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真宗研究19号全

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員宗連合事舎研究紀要

一 一 第 十 九 輯 一 一

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第 十 九 輯

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真宗大谷派大阪教区教化セソタ!の理念と歩みーーー 池 武

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教行信証六冊本本文状態時期の上限と下限:

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||寛元五年尊蓮書写底本をもとめて|| i

第十八願における唯除の意味:;::::−

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||親驚における人間の研究︵一︶||!

国宝本﹁三帖和讃﹄

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真宗教団近代化の一考察:・::

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インド仏教における信公

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党文﹃無量寿経﹄におけるの一、二の問題・:

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||称名と一念に関して||

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近世に於げる越後長岡異法義始末記

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真宗に於ける秘事法門なるものは、所謂近世期に現出したかくし念仏・かくれ念仏・新後生の類同様、本願寺教団 から食出した特異な存在の一つであるとされ、古くから単なる無知な庶民大衆の迷信・邪教であると蔑視されて来て おり、それは教団の発展と共に其の生命を保って来ているのである。そして封建的権力体制の江戸時代に於ては、日 蓮宗の不受不施派・三烏派或は切支丹等と共に、反社会性の名のもとに官権と教権の迫害・弾圧は厳しいものがあっ 旬。然しそれにもか斗わらず、これ等は広く深く蔓延し本格的興隆に至り、其の実態の具体的全貌を数々表出して、 ① 数種の随筆文学等にも取り上げられる様になった。 所で此の様な秘事法門は、尚今日迄継承され、特に真宗地帯と云われる所に潜在的に分布しているのである。此の 事実に我々は驚きを感じると共に、日本民族宗教の源初的形態を新たに再認識させられる。と同時に、直接現代の社 会・人間に関っている問題でもあり、其の歴史的後付けが非常に大と云わざるをえない。こふに至って此の様な課題 は、今迄の研究の如く一真宗内の問題にとらわれず、もっと自由な広い立場から、其の秘事法門なるものを追求して 近 世 に 於 け る 越 後 長 岡 異 法 義 始 末 記

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近 世 に 於 け る 越 後 長 岡 異 法 義 始 末 記 ① 行かなければ、真の宗教史的・社会史的解明にはならないであろう。そして、こうした秘事法門を通して庶民の奥底 に秘めている精神構造の一端をも知るという事にも繋がるのである。 そこで此の様な問題を究明する一途として、今回取り上げようとするのは、寛政年間に越後長岡で異法義なるもの ① が発覚し、官権と教権の手によって処分された事件の始末記と、これが現代に継承された所の山伏が唱導する﹁御内 ③ ① 証﹂との関係の問題である。時恰相前後して、関西では﹁秘事法門﹂︵寛政九年︶が、九州では﹁新後生﹂︵寛政十一年︶ 等が露顕しているが、此の越後の異法義は意外に広い伝播力と長い息を保ち継け、宗教学的にも非常に特異な事象の 実態と教義内容を持っており、若干これについて考察を試みたい。 ① さて、寛政七年の事件の発覚と経過を先ず、本願寺側の﹃越後長岡異法義間取書﹄︵以下﹃関取書﹄と略称する︶の史 料で見てみると越後長岡に異法信仰が在るとの事で、藩では内検に及んでいたが、偶石内村の久太郎宅へ時々大勢参 集しているという事で、役人達は博奔の開帳と思い押し込んだ所、﹁本尊之様なる物を相掛銘々拝礼杯致﹂︵﹃関取書﹄︶ 忌 していたとい

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そこで一旦引き上げたが、不審に思い女房一人を駆落に仕立て潜入させ、異法義なる事を確認した 上で役人達が、稲葉村久次左衛門等四人の頭取と、善正寺門徒大嶋村九郎左衛門等二人を召し捕ったのである。そし て、柄吉村の善正寺住職が牢屋に出向いて、教訓目心をさせて一異法之書籍四・五冊三﹃関取書﹂一︶を差し出させた。 此の事件の発覚する以前の享保三年にも、同系統で﹁輪庵法義一と称して百人余が入牢しており、二十年程以前に も見付村妙覚寺旦那に此の法義に帰依する徒が有り、領主より同村禅家の知徳寺へ催破する様申し付けがあったとい う 事 で あ る 。

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此の様にして今回の事件は、張本人の飯柳村の市左衛門、頭取の稲葉村久次左衛門・源左衛門・与三右衛門・富嶋 村庄屋五郎兵衛等の中心人物を初め、長岡領だけでも百八十軒の多数者にのぼり、 一 応 ﹁ 僧 分 は 壱 人 も 無 御 座 候 ﹂ ︵﹃関取書﹄︶としている。こ斗に市左衛門を大頭取として頂点に置き、其の下に其々四人の頭取達︵ H H 普知識︶が従が ぃ、適当数の信者のグループの結社︵講形式︶を組織した構成様式が在ったと思われる。そして分布も広範囲に及び、 ① 各東西本願寺の末寺︵十八箇寺が史料上把握出来る︶の門徒が家や類族を媒介として加入して行ったのであり、⋮他天 領にも及んでいた。更に此の越後以外にも徒党が在り、 一 関 八 州 類 属 千 八 百 人 ユ 余 り 候 ﹂ ︵ ﹃ 関 取 書 ﹄ ︶ と 伝 え て い る 。 ﹂ ミ で 注 目 す べ き は 、 一つの秘事法門の特徴とも云える入信の勧誘が、縁者・友人・近所関係を辿って秘密裡に伝播 される所から、家包み・村包みという古い血縁的・地縁的共同体社会の集団組織に基いて現出した事が非常に顕著に 見られるのである o 所謂個人的な刷心というのではなく、家や村の通過儀礼という社会的規制を以て信仰集団に加入 ⑩ して行くのであろう。 然而次に、此の様な異法義の系譜について同じく﹃間取書﹄は、 飯柳村市左衛門不正義相伝り候本元ハ長岡領嶋峯と申処ニ輪庵と中医師捕蹴 U 問領先祖迄伝り候此起りは昔年高野 ︵ 立 カ ︶ 山万川邪義と ︵ 中 略 ︶ 天草之邪法と越前ユ弘り候秘事法門とを混雑仕候而相勧申候輩則寛文年中之義ニ御座候由 此邪義を輪庵先祖相承仕候故輸庵迄秘して伝へ申候処輪庵代ニ露顕仕候一ヨ一時 として、高野山立川流邪義に寛文年中天草の邪法と越前の秘事法門が混雑して教え勧めていたものが、此の異法を享保 三年の輪庵代に露顕する、迄彼の先祖が秘伝相承し、今日の事件の張本人市左衛門迄相伝したとするのである。此の異法 近 世 に 於 け る 越 後 長 岡 異 法 義 始 末 記

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近 世 に 於 け る 越 後 長 岡 異 法 義 始 末 一 氾 四 の教義内容は後にも触れるが、立川流と越前の秘事法門の混入は認められるが、天草の邪法所謂切支丹が入っていた というのは疑問で、これが本願寺側の史料であり、又当時﹁邪教﹂と云えば幕府の厳禁する所の切支丹を一般に多く 指していた為に、本願寺側の中傷とも考えられる o 更に続いて﹃間取書﹄は、信者達の主張する異法々脈相伝を、 是ヲワカ家ノ相伝トイフコノ相伝八宗ニツタフトイへトモ徴密ノ口伝ナルカ故ニ真言ニハ新古ノアラソヒヨリタ へ天台ニハ檀那横川等ノ学風ヨリ減ジ浄土門−一ハ七祖ヨリ相承ツテ蓮如上人−一イタル蓮如上人ノ時ソノ法ヲウク 公 明 カ ︶ ︵ 宗 カ ︶ ︵ 後 カ ︶ ハ 市 左 ルモノ夕、赤尾ノ道秀一人ナリ道秀十一代ノ孫越后国住人権左右衛門也是ヨリ辰之助徳兵衛ト相ッ、キ今ノ市左 清 門 カ ︶ 右衛門ニイタルマテ四代ノ間コレヲツタフ ⑬ と記しているが、此の様な相伝は他の色々な芸能・芸道・技術等にも云えるのであるが、現在迄の近い所は大体信ず べ き も の が あ る が 、 それを糊るにしたがい全く史実を無視した偽作が大部分で、 一つの権威づけになるのである。 こ λ では唯、市左衛門は史料的に確認出来る。現在の﹁御内証﹂でも根本聖典の一一書に、 ﹁親鷺聖人直伝御相伝と心 得て謹んで拝読するものなりし ︵ ﹃ 一 二 賢 一 致 書 む として真宗の開祖と結びつけて、 彼等の法門、﹂そ親驚の真実の教え 更に彼の有名な越後の七不思議伝説を、 ⑬ 神秘性を流祖に付会し、神聖視され権威化される事により、其の威力が現在の我々の中に其の佳生かされ、新たなる で あ る と 説 く 。 一つの唱導として説いている事等を鑑みるにつけ、 奇蹟や ﹁人格神﹂的存在が出来とるとするのであろう。又此の相伝でも、﹁蓮如上人|ツョウシヨ坊|赤尾道宗﹂︵円御聖教﹄︶、 そして調査上確認出来た龍慶英信妙覚坊全信現善知識としているがこ λ で寛政年間の異法義と同じく﹁蓮如﹂ と﹁赤尾道宗﹂を取り入れているが、 一般に真宗の篤信家・妙好人的人物を秘事法門の相伝に結び付ける事例はよく 在る事で、大部忠太郎・金森道西・堅田源右衛門等は其の類で、秘事信者の妙好人的人物に対して独自な評価を以て

