真宗の安心の信相を示すものとして門徒に教化せられたのが蓮如上人である。故に﹁たすけたまへと弥陀をたのむ﹂ということは﹁たすけましませとたのむ﹂﹁御助け候へとたのむ﹂と同意語として、依用せられたの き 息 吹 き を 施 し て 、 が蓮師である。此処に蓮如上人の転用の妙手があるのであって、言いかえると﹁たすけたまへ﹂の一般用語に新らし ﹁たのむということは代々あ 真宗安心を宣布せられた処に蓮如上人の中興の功績がある。 故 そばしおかれ候へとも委く何とたのめということを知らざりき然れば前々住上人の御代に︵蓮如上人の乙と︶御文を御 作り候て雑行をすてて後生たすけたまへと一心に弥陀をたのめと明らかに知らせられ候しかれば御再興の上人にてま し ま す も の な り ﹂ ︵ ﹃ 聞 書 ﹄ 一 八 八 条 ︶ と 上 人 の 勲 功 を 讃 え ら れ て あ る 。 然るに此の﹁たすけ給へ﹂は本来請求の義なりとのみ心得えて蓮如上人の転用の妙手、 いわゆる師伝口業を心得ざ りし所に三業帰命の異安心を主張するにいたったのである。されば﹁たすけたまへ﹂の宗学的研究に於ても、此の言 葉にはけ請求問命令目許可の三義ありとして蓮師の宝章八十通の﹁たすけたまへ﹂は﹁許可の義しである。 ﹁ 請 求 の 義﹂にあらずと論証されて来たのが、江戸時代以来の宗学である。然しかかる宗学的研究が今日に於ても一般国語学 界に是認せらるるかということに就ては更に再吟味せらるべき問題があると思う。 ︵ 註 一 ︶ かかる例は蓮師の﹃安心決定紗﹄依用の態度の上にも窺われると思う。 一体﹃安心決定紗﹄は謎の聖教であるが蓮 師はこれを依用し﹃聞書﹄二四九条には﹁四十余年の間御覧じ候へども御覧じあかぬ﹂と云ひ﹃同﹄二五
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条には ﹁当流の義は安心決定紗の義いよいよ肝要なり﹂と述べ﹃帖外宝章﹄には﹁当流安心のおもむき安心決定紗よくよく 拝見すベし﹂と讃美せられてあるが、更に叶聞書﹄第九条には﹃紗﹄に﹁他力の願行をひさしく身にたもち乍らよし なき自力の執心にほだされてむなしく流転の故郷にかえらんこと云々﹂ とある文を﹁ききわけてえ信ぜぬもののこと なり﹂と、心得うべき旨を指示せられ、叉﹁正覚の一念﹂とある﹃紗﹄の言葉を﹁如来のおたすけを信ずる一念﹂と 心得ベき旨左﹃帖外宝章﹄第九十三条に指示せられてある。 ﹃紗﹄の文面から見ると ﹁他力の願行をひさしく身に 歎異紗解読の一二問題歎 異 紗 解 説 の 一 一 一 問 題 四 た も つ 云 々 ﹂ の句は﹁衆生は生れ乍らにしてすでに他力の願行を具有している存在である﹂という意味の表現とうけ とられ、生悌一如の理をあらわす言葉の様であり、更にまた﹁正覚の一念﹂という言葉も﹁往生正覚同時倶時成就の 初一の念時﹂を意味する様である。 かくの如く﹃紗﹄を理解する場合には﹁当流安心の趣﹂を的示せられた聖教とい うことは出来ないので、このお言葉は、前者は﹁聞きわけて信ぜぬ﹂分際を示すもの後者は﹁信一念﹂を示す文と心 得る時﹃紗﹄が初めて浄土真宗の他力安心の旨趣を示す聖教となる旨在指示せられたものであろう。乙れ蓮師の指南 であり口業による師伝である。此の師伝口業を省察せずして、 ただ﹁紗﹄の句面の表面のみを心得る時には十劫安心 の異安心となる。されば蓮師も、﹁十劫の昔に我等の往生をすでに成じ給ひしことをしりたりとも他力安心をかと決定 なくば往生は不定である﹂と誠められてある。 二 、 真 宗 聖 教 と 国 語 真宗聖教撰述の時代は国語史の時代区分に従うと近古の国語に属する。近古とは院政時代から織田、豊田の時代に いたる聞である。近古の国語は大体に於て文語体より口語体え転換する過渡期であって、日本文法史の上に於ても中 古︵平安朝時代︶の国語文法が乱れて近代に遷って行く時代である。平安朝時代即ち中古の国語の風から近代︵徳川 時代︶の国語に変遷する中間期に属する。従って近古の国語に対する知識を欠く時は真宗聖教を匂面の如く理解する ことは出来ない 江 戸 時 代 の 真 宗 宗 学 者 の 中 に 於 て 此 の 点 に 深 い 関 心 を 払 う て ﹃ 真 宗 聖 教 和 語 説 ﹄ ︵ ﹃ 真 宗 聖 教 の 国 語 学 的 研 究 ﹄ ︶ を 著 わ されたのは、小浜の妙源寺の東条義門師である。 しかし義門師以前に於ける宗学者の多くは漢文には堪能でおられた が、国語学に対する知識は皆無とも言うべき状態であった G それは当時に於ては一般国語学がなかったからである。
