• 検索結果がありません。

慕開偉、男性、雲南省南華県出身、現在24歳、南華鴻潔家政服務部の責任者です。彼は1986年 6月、雲南省楚雄州南華県沙橋鎮田心村民委員会に属する、平凡な農家に生まれました。素朴で 善良な両親のもとで、社会から心遣いと援助を受けながら育った彼は、徐々に何事も堅実に行い、

謙虚さと勤勉さ、優しさと向上心にあふれた優秀な青年へと成長しました。彼は生まれつき強い 性格で、幼い頃より辛さや苦しさにも負けない強さを持ち、成長すると熱心に人助けする大人に なりました。5年前、20歳になった彼は、楚雄州の海外労務派遣サービス部門から支援・サポー トを受け、単身で来日し、水産物加工業務に従事しました。彼は3年の契約期間を終えた後、は じめはより良い場所や企業で成長するのも良いと考えていましたが、望郷の念断ちがたく、決然 として実家に戻り起業することを選択しました。そして、多くの経済的便益と社会的便益を一度 に手に入れて、故郷のさまざまな事業の発展推進のために新しい貢献を果たしたのです。これは まさしく、彼が故郷の発展を強く願っていたからこそ、帰国後の起業という成功に導かれたので しょう。2009年、慕開偉は楚雄州委員会や州人民政府から、優秀農民労働者として表彰され、故 郷に戻ってきた農民労働者に手本を示し、より多くの人々を激励して、海外へ働きに出ていく後 押しをしました。彼の海外就労と帰省・起業の物語は、こうして大きく広められたのです。

慕開偉の成長の軌跡を振り返れば、始めは決して平たんな道のりではありませんでした。軌跡 を見れば、彼が一定の胆力と識見を持ち、逆境を乗り越え困難に打ち克ち、自己実現を成し遂げ たことが分かります。2004年6月、3年間の高等学校を終了した彼は、大学への憧れを抱いてい ました。自信にあふれて受験に挑戦しましたが英語試験の成績が振るわず、不合格でした。それ 以降は実家の経済状況が厳しいために、進学の機会を永遠に逸してしまいました。大学進学をひ たすら願っていた彼は、周りのクラスメートたちが一人また一人と進学していく姿を、ただ残念 な気持ちで眺めるほかありませんでした。しかし願いを心にしまいこむことはできても、負ける ものかという気持ちに安寧は得られませんでした。このことで彼は決して落胆することはなく、

事例 14

慕 開偉

生 年 月 日: 1984年7月24日

送出し機関: 中国雲南国際経済技術合作公司 職   種: 食品製造

帰 国 日: 2008年11月

それ以来、「人生の夢は大学に行かなくても実現できる。堅実に働いて、実力を常に高めながら 社会に有用なことをすれば、大学に行くのと同じように、人生を有意義なものにすることができ るはずだ」という固い信念を胸に抱きながら、大学よりもっと大きな、社会という学校に進学し、

海外就労という険しい道を迷うことなく選んだのです。それというのも彼は、「実家の厳しい経 済状態は、ただ田畑を耕していてはすぐに変えることはできない。海外へ出てより多くのことを 学ばなければ、家族を豊かにすることはできない」ということを知っていたのです。海外就労と いう計画を思いついてから、彼はどんな職業を選ぼうかと頭を悩ませ始めました。彼は就労期間 中の学習で、後々自分が起業したり、故郷の発展に取り組むときに役立つ知識をより多く学んで、

家族を貧困から救い出し、故郷の発展に力を尽くしたいと考えていました。彼は職業を選ぶ1年 余りの間に、数多くの辛酸をなめ、さまざまな困難に突き当たりました。わずかな給与は日常的 な支出を引くと、ほとんど貯金する余裕もありませんでした。彼の「人の力になりたい」という 願いからはほど遠い状態でしたが、だからといって彼は海外就労に行くという信念を捨てず、よ り良い就職先をずっと探し続け、夢の実現を心待ちにしていました。2005年7月、偶然のチャン スが到来しました。彼は南華県海外労務派遣サービスセンターが青年一行を日本へ就労に行かせ るという情報を耳にすると、少しもためらうことなく決意を固め、喜び勇んで応募に駆けつけま した。彼は熾烈な競争に平然と立ち向かい、聡明さと知恵によって次々に試験をくぐり抜け、つ いに研修生に選ばれました。そのとき、彼は20歳になったばかりでした。出国前、彼は関連規定 に基づき、昆明で3か月間の身体能力、技能、日本語訓練に参加しました。品行方正で学問にも 優れている彼は、無事に各科目を修め、予定通り2005年11月3日、水産品加工に従事するため、

昆明から日本へと旅立ちました。日本に着いてからは、会社の業務に全身全霊を傾けて、勤勉に 努力を続け、よく学び上達し、海外就労という貴重なチャンスを存分に活用しました。2005年11 月から2008年までの3年間、彼は毎日、朝早く家を出て夜遅く帰り、地道にこつこつ努力を続け、