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捉えている事で輿味ある所である。斯くて、此の様な相伝の詳細な内容は秘密裡に巻物等に記されて、非常に貴重な 物として取り扱われ、秘事組織の善知識と他数人の幹部だけの知る所であって、信者や部外者には余り目に触れる機 会 は 少 な い 。 さて、此の様な秘事信者にとって最高位の相伝は、 徴密な口伝﹂であるとして其の詳細を﹃聞取書﹄に、 仏道ハ釈迦之方便説エ而口伝と申事無之候而はたとひ仏像を礼し経典を読諦仕候而も無益之事ユ候儒道もが伏之 ︵ 寄 力 ︶ 説多く伝授有之物−一候又神道も寄を言一一而是亦口伝有之候と申儒仏神之三道共−一虚佐之説と隠しめ候︵中略︶其 ︵ 所 カ ︶ ︵ 所 カ ︶ 口伝スル取ノゴ一体一体ノ伝ヲモテ諸宗ノ奥義ト定メリ故−一其勧ル取口一様ナラス男女老少智愚等ノ機ニ応ツテ差 ︵ マ ﹀ ︶ ︵ 所 カ ︶ コ として紹介しているが、こうして我々以外の﹁諸宗エツタフル取ハミナコレ浮挙ノ説ニツテワカ家ノ第二義門﹂︵﹃聞

F 1 ソノ差別委ク 口 刀 − ノ 1 ノシルシカタシ 取書﹄︶であるとする。所謂﹁唯授一人口決﹂という事を強く前面に押し出して来るが、本願寺側では当然、 ⑬ に於て口決伝授の法門無之義に侯﹂︵﹁越後了専寺・久唱寺御教誠﹂︶と、明和年間に越後の国に下した教誠でも強く否定 ﹁ 御 当 家 している。こうして ﹁ 御 内 証 ﹂ で も 、 ﹁ 御 相 伝 ノ 人 々 ハ 内 心 − 一 深 ク タ ク ハ イ テ 外 − 一 ハ 方 便 ノ 他 力 ヲ タ テ ベ ジ ﹂ ︵ ﹃ 御 聖 典己としている様に、所謂秘事信者がよく云う所の法門なるものに表一一があり、寺院に於ける僧侶の布教を表の法門 と呼び、これは一往の説

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方便説︶であるとし、一一に真実の信仰が在りこれが我々の法円であるという類である o 信仰を僧と俗とにはっきり区別し、本当の宗教は寺院に相伝されているのではなく、俗︵在家︶たる我々の法門に伝 承されたのであるとする。それは、家︵司祭家長︶や村︵司祭長老︶の信仰集団を構成する村落共同体の祭記の源初 的形態を暗示するものがあろう。 又、此の異法義の頭取達を﹁善知識﹂であると称していたと云うから、これも秘事の中核をなす所であり、俗人の 近 世 に 於 け る 越 後 長 岡 異 法 義 始 末 記 五

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近 世 に 於 け る 越 後 長 岡 異 法 義 始 末 記 ム ノ、 知識を立てミ此の善知識の口伝に絶対の信頼を持たせる。こうした善知識の口伝というものが無い所の仏教では、仏 像を礼し経典を読請しても無益であるという理論が出て来て、現代の﹁御内証﹂でも、 一胸に仏を持ち乍ら絵像拝む ⑬ はかなさや﹂﹁木テ刻ンダ仏ハ仏絵−一書イタ仏ハ仏カ\すきざまず仏ワ何処く− Q 無題記﹄︶としているのである。こう して代々相承されて来た原始社会の神の言葉を伝え、奇蹟を行う司祭又はツャlマンたる善知識は、所謂﹁人神﹂的 ﹁善知識の御心が仏にて、阿弥陀如来を善知識にとりこして、善知識の外に仏はない﹂︵﹃総州異安心 ︿下総孫衛門﹀御教榊ごという知識即仏︵神︶とする知識帰命に発展し、知識以外には仏も神も拝せずとする前述の系 観念で捉えられ、 譜の箇所で指摘されている様に、越前高田派の大町門徒の如道一派の一一小拝秘事﹂に繋がって行くのである。これに ⑬ 関連して、親驚に名を借りた偽書﹃一宗行儀抄﹄に、 去正治年中越後国頭域ノ郡岡田郷ニ長連坊トテ立川流ノ外法ノ学匠アリ。此人ハ出羽国ニ高市ト云里ノ者ト聞伝 タ リ o 彼長連ガ外法ヲ世間エ流布ツテ伝ル人皆仏前−一詣 γ テ。仏ヲ会テ拝ムベカラズト謂ジケル。︵中略︶長連ガ 外法ノ終リ悪業ノツモリニ柏崎ユテ祉ヲサラツ候ト。天下−一風間候 として、立川流を伝えた輩の偽作と思われるが、全ては信じられないにしても一応の参考として見る時、立川流の教 義が北国に広がり此の兵法義の源流を形成し、 一不拝秘事﹂にも影響を与えたとも想定するのである。 四 では、此の様な異法義組織の信者達は何の様な活動をしていたのであろうか。然し残念ながら限られた数少ない史 ⑫ 料からは詳細な実態は掴みにくいが、幕府の﹃御仕置例類集﹄︵以下﹃例類集﹄と略称する︶には、 奇怪之修法等ハ不致候とも異法を信し、村々之もの共え附聞、帰依之ものは同行と唱、 石内村久太郎方を致定宿

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ニ、折々罷越右同行共を集メ、異法之意味説聞、俗之身分を以信施之鳥目申受 として、確証的には捉えがたいが、 一般の秘事法門に特徴的に見られる呪術的・現世的密儀礼︵加入儀礼等︶なる ⑮ ﹁奇怪之修法﹂等はしていないとしている。又信者達を﹁同行﹂と称し、石内村の久太郎宅を﹁定宿﹂にして、市左 衛門は布施を収受していた事が分る。尚﹃聞取書﹄によると、宿善当来して同行の一人として﹁血判誓詞 L をし呉法 の教えに与るまでは、中々入信の許容は困難であったらしく、秘密裡に法門を伝播していた様である。此の事は、現 在の﹁御内証﹂でも彼等が使用している﹃御聖典﹄の各所に、 し ﹂ ︵ ﹃ 御 内 証 一 心 記 ﹄ 等 ︶ と 記 さ て お り 、 こ れ は 更 に 同 行 内 に 於 て も 、 ﹁此の一大事は決して他流の人々には秘すべし秘すべ ︵ 臥 カ ︺ ﹁此一大事ハ夫ツテ同行人難成ルトヨグヨク其 心 ヲ 見 定 テ 許 ツ 可 ク 申 ス 者 也 ﹂ ︵ ﹃ 大 悟 決 定 書 ﹄ ︶ と、極めて厳しいものであった事が知れ、実際現実に部外者には見せ ず、語らずという封鎖的宗教活動を行っているのである。又前述の発覚の時に差し出させた様に、秘事法門では必ず と云っていミ程、法義上の名目に珍解釈を加えた秘事書を持っており、此の異法でも教義に関する書籍も取り用いて いた様で、信者達が借り受け写し取っていた。 そこで次に、此の異法義の教義内容は何の様なものであったか簡単に見てみたい。先ず幕府の﹃例類集﹄によると、 此の異法は市左衛門の祖父の代に浄蓮寺より伝来したもので、 日月を以、父母とも阿弥陀とも尊ミ、農業の出精いたし、父母を大切−一いたし、主人を敬い慈悲を専−一心掛候得 ハ、五穀も実り往生も宜問、日月之恵疎−一致問敷旨 という極めて現実的生活面に側した教えであったが、これに懇意にしていた医師輪庵は、 一つの宗旨を得意の医学に 関連させて、五行・五体説に付会して一派を立て其の手引き書をも作り、同行共へ布教したというものである。これ が前に出て来ている一輪庵法義﹂と云われる由来であったじ又﹃聞取書﹄は、 近 世 に 於 け る 越 後 長 岡 異 法 義 始 末 記 七