そのことは﹁探り結び﹂の問題に就い の鳳滋が、親驚聖人の現段利益和讃第十首宏採りあげて 南無関昨陀併殺とのうれば 地 化 天 の 大 踏 王 「 ま 釈 こ 、 も 翻 そ、ら 主幹 」 ん 尼 の と 悌 係 こ 、 の りそ、 ' J-乙 ニ り 「 か へ し 、 ひ に し、て 会〉、 の 結 び いて開惑なもち、この採り結び いであると誘離の鐸を聖人に与えた の のであゐ。実詰これは間違いでも伺でもないのである 鳳揮は♂﹂そいの採りは と結ぶものであるという ことのみを心得て語って﹁こそ﹂に﹁しかいの結びのあることそしらなかったのである。この無知は鳳灘のみでなく真 京学も爵様であっ そこでこれは い h 勺 ノ の この﹁しか﹂の問題をとり あ 庁 て 論 難 し て な が 為 に 立 制 字 篇 い 吋 然 字 義 ﹂ 辺 倒 字 義 補 欠 己 ﹁ 胎 灘 鷺 ﹄ という六簡の著述が務わされたほど である。黙しその内容合見ると今日では隣組に て い る 。 鳳 逗 ・ −法線等は仰れも当時に
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ft あったのセあらが漢文には犠誌であられた は 当 時 の 殺常識の範囲念出な かったので﹁こそ﹂の諮りに﹁しか﹂の結びを存知せられなかった Q そ こ この和議の﹁しか﹂は﹁採り﹂ の﹁しかいでなくして喜撰法師の歌にある わが庵はみやこのたつみしかぞすむ ょをうぢ出と人はいふなり の﹁しか﹂であって ﹁ 然 り i﹂ の で あ て い あ る 。 以上のことは江戸中期に訟ては国語学は成立し 一般知識を所苓することの出来な 教 組 持 品 貯 解 読 の 一 ニ 回 開 慾 一 五歎異紗解説の一二問題 一 六 かった時代であることを物語るものである。ここに、義門師が聖教の語意をくわしく弁ぜん為には本居宜長・本居春 延等により当時勃興した国語学の知識の必要なることを力説せられたのである。而して自ら此の道の啓拓者となられ た。義門師逝いて今日まですでに百二十余年をすぎたのであるが真宗学にたづさわるものが、今日も尚義門師の学功 に深く耳を傾けようとしないことは深く反省すやへきであろうと思う。そこでいま﹃歎異紗﹄の解読に就て一、二の問 題を提起して真宗聖教の解読の上に問題のあることを述べて見たいと思う。 三 、 歎 具 妙 を 題 材 と し て 聖教の理解の上に付句面の如く口口伝の如くという両者が相備わることによって初めて真宗聖教の解読が充全する のであることは、すでにのベた通りである。然るに什句面の問題も口口伝の問題に就いても、両者に対する考慮が払 われていない為に親驚聖人の思想信仰が誤って紹介せられているてこの例を特に歎呉妙に求めて明らかにして見た い と 思 う 。 ︵ ζ の問題は真宗聖教全般に及ぶ問題であるが、紙面と発表の時間の制約があるので﹃歎異紗﹄第二阜、第二章のみを 題材としたのである︶ 先づ第一に﹃歎具紗﹄第一章の結語の﹁しかれば、本願を信ぜんには他の善も要にあらず:::﹂とある﹁信ぜんに は﹂の問題を論じて見たい。 まず多屋頼俊師の﹃歎異紗新註﹄を播とくとき、この文を﹁それゆえ、阿弥陀悌の本願を信じまするならば、他の 如何なる﹁善﹂も必要でありませぬ:::﹂と意訳せられている。また﹁信ぜんには﹂の語釈に就いても﹁信ずるであ ろうに於ては﹂﹁信ずるならば﹂と施こされている。次に本願寺派﹁意訳聖教﹄には﹁弥陀の本願を信ずる以外には﹂ となってある。この意訳は果して正しいのであろうか。この事に就ては嘗て私は疑問を持っていたので、印度学悌教
