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真宗研究23号 017岸本謙一「親鸞教と精神医学の接点」

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Academic year: 2021

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安価に世襲的な寺の後継者になることを嫌い,

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年でその大学を退学

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,ホテ ノレや音楽喫茶のアルバイトをして各地を放浪した。 48年父が癌にかかり,切な る願に負けて自坊に帰ったが,声が冒く出ないので御経がつとめられないなど と僧侶拒否の合理化を無意識にはかる。 52年2月北越から積雪2米の下をくぐ り抜けて拙宅に診療を求めて来た。伝統的な寺院制度に疑問を持つのは進歩的 で良心的な僧侶であると却ってほめた。信巻の二河白道にある三定死の絶対絶 命の境地から仏の芦を体にきき,永年わだかまっていたものがやっと切れたと いう。目下念仏に沈潜しつつ,寺務に専念している。 この二例のように青年宗教家が却って神経症に陥り易いのは,むしろこれら の青年は普通人よりも仏の境位に近いためではないかと思っている。 文 献

{1) Binswanger, L.,Ausgewlilte Vortrlige und Aufslitze, A. Francke Ag. Verlag Bern, 1947.

(2) Boss, M., Psychoanalyse und Daseinsanalytik, Hans Huber, 1957.

{3) Frankl, V. E., Theorie und Therapie der Neurosen, Urban & Schwarzenberg, Wien, 1956.

(4) SartreJ.P., L’etre et le neant, 188. Gallimard, Paris, 1943.

(5) Heidegger, M., Sein und Zeit, 326, Max Niemeyer Verlag, Tiibingen, 1927.

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2. 幻視(黒い影が他人に入って行く〉 3.自殺企図3回 病歴:三人同胞の末弟,高校 2年(17歳〉の時下宿していた義理の伯父〔僧 侶〉に同性愛を迫られ逃け

γ

こ。余りのショックで胸が苦しくなり道にしゃんで しまった。宗門の偉い人に訴えると「それは業であって,自分に責任がある」 と言はれたが納得できなかった。その後は両親以外のものは親戚の者でも信頼 できくなった。受験予備校に入っている時に幻聴,幻視があり,テレパシーで 他人と話しができるとか,他人が接に見えたりした。自分の希望していない大 学に入ったが,下宿生活をしている叔父の家で,薬剤自殺を図った。 大学卒業後郷里に近い中都市の百貨店に勤務したが,そこの営業部長がこと ごとに責め立てると思って苦しんだ。そして26歳 。2年〉の正月に焼酎と薬剤 をのんで自殺を図った。ついで2月になって糧首自殺を図ったが足が地につい て死ねなかった。蘇った時に「生されている」とつくづく思った。 52年6月には会社を辞めて,父を手伝って寺務をしている。 51年の11月から 遠方から

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ヶ月か

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ヶ月に一回,拙宅に来診に来られ,自覚的精神療法を試み ている。歎異抄を繰り返し読み,書写している中に12章の「本願を信じ念仏を まをさば仏になる」が漸く体得できた。それは自殺から蘇生した時の「生かさ れている」という体験と結び付いてだんだんゆるぎなきものになって来た。 第二例,僧侶 24歳 診断:抑欝性反応 主症状: 1. 芦が旨く出ないので御経が読めない。 2. 不眠症。 3. 憂欝 病歴:四人同胞の大寺の長男で,父は積極的性格の人で希教使・保護司などや っている。 2, 3歳の頃よく「ひきつけ」を起した。小学校時代から気が弱く てよく泣いた。中学時代は成積も上り,性格も明るくなった。高校時代姉やそ の友人の影響で大宰治, ドストエフスキー,カミューなどの文学を耽読した。 昭和44年(17歳〉に某宗教大学に入ったが,自分の宗派のマンネリズムや, - 10ー