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近 肢 に 於 け る 越 後 長 岡 異 法 義 始 末 記 ︵ 顕 カ ︶ ゾレ一切ノ法ハ根本ノ二理ヨリ豆レタル日月ノ二体ヲモテ惣体トス︵中略︶ 八 一切万物生ツテ滅セサルモノナツ日 月ヲモテ体トスルカ故ナリ日月ハ即チ陰陽ナリ陰陽即チ男女ナリ男女交会ヨグ万物ヲ生ス即チ是根本ノ二理ヨリ アラハレタル︵中略︶コノ根本ノ理ヲ儒道−一ハ大極トイヒ無極トイヒ神道ニハ国常立ノ尊トイヒ仏教ニハ空王士口 仏トイブ︵中略︶コ、ヲモテソノ根本ノ日月敬セスンハアラス故ニ仏門ニ仏体ヲ画グウツロ三一ノ円光アリ二ノ 円光ハ即チ日月ナリ円光一一ヨリテ仏体アラハル仏体即チワレラナリ故ニ一二体合ツテ一体ニ帰スレハ一体即チ三体 ナリモジコノ法ノカクノコトクナルヲ信ジテコノ道理伝ルトキハソノ理ニカナフカ故ニヨク日月宮−一生ス日月ニ ヨリ生スルカ故ユ能日月ニカヘル と記していて、比の様な教えは本願寺では、 ︵ 体 力 ︶ 或人、真言の五大五行の法門をや聞き誤りけん。木火士金水は弥陀本願の本となり、 日天月天陰陽の二つは、方 物の父母なり。十劫正覚も外になし。十月胎内の事也と云々是秘事法門とて、以ての外の邪義邪見也 ⑬ と強く否定している様に、此の教義内容は諸種の方面から雑多な思想が入り込んで、実に混雑を極めている。中でも 最も著しく影響を受けているのは、所謂﹁邪義の所立儒仏神之三道を取違候﹂︵﹃関取書﹄︶と述べている如く、神儒仏 の三道を陰陽の理で一致せしめた三教一致の思想である。これは鎌倉時代以後勢力を有して、現在の﹁御内証﹂の根 本聖典ともなっている﹃三賢一致書﹄︵一名三界一心記・伊勢大龍編・文保元年︶に顕著に現われている。 又斯様な思想は、後世の秘事法門に流伝して行く秘事聖典の中に強く影響し、﹃蓮如上人秘書﹄・ ﹃ 心 血 脈 抄 ﹄ ︵ 御 内証所持︶等は最も甚しいものである。尚、此の様な思想と相俊って﹁帯解仏法﹂という雑魚寝の実態が混入してい た事も特筆しておきたい。 斯而、此の様に近世に於ける教学の発達に伴なって、秘事の教義も発展体系化し、色々の秘事聖典が出来上って来

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るが、それは有らゆる宗派の教義を自分達の主張に都合よく変容して摂取して行くという多神教的面が顕著に見られ、 非論理的で学問的には程遠いものではあるが、そこに何らの矛盾・葛藤をも生ぜずに現実に適応して行くという庶民 的精神生活の一端を窺い知る事が出来ると同時に、そこに一つの唱導の手段としての﹁談義本﹂的役割を果していた と し な け れ ば な ら な い 。 五 さて以上の様な異法義の始末として、藩では張本人たる市左衛門は天領の住民で、其の他々領とも関係して事件の 重大なる事を認め、幕府に吟味及び処分を申請した。当時幕府は、此の様な秘事法門等の﹁異法又ハ奇怪異説之類﹂ ⑧ ︵ ﹃ 例 類 集 ﹄ ︶ を 凡 て 、 御 定 百 箇 条 中 の ﹁ 三 鳥 派 不 受 不 施 御 仕 置 之 事 ﹂ の 条 文 に 引 き 当 て た ら し く 、 寛政八年の制裁でも これに準じた処分をしている。其の﹃例類集﹄には、市左衛門︵遠島・死亡︶、圧屋五郎兵衛︵軽追放︶、与惣右衛門 外四人︵所払・与惣右衛門・久次右衛門病死︶、 屋・組頭にも其々過料等を科せられ、其の他﹃聞取書﹄には長岡領百八十軒の者に皆禁足を命ぜられたと在る。 久太郎︵三十日手鎖︶等の中心人物の判決と、 石内村と飯柳村の庄 一方向じ﹃間取書﹄によると、前述した様に検挙された者の内、東西本願寺の門徒が多数有った為、ゴ一条御坊輪番 法憧坊恵献並に御使僧逢生庵は命を受けて、教団独自の門徒取り調べの任に当り、幕府との折衝も行った。又呑月院 深一蜘講師も、信者の旦那寺として直接教誠指導に当り、多くを回心させた先の善正寺猶龍なる者より調査報告を得て、 ③ 色々門徒処置に関する意見書を本山に提出した。 これ等の厳しい処分により其の痕跡は絶無に帰したかの様に思われたが、 @ なる秘事法門が現在に脈動している事実である。此の﹁御内証﹂については別論で其の実態と信仰内容を若子述べた 斯 而 、 今迄度々触れて来た 一 御 内 証 ﹂ 近 世 に 於 け る 越 後 長 岡 異 法 義 始 末 記 九

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近 世 に 於 け る 越 後 長 岡 異 法 義 始 末 記

の で こ A では割愛するが、長岡︵異法義︶と刈羽・柏崎・北条へ各御内証︶という地理的な接近と、異法義と御内証 の唱導者龍慶師との間の年代的差が殆ど無い事、そして前述した如くお互いに相伝中に蓮如や赤尾道宗を取り入れ、 ﹃ 一 二 賢 一 致 吉 一 日 ﹄ を 基 盤 と し た 立 川 流 を 含 ん だ 信 仰 形 態 で あ る 事 等 を 考 え る と 、 寛 政 年 間 の 異 法 義 の 継 承 と 確 − 証 出 来 る の で あ る 。

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以上見て来た如く、幕府や本願寺等の政治的・宗教的統制力は、秘事法門という密儀的宗教により拍車を加える事 となり、社会的にも精神的にも一つの強い団結の元に、封鎖的地下組織に次第に追い込むといった近世的現象を呈し て行くのである。此の様に、庶民大衆の生活と心に長く深く惨透し息づいている信仰というものを、単なる一介の禁 令・教誠や一時的弾圧で改まったり消滅したりするものでないであろう。所謂今日迄の新興宗教の経過が物語る如く たとえ其の様な徴候を見せたにしても、それは飽くまで表面的で一時的なものであって、其の本質的な信仰たるもの は人間の尾棋骨の如く、根強く潜在し形を変容しつつも再発・継承し易いものである。 こ、にこれ等秘事法門を、単に秘密結社的存在として片付けるのではなく、封建的権力体制の中で、次第に教団の 拡大組織と宗学の発達に相俊って純化して行く︵一面では抽象的で観怠化して行く︶仏教というものを、其の底流に 日本固有の民族宗教及び呪術的原始信仰︵俗信︶を保持している古い封鎖的な村落共同体社会︵同族集団的社会︶の 仏教講︵秘密念仏結社︶を形成する庶民大衆が、何の様に複雑で徴妙な葛藤状態を呈しながら現実に受け入れて行つ た か を 知 る 上 で 、 一つの特筆すべき事件であった o 然而今は、唯一時期の一地域に発生した異法事象を見て来たので あるが、今後は更に他の江戸期の秘事法門等との関係に於て比較検討し、より近世の宗教史社会史の上に位置づけて