に於て、悶文法の上から、こ ょ う 告 に は ﹂ すべきで﹁信ずる ﹁ 本 願 を 諮 ぜ ん 信 に は ﹂ ﹁ 同 一 怖 じ た 持 に じ は ﹂ と い う 議 体 内 に 理 解 す ベ て 今 日 ま で ︷ 反 対 傍 露 見 を 開 い て い な い の で あ る が き で 以外にはいと理解すべきでなく立信じ に は ﹂ ろ う か と い う 凝 問 を 提 出 し て お い た の で あ る 。 ︿ 絞 ニ ﹀ 求 人 に 対 し の上から私はかく晃るの と今日も尚議様して いるのである。向者 ﹁信じまするならば﹂或はっ信ずるならば﹂措じたならばと意訳するこ な る 。 ん に は い えでも意味を伝える上に支障がな 七 、 七 、 とが可能であれば、こ に も ど し て ることは車教な改訂することになるので許さるべ に ﹃ 歎 巣 軌 跡 い : 、 。 ふ マ j し ﹁ 今 訓 練 者 ハ は ︶ 無 毒 の 一 環 な り : : : 罪 悪 も 業 報 を 惑 ず る こ 諸善も及ぶことな き L-た る 文 京 、 と 々 の 歎 巽 鈴 第 一 ﹁本闘を信ぜんには飽の善も要にあらず:::悪をもおそるべからず﹂と 従 っ て 第 一 に つ い たところに問題があるので の た す け さ 様に思う議 し、 の法を高く揚げられた一議 の総論的役揺をするもの、識は本興に於ける縁障にも相当するものという評価の 此 娃 に 本 文 の いう結果が出て来るように思う Q ぅ 。 従 っ て 従 来 誌 の 第 一 仕 方 は 本 文 を 母 一 般 の 如 く 、 心 持 た 校 方 で は な い で ん た め 繰り法一議と漬戴することが本文に対する患突な理解であろ 議如上人が の如く心持ベし﹂と言われた態障は和語の聖教の和請を正しく理解することを意味せ こ﹀ 1 ノ 争 J 、 耳 、 〆 h v 私 泣 の 部 訓 十 章 中 、 劫 約 九 章 は 全 て とすれば第十意が縁切前九章は麗句であると見るの 歎 制 問 診 解 説 の 一 防 護霊 縁の法話集と心得ているのである。もし十章全体に科段を施す 思 う 。 議一躍の法話とすれば其処に 七
歎 田 宍 紗 解 読 の 一 一 一 問 題 A 者という対機が予想せらるる、能請に対する所答を編輯せられたのが﹁故親驚聖人の御物語の趣、耳の底に留まると ころ、脚かこれを註︵しる︶す﹂とある歎異紗の師訓十章等であろう。 かくて師訓十章を眺むる時、能請と所答との 全相が明らかに綴られているのは第二章と第九章のみであるが、その他の八章に於ても仔細に点検する時所答の文章 の背後に能請の相が初棉として理解せらるるのである。 思うに﹁歎異紗﹄の研究に一生の心血を濃いで後世にその影響を与えたのは、三河の了祥師の﹃歎異紗聞記﹄であ ろう。師が此の第一章の﹁本願を信ぜんには﹂の問題を如何に説示せられているかを参考の為に播くと﹁善もほしく ない、悪もおそろしくない唯念僻して暮す無疑無慮のすがた﹂を示すものと釈されてある。此の釈は、 つまり﹁本願 を信じた念併者は善もほしくない悪もおそろしくない無碍道を歩む﹂ことを示す文と見られているのである。この了 祥師の見方が今日まで伝承されて意訳の上に於ても﹁信ずるならば﹂ ﹁信ずる以外には﹂という意訳がなされたので な か ろ う か 。 かくの如く 右の了祥師の説が権輿となって、そのまま今日にいたるまで依用せられていることは、国語学の研究が長足の進歩 を 来 し 国語に対する一般常識の水準が江戸時代と比較にならない今日に於ては潔く訂正せらるべきであろうと思 h 円 ノ 。 困に近時発行の英訳を見るとアメリカ悌教会の英訳歎異紗には
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ルのいう﹁賭け事﹂の如き信心であり或は二者選一の如き信仰であるという風に理解せら れている。林田茂雄民も﹁念併を信じられんと信じた﹂矛盾の統一の形式をもっ信心こそ聖人の﹁たくましい﹂信仰 歎異紗解説の一二問題 九歎 出 費 紗 解 説 の ⋮ 一 一 問 題