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ど),文学の底に流れているものであり,これらの分野において既にその実践と して精神療法の一部が行はれていたことが過去の文献を徴しても明白である。 この自覚的精神療法の実施方法においては,その前提として①来談者に一応 の病識があり,苦悩している自己を洞察しており,その苦悩は不明の奥深い原 因に根ざしていることを容認すること。②その不明の原因のうち比較的簡単で 容易に分る客観的な身体的,心理的,社会的,自然的原因の中で除き得るもの は先づそれを除くことである。しかし通常苦悩はもっと深い精神的次元に根ざ していることが多いのでこれらの療法を行っても苦悩はなおつづく。その場合 にこの自覚的精神療法がその役割を果さざるを得ないわけである。その場合来 談者〔患者〉が最も関心の持っている宗教,哲学,文学のエッセンスの盛られ ている経典,語録,論文,作品の短文を取り上げる。 (1)通常これを先づ 100回読んでもらう。意味の分らない語句は解説文を読 み,私も補足してすみずみまで分るようにする。(2)それを音読する。(3)それを 読む度ごとにそれに対するコメントを書きつける。(4)さらにその文の中で最も 深く感銘を受けた箇所を毛筆で 100回書く。(5)それでもこの文の真髄が体得さ れない時はその宗教に附随している「行」を並び行なってもらう(真宗では称 名念仏する。禅などでは逆に行が先行するであろう〉。 この文を容易に体得で きなくてもあせらず時節当来を待つ。 この方法で、その短文をマルチン, ブーパーの云うように「私一それ, Ich-ES」の関係でなく, 「私一汝, Ich-Du」の関係で把握されなくてはならな い。「私一汝」は「私一親様」, 「私一仏」ということで,初めて主体的主体性 が確立される。その結果としておのづから,主体性の確立の裏に客観的な身体 的,心理的,社会的,自然的効果がもたらされて来る。その間私は終始指導者 ではなく単なる同行であり,一個の隣人の役割を果しているに過ぎない。 (6)臨床例: 第一例,僧侶 26歳 診断:心因性精神病 主症状: 1.幻聴(テレピで、見たものが聴えて来る〉

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親驚聖人は教行信証の信の巻に「弥陀仏の本願を憶念ずれば自然即時に必定 に入るJと云い,証巻に「往相廻向の心行を獲れば即時に大乗正定棄の数に入 る」と云っている。同様のことが和讃,語録,手紙に多く述べられている。 この現生正定粟こそ正しく絶対現在の主体的主体性の精神的利益である。こ れはサルトル(Sartre1905-一〉が「存在と無」において時間性を時間性が存在 するのではなく対白(pour-soi)が存在することによって,自己を時開化する。 ……対自とは存在への現成として定義される」と云って現在に重点をおいてい るのに対比される。 これに対しハイデヅガー(Heidegger1889-1976)が「存在と時間」におい て時間性を「既在し現成化する到来 gewesend-gegenwartigendeZ ukunft」と 未来に重点をおいているのは滅度に対比できるのではないかと思う。 (4)親驚教と精神医学の接点:以上述べて来たように親驚教においては信 心を獲得すれば現在において,客観的な自然的,社会的,身体的,心理的な利 益が得らる。そればかりか絶対現在において現生正定棄と云う主体的な精神的 利益さえ得られると云うのである。 他方現代の精神医学においては身体的,心理的,社会的の治療は元よりのこ と最新の人間学的精神医学においては主体的な精神次元の解決が考えられてい る。そのーっとしてフランクノレにおいては身体一意識の次元から精神への世界 へ向う実存分析と,精神の次元から身体一意識の次元へ向うロゴテラピーが提 唱され,親驚教の往相廻向と還相廻向を想わしめられるものがある。兎に角客 観的な親驚教の現世利益と精神医学の身体療法,心理療法,社会療法の類似点 と主体的な現生正定棄と精神医学の精神療法による精神的次元への自覚という 類似点接点において両者の接点が考え得られる。 (5)自覚的精神療法という試案:私は精神病,神経症特に実存ノイローゼ には対して,慣用の身体療法(精神安定剤など〉,心理療法(心理分析など〕, 社会療法,自然、療法などの客観的療法を用いるだけでは充分でなく,是非主体 的な精神療法が必要であると思っている。 この主体的な精神療法の根本イデーは既存の文化宗教,哲学(実存哲学な 8