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行かなければならない。 ① 註 江戸時代に於て多くの秘事法門徒が厳重に処罰されたが、 最も悲惨な結果を物語っているものに、明和時代の御蔵 法 門 が あ る ︵ ﹃ 後 見 草 ﹄ 中 ︶ 。 ﹃ 親 子 草 ﹄ ﹃ 後 見 草 ﹄ ﹃ 過 限 録 ﹄ サ 二 樵 閑 話 一 ﹃ 兎 悶 小 説 ﹄ ﹃ 通 航 一 覧 ﹄ 等 。 新しい民俗学的方法論を取り入れての此の問題の論考と し て 、 五 来 重 教 授 ﹁ か く し 念 仏 と 通 過 儀 礼 ﹂ ︵ ﹃ 真 宗 研 究 ﹄ 第十一輯︶の論文が有り、今これに負う所が多い。 此の異法義に関しては、三田村起魚氏﹃日本及日本人一 第五百八十七号・長岡市役所﹃長岡市史﹄・水谷寿氏﹃異 安心史の研究﹄に若干紹介されている。 ﹁ 天 明 ・ 寛 政 秘 事 法 門 ﹂ ︵ ﹃ 真 宗 大 系 ﹄ 第 三 十 六 巻 ︶ ﹁ 九 州 新 義 ノ 沙 汰 覚 ﹂ ︵ ﹃ 真 宗 全 書 ﹄ 反 正 紀 略 ︶ 大 谷 大 学 図 書 館 歳 。 後述の教義で﹁不拝秘事﹂を強調している所から附暖の 場合に役人の目を誤魔化す為の演出であったのかもしれ E 、 。 J J E ’v 異法義の同行数として何軒とか、類族有として報告して い る ︵ ﹃ 関 取 書 ﹄ ︶ 。 注③五来重教授前掲論文・拙稿﹁東海地方における秘事 法門について﹂︵﹃印度学仏教学研究﹄第二十一巻、第二 ② ③ ④ ③ ⑦ ⑥ ⑤ ⑨ l ⑮ 近世に於ける越後長岡異法義始末記 白 。 号 ︶ 参 照 。 例えば当時﹁芭蕉公三世﹂と記した秒伝書等を流布しな がら遊行していた俳講師も其の一例である。拙稿﹁近散 における俳講師と遊行家|特に北陸地方での安楽坊春波 法師の活動について﹂︵﹃印度目子仏教学研究﹄第二十二 巻 、 第 二 号 ︶ 参 照 。 最近、迄庶民の聞に本願寺の門跡を生仏として遇していた 如きである c 明和五年六月﹃続真宗大系﹄第十八巻 現代の金沢秘事法門徒の使用している秘事聖典中の﹃蓮 如聖人御詠歌﹄に﹁経々二戸ナシ、木像−一言ナク知識一 言ヲモッテ滅後/如来トス﹂の箇所が出て来るが、同列 な も の で あ ろ う 。 ﹃続真宗大系﹄第十八巻 ﹃真宗大系﹄第三十六巻異義集四 第一冊古類集一・第三冊古類集三 注⑩前掲拙稿で、現代に存在する秘事法門の一般的特徴 で儀礼の顕著なものを若干述べた。 ﹁ 異 執 決 疑 編 ﹂ ︵ ﹃ 続 真 宗 大 系 ﹄ 第 三 十 六 巻 ︶ ﹁ 旧 幕 府 御 定 書 ﹂ ︵ ﹃ 百 万 塔 ﹄ ︶ 此の小論に多く用いた所の﹃越後長岡異法義関取書﹄は 元 は 越 前 、 水 臨 寺 ︵ 深 励 講 師 住 土 守 ︶ 所 蔵 本 で あ っ た 。 ⑫ ⑭ ⑬ ⑬ ⑫ ⑮ ⑮ ③ 同 ⑫

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近世に於ける越後長岡異法義始末記 ② 松 谷 了 玄 氏 ﹁ 大 谷 派 に 於 け る 異 安 心 調 理 の 方 法 ﹂ ︵ ﹃ 真 宗 研究﹄第三輯︶参照。尚大会当日会場にて北野龍雄氏の 御厚意により拝見した﹃御文﹄の写本の奥書に﹁正徳五 年末ノ正月十六日マテニ書マウシチカイサフハオンユル シクタサルヘクサフラフ了念﹂と記されてあり、内容 @ は詳細に検討していないが、恐らく秘事法門に関しての 教誠回心の誓詞的なものと思われる。 ﹁ 越 後 地 方 に お け る 秘 事 法 門 に つ い て ﹂ ︵ ﹃ 宗 教 研 究 ﹄ 四 第 十五巻、第二輯︶尚これは極めて不完全なものであり、 次の機会に詳細にまとめてみたいと思っている。

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二行得失の文について

2

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光 実

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号円え

一往生札讃一︵以下礼讃と略称︺二行得失の文は二礼讃﹂前序に専修四得・雑修十三失を明かし終って 余 日 比 自 見 − 一 間 諸 方 道 俗 一 解 行 不 向 、 専 雑 有 v 具 。 但使ニ専 ν意作一者、十即十生。修 v雑不一一至心一者、千中無 v 一 。 此二行得失、如−一前己弁↓ とある中の語である。この二行の得失、前きに巳に弁ぜるが如し、という言葉は﹁礼讃﹂撰述時にかかわりがあると 考 え る の で 、 いささか私見を述べて、皆さまのご批判を仰ぎたいと念願するものである。 ﹁礼讃﹂前序には周知のとおり、主ロ一等教学の体系と称せられる安心・起行・作業が述べられ、続いて一行三味・専 雑得失という重要な教義が説示されている。これらが五章段になっていることは、 いずれにも結語に一応知﹂の二字 が置かれていることで知ることができる。 ﹁ 観 経 疏 ﹂ と ﹁ 礼 讃 ﹂ と が 、 かなり接近した著作であることは衆目の集ま るところであろう。しかし、両疏を比べてどちらが先撰かということになれば、見解の相違によって撰述先後が分か ﹁ 往 生 礼 讃 ﹂ 二 行 得 失 の 文 に つ い て

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﹁ 往 生 礼 讃 ﹂ 二 行 得 失 の 交 に つ い て 四 れてくるので、早急に結論がでるという筋のものではない。尤も、目安となるものは両疏の問に共通の讃文が存在す るということである。したがって、共通の讃文がどちらから引用されたのかということが明白になれば、乙の疑問は 一挙に解決するはずであるが、なかなかそう簡単にはかたずかない。共通の讃文とは﹁観経疏一によれば﹁定菩義﹂ 水観の﹁地下荘厳八宝憧一の八句 ζ 、同じく散善義、三輩讃の一一一讃文計二十八句とであり、この四讃文が﹁礼讃﹂日 中讃のものと共通しているのである。讃文の引用は水観が最も多く、 ﹁ 浄 土 論 ﹂ か ら 二 讃 文 、 出 処 不 明 の 一 二 讃 文 が あ る。宝樹観には﹁浄土論﹂と出処不明の讃が、

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おの一讃文ずつある o 他に二疋善義﹂の末尾に総讃の三十二句で 結んである o も し 、 ﹁礼讃一日中讃から﹁観経疏﹂へ引用されたと仮定する場合、なぜ、地下荘厳等の八句のみを引 用して、日中讃にある他の地上荘厳・虚空荘厳・宝樹・宝池・宝楼・華座等々の讃を用いられなかったのかという疑 問 も で て く る 。 ﹁浄土論﹂もまた同様なことが言えるし、 ﹁ 観 経 疏 ﹂ を 最 後 作 と す る と き に は 、 ﹁観経﹂十六観を順 を追うて讃侮を作られている﹁般舟讃﹂は、全く引用がないことも合せて考えてみねばならぬ。 ﹁ 法 事 讃 ﹂ も ま た し かりである o ただ、定善総讃の一二十二句は、定善十三観の次第に随って述べられているので、多くはこれに譲り、水 観は浄土の士体が諮られる重要な場であるために、多くの讃文が集中したのかも知れぬ。但しその理由は全くわから

4 、 。 ーし 次に三輩讃について考えてみるに﹁散善義一にはと輩一一一品を解釈しおわって﹁上輩土行上根人﹂の八句で結び、同 じように中輩二一品・下輩三日間も同一様式となっている。これは定善総讃と同じ形態でもある。善導時代の文体の形式 を見ると、たとえば、道宣の﹁続高僧伝﹂などには﹁論日﹂とか、あるいは巻末に﹁賛日﹂がおかれ、論評や賛文が 述 べ ら れ て い る 。 ﹁漢喜一や﹁唐書﹂類を見ても、この形式がとられているのである。 一讃日﹂と﹁賛日﹂とでは文 ︷子が異るのであるが、前者は仏徳を讃嘆すると、後者は人徳や事績を讃美し論評するのとの相違であって、大体の主