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の 生 一 携 わ た く し の 定 む る と こ ろ と \/、 れたものであるとし 筑間掌の条下に は﹁機のよしあしきに呂をかけて往生の鐸不敬熔むべからず﹂という悶を開明らかに のと釈されている。比 の 吋 執 持 鈴 ﹂ の指南に従うとき﹁総じてもて存知せざるなりいということは 招来の選択 あるからその念体を機の計いの上に降して地球 浄土の国と沙汰し議定すべきものでない旨を示された も の と い う に あ る 。 つまり如来によって選定せられた念帥仰をば磯のよしあしの沙汰の胤内で論ずべきものでない。機 のする善惑の沙汰の限りでな 従って磯の沙汰に掛けて裁定するこヨとはしない。また念換は我等の計変出来るとこ ろマないという悶備な適切に表明せられたものに外ならぬとするのである。 議し援人の信心は本裁の倍知の外ない、本願の法の譲綿の借マある。従って鰭け離婚の如き信でもなく一一者選一の知 き告でもない ο 法そ受頴し 此 処 の鮮明に長ける﹁師伝口業﹂の釈成が如向に大同別であるかを知る こ と が 出 来 る 。 此 の 点 に 慰 問 し て アメリカ梯教会発符では︵ 同 ︶ 同 色 。 回 。 門
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伝絵の一行者吉報の四句の文は現に吉くより蓮々一問題として論争せられて来たものであるが、高司専修寺蔵の真酔書 写の経釈文懇書の中にこの四句文の親驚夢記のある事が紹介せられ、忌絵の問問匂文を持つ披記とは全く麗警にいう親 の る ザ コ . , . .、
.. にしているに皮し は年時 〈〉 そ か 。 ︿ 第 一 疑 問 ﹀ 原本親鷺夢記が存在すれば、京担内室恵夜話は諮らく之を承知してい あ る が 、 思 信 用 消 患 に 捻 宗 祖 の 中 山 口 水 入 室 一 の時の大子一不読の事と宗祖の観音の佑身の事のみを記して、この行者四匂の文の告命に就い七少しも議れていない。 口伝抄中町二に﹁驚題点入ノ欝本地ノ様ハ御ヌシニマフサンコト、ヲ ︵ 第 二 疑 問 ︶ 努 論 宗 祖 の 観 音 化 身 の 夢 想 に 説 い て 、 カ 身 ト シ テ 、 ハ 、 ヵ リ ア レ ハ マ フ シ イ タ ス ニ ヲ ヨ ハ ス ﹂ 云 云 し ﹂ あ っ て 宗担自身の事であるから、議議患にも明白 lこ 治、 て3 こ の 行 者 間 関 努 い て も 、 にせられなかったかも知れない。然し乍ら此の偶文が妻帯の根拠となる旧国文とすれば、恵信尼にとっても、宗祖自身にしても重要なる偏文であ る べ き も の で あ る か ら 、 口伝抄流に簡単に片附けらるべきものでない、等と云う問題が生ずる。然るに最近高田専修 寺に宗祖真筆の行者宿報の四句の備文が発見せられ、又紹介せられることとなり、 かかる疑門も単なる疑問に終る恰 好となったが、然しながら真筆の偏文があるにしても、猶且つ理解し難き点、即ち、宗祖の妻帯がこの偶文に基くと 云う説は如何様に理解すべきであろうかと云う疑問が残るのである。 よってこの四句の文並に親驚夢記を載せたる伝 絵の意趣に就いて愚見を陳べて見たいと思う。但し私考は僅か二三の史料に基いてなされたものであるから、誤謬も あるやも知れず、切に高湖の教示を仰ぐ次第である。
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一、議一四句偏文と経釈文聞書 宗 且 真智行者宿報四句の伺文は﹁高田学報﹂ 又経釈文聞書の親鷺夢記のこの帰文 宗 且 は昭和三十二年四月真伸上人七百回紀念として出されたる親驚夢記云の写真版によれば四行に記されている。真智偏 文に附せられたる片仮名文字は偏文の本文と墨色の濃淡が同一であるから、同一人の筆であると考えられる。之に対 四 六 号 の 写 真 版 に 依 れ ば 二 行 で あ り 、 して所謂聞書の夢記の偏文に附せられたる片仮名文字は濃き墨のものと、淡き墨の文字とが見え、殊に偏文左側に附 したる片仮名文字は本偶文の右側の淡墨の文字と同一のものと考えられ、然もそれは音読の片仮名文字である。