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肥後広文

哲学の小径 NO.1

4月17日(木)

随筆 肥後広文      ごみち

  哲学の小径  散歩をしていて、ふと浮かんだ言葉である。きっとどこかで聞いた名前に違いな いが、使わせてもらいましょう。大学院に来て、ますます運動不足になっている。適度な運動という ことで、痔にならないためにも、重くならないためにも、 痔の散歩道 ではあまりに品がないので、

哲学の小径 として、つれづれなるがままに感じたことを書いてみましょう。

 今目の講義は「学校経営と学級経営」「臨床心理学特論H」「道徳教育特論」「社会心理学研究」

7時間みっちりあった。今、頭の中はつつかれたハチの巣の周りのようである。

 天気がよかったので、学校の周りを散歩してみた,桜の花が、葉桜ではないが、時を過ぎて、人に あまり、美しいと言ってもらえない様子、自分はこんな感じなのだろうか。しかし葉桜には葉桜の 美しさがあるのを私は知っている。

 本当にのどかな道である。田んぼ、畔には水がちょろちょろと流れ、何より、稲を刈り取った後の レンゲ草が懐かしかった。小学校1年生の頃、友達と戦争ごっこと言って、腹這いになり、木の鉄砲 バン、バン と口で言いながら遊んだとき、目の前にあった、あのレンゲ草、女の子はそれをっ ないで冠を作っていた。ズボンの膝は緑に汚れていたが、怒られた記憶はない.

 通りかかった学校帰りの自転車の女子中学生、 こんにちは と声をかけてきた。 1 ああ、こん にちは と返す。今度は向こうに5名の男子中学生が来る、穏やかな表情で見っめた、すると、その 内の一人が  こんにちは と挨拶する。つられたように他の子も こんにちは の連発である。

やあ、こんにちは と返す。  あの人、知っているのかと誰かが一人の子に聞いていた すがすがしい すれちがい であった。

 しばらくすると、ヒバリの声が聞こえた、ウグイスの噂りも聞こえるのだが、これは珍しくない.

ヒバリは小学校4年生の想い出だ。周りに4軒しか家がなく、放課後ほとんど一人で、ロンという名 のスピッツの犬と遊んでいた。自分の背よりも高い、菜の花畑があり、その上でヒバリがそら高く飛 んでいた。時々、高い空から菜の花畑に落ちるように降りてくるヒバリを見つけようと、その犬と探

し回ったが、一度も見つけたことがなかった。そんな想い出がよみがえった。

 哲学の小径を散歩しながら、何と自分は幸せなのだろうと胸がいっぱいになった.かって母が「私 の人生は楽しいものだった、いつ死んでも思い残すことはない」と言った言葉が思い出される。

 今学校は、いじめ、不登校、校内暴力、家庭の崩壊、等々、様々な問題を抱えて苦しんでいる。

こんな気持ちを、それぞれの心に伝えられたらどんなにいいだろう。

 1時間ばかりの散歩であったが何か忘れていたものを思い出したような時問であった。

誓学の小径 NO。2

4月22目 (火)

随筆 肥後広文

 今目も、さわやかな朝である。何気なく見つめた山が、今目はくっきり見えた。いっもこんなで あったかなと思う。カーテンのゆらめにきも似た、やさしい山の連なり、見上げた空に柔らかそうな 雲が浮いている。人は晴天を雲一つない五月晴れと言うけれど、空に雲がないと寂しい.一番寂しが

るのは空だろう ,様々な顔を見せる自然.

 意識して見て、初めて味わう不思議な感覚、生きているっていい。私は意識して人を見ていただろ うか、そう言えば高校の生物の先生が授業中いつも「心そこにあらずんば見れども見えず、聞けども 聞こえず」と言っていた言葉を思い出す。あの先生の言葉か、何かの教えか分からないが、確かにそ

うであると,思う。

 忙しい目々の生活の中で、人は生きるために必死である。都会のコンクリートの割れ問でそれこそ 必死に生きている雑草に目を向ける余裕もない。花見と称して、酒をあおり、歌を歌っているけれど、

けなげに咲いている花に耳を、目を、心を傾けているだろうか。生きていると言えるだろうか。

 日々のストレスを紛らわすように自己逃避しているようにも思えるときがある。それを悪いとは 言わないが、「生きる」、「生きている」、「生きていく」とは何なのだろう。

 こんなことを考えさせてくれる、今の生活に心底、感謝している.物理的に、心理的.に余裕があっ てこそ人は人になれる.

 おそらく現場に戻ると、「先生 〜、先生 〜」の声に右往左往して走りまわって、生徒の笑顔に へトヘトになりながらも生き甲斐を感じるように、またなるのだろうが、ここのこういう感覚もまた いいし、大切である。

 何が幸せなのか分からないが、ゆったり時問が流れるのもいい,やさしい気持ちになれる。

忙しい現場の中にあっても、この感覚をもてないものだろうか。

 教師の余裕、安らぎこそが、生徒の豊かな心を育てることにっながると思えるのに、現場はますま す忙しくなっていく。怒らなくていいところで怒っていないか.叱るべきところで見過ごしていない か。その悪循環を感じる。

 「だけど、世の中ってそんなに悪くないんだよ。」虚無の声に負けないで、人生肯定的に生きよう じゃないか。ほら今年の春も無垢な命がたくさん芽生えている。君のために!