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旨は同じである。そうした意味から知れる ζ と は 、 ﹁散善義二二輩讃は定善総讃と同様に、 日中讃に一連に三輩讃を 述べてあるよりは、文体の形式が整備されていると思われる。たまたま、適材適所であるから日中讃から引用せられ たと見たり、詩的感情から﹁観経疏一で、ばらばらに述べられたものを、後に﹁礼讃一にまとめたということはあり え な い 、 とする見解もある。再考を要すると ζ ろ で あ ろ う 。 先に両疏の共通の護人に関して一応の卑見を述べたのであるが、善一等教学の思想的発展の過程いかんということの うえに﹁礼讃一撰述時九﹂考究すべきでめることは勿論のことである。この課題は五部九巻全般にわたる問題であって、 以前に少し申し述べたこともあるので省略して、表題の範囲内にしぼることにしたい。 まず、両疏の三心釈を拝見するに、御加点本では﹁礼讃﹂は十行弱である。﹁観経疏﹂はその十数倍に及んでいる。 この量からいっても、↑観伝疏﹂から﹁礼讃﹂へ発展したとは考えられず、﹁礼讃一から﹁観経疏﹂へと進展したと思 われるのも無理からぬところでゐる。今、深信釈のみを取り上げてみるに、 ︵ 散 善 義 ︶ 一口一一深信一者、即是涼信之心也。亦有三一種↓ 者 決 定 深 信 二 白 身 現 是 罪 悪 生 死 凡 夫 、 噴 劫 己 来 、 常 没 常 流 転 、 無 ν有二出離之縁ズ機︶ 二 者 決 定 深 信 下 彼 阿 弥 陀 仏 四 十 八 願 、 摂 二 受 衆 生 一 無 v 無 v 、 乗 一 一 彼 願 力 一 定 得 中 往 生 へ 法 ︶ ﹁ 往 生 礼 讃 ﹂ 二 行 得 失 の 文 に つ い て 五

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﹁ 往 生 礼 讃 ﹂ 二 行 得 失 の 文 に つ い て 」 ノ 、 ︵礼讃︶ 二 者 深 心 、 即 是 真 実 信 心 。 信下知自身是具ニ足煩悩一凡夫、善根薄少流ニ転三界一不歩出一元宅ズ機︶ 今信丙知弥陀本弘一誓一願、及下称ニ名号一下至十戸 声 等 ヘ 定得乙往生甲、乃至二 念 一 無 v ニ 疑 心 ︵ 故 名 一 一 深 心 ↓ ︵ 法 ︶ という文には、安心の至極が教示されてある。両深信をみるに、はじめに気付くことは、 ﹁散善義﹂には一者二者の 語が冠せられてあるのに、﹁礼讃﹂ではそれがない。﹁散善義﹂においては、二種の深信についで﹁又﹂の語を当てて 五深信を聞出するから、拝読する者をして混乱なからしめ、 二種の信を明確に把握せしめられんとした意図によるも のであろう。﹁散善義﹂の機の深信では﹁現是﹂という切実感があるが、﹁礼讃﹂には﹁現﹂がなく、逆に﹁礼讃﹂の 法の深信には﹁今﹂という遇法の切実感があるも、 ﹁ 散 善 義 ﹂ に は そ れ が な い 。 これは影略互顕と会適されて、機法 二種の深信いずれにも﹁現﹂と﹁今﹂とをかぶらしむる意で、本質に差異がないことは申すまでもないことである。 ﹁観経疏﹂は﹁観経﹂の玄義と随文解釈という教学的立場と、 ︵礼讃﹂が主として日常における仏前勤行の方規を明 かす実践的立場の違いはあるにしても、全体を通じて眺めるときは、 ﹁散善義﹂の深信釈のみをとりあげてみても、 二種深信から五深信を導き出し、その第七深信より就人・就行の両立信を別閉して、就行立信では特に五正行の創設 をなし、合門正助二行からついに一心専念の称名正定業という画期的な法門の施設となっている。そこには、 、 、 : jvAHJ / C る外邪・妨難にも打ち勝つという決定、採信の決意のほどが窺える。その反面一般大衆にとって一読ただちに理解しう るという、なま易しいものとは思えない。それは専門的であり、静かに熟読玩味せらるべきものであろう。そうした 点では静的であると言える o ﹁礼讃一の深信釈は最も簡明であり、﹁今、本願名号を信知す﹂という遇法の﹁今﹂が動

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的であり、実践的である。大衆にとっては甚だ理解し易いと言わざるをえない。先に称名正定業の独立について触れ たのであるが、独立とはいっても、称名正定業が深信の外に逸脱しているということではない。あくまで深信の所信 である。あたかも分而不八刀・不分而分なるものであろう。それは、深信九専念名号、という相関関係にあるとみられ、 ﹁及称名号﹂は真実信心の本源へ納まるべくして納まったという感じである。その逆もまた可能であろう。称名正定 業説は就行立信の帰結であり、あくまで深信中の所談であって、本願の三信十念を想起せしめられるものがある。 ﹁ 善 根 薄 少 ﹂ に つ い て 、 私 の 管 見 す る と こ ろ で は 、 ﹁ 十 住 論 ﹂ に は 少 分 功 徳 、 ﹁ 十 地 経 論 ﹂ は 微 少 善 根 、 お よ び 、 起信論もまた善根微少の語で表わされている。これらはいずれも善根薄少と同じ意味で用いられている。 は﹁十地経論﹂と同系列にあるから後者を参考にすると、﹁十地経論﹂第一に経偽をあげて、 ﹁ 十 住 論 ﹂ 此 衆 皆 清 浄 離二陣怠一厳浄 安ニ住堅田中一 功 徳 智 具 足 とあるを釈して、清浄とは不濁であり、濁に六種︵不欲潟・威儀濁・蓋潟・異想濁・不足功徳濁・痴潟︶あり、その 第 五 不 足 功 徳 潟 に つ き 、 五 不 足 功 徳 濁 、 善 根 微 少 故 、 是 故 於 ニ 彼 説 中 一 心 不 ニ 楽 住 ↓ と論じ、菩薩の十地を説く会座に、二一乗が住すことを楽わざる理由として、大乗の善根は少乗の善根微少に出過せる ことを、まず初めに説かれるのである。同論第二には、菩薩が初地を得れば五怖畏︵不活畏・悪名畏・死長・堕悪道 畏・大衆威徳長︶を離れ、この五怖畏の因は何かといえば、 論目。此怖長困、略有−二一種↓ 者 邪 智 妄 想 、 見 愛 著 故 、 二 善 根 微 少 故 。 此 対 治 如 v 、 離 ニ 我 想 一 故 とて邪智邪見と善根微少の二種の故であるとする。しかし、まだ善根微少の意味は明了になっていない。それは同論 ﹁ 往 生 礼 讃 ﹂ 二 行 得 失 の 文 に つ い て 七

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往 生 礼 讃 ﹂ 二 行 得 失 の 文 に つ い て /¥ 第四に至って明らかとなる。すなわち経を挙げて、 経 目 。 是 菩 薩 復 深 思 惟 、 行 二 十 不 善 業 道 集 因 縁 一 故 、 則 生 一 一 人 中 一 乃 至 生 ニ 有 頂 処 一 又 是 上 十 善 業 道 、 輿 − 一 智 慧 観 一 和 合 修 行 、 其 心 狭 劣 故 、 心 厭 二 長 三 界 一 故 、 比率一離大悲一故、従 v 聞 v 而 通 達 故 、 間 ν 声意解、成−一声聞↓ という経説である。十不善業道は人・天に生ずる因であり、上の十善業道は智慧観をもって四諦を修行するが、その 心が狭劣であり、三界に住するを厭い、利他の大悲を欠き、他の音声によって悟って、声聞位となるというのである。 これを論に釈して、 声 聞 有 五 種 相 、 因集、 二長昔、一ニ捨心、 四 依 止 、 五 観 、 如 v 狭 劣 等 、 是 声 関 心 。 因 集 者 、 修 二 行 微 少 善 根 一 故 、 但 依 − 一 自 身 利 益 一 如 v 其 心 狭 劣 故 。 という。声聞の五種の相はすべてその心が狭劣で、菩薩のごとく広大ではない。それは第一の因集でただ自身の利益 のみを考えて修行する善根であるが故に微少善根と庇せられるのである。右の文に続いて肝支払・菩薩の相が説かれ ているのもそのためである。これで微少善根の意味はほぼ明らかとなったと思う。次に一起信論﹂の分別発趣道相を 見 る に 、 ﹁調二切諸仏所証之道、 一 切 菩 薩 発 心 修 行 趣 向 義 一 故 。 略 説 ニ 発 心 一 ・ 有 − 二 二 種 ↓ 云 何 為 v 二 一 。 一 者 信 心 成 就 発 心 、 二 者 解 行 発 心 、 三者証発心。信心成就発心者、依ニ何等人一修二何等行一得二信心成就︵堪ニ能発心↓所 ν 調 依 ニ 不 定 緊 衆 生 刊 有 − 一 薫 習 善 根 力 一 故 、 信 二 業 果 報 一 能 起 二 十 善 一 厭 一 一 生 死 善 一 欲 二 求 無 上 菩 提 一 得 ν 値 ニ 諸 仏 一 親 承 供 養 、 修一一行信心↓経一二万劫一信心成就故。諸仏菩薩教令ニ発心一或以一一大悲一故能自発心。或因ニ正法欲 v滅、以ニ護法 因縁一能自発心 c 如 ν 信 心 成 就 得 一 一 発 心 − 者 、 入 一 一 正 定 緊 一 畢 寛 不 レ 退 、 名 下 住 一 一 如 来 種 中 一 正 因 相 応 上 。 若 有 一 一 衆 生 一