強固な意志と苦労もいとわない強靭な精神力を鍛えました。忘我の境地で仕事に励み、会社の管 理に従い、契約事項を遵守し、職責を全うして、異国の会社のリーダーから大いに認められるよ うになりました。また、要求事項に基づいて、日本に派遣される労働者は研修生と呼ばれ、さま ざまな仕事をこなす傍ら日本語の勉強も必須であり、日本語のレベル試験を受けなければなりま せん。彼は仕事の合間を縫って、仕事の疲れを癒す間もなく、日本語の勉強に励み、先進的な専 門技術や管理経験について学びました。そして2006年、「加熱性水産加工食品製造業」の初級合 格証を取得し、2008年6月には日本語能力試験2級に合格しました。この二つの資格は、彼が日 本で仕事や勉強をする上で、より大きな助けとなりました。

彼は、人助けを喜びとする人です。幼い頃から貧しかった彼は、貧困地域の若者が学校で学ぶ のは困難がつきものだということをよく知っていました。海外へ働きに出てからは、中国と海外 との差をつくづく思い知らされ、貧困状態にある生徒たちのために何かしてやれるのではという 自信と決意が生まれました。たとえ収入は多くなくても、中国の故郷の人々に力を貸したい、愛 の心を祖国に送り届けたい、困難にあえぐたくさんの人々をできる限り助けてあげたいと、ひた すら思い続けていました。彼は他人を助けたいが故に、普段の生活でも常に食費を切り詰めてい ました。半額の野菜を買うために3時間も待ったり、230円のバス代を節約するために、気温38

度で照りつける太陽の下を、30分も自転車をこいで駅まで通いました。彼の行動は、海外へ働き に出た労働者が、故郷のために何か良いこと、役立つことをしてあげたいという心の叫びだった のです。海外で働く日々の中で、彼は常に母校(南華一中)の貧乏な生徒たちの教育を気にかけ ていました。最初の1か月分の賃金をもらったときから、「母校にいる貧乏な生徒を助けてやろう」

という考えが生まれました。そして南華一中の責任者と何度も相談した末、最終的に貧困に悩む 3名の生徒を選出しました。2006年より、彼は毎月少ない研修手当を節約して捻出したお金で、

李建平ら3名の貧乏だが優秀な生徒が高校を卒業できるよう、経済的な援助を始めました。彼の この行いは、南華県から海外へ派遣されている労働者の中で、働きながら生徒に経済的援助する 初めての事例となりました。2008年5月12日、四川省汶川県で大地震が発生した後、彼はすぐさ ま海外で働く数名の同僚らと連絡を取り、「一方有難、八方支援(どこかに困難があれば、みん なで支援をする)」という素晴らしい伝統に則って、日本で働くすべての雲南省出身者に声をかけ、

被災地の人々への募金を募り、582,572円を集めました。このように、祖国の人々に愛を示し、被 災地の人々を励まして彼らが強い心で祖国を復興できよう手助けし、中華民族の互いに助け合う という伝統的な美徳を行動で示したのです。彼の行いはありふれてはいても、無私の心から発し たものであり、称賛されるべきものでしょう。

彼の海外での3年間は、苦難に満ちたものではありましたが、収穫も少なくありませんでした。

勤勉で苦労をいとわない性質のおかげで、仕事は思い通りにはかどり、収入が徐々に増えるだけ でなく、生活環境も改善されていきました。この期間中、彼は多くの海外の先進的な管理理念を 学び、これが帰国後の起業時の確固たる基盤となりました。2008年、海外での就労期間を終えて 帰国した後、彼がずっと抱き続けていた故郷の発展のために何かしたいという願いから、起業と いう決意が生まれました。彼は幅広い市場調査を行い、状況を把握した上で、海外の先進的な管 理経験と管理理念を用いて、地元の経済と社会の発展を後押しできるような会社を設立したいと 思うようになりました。当時、世界金融危機の真っ最中でしたが、起業するという信念は少しも 揺らぐことなく、彼はプロジェクトを完遂するための論証や報告・審査業務を入念に行いました。

そしてさまざまな困難を乗り越えて、さまざまな角度から協議を行い、実現を目指して努力しま した。南華県労働力輸出サービスセンターから積極的な協力を得て、海外で貯めた人生で初めて のまとまった資金を投じて、南華県で初めての家政サービス会社、南華鴻潔家政服務部を設立し、

会社登記を行いました。服務部が設立されてからは、彼は「省エネルギー・環境保全」というテー マを忠実に守り、一貫して「信用にこだわり、品質を保ち、効率を追求する」をサービスの原則 として掲げ、良質で効率的なサービスを心をこめて顧客に提供しています。最少の資源で最高の サービス効果を上げるよう努め、社会的便益と経済的便益を常に向上せることを目標として、訪 問サービスを積極的かつ自主的に展開し、家政サービス業界のイメージアップを図り、顧客から おしなべて高い評価を得るようになりました。彼は起業する際、あちこちで仕事探しをする労働 者たちに配慮することも忘れず、従業員8名を採用して服務部に就職させ、地元の雇用問題の軽 減にプラス効果をもたらしました。こうして服務部は、経済的便益と社会的便益を上げるように なったのです。