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4. 心理的利益:この心理的利益と云うのは客観的のものをさし,次に述べ る精神的利益が主体的のものであるのと対比している。しかしこの心理的利益 の中も単なる客観性のものと,主体的客観性のものと分って考えるべきであろ う。これを外的と内的と云う表現している人がし、る。 第一に単に客観性のものとしては現生十種の益の第一の冥衆護持の益と,現 世利益和讃の第五首の究王帝釈の護持,第六首の四天大王の護持,第七首の堅 牢地唱の護持,第八首の難陀,殿難大龍の護持,第九首の炎魔法王の護持,第 十首の他化天の大魔王の護持,第十一首の天神地植の護持,第十二首の悪鬼神 の恐れなどが考えられる。これは外的な仏教以外の神で,後に仏に取り入れら れたものの護持である。 これに対して第二に主体的客観性のものとしては現生十種の益の第二の至徳 具足の益,第三の転悪成善の益,第四の諸仏護念の益,第五の諸仏称讃の益, 第六の心光常護の益,第七の心多歓喜の益,第八の知恩報徳、の益,第九の常行 大悲の益が考えられ,又現世利益和讃の第十三首の観音,勢至の護念,第十四 首の阿弥陀仏の護念,第十五首の十方諸仏の護念が考えられる。これらは内的 な菩薩,諸仏,阿弥陀仏から護念せられた主体的な利益で、ある。 第三に現生十種の益の最後の入正定粟の益は,第二にあげた主体的客観性の 諸益の結論で,次項で述べる主体的主体性としての正定緊に入る関門で,心理 的利益から精神的利益へとの精神化(spiritualization)の役割を果す益であ る。 これらの客観性並に主体的客観生の心理的の利益は自然的,社会的,身体的 利益と異なり宗教のもたらす最も顕著な役割を果すものと考えられる。これは 精神分裂病を初め諸種の精神病の示めす抑欝性妄想(被害妄想,追跡妄想,関 係妄想,罪業妄想その他〉と正しく対極的位置に立つものである。 5. 精神的利益(現生正定緊〉 大経の十一願に掲げられている正定棄と滅度の現当の二益の中の前者の正定 緊が,現在の生のうちに得られるというのである。正定緊に入れば,未来必ず 滅度に入って成仏するというように不退転の位に定まっているのである。

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難,災難,雨水変異難,悪、風難,充陽難,悪賊難〉が除かれるとある。これら のうち客観的で社会的な災難や悪賊難が除かれると云うことはすぐ首肯できる のであるが,他の自然的な難が客観的にすぐ除き得るとは考え難い。これは客 観的主体性の立場に立って,これらの災難があっても主体的に受容して除かれ るということであろう。これは良寛が三条の地震の際に「災難に逢うときは逢 うがよろしく候」と書き送っているのと軌をーにしている。若しこれを純客観 的に考えると現世祈轄と選ぶところがなくなり, マルキシズム陣営から放っ 「宗教は阿片なり」と云う非難に応えられなくなる。 ぜんLん 白 この社会的利益に大経の東方備に世尊が念仏者を「善親友」と呼び,観経流 通文には「勝友」と叫んで‘下さるような精神化が行はれ主体的主体性のニァア ンスを持つ社会的利益さえ得られることになる。 3.身体的利益:信心の獲得の結果客観的な身体的利益として,現世利益和 讃の第一首に延命が,第四首に中夫が除かれることある。これは古代では親驚 聖人〔90歳〉,覚如上人(82歳〉,蓮如上人(85歳〉において,又現在でも曾我 量深師(96歳〉, 金子大栄師(96歳〉の長寿においてこれを明に見る。 しかし 清沢満之師は39歳12ヶ月と云う短命である。しかし若L氏にして信仰が確立し ていなかったらもっと短命であったであろうし, 「我が信念」にもあるように 自殺したかも知れないということが想像できる。しかしこの延命とか中夫が除 かれると云うのは客観的生命の長寿の裏に主体的生命としての精神的生命と云 うことをほんとうは云っているのであろう。 それは信巻において阿闇世王の獲信の時「番婆,我今未だ死せずして巳に天 身を得,短命を捨て,長命を得,無常身を捨て,常身を得」と云っていること で充分分る。 さらに信巻に十八願成就文を主体的に体得で、きたなら身心悦予の相を示すと 云っている。これは現生十種の益の直前に出ているので,両者は表裏一体をな こゅうなん しているのであろう。なお大経の三十三願による身心柔斬のことが信巻末九 五,真仏土六,真仏土三七に出ており,無量寿如来会にも同様な身心安楽のこ とが信巻末九六に出ている。