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善 根 微 少 、 久 遠 己 来 、 煩 悩 深 厚 陛 下 値 一 一 於 仏 一 亦 得 中 供 養 上 、 然 起 − 寸 八 天 程 子 一 或 起 − 二 一 乗 種 子 一 設 有 v求ニ大乗︵根 則不定、若進若退。或有レ供ニ養諸仏 未 v − 二 万 劫 一 於 v中遇

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師 、 亦 有 一 一 発 心 引 所 ν 謂 見 一 一 仏 色 相 一 市 発 一 一 其 心 或因 v ニ 養 衆 僧 一 而 発 ニ 其 心 一 n 一 以 国 一 三 乗 之 人 教 令 一 発 心 、 或 学 v 発 心 、 如 v 等 発 心 、 悉皆不定。遇ニ悪因縁 或 便 退 失 、 堕 一 三 乗 地 ↓ と論じられている。この﹁起信論﹂の引用文は、前の﹁十地経論しの説とほぼ同格である。まず初発心というものが 董習と宿善とによって、業の因果を信じ、十善業道を修行し、生死の苦を厭い、諸仏に値うて礼拝・供養し、信心を 修行するのである。十信を満じて初住位の信不退に達するには、 一万劫という想像を絶する時を費やして漸︿正定緊 に至りうるのである。不定緊の衆生は、悪因縁に遇えば進退して、 ついには二乗地に墜落して信心を成就することが できない。それは善根微少であるのと煩悩深厚なるがためであると述べられている。右の文中の﹁若有衆生、善根微 少、久遠巳来、煩悩深厚﹂の語は、 一礼讃﹂の機の保信に大変よく似かよっていると思うのは私一人ではなかろうと 考える。この﹁起信論﹂の説は、善導の師道紳にも引き継がれたとみえ、 一 安 楽 集 ﹂ 二 大 門 に 、 今此経中、但説下一生造 v 臨 一 一 命 終 時 一 十 念 成 就 、 即 得 中 往 生 ヘ 不 ν 一 一 過 去 有 国 無 間 一 者 、 世 尊 引 一 一 接 当 来 造 悪 之 徒一令ニ其臨終捨 v悪帰 v善乗 ν 往 生 ↓ 是 以 隠 一 一 其 宿 因 4 此是世尊隠 v始顕 v終、投 v悶談 v 果 。 と説いて、まず宿善あることを示し、第五大門に、 然修道之身相続不 v 、 運 乙 万 劫 司 始 証 一 一 不 退 位 ↓ 当 今 凡 夫 現 名 二 信 相 軽 毛 一 亦 日 一 一 仮 名 一 亦 名 ニ 不 定 緊 ﹁ 亦 名 一 一 外 凡 夫 ↓ 未 レ 出 ニ 火 宅 ↓ と 述 べ て あ る 。 ζ の一万劫説は﹁安楽集﹂にしばしば用いられている。善導の深信釈の相承は、本源を大経に発し、 竜樹・天親・曇驚・道紳と承けられたことは勿論のことであるが、通仏教からの影響も甚だ大であったということも ﹁ 往 生 礼 讃 ﹂ 二 行 得 失 の 文 に つ い て 九

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﹁ 往 生 礼 讃 ﹂ 二 行 得 失 の 文 に つ い て

忘れてはならぬところである。﹁善根薄少については﹁六要紗﹂第二に、﹁無有出離之縁﹂と善根薄少との相違を問い、 天 台 釈 云 。 衆 生 無 始 恒 居 一 一 三 道 一 於 ν 無 一 二 事 種 類 ↓ 日 而 難 v v善未 ν 一 一 輪 廻 一 是 則 煩 悩 賊 害 故 也 。 是 故 今 釈 、 示 v 有 一 一 善 根 一 而 顕 ニ 自 力 薄 少 善 根 不 v 一 一 生 死 ↓ 疏 釈 正 約 下 不 ド 出 ↓ 一 生 死 一 之 辺 ヘ 亦 就 ニ 諸 善 不 成 之 義 一 直 云 − 生 川 有 出 離 之 縁 ↓ と 答 え 、 ﹁ 礼 讃 ﹂ は 善 根 薄 少 に し て 、 不裁生死であり、﹁散普義﹂は不出生死と諸善不成の義で釈成し、同第三の深信 釈 無 有 等 者 、 正 明 下 不 v ニ 有 善 ・ 無 善 一 一 小 v ニ 自 功 一 出 離 偏 在 中 他 力 上 。 とて、両深信を合模して述べられた妙釈であり、これで尽くされている o また両者に優劣を認められる意はないよう である。宗祖は﹁礼讃﹂の探信釈のみは、行・信両巻に引き、所拠とされているところより拝見すれば、その重要性 がよく知られるであろう。 ﹁散普義﹂の機の深信において、一二世を貫く徹底した罪悪感と﹁無有出離之縁一の悲痛感 が、﹁礼讃﹂にはただ現在のみを語る煩悩具足と善根薄少という、前者に比して迫力を欠いた表現から、﹁観経疏﹂は 善導晩年の解行円熟せる時期の作であるとみ、それに反して﹁礼讃﹂は解行未熟の壮年期の作とみられる面もあるよ う で あ る 。 ﹁観経疏﹂の深信釈の機の深信のみでは、無善が徹底すればするほど有善が問題となるのは理の当然であ り、そこに実践論としてのむずかしさがあると同時に、有益目の問題が解決されていないことになりはしないか。有善 は通仏教における必然の課題であって、これを無視しては仏教の存在の根拠を失うことになる o 浄土門といえども仏 教である。仏教であるかぎりは単に有善を否定しさるだけではことすまない。益田導が注意深く善根薄少と言われた言 葉の中には、通仏教の精神をそのまま深信に反映せられたとは見られないであろうか。善導は﹁玄義分﹂要門釈で廃 悪修善を、可不は別として認められている乙とでも明白である o 以上において概略善根薄少の意図するものが何であ るかを跳めてきた。それはあまりにも詮索にすぎたことと思うのであるけれども、善根薄少の類語例からは止むをえ

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な い こ と で あ っ た 。 ﹁礼讃﹂の選述が動的であり現実的であることは、善導自ら専雑得失を明かすところに、 余 日 比 見 二 聞 地 方 道 俗 一 専 雑 有 ν 異 と告白しているところを見ても推察することができる。 一例をあぐれば﹁続高僧伝﹂巻第二十九・唐京師会昌寺釈徳 美伝・には釈徳美は年十九才にて出家し、 はじめ四分律を研究し、太由山に住して毎日﹁仏名経﹂二十二巻を請し、 礼犠を業となすという、その聞に僧邑禅師・静黙禅師に師事、また三階教の信行の普功徳主を尊承したという。道宣 の 言 葉 に よ れ ば 、 或 一 一 行 般 舟 一 夏 不 v坐。或学二止過一三年不 ν 言 。 或 効 二 不 軽 一 通 ニ 礼 七 衆 ベ 或 同 節 v 食 、 四分之一。如 v斯雑行、其 相 紛 論 、 即 日 略 静 養 難 − 一 備 挙 ↓ 生 常 鞍 v想専固 v 西 、 口 調 ニ 弥 陀 一 終 ニ 子 命 一 尽 。 以 − 一 貞 観 十 一 年 十 二 月 二 十 六 日 、 合掌称 v 卒 ニ 子 寺 院 ↓ 春 秋 六 十 三 会 。 と記録され、雑行の乱れは糸のもつれのごとしというのであるから、多くを述べる必要はあるまい。釈徳美の入寂は 善導二十五才のときであるから凡そ当時を推察できよう。 ︵他は省略す︶かくのごとく専門的比丘にしてしかりであ るから、まして在家のものにいたっては想像に難くないであろう。当時、浄土門は諸宗の寓宗として存在したにすぎ ず、善導の出生をまって﹃百今措定の旗峨を掲かげて純正浄土教を鮮明にせられるまでは止むをえない情勢下にあった と考えられる。それは謹か後の元祖法然の出生を待たねばならぬのである。善導在世時代の前後を通じて、浄土を期 しながら、身は大乗に欲しつつ自身の利益のみを目的とする誤った小乗的修行に明け暮れする大衆のために、それら は善根薄少であって、不出火宅たる所以を俄悔せしめらるるのが機の深信であろう。 ﹁ 論 註 ﹂ 善 巧 摂 化 章 に 、 若人不 v − 一 無 上 菩 提 心 一 但 聞 ニ 彼 国 土 受 ν 楽無 F 間為 v楽故願 v生亦当不 v ニ 往 生 一 也 。 ﹁ 往 生 礼 讃 ﹂ 二 行 得 失 の 文 に つ い て