この 音読の片仮名は偏文を音読する様になってから附せられたものであり、紹介せられるところに依れば、享保十四年に この親驚夢記が聞書から抜出されて別幅として表装せられ一般の拝観に供せられたと云うから、この頃︵円猷上人時代︶ の筆でないかと想像せられる。 行 者 宿 報 四 句 の 告 命 に 就 い て行 者 宿 報 四 句 の 告 命 に 就 い て こ の 一 読 一 一 偏 文 並 に 聞 書 親 驚 夢 記 の 備 文 を 坂 東 本 御 本 書 並 に 一 念 多 念 文 意 ︵ 謹 一 干 一 一 一 同 一 持 刊 ︶ に 記 さ れ た る 宗 祖 の 筆 跡 二 四 筆 法 に 対 比 す れ ば 、 左の如き異同を見るのである。 文
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りイ (甲) お の ー 東 さ| 念本 え 線 多 細 る の 念 押 全世文本 官 意 書 曹 ノ ,三ヲが 誼
し 筆 つ 跡 カ〉 竹 山 真 筆 偏 ︵ 芽 祖 才の!線がおさえずはね る 土の|線が横線下までの び な い 才が一筆にて続く いーに カ2 お さ え も は ね も し な 品を照とする bb の横線が横から上に は ね る い楽 と あ ペ コ て 筆 跡 見 え な (丙) 聞 書 偶 文 オの|線は甲と同じ 土 の 1 線が甲と同じ 才は甲に同じ ーは甲に同じ 品は甲に同じ Eb は甲に同じ 楽は乙に同じ この宗祖の筆跡に就いてはその典拠する場所を一々明記すべきであるが、煩雑をおそれてこれを略した。この対照 比較に当って特に注意を引くのは築の文字である。ω
と何即ち藍偏文並に聞書偏文が何れも楽と記すことで、これ は宗祖筆跡中には見えない運筆の文字であって、宗祖にあっては明白に築とし、極く略されたる文字で楽である。猶又 者 土 のl
線が横線の下まで のびている 生の文字も宗祖筆跡にてはノと一とを離すか、さもなければ筆宏真上より下してノと一を継やつけている︵之は叉法雲寺 宿 才は一とイとが切離れる 入出二門偏等に多く見られる。この二門偏そのものに就いては問題がある︶に対して一範偏文は横傾めから筆を運び成
ーがおさえるか上にはね る臨
品を明にする 能 bb の横線が何れも上か ら下におさえる 巣 幾 と 明 に か く ノ と 一 を 継 や つ け て い る 。この比較によっ る 事 は 先 づ 諒 一 一 矯 文 は 申 請 繁 一 郷 、 と 兵 る も の で あ る と 云 う こ と で あ り 、 叉 蹴 副 委 僑 文 は 議 祖 の筆跡と運筆が詞様であると一戸うことである。間警の親鷺夢剖そのものは宗祖の築法とも異る様に見受けられ、叉夢 れ る が 、 ⋮ ー 議 語 学 報 ﹂ 九 号 に 揚 げ ら れ た る 経 釈 文 関 森 田 最 初 の 一 葉 詩 号 に を誌較する時、同一 は考えられない織を揺くのマある。議って蓮華部経設の写真 壌の夢記は聞書から抜出したるもの が、或は此の持部人が宗祖の であると寸れば、写真 筆 法 ︵ 認 ⋮ ⋮ ω 品川同如︶を模額レて響直したるものマなかろうか。これは勿論僅か一 のであって、単なる懇像に過ぎ紅い。強し乍らこれは前述の如くこの夢簡の備文の片仮名の文字等も考祭しての事で 枚の然も写真安中心にして考えた ある。と 開審を拝糞していないから殊に教治安部ぎたいのである a
二、経釈文語書と親驚夢記
親鷺夢記を記せる経釈文部議は災機の警写せるもの 真 偽 が 正 一 一 議 二 年 一 ⋮ 一 月 八 日 ︵ 一 錯 綜 ︶ 入 寂 で あ る か ら 、 その手許にあった記鋭を書写せるものにて、頓序次第もなく盛田写せるものであると云わ−
C1u ‘ d 主 マ 必 司 以 神 的 宗 担 を 京 都 い る 2 然乍ら官同盟学報九号真鶴上人萌究に開銀として載せられたる経釈文国間蓄によれば、親驚夢詑の後に観泣音菩醸 住生浄土木縁経のニ文が次の如く れ て い る 。 観i