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とがあるが,その他教行信証を初め和讃,語録,消息の致るところにこの現世 利益のことが書かれている。但し現世利益そのものを目的とした現世祈掃は迷 信,邪教として化土巻末に引用された経論釈,外典の36文において徹底的に排 撃されているので,両者が混同されることはない。 その現世利益をどのように考え,これをどのように位置づけて,精神医学に おける療法と,どのように対比すべきかを考えて見たい。 親驚教は本来的に云えば,純粋主体性,主体的普遍妥当性,主体的時間・空 間,私一汝の常住対面の性格のものであるから,客観的な現世利益など考慮外 のことであろう。しかしその純粋主体性が体得され,信心が獲得されると,そ の結果として自然に現生正定棄と云う主体的な精神的利益は元よりのこと,客 観的な自然、的,社会的,身体的,心理的な利益が得られる。かくて現代の精神 医学との接点が得られることになる。 1. 自然的利益:私どもが金剛の信心が獲得された,その徳として客観的に こころ しゅんしゅん あらゆる情ある生類(有情,有情群類、,有情重量々)を救うことができると云 う。それは唯信紗文章、二,歎異抄五,口伝紗六,改邪紗六に出ている。 さらに有情だけではなく,非情としての草木国土までも悉皆成仏させると云 う主体的精神化が行われ「この如来微塵世界にみちみちてまします。即ち一切 翠生海の心にみちたまへるなり。草木国土ことごとくみな成仏す」と唯信紗文 意四に出ている。これは曾我量深は説教集五に法華経の草木国土悉皆成仏の世 界や,大経,小経の浄土の全体に仏性が満ちくているものと通ずると言ってい る。 2. 社会的利益:客観的には,信心を獲得した者たちは師と弟子とし、う関係 ではなく同行,同朋として真に和合した僧伽〔和合衆〉が形成される。これは 法事讃巻下,末燈抄十九,歎異抄六,改邪紗四,八,御文章一帖同第一通など に出ている。これに正しく反面的なのは親驚による善驚義絶の書簡に第十八願 を萎める花にたとえ捨てて,別の教団を立てたことを五逆罪の一つの破和合僧 の罪であると厳しく非難されていることで分る。 次に現世利益和讃の第一首に災難,第二首に七難(臼月失度難,星宿,失度

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にも来てもらいその後も,親交を重ねている。 この人間学的精神療法はその後ヨーロッパにおいてもアメリカに於ても逐次 喧伝されつつある。 我が国においてこの精神療法に当るものとしては森田正馬によって提唱され た所謂森田療法がある。これは我が国の精神医学界において東洋哲学に根拠を おいた唯一の独創的な学説である。彼はその主著「神経質の本態と療法」にお いてはその根拠は禅からいくらも得たものはないと云い,従来の信仰が虚偽で あることが多かったと云っている。そして彼は他の心理療法も身体療法も否定 している。しかし彼の療法の自然、服従というのは或は親驚の自然、法爾を思わし め,特に白隠の内観法を思わしめるものがある。 この人間学的精神医学における精神療法はハイデッガーの実存哲学にか,そ の先駆者のフッセノレの現象学にか,フッセルのもう一人の門下のシエラーの哲 学に根拠をおいている。 これをさらに遡るとテーゼとしても,アンチテーゼ、としてもキリスト教に根 拠をおいていると云わなければならない。 現代わが国においてこの実存哲学に対比できものは西田哲学,鈴木禅学など であろうが,その根源の

f

弗数には実に豊富な精神療法の源泉がある。そして事 実東洋においては,この仏教が久しきに亘って精神療法の実践を行って来たの である。これを無視しようとする態度は何と云っても我が国に流れる欧米化の みを正道とする偏見によると云わざるを得ない。 (3)親驚教と現世利益:親驚教の真髄をどう考えるべきか,素人の私には よく分らない。よく云われるように①一心帰命,②二種深信,③三願転入を体 得し,それによって弥陀から賜った金剛の信心が獲得されるところにあるとす る。 金剛の信心が獲得されると今までの客観の世界が九十度転廻され,主体の世 界に転入される。次には逆に主体性世界が体得されるとその結果おのずから客 観の世界に現世利益(現生利益〉が得られる。この現世利益について纏まった ものとして教行信証の信巻末の現生十種の益と浄土和讃の現世利益和讃十五首 4

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これはフロイド説の修正と考えて新フロイド派とし、う。 これと全く色彩を異にしたものとしてソヴィエトなどでパヴロフ(Pavlov 1849-1936)の条件反射学に基いて,マノレキシズムの社会的解釈と合した社会 病理説があって,社会調整を図ることによって治療を行っている。 4. 人間学的精神医学,これは最新に現われた精神的次元を基とした精神医 学であって,精神の次元に障碍があると云うか,精神が目覚めず眠っているた め,精神異常が起ると考える。従ってこの学派においては精神が目覚めること によって精神療法(Spiritualtherapy)が行われると考える。 これは前述のフロイドの心理分析(psychoanalyse,Psychoanalysis,これを 普通精神分析と訳されていることが多いが,前述の人間観の項で述べたように 心理は客観性のものであるので,心理分析とすべきであると思う〉と一見混同 して考えられているが,心理分析は客観療法であるのに対