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﹁ 往 生 礼 讃 ﹂ 二 行 得 失 の 文 に つ い て と警告される言葉は、自身の利益のみに依る者は、浄土の往生を得ざることを明言せられたものである。 近時、五念と五正の関係について多くの優れた研究が発表され、今さら私ごときが述ぶるなどということは恐縮で あるが順序として申しあげたい c ﹁礼讃﹂の起行五念門は﹁浄土論﹂のままではなく、 浄土論﹂の作願・観察を、観察・作願と入れ換え、三心と の関係では、礼拝・讃嘆・観察は至誠心の所修となし、作願・廻向は廻向発願心の起行相として見られるというすが たになっている。略讃の称名は、これを第二深信の所信として捲き挙げ、広讃のみとなっている。このことは天親の 止観讐運、二利相修の聖者の行より、凡夫相応の五念門起行として転換され、やがて五正行の施設となったとされて いるのである。これは善導の思想的発展の過程から考察されている説で、私はしいて反論するのではないが、少しく 見 解 を 異 に し 、 ﹁礼讃﹂の撰述前後を問う場合、それが﹁観経疏﹂より先撰であれ後撰であれ、称名正定業説の価値 が左右されるというようなことはないと信ずるものである。さて、善導が天親の五念門を依崩するにつき、その配列 の順次を替え、略讃の称名まで、深信中に繰りあげられた ζ とは、先に触れたのであるが、 いやしくも、菩薩の論に手 を加えるなどということが果たしてできるであろうか。たとえ経意に基づいて、五念門を凡夫相応の易行に転化され た と し て も 、 不謹慎の誘りをまぬがれることはできないのではないか。 観経疏一では専ら通論家に批判が向けられ て い る 、 ﹁礼讃﹂はそれと同一に扱われたのではないことは明白である。したがって天親の一心・五念の体系をその ま ま 生 か し 、 ﹁観経﹂三心の至誠心の所修として礼拝・讃嘆・観察を、廻向発願心の所修としては作願・廻向を、、深 心の所信として略讃の称名を起行から引きあげられた構想は、 一心・五念の体系を相承せられたものと言えるであろ

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ぅ。故に僑慢から単に手を加えるというようなものではなく、全く善導の創見にかかるものであると考えられる。善 導は﹁散善義﹂第六深信に、 又一切行者、但能依ニ此経一深二信行一必不 v誤二衆生一也。何以故、仏是満足大悲人故、実語故。除 ν 仏己還、智行 未 v 、 在 ニ 其 学 地 一 白 下 有 − 主 習 二 障 一 未 ν 除 、 果 願 未 ム レ 円 。 此 等 凡 聖 、 縦 使 測 一 一 量 諸 仏 教 意 一 未 v ニ 決 了 ︵ 雛 v 有 ニ 平 章 一 要 須 下 請 一 一 仏 一 証 一 為 長 定 也 。 ︵ 乃 至 ︶ 是 故 今 時 、 仰 勧 二 切 有 縁 往 生 人 等 一 唯 可 下 深 信 一 一 仏 語 一 専 注 奉 行 よ 、 不 V 可 下 信 − 一 用 菩 薩 等 不 相 応 教 一 以 為 二 疑 擬 一 抱 v 白 迷 廃 中 失 往 生 之 大 益 上 也 。 とあるがごとく、菩薩といえども正習二障ありて果願を未だ満足せるものではないから、菩薩の不了教に依るべから ず、了教の仏説に依り、 ただ仏語を深信せよと勧められ、次いで第七深信にも、 一切の別解・別行・呉学・異見・具 執に退失傾動せざれ、 という不動の信念が窺える。しかのみならず、 ﹁ 観 経 疏 ﹂ 後 肢 に は 有 名 な 、 二 仏 に 一 証 を 請 う 古 今措定の決断が呈示されているのである c 私は善導の解行未熟の時期に、天親の五念門に手を加えるなどという、 お おそれたことはせられなかったと信ずる。おそらく右に述べた古今措定の決断の後に、 一札讃﹂へ天親の五念門を引 用になったのではあるまいかと思う。 一説に、就行立信釈では安心と起行とを区別せず、正雑二業を一まとめにして、雑行と対比して、その得失を語ら れてある就行立信釈よりは、 ﹁礼讃﹂の起行は略讃の称名を安心位に繰り上げて、所信の法とし、それが五念門の上 に四修の行相をもって顕わされる方が整備されている、 という理解もある o よって﹁礼讃−の選述時は教義的にみて も、今日、そう簡単には片付かないようである c 次に、専雑得失の文の構成について調べてみたい。 ﹁ 往 生 礼 讃 ﹂ 二 行 得 失 の 文 に つ い て

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﹁ 往 生 礼 讃 ﹂ 二 行 得 失 の 文 に つ い て 四 四 専雑得失の一章は、 若能如 v上念念相続畢念為 v期者、十即十生、百即百生。何以故、 と書きだし、何以故と所由を徴問して、専修四得をもって答え、また何以故と問い、雑修十三失を明かし、その第十 二 失 に 、 楽 近 二 雑 縁 一 白 二 障 一 一 一 他 往 生 正 行 一 故 。 何 以 故 、 と 再 び 徴 問 し て 、 余日比見ニ聞地方道俗一解行不同、専雑有 v o 但 使 二 専 v意作一者、十即十生。修 v 不 − 主 心 一 者 、 千 中 無 v 一 。 此 二 行 得 失 、 如 − 一 前 己 弁 ↓ という善導当時の自ら見聞せられた現証をあげて専雑の異なるところあるを述懐せられている。以下は結文歓信で終 っている。したがって、この専雑得失を明かす一章は大きく分けると、専修四得と雑修十三失を述べる一節と、結文 歓信の一節との二節である。先に見たように第一節は三度、何を以つての故に、と所由を徴問するのであるから、文 章そのものは続いていて、それを切るわけにはゆかぬところである。前記の、 此 二 行 得 失 、 如 一 一 前 己 弁 ↓ を解するに、多義があろうが、概略二義である。第一は二行得失とは、すぐ直前の専修四得、雑修十三失を指す、と するものである o 第二は就行立信釈の正雑二行の得失であるとなす説である。まず専雑得失を指すとする第一義では、 此二行得失とは、専修の行徳と雑修の行失の二行である。次の如前己弁の﹁前己一と過去辞を重ねてきた意味をどお

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解すればよいのであろうか o もし、直前の文を指すとすれば、 一上﹂でもよいが、この文中にすでに上・下は使用、ず みであるから用いられないとして、 ﹁前﹂か一巳﹂にか、どちらか一語でよいはずである。しいて言えば、ここで、 此の二行の得失、前に己に弁ぜるが如し、 と述べなくとも読めるし、 む し ろ 無 い ほ う が 、 かえってよいとさえ思われ る。そこで一応、善導の用語例を調べると、 ① 従 一 一 仏 告 阿 難 一 下 至 ニ 清 浄 業 一 己 来 、 正 明 一 一 勅 聴 許 説 ↓ 此 明 了 章 一 提 前 請 v v 二 極 楽 一 又 請 ニ 得 生 之 行 一 如 来 巳 許 。 ④ 今 就 一 此 文 一 正 欲 丙 開 乙 顕 正 受 之 方 便 九 ︵ 序 分 義 ・ 定 善 示 観 縁 ︶ 巳 在 二 弥 陀 義 中 一 広 説 寛 。 ︵ 定 善 義 ・ 宝 池 、 宝 観 ︶ 此義第三福中己明寛。︵散善義・上品下生︶ 己 前 明 二 観 仏 三 味 法 ↓ ︵ 観 念 法 門 ︶ 又此悪人如上五悪性分中己説寛。︵観念法門・結観修行分︶ ③ ③ ⑤ などの文は、わずかにその一例にすぎない。説明のするまでもない ζ とであるが、①は﹁観経﹂の欣浄縁を明かされ るところに、章提が世尊に向いて、我に清浄業処を観ぜしめたまえ、われに思惟・正受を教えたまえ、 というこ請を 定善示観縁にいたって、巳に、勅聴許説されたことを述べられているのである。③は﹁弥陀義﹂なる疏中に明かし終 っているという。③は﹁散善義﹂上品下生釈のもので、速く﹁序分義﹂散善顕行縁の発菩提心釈に巳に明かし寛った と述べられている。④は﹁観念法門﹂の初めに、依二観経一明一一観仏三味法一と標をおき、乙の観仏コ一味の法を明かし終 っ た 結 語 で あ っ て 、 前の全体を指して言われている場合である。⑤は同じく﹁観念法門一 結観修行分の文であって、 一上﹂とは五縁功徳分中の証生縁の釈を指しているのである。 以上に見たように、﹁前己﹂の語はニ行得失の文にのみ用いられている、一巳・前・上・下﹂等はいずれもかなり前 ﹁ 往 生 礼 讃 ﹂ 二 行 得 失 の 文 に つ い て 五