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聞警の記載順序からすれば、慢黙と手当り次錦ハたとえ宗祖 あったもの に し ろ ﹀ の で な く 、 で あ る か ら 、 ん が た め い て 経 名 の 畿管の誓願とも云うべき弥詑の議カに策ずれば安楽患に住ずとか、弥陀の名そ箆けば地獄変じて極楽となると を 明 か に せ る 経 文 を 記 し 、 ぷ て 夢 一 一 山 の 趣 融 会 部 か に せ ん あったと昆られるのである。即お観音の誓願闘は紳 名そ称し、緩楽に往生せし っ た の で あ り 、 従 っ て 夢 記 の 備 文 の 態 も 之 校 抑 制 か るものであったと去える で あ ろ う 。 若 し 然 り と す れ ば 、 む 如 き 次 第 腿 惑 に 寄 与 等 せ 那 辺 に あ っ た で あ ろ う か 。 の悌教は末法到来と一五う事を契機として新勢教は悌躍に毅志し、旧梯教は釈尊教団の本来の議に復舟せんと する機避に舟い、両者共に和閣の教主 る聖癒太子役再認識する していたのであ る。宗祖も太子欝紀を筆写し、 の 太 子 和 識 な 作 り 、 太 子 尊 川 協 の のべている 一 般 の 思 議 と 京拙の丹弟の の 意 の あ っ 云うまでもない。ざれば真欝が太子の本地である制官救宮菩薩の燭文で ある殺驚拶部を書写するのは仰の不思議もなかったのである。 て又高回の如来堂は善光寺の却系投融招せるもの で 、 ﹁ 専 修 中 山 ザ 史 婆 ﹂ 一 六 一 氏 に 京 判 相 撲 議 善 光 寺 に 詣 し 、 光 一 一 一 尊 の 鶴 来 な 得 て 笈 の 中 に 入 れ 、 自 ら 負 う て 滞 り 之 安 斎 毘 に て 之を高田専修守の箪創と の中に錦禽時代には善光寺鶴来の模 高田の抑来堂もその時代の影響そ受けて したであろ て い る 高田如来繋と善光寺の関係が判る。又宗祖に善光寺和讃のある事から、宗祖が太子と共に善光寺如来を尊崇し、宗祖が関東に移 行せられし時善光寺に参詣せられたであろうと云われている。されば高田如来堂が善光寺本尊を安置せる事から真傍 が夢記を書写せる意趣も略ぼ想像せられるであろう。即ち如来堂と関係深き観音救世菩薩の比口命であるからである。 これ強ち牽強附会の説であろうか。
三、伝絵と親鷺夢記
宗祖の伝記に於て注意を引くのは夢想の多い事である。夢組は信仰を描写するものであるから、ぞれがたとえ史実 あ る 。 と一致せなくても差支えなく、又却って多いのが当然の事であろう、今宗祖に関する夢想を便宜上記せば左の如くで 四 五 ~ノ
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七 r:r..~ 29ヰ 示 令 祖 康元二年二月九日 夢 典 拠 惣 日 時 太 子 示 現 ︵ 吉 水 入 室 ︶ 恵信尼消息 建仁元年 31 行者宿報四句文 経釈文問書、伝絵 建仁三年四月五日︵伝絵﹀ 元久二年四月より 同年間七月 33 善信改名夢告 御本書後序 恵信尼消息 口伝抄巻中 伝 絵 伝 絵 口伝抄巻中 正像末和讃 宗祖観音の佑身夢想 70 入西房の鑑察 仁治三年九月二十日 84 蓮位夢想 和讃﹁弥陀の本願信ずべし﹂ 四句の夢告 建長八年二月九日 85 此等の夢想の内、宗祖が直接感得せられたるものはて二、三、 七の凹夢想にして、その他は何れも第三者の門弟及 び内室の夢想である。伝絵は宗祖感得の夢想の内僅かに行者宿報の偶文の夢想を記しその他を略し、之に反して第三 行者宿報四句の告命に就いて 一 一 七行 者 約 制 縄 問 匂 の 北 口 命 に 就 い て 二 八 警の宗祖の高徳を称揚する蓮拭夢想と入高房鑑察の夢掛か︸記している。されば伝絵の夢鶴を記す慾趣誌穏徳讃揮にあ てフ 今行者閲匂の夢告は祖徳讃州知よりは宗祖自身に関する夢告であり、そ り、文伝絵製停の趣旨に裂くもの れそ如何なる叶態認を以て記載せられたのであろうか。既 る が 如 く の四侍の文を持てる筏記とは経釈文 間警にある親驚夢記を指すものであると一五うから、長総は伺の意によってこの夢記による議文な記したであろうか。 経 釈 文 樹 骨 骨 頚 驚 夢 記 今 一 郎 総 と 経 釈 す ︿ 艶 玄 関 と に 記 さ れ た る 毅 驚 拶 記 を 比 較 し げ に そ の 悶 の 差 異 な 示 せ ば 志 の 如 く で あ る 合 法 一 絵 ︵ 鶴 一 誠 一 号 機 ︶ 一 ム i 密字なし ︵ 裕 和 三 十 一 一 年 四 月 実 悌 七 百 四 紀 念 写 真 版 ︶ 端