誓学の小径 NO。3

4,月25日 (金)

随筆 肥後広文

 共通講義棟の前に咲く、真っ赤な一塊りのチューリップに気付いていますか。美しい若葉の緑の 中でひときわ目立って咲いています。

 何となくその場にそぐわなく思えるときもあるが、悪く言えば、浮いている。ミスマッチである。

だけどである。私はその花を植えたであろう人の影をそこに見ます。

 おそらく、2,3人で植えられたのであろう。何の目的で ?!

花が好きな人は、人生を肯定的に捉えている人ではないだろうか。移植ごてで土をおこし、肥やし をまいて、苗を植え、土をかけ、水をやり、背を伸ばして、にっこり笑って汗を拭く。

 チューリップはそれに応えて、美しく咲いた。

そこの営みを私は感動的に見る。これは私が年をとってきたことばかりではないと思うのだが。

 大学のこんな小さな中でさえも、いろんなドラマがある。それに出会えたとき、何とも言えない 喜びと、明日を信じてみようと思う気持ちに駆り立てられる。

・哲学の小径 NO.4

5月2目(金)

随筆 肥後広文  昨目の渡邊満先生の「道徳教育特論」は興味深かった。

アリス・ミラーという女性の精神分析学者が、「教育」、「教えること」は結論として「魂の殺人」

であると言っている。我々、教師にとってはすさまじい結論である。

 職業が奪われる危機から言っているわけではないが、私は教育は絶対必要であると思うのだが。

しかし教育しない方がいい、荒っぽい言い方かもしれないが自然にまかせて、ほっておけばいいと 思うところもある。

 彼女がどのようにしてそのような結論に至ったかは詳しく述べられないが、1800年代始めに シュレーバーという高名な教育学者がいたそうです。彼は二人の息子に実に模範的な教育をしたそ うですが、その成長は歪んでいった。フロイトでさえ治療できなかった。それをフロイトの敗北と 彼女は言っているそうだが、詳しくは「始めに教育ありき」という本を読んでみてください。

 フロイトも人間であり、神ではないと思うのだが。ともかくその過程の中でアリス・ミラーは 教育はr魂の殺人」であると帰着したのだそうだ。

 そんな教育談義の中で、「戦前、戦中には今よりもっといい教育があったのかも」と渡邊先生がさ らっと言われた。教育勅語の世界へ帰れということではない。

 昔は家に床下があった「床下のパロディ化」、これでは何のことかさっぱり分からないであろうが 自分の家にも床下があって、そこに鶏がいた、のぞいていたら後ろからつつかれた想い出がよみが えり、愉快になった。床下は特別な空間だったように思う。不思議なところだった。もちろん渡邊 先生の1床下」は比喩である。昔、教師はびっしと座っている生徒の前で、おそらく一方的な授業 をしていて、生徒も分かろうと分かるまいとじっと聞いている。そして休み時間になると、子ども 達は床下にもぐって、先生の授業のまねごとを「えんがちょ」という遊びでする。「えんがちょ遊び」

とは悪霊払いのようなもので「千と千尋の神隠し」の中でも「釜じい」がやっていた。 要するに 教師がやった授業をパロディ化して、ごっこ遊びをしながら自分達の何かを解放していたのかもし れない。それを知っていて、教師も注意することなく見過ごしていく。おおめに見るということだ。

 我々教師は、学校でいろいろな子どもを見る中で、自分の子どもは、ああならないにようにと、

せっせと「教育」「躾」と思いこんでいることを子どもにやる。だけど子どもは思惑通りにいかなく て、歪んでいくという、何ともやりきれないことがよくある。

 私も子どもが小さいとき自分の子どもに厳しかったように思う。夏に帰省したとき、私の母が子 どもにおやつか何かやったとき、私が強い口調で「ありがとうと言ったか」「甘いものばかり食べる んじゃないぞ」のようなことを定かではないが言ったとき、母がrそげん、おこらんでもよかが、

子どんは、あめとう食べたいもんじゃが」(鹿児島弁訳:そんなに、怒らなくてもいいじゃないか、

子どもというものは甘い物が好きで、食べたがるものだ、<食べさしてやったらいい>)と言った のを思い出した。確かに私も本当に大事に、いい意味の甘えの下で育ったような気がする。注意す ることは、決して躾として悪いことでは無いが、今、あまりに「教育」「躾」という名の下に教師と

しての仮面をかぶって、「子どものために」という大義名分での言動が多いのではないだろうか。

 子どものためではなく、意識か無意識か分からないが親の教育をやったという満足感のようなも ののためではないのかと感じるときがある。

 決して甘やかせといっているのではないが、「甘えたいときには甘えさしてやれ」という度量の 大きさが昔の教育にはあったのではないだろうかと思う。

 「ゆとり」が無いから「ゆとりの教育」という言葉をわざわざ入れなければならない、今日の 教育の貧困さが、そこにあるような気がする。

 学校現場の問題解決には、意外と「昔の教育に習え」ということで解決する問題もあるかもしれ ない。自分の小ささと母の大きさを思った今目の授業であった。渡邊先生に感謝 !