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﹁ 往 生 礼 讃 ﹂ 二 行 得 失 の 文 に つ い て ー ム ノ 、 を指している o 直前を指す場合でも甚だ少ない。最もよく似ている一例を挙ぐれば、真諦訳﹁摂大乗論釈﹂第二・縁 生 章 に 、 前 己 説 一 一 分 別 自 性 縁 生 ・ 愛 非 愛 縁 生 一 今 更 説 一 一 受 用 縁 生 ↓ 其 相 云 何 。 とある一文である。この文は縁生章の中のものではあるが、同章の初めに二縁生を釈し終って、本論では、 論目。若略説ニ阿察耶識体相一是果報識。是一切種子。由下此識摂一一一切三界身一切六道四生皆尽ム。 と論じられ、この文に釈を加えてあるが、本論では、 ζ れで一応は縁生章を結ぶ形をとり、以下には全く新しい外内 種子の薫習の有無を、五掲・二備で示し、これを釈して、再び受用縁生に移行するから、 ﹁前己一と言われているの である o かくのごとく同一章内においても、すぐ前を指すという場合は実にまれである。そのときは前の例のように 善導は正しく﹁巳前﹂という語を用いられていることでもわかる。 第二義の正雑二行の得失を指すというのは、 おそらく元祖の指南によるものであろう。即ち﹁選釈集﹂二行章に、 正雑二行の判を引き終って、 私 云 。 就 − 此 文 一 有 一 三 意 イ 一 明 ニ 往 生 行 相 二 一 者 判 一 三 行 得 失 ↓ という私釈を加え、引き続き明らかに二行得失の話を用いられて、疏文を引いて五番の相対を解明し、この私釈に次 い で 、 ﹁礼讃﹂の専雑得失の一章を全引して、 私 云 。 見 一 一 比 文 一 弥 々 須 一 一 捨 ν雑修 v専。量捨二百却百生専修正行一堅執二千中無一雑修雑行一乎。行者能思ニ量之↓ という私釈より潔うときは、専修正行・雑修雑行と二行二修を同一に扱われていることはたしかであり、元視の和漢 の書に述べられているのも同じである。善導・元祖にあっては、正行即専修・雑行即雑修であることは既に通説であ るしかるに宗祖の細判によれば、 ﹁ 教 行 信 証 ﹂ 化 巻 に 、

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夫 雑 行 ・ 雑 修 、 其 一 一 − 一 三 而 其 意 惟 呉 。 と述べられているごとく、次いで正一一げに三句、雑一汀に三句という刑判をげ仇されるところより百・鎮の名具体一説を杏 定して、行修別見説が主張されるのである。これまに止むをえぬ見解であるが、思うにや一昔導・元祖は要・弘一一門組で あり、宗祖は要・真・弘の三門観という、法門の娃立に差違があるところから生じているのであるし、一冗祖門下の諸 流におけるいろいろな解釈が、元祖の意にそわざるものであるという時代背景も考慮せねばならぬ。よって宗祖は、 一万祖門下の呉流におけるいろいろ

α

解沢が、元祖の意にそわざることを痛感せられたことと思われる。故に宗祖は一万 祖門下の二行即二修の解釈の混乱を正さんがために、考−中将・一克祖の微志を得て、右の細別を試みられたもので宗祖の 卓見である o 行修別見説として先哲の一一一両葉を借れば、専修の所修の行体は本願念仏一行に局り、非本願の助業をも遮 斥すべきを明示し、専修の所修を漠然五正行としたのみでは﹁礼讃﹂の釈意は顕われ尽すとは云い得ない。 浄土宗 略抄﹂の﹁正行を行ずるものを専修行者一とめる正行は局って、正定菜を意味するものと云うのでなくば、祖語に未 尽理の失あらしめることとなる。と述べられ、その理由として、 二行意が殊更、他章と形式を変えて標章・引丈・私 釈・引文・私釈となっており、これが前の正雑二行の釈を助顕するという位では他章と形式を変えられる必要はない。 したがって土の正雑二行の分別と、次卒本願章の本願念仏の独立との中間にあって、その連鎖となり以って五正行中 の前三後一の副業はその行体に就けば非本願の行にして、これを、法として執ずれば、即ち雑修不如実のものたるべ きことを顕わすべく、その根拠を﹁礼讃﹂の専雑二修の判釈に求められた。よって私釈に﹁私に云く。此文を見るに いよいよ雑を捨てて専を修すべし。査に百即百生の専修正行を捨てて、堅く千中無一の雑修雑行を執ぜんや。行者能 く之を思量せよ。一とある﹁専修正行﹂とは、次の本願章の所明たる選択本願一行を専にすることを意味し、一雑修雑 行一とは、雑行を混集する者・非本願の行すべて、五正行中の助業を因体として執するものまでも、この中に一括し ﹁ 往 生 礼 讃 ﹂ 二 行 得 失 の 文 に つ い て 七

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一 往 生 礼 讃 ﹂ 二 行 得 失 の 文 に つ い て 入 て千中無一と筒去せる意である。という傾聴すべき解釈を述べられているのである o 私はこの優れた説に対して、わ ずかな字句にこだわりすぎる嫌いがあると、お叱りを受けることと思うが、多くの説が称名正定業説を前提とするか、 あるいは全てをこの称名正定業説へ帰納する態度をとられていると思わざるをえないのである。これは善導撰述・五 部九巻にわたって論、するときは、そのとおりであろうし、別に異義をさしはさむ筋はない。しかし、行修別見説から、 これを善導の二行得失の文にまで拡充することは、一札讃﹂ の撰述前後を決めるには無理があり、 賛成しかねるとい うまでであって、撰述前後を決めたからといって、大師畢生の妙釈たる称名正定業説の真価が地に落ちる、などとい うことにならぬという点については先に一言ふれたところである。 五 この論を終るに当り、専雑得失中の﹁前己﹂とあるのは、前序五章段の前回章の内のいずれかに得失が見い出せな いかということであるが、五念門には真実業の語があり、 四修に不雑余業・専称・専会等の語が見え、 一 行 三 味 で は 専称名字の語があって、これらの語から二行を反顕することはできても、すべて得失は語られていない。よって﹁礼 讃﹂適述時は、おそらく一観経疏﹂の後の作であろうと信ずる。これはあくまで試論であって、 ひとえに御教示をた ま わ ら ば 幸 い で あ る 。 ︵ 註 略 ︶

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真宗別途義の研究序説

E

谷速?

き水ご

覚如、存覚にはじまる真宗教学の展開史は、 一言にしていえば﹁他力救済思想を深めることによって、親艦購教義の 特色を明確にしようとした学匠の努力の跡であった﹂ということができよう。 そのために、聖道教︵浄土異流を含む︶との相違性、さらには優越性を主張しようとして、 一面においては出世本懐 論や聖浄権実論が論議され、また阿弥陀仏の絶対性を強調せんとして、十劫久遠論や本師本仏論が展開されてきた。 反面、人間論においては、九夫性や罪悪性が力説され、 ついには仏性論において本具仏性を否定する学説をも生ず る に 至 っ た 。 かくて如来と衆生とを異質的二元的存在とすることによって、絶対他力の救済思想を確立したかのように見えるの が、真宗学︵全体ではないが︶の現況である。 しかし弥陀一仏による他力の救済を強調し、如来と衆生とを異質的存在とまで主張した場合、 一 神 教 の 典 型 と も い うべきキリスト教との相違性は、どこに見出されるであろうか。無神論又は汎神論的立場に立つといわれる仏教の中 九

表 E l土 F t x n * - i : . - | 行 [ 信 本」訊|の数|7 I 13   / 3 2 I  1  I  I  2 1 I  1 s I  蘭 示 一 字 数 I 2 0 I  1 8 I  44  I  2 7 I 2 1 !  2 7 !  4 9 |  注 l ヨ筆本で「シカモ」と訓んだ個所〔真巻 l ケ〉を除〈 は表出のごとく証巻一四頁五行に一ケ所自筆本と異なって一ツカモ一と訓んだ所がある。と ﹂ ﹂ ろ が 、 こ れ を 先 の 奥 晶 子 日 照 に し て み る

参照

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