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開: 告か 命?。 の審麟の皆趣そ宜説して一窃爵主にきかしむへしと 瀬持夢中にありなから榔堂の し み れ は 峨 々 た る 岳 山 尚 あ り そ の 高 V I︸ L ︶ノヘ の こ こ の 市 川 に あ っ し ザ ハ M L ︸ ソ水エテユメ争〆 覚 夢 組 出 了 おぼえて夢器をはりぬと云云 ︵ O は 私 に 階 す ︶ この荒療によって注意せられることは年持の有無であり、叉一語匂に於ても端設と端厳、僧と聖抽出、内日蓮と自蓮華、 数千万と数千万嬉の謹異である。域政江強口議の容議念表現する意であるから、論荘か端整か﹄識は端静とあるべき筈で ッ ・ 」舗 る 鴨川々 の 一 字 で 明 す こ と な く 、 るものであるから、自蓮華と熟するのが至当である。此の用問文は尽未来捺の有情に撤底せしめんと一式う警護の審顕で あ る か ら 、 かの捨勤菩薩の此土広現の年数を勘案すれば、有清の数も万で誌なくて億であるから、数千万患とするの が 正 し い 掛 様 で あ る 。 行 者 溶 報 鴻 匂 の 烏 口 命 に 就 い て ニ 九行 者 綾 部 線 路 勾 の 品 開 命 に 就 い て 長 一 絵 は こ の 夢 想 の 年 時 宏 本 願 寺 盟 人 長 絵 ︿ 策 本 ﹀ に は ﹁ 建 仁 一 一 率 一 で 信 聖 人 絵 ︿ 西 本 ︶ に は ﹁ 建 仁 三 年 一 一 ﹂ と 記 し 、 き で ム 人 法 絵 ︵ 官 問 本 ﹀ に 辻 ﹁ 建 仁 一 一 一 年 酔 ﹂ 、 普 然 も 一 一 一 本 共 に ﹁ 四 月 五 日 寅 持 ﹂ と 明 か に し て い る む に 対 し て 、 調 書 の 夢記には年持を記していない。よって従来この年時を中心として種々論議せられ、年時と干支の椙違から年持在主と ずるもの法子支の誤記となし、叉逆に干支を重視せるものは年時の誤となす有機にて今日に至った様である。調書の : 、 : 、 吋 晶 、 w v φ 山 川 、 U い る 。 の 後 綿 仰 ふ と 名 粂 り 、 か の ? な と あ り 、 いふっ お 改日斗善措ことあって、ぞれは替轄である 然もそ ハ 釈 締 空 ﹀ の 兎 久 一 一 年 四 月 十 西日から法然襲人真影附属ハ善指﹀の弱年欝七月二十九日の聞の事であり、従って少くとも善信の名は真影間属以後 であって然も宗撞詰晩年に至ってもこの善信の名を署しているから、善語は一房号にして、親驚は実名で忘ると考えら れ る c 伝 絵 に 議 官 民 結 聖 人 糊 伝 絵 ︿ 望 ﹀ と 題 す る の は 之 を 裏 書 す る も の で る ろ う 。 商して親驚は越後流罪後に用られた 名であったから、と 年濯して、この夢鰻は吉水時代のものであるとするの あ る ε 江 か ら で あ る 。 熱 る て い る G 以後でるって、もし鉱絵に記すが知く明こ にして、然も宗祖が議儲と名乗っていたとすれば、とれ は明かに法絵の年時を誤ったものとせねばならない。然し乍ら問書の夢認に義信とあったから、無雑作に記したと云 えばそれまでであるが 善信改名立能の建仁三年の夢告であるとする事が氷解し難い。 而して伝絵を弁護して云え ば、この夢告は建仁一一⋮皐の事柄であるが、議議の名は晩年まで用いられた名にして、宗祖を表はすに最も裂しい名で あ っ た か ら 、 の を た も の る る c こ の が あ っ
