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言葉は橋、堅実な仕事ぶりで裕福になる

いうちに自分の将来のために懸命に努力するのは良いことだと言いました。そして、考えに考え た末、ついに段建峰の計画に賛同したのです。数年後、段建峰の父親が当時を述懐して、本音を語っ てくれました。彼は、実は当初から段建峰が海外へ勉強と鍛錬に行くのは良いことだと思ってい ました。しかし、息子の一時の気の迷いではなかろうかと不安だったので、まずは「反対」する ことで、決意のほどを探ろうとしたのです。段建峰が真剣に、断固として自分の海外研修の計画 を立てているのを見て、彼はとても安心し、満足したといいます。そして段建峰がまだ出国もし ていないうちから、自分の息子を誇らしく思っていたということでした。

最終的に、段建峰は夢と固い信念を胸に抱き、河南国際社の訪日研修生の面接に参加しました。

彼の確かな技術力と真面目さ、進んで働く姿勢といった良い性質のおかげで、第一次面接で日本 側の受入れ企業に気に入られました。さらにその後の出国前訓練では、素晴らしい学習態度と優 秀な成績で、数か月後には無事、訪日研修へと旅立つことになりました。

飛行機が空港に降り立った瞬間、彼の心は今までに感じたことのない衝撃で満たされていまし た。祖国の科学技術は日進月歩で、既に今までの立ち遅れた古い中国ではないとはいえ、現在の 中国と日本との差が、いきなり具体的な形で目の前に現れたのです。そこで彼は、この3年とい う時間を大いに活用して、自分をさらに高いレベルまで引き上げようと心に誓いました。

会社では、心を尽くして先輩方からさまざまな専門技能を学び、彼らの職業倫理や業務態度か ら学びました。そして彼は、「決して日本人には負けないぞ」と自分に言い聞かせました。中国 にいるときは、段建峰は工場の技術員で、自分の技術力はなかなかだと思っていました。しかし 日本に来ると、それはまったく別問題だということに気がつきました。日本人が用いる機器や設 備は、中国のものとはまるきり異なっていました。全く新しいハイレベルで精密な設備、たくさ んの技術が駆使されており、仕事をしながら頭をひねり、コツをつかまなければなりませんでし た。自分でも仕事の合間を縫って、こっそりと勉強しました。日本語については自分で懸命に補 習をしていましたが、苦手だったため、より一層努力して空いた時間を使って勉強に励まなけれ ばなりませんでした。段建峰はつくづく、日本語は難しく、丸暗記して学んだことを実用に活か さなければならないと感じたといいます。日本語のレベルによって、自分の技術が高い水準に達 するか否かも決まってしまうのです。懸命な努力の結果、2年目になると、段建峰の日本語は日 常会話以外にも基本的な技術に関する会話もできるようになりました。2年目から、彼は日本人 に業務指導できるようになりました。彼は努力によって、中国人は日本人に劣らないことを証明 したのです。

日本での3年間、段建峰は非常に大きな刺激を受けたといいます。日本人の職業倫理、人とし ての原則、例えば、拾ったお金を自分のものにしないこと、他人を傷つけないことなど、どれも 彼に深い影響を与えました。日本企業の経営管理面でのやり方も、非常に印象的でした。

彼は、日本企業の経営管理における考え方と中国企業のそれとでは明らかな違いがあると思い

ました。中国企業はコスト削減のために原材料価格を押し下げ、労働者の賃金を引き下げようと することが多々あります。しかしそれでは、原材料の品質に影響を与え、ひいては製品品質に影 響を来し、労働者のモチベーションを保つこともできなくなります。日本企業では原材料の価格 を押し下げることも、労働者賃金を引き下げることもしません。安全面での潜在的リスクを軽減 させ、安全にかかわる事故の発生を防ぎ、製品の合格率を引き上げ、不良品を出さないようにす ることで、コストを削減するのです。段建峰はかつて、「考え方の変化が、何よりも大きな変化だっ たと思う」と語ったことがあります。彼の日本での生活は、感慨深い出来事であふれていました。