L

,精神療法は主体 療法である。 初めにピンスワンゲノレ(Binsw叫 er1組 −1966)'によって,ハイデッガー の「存在と時間」に基いて現存在分析(Daseinsanalyse1947)として提唱され た。しかしこの現存在分析は精神療法説というよりも人間の現存在の変容とし ての精神病理説というものであった。 ついでボス(Boss1903一〉によって現存在分析論が, ハイデッガーの現存 在分析論に基いて,精神療法の実践として提唱された。しかし未だ充分に熟し ていない憾みがある。 さらにフランクル〔Frankl1905−)はシエラーの人間観に基礎をおいて, 身体一意識の次元から精神の次元に向う実存分析(Existenzanalyse)と, 精 神の次元から身体一意識の次元に向うロゴテラピー(Logotherapie,未だ適当 な訳語がなしうとが提唱された。これは正しく精神を真正面に取り出した精神 療法である。 この三人については筆者はヨーロッバにおいて直接逢い,色々と話し合っ た。特にボスとフランクルは名古屋にも来て講演をしてもらい,特にフランク ルに就ては乞はれるままにウインの大学で講演もし,彼の家にも訪れ,又拙宅

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るが,私は東洋哲学の教うる物心一如の人間観に立って考えたい。 そしてその「物」を客観性に立って客観ー主観の軸に排列する認識の世界の ものと考える。さらにこれを①自然、と②社会の対応の次元と,@身体と④意識 の対応の次元に分って,四次元を考えたい。 そしてこの四次元のものが互に影響し合う。そしてこれらの次元のものを自 然科学,社会科学,文化科学が,各々その対象として研究しているのである。 他方「心」を主体性に立って主体客体の軸に排列する実践の世界のものと 考える。 これが精神(Spirit,Geist)で芸術,道徳,宗教の取扱うものであ る。 そしてこの「物」と「心」とが一如として働いている。そして物が精神化し て心となり,心が物質化して物となる。 (2)現代の精神医学:さて現代の精神医学を烏撒的に一瞥して見ょう。 1. 身体的精神医学,グリージンゲノレ(Griesinger1817-1868)の唱えたも きLつ ので精神病はすべて脳髄の器質的変化によると云う脳髄病理学説をとるもので ある。その後クレペリン(Kraep巴lin1858-1926)による精神病はもっと広い が,何らかの身体的障碍によって起ると云う身体病因説がとなえられた。そし てその治療法は他の身体医学と同じように身体治療を行うことにある。欧米で も我が国でも長い間このクレペリンの流れをくんでし、た。 2. 心理的精神医学,これはフロイド(Freud1856-1939)によって大成さ れたもので,人間の精神異常は乳幼児時代に性意識を中心とした情緒障害があ って,これが無意識のコンプレックスとして深層に形成され,これに基いて後 年に発病すると云うのである。そしてその治療はこの無意識のコンプレックス を意識の世界にもち来たらせ,自己洞察することによって治療が完成するとい うのである。 3.社会的精神医学,これは精神異常は,家庭を初め諸種の社会が歪みにそ の原因があり,それが心理に影響して,これに因って発病すると云うのである。 アメリカのサリヴァン(Sullivan1892-1949)に端を発し, ホノレナイ, フ ロムなどがある。そして心理分析を根幹とした程々の社会療法を行っている。 - 2ー

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親驚教と精神医学の接点

(1)はじめに: 1.宗教の定義は純粋主体性,主体的普遍妥当性,主体的 時間・空間,私一汝(絶体者〉の常住対面であり,又その目的は人生問題の主 体的解決を図るものであると云い得られるのではないだろうかと思う。 これに反し科学は純粋客観性,客観的普遍妥当性,客観的時間,空間,客観 的真理の確立にあり,又その目的は人間問題の客観的解決を図るものであると 云い得られよう。 これでは両者は全く別の世界に属し,その橋渡しは不可能に見えるが,宗教 の世界において人生問題の解決を図ろうとする際,私一汝(絶対者〉の常住対 面によって信仰が確立されると,その結果自然に現世利益として客観界に良き 影響をもたらし科学界に入ることとなる。他方科学の世界において客観的真理 をもって人間問題の解決を図ろうとすると,科学技術となり,科学技術はさら に科学道となって実践に移されなければならない。例へば医学の場合であるな ら医学が医術となり,医術がさらに愛に基く医道となって宗教界に入り実践さ れなければならない。 そこで宗教の現世利益と科学の科学道とが二重にかさなり出合うこととな る。 2.さて宗教(親驚教)と科学(精神医学〕の出遇いを論ずる前に先づ人間 観に一瞥を与えておかないと,そのデザインが明確にならないおそれがある。 人間観としては従来一次元的なもの(自然人間,経済人間,工作人間,叡知 人間,宗教人間,その他多数〕, 二次元的のもの(身体, 意識の二次元,その いLき 他〕,三次元的のもの(身体, 意識, 精神の三次元,その他〕など実に無数あ - 1ー

参照

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