て 、 ぞ れ て い こ と と な っ た 。 ず コ たとすれ誌、憲宿店舗息に、将叉絵訟に記す議控夢組が口伝抄に記載せる如く、伝絵のこの夢想も惑は口訟抄に記載 せられて怒るべしと想像せられるが、それが口忌抄に少しものべていない。設に原本夢記も想像に過ぎないのである。 担し問委の毅驚夢記そのものの原本はありうると考えられる。 黙れば法絵は持によっ 。或は伝絵作者の創作であったのか。之に就いては先づ環接法絵の そ の 構 成 議 機 そ 探 り 、 恨 の り るものであ り 、 従 っ て 長 絵 は 押 者 の 宗 祖 削 酬 で あ る る 。 こ の 夢 告 は 救 世 相 観 音 警 灘 長 絵 の 子の夢告であり、部ち如来の本願を弘宣することこそ観音勢至の誓顕であり、静名を専念することこそ太子設に法然 聖人の聖者の教悔であると云っている。さればこの一段は念伸こそ太子救堂鐘音の誓願なる由を表わすものであり、 宗祖が太子を翠拝せられるのも、この点にあったのである。太子の響額が念緯にありと去う惑は宗笹に於て辻悉有梯 一乗を審顕一掛乗なりと鮮し、措拡に覧如上人に於ては﹁出世元意﹂に釈尊詞時の税法なるが敢に法率一乗と 総 て い ら れ る の に 掠 っ て iま のたまはく L て い る の も 、 の 根 粋 で あ り 、 隣 教 弘 通 の 本 意 は 念 併 に あ っ た わ で あ り 、 そ の 太 子 の 本 地 教 世 相 慨 音 菩 躍 胞 の 響 麟 守 中 め る れ た も の で あ る 。 長 絵 ︵ 京 本 ︶ 誌 と の 一 段 の 次 に 蓮 位 夢 想 を 記 し 、 位 の 二 本 ︵ 高 本 ・ 西 本 ︶ は 蓮 在 夢 想 な く 、 直 に 選 択 集 荷 震 の 一 段 、 を 記 している。この蓮控夢想は後年に至って詫揺されたものであるが、増揺叉試制棋の意があったに拘らず、 こ の 一 設 が 行 者 領 側 報 殴 勾 の 鈴 命 に 就 い
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行者宿報四句の告命に就いて 後年訂正せられし時も之を記し、三本ともにこれを記している事は作者にとって必要かくべからざる一段であった事 を物語るものであり、それは前述の趣旨に基くものであったと考えられる。伝絵の最初のものと考えられる二本︵高・ 商︶がこの一段に次いで選択附属真影図画の一段を記すその次第順序を考えれば、この一段に於て救世観音の誓願は 念併にあり、その念併の本義を明示せる選訳集を附属せられると云う義趣である。吉水の念併が専修念併にして、それ が観音の誓顕であり、元祖は勢至菩薩の化身であると云うから、念併は全く弥陀、観音、勢至の浄土の三尊の意を受 け た る も の で あ り 、 これこそ観音の重跡聖徳太子の本意であると云う意向を明かにせるものである。叉当時吉水の念 併をば非梯教なりと盛に非難妨害せる聖道門旧悌教に対して浄土門吉水念伸こそ真の悌教であり、真の悌意を明確に せるものと云う立場を示すものである。 かく吉水の念僻︵即ち宗租の本願念悌︶が太子の誓顕である事を明かにせる ものとすれば、その念併を明かに宣ベる選択集を宗祖が附属せられる以前にその趣をのべるのが至当であり、之を選 知山集附属以後に記しては所謂観音夢告の意を失うのである。 よって作者は選択集附属以前、建仁三年の事柄として、年 時を示したものと考えられる。然れば建仁三年の年時は作者の意によって記されたものとなるが、経釈文聞書の夢記 に年時が記されてないから、既に此一段の夢告が伺年の事柄であったか全く不明であったとも見られるのに、伝絵に 年時明記するのは作者の独断行為であると難ぜられるのである。然し乍ら作者の意が前述の如くであれば、 かく建仁 三年の事柄と明記せざるを得なかったもので、そこに伝絵は単なる伝記でなくして信仰を表現するものであると云う 立場が見られるのであり、叉念悌が悌意を全的に示すものと云う作者の深き意趣そ理解せなければならんと考える。 翻ってこの年時記載が覚師の独断行為とすれば、当時高田の顕智或は専空等の有力なる門弟が存命中であって、然も 真悌の聞書の夢記に年時がない事から 叉当時高田に伝絵︵高本︶が伝承せられている事からこの作者の行為に対し て 何 等 か の 異 義 、 ︵例えばこれより後の事ではあるが、本願寺の両堂別立に対するが如き︶抗議がなされたかと考え