3年という時間はあっという間に過ぎ去り、2004年10月、日本から帰国した段建峰は、また新 たなスタートを切りました。3年間の日本での生活は、彼の機械加工技術を大きく向上させ、帰 国後彼はもとの工場に戻り、瞬く間に中堅技術者となりました。しかし彼は現状に満足せず、日 本で学んだ技術を最大限に発揮するため、しばらくの間検討し、調査に励みました。その結果、

段建峰は2007年、日本で貯めた金をすべて投じて、10ムー余りの土地を借り、建浩機械加工有限 公司を設立したのです。同社は主に、ボウリングマシン、旋盤、フライス盤、ロール曲げ機、せ ん断機、アーク溶接といった、機械加工関連業務を取り扱う会社で、彼は一歩一歩着実に前進し、

仕事にまい進していきました。学んだ知識と技術、そして精神面での鍛錬によって、彼は昼夜を 分かたず働き、食べるのも寝るのも工場で済ませ、労働者や先輩方と一緒に難問に挑戦し、高い 目標を目指してひるむことなく頑張りました。他人から委託された加工業務では、自ら技術指導 を行い、厳格な検査措置を定め、常に製品の品質を第一として、厳しい品質チェックを行いました。

段建峰はかつて、このように語ったことがあります。「あるとき、従業員らが中国人と日本人 の物事のやり方の違いについて話していたとき、日本人の社長がこんなことを言いました。『や り終わったらそれまで、というのが中国人の特徴だが、日本人はうまくやり遂げるまで終わりに はしない』」この言葉は彼の心にずっと刻みつけられ、自分の仕事にさらに磨きをかける上で、

自分を鼓舞する原動力になったといいます。

海外へ働きにでることを思い立った当初の目的が、「頑張って働いてお金を稼ぐ」という、非 常に単純なものだったとしても、3年間の経験は、段建峰に、お金以上の考え方の変化や高い境 界への昇華をもたらしました。これが、彼の会社の業務を周りとは違ったものにしているのです。

現在、彼の会社は設立当初の小さな工場から、大工場にまで発展しました。今の工場の敷地は 10ムー余りもあり、生産現場の建築面積は2,300平方メートル以上、年間売上高は1,800万元を突破 しています。さらに、「洛陽市2010年第3四半期重点企業考査評定」において、110位にランキン グされました。段建峰は、自分が裕福になっても、国の呼びかけに応じることは忘れてはいません。

市の労働就業局と積極的に連携して、レイオフされた失業者を100人余りも受け入れて再就職さ せました。彼は、自分が経済的便益を創造するのと同時に、社会に一定の社会的便益をもたらす べきであり、社会のために自分の力の及ぶ限りのことをすべきであると感じています。自分も今 日までの道を一歩一歩、歩んできました。何事も自分のことだけを考えていてはいけない、周り

の人を育てていくことも、社会への一種の恩返しなのだと思っています。彼は、これまでに自分 が得てきたすべてのものを眺めて、心からの満足を感じています。

起業することによって、彼は充実感を得ただけでなく、祖国の経済体制の構築にも微力ながら 貢献することができました。自分で経済的便益を創造すると同時に、社会のために一定の社会的 便益をもたらし、社会のために自分の力の及ぶ限りのことをなすべきなのです。四川大地震や青 海地震の際には、彼の会社は逼迫した経済状況の中から資金を捻出し、従業員らに思いやりの心 を持って奉仕することを呼びかけました。

つまるところ、日本での3年間の生活によって、彼は自分の理想を実現し、視野を広げ、外国 の先端技術を習得し、自分の会社を設立しました。彼も自分の選択したこの道を非常に誇らしく 感じています。そして、中国河南国際合作集団有限公司に対し、自分の人生を変えたいと思って いる人間にチャンスを与えてくれたことを心から感謝し、国民に益をもたらすこのような国の政 策に感謝しています。

(原稿提供:中国河南国際合作集団有限公司)