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李安良、中国共産党員、1966年生まれ。1998年に威海市聯橋国際合作集団有限公司を介して、

日本の仲精機株式会社へ研修に派遣され、2001年、両手いっぱいに収穫を抱えて帰国しました。

現在、威海聯橋仲精機械有限公司に就職し、加工課の課長を担当しています。

1998年2月17日、李安良は威海聯橋国際公司の海外労務派遣事業における第一期訪日研修生と して、未来への限りない希望と憧れに胸を膨らませて飛行機で日本へと旅立ちました。李安良が 外国の地に初めて降り立ったばかりの頃、何もかも見慣れないものばかりでしたが、彼を戸惑わ せるものはなく、周りにあるすべては開発と収穫のチャンスにあふれていました。1か月間の集 中的な学習をした後、3月18日、研修生の一行9名は、日本での研修生活が本格的にスタートし ました。言葉も文化もまったく異なる国で、コミュニケーションしたり、理解し合う上で妨げが あると、日常的な仕事や生活がとても不便になります。できる限り早く、この言葉の壁を乗り越 えることが、研修生が最初に通る試練なのです。李安良は毎日、退社して宿舍に戻った後、どん なに疲れていても常に最大限時間を割いて日本語の学習に取り組みました。仕事の合間の休憩時 間には、いつもさまざまな機会を積極的に活かし、日本人とできる限り交流しました。こうして 李安良はわずか半年間で、日本での生活や仕事に馴染み、周りの環境に完全に溶け込めるように なりました。言葉が徐々に上達するにつれ、好奇心も手伝って、日本の社会や文化、日本人を理 解したいと思うようになりました。この大柄な山東人は、誠実で純朴、率直な性格のおかげで、

すぐに周りの日本人の友人と心からの信頼関係を築くことができました。会社には50歳以上のベ テラン社員が大勢いて、度々彼を自宅に誘ってくれました。李安良はこのような機会を通じて、

日本の社会や日本人に対する理解を深めながら、日本語もレベルアップさせていったのです。

李安良は研修中、勤勉さ、探究心、こだわりと知恵によって、絶えずこの研修を自分なりに考え、

理解してきました。多くの機器や設備が中国のものとは違っても、李安良は中国で培った確かな

事例 16

李 安良

生 年 月 日: 1966年8月25日

送出し機関: 威海市聯橋国際合作集団有限公司 職   種: 機械・金属

帰 国 日: 2001年2月

機械加工の基礎知識と海外で取り組んだ学習によって、日本企業の業務フローと加工技術を素早 くに習得し、受入れ企業に大いに認められ、信頼されるようになりました。研修期間中、会社は 米国から、加工精度が0.002mmに達する先進的な精密ボウリングマシンを導入しました。しかし 技術的な要求事項が高く、操作が非常に難しい上、設備が大きく重いため、ほぼ使わずに放置さ れていました。李安良は、「この機械を皆が使えるようにしてやるぞ」と決心しました。1週間 以上もかけて研究を重ね、操作マニュアルやさまざまな関連資料を読み、自分の操作経験と照ら し合わせながら実践を続けました。そして李安良はついに、この設備を運転し、製品の加工精度 を大幅に向上させたのです。それ以来、この設備は専ら李安良が操作して、東芝社向けの高精度 な部品を製造することになりました。中でも一番難しかった部品の仕様は、直径300mm、厚さ 0.4mmのディスクで、これほど小さな面積の上に、旋盤で直径0.8mmの均一に並んだ500個もの小 さな穴を開けるというものでした。日本のハイレベルな熟練工でも頭を悩ますこのような高精度 部品も、李安良にとってはお手の物でした。一人で1か月間に18枚ものディスクを完成させ、会 社の製造記録を更新しました。3年間の研修を経て、李安良は試験に合格し、日本の機械加工技 能士の上級資格を取得しました。また、多くの専門知識や日本の管理制度についても学びました。

2000年、李安良は会社の責任者に随行して、大阪で盛大に開催された日本国際工作機械見本市に 参加しました。この見本市では、彼はこれまでに聞いた見たこともない、さまざまな最新式の旋 盤設備を目にしました。中でもドイツ製の数値制御旋盤は、なんと彼が普段3時間以上もかけて 加工成型する部品を、わずか40秒余りで完成させてしまうのです。李安良はこれまでにないショッ クを受けて自国との差を思い知らされ、自分が研修に来た目的と責任をしみじみと感じました。

そして、「最大限の努力をして学習に励み、帰国後は学んだ知識を活かして堅実な事業を興し、

中国の機械加工業界のために自分の人生を捧げよう」と心に誓いました。

3年間は、毎日が充実し、たくさんの収穫を得て、あっという間に終わりました。帰国するそ の日の朝、全従業員が会社の玄関に立って、彼を見送ってくれました。誰も皆、彼に対する名残 惜しさでいっぱいで、李安良は彼らと力のこもった握手を交わし、惜別の抱擁を交わしながら、

友情の大切さと自分の存在価値を実感しました。3年間、四六時中一緒にいて、辛さや嬉しさ、

幸せをともに分かち合ったことは、言葉では言い表せなかったといいます。

帰国後間もない2001年初頭、李安良は一緒に帰国した8名を率いて、威海聯橋精密機械有限公 司の設立に加わりました。会社は設立当初、厳しい状況にあり、粗末な工場建屋が一つあるだけ でした。日本側と提携して建てた工場だったため、すべての設備は日本側から導入しなければな りませんでした。3月、輸入設備が威海に到着しました。その日は急に気温が下がり、冷たく強 い風が吹いていたが、作業場には暖房設備が何もありませんでした。しかしこのように過酷な作 業環境も、皆の高揚した起業への情熱に水を差すことはできませんでした。李安良の指揮のもと、

誰もが動き出したモーターのように全速力で働きました。そして10日間以内にすべての設備の据 付とデバッグ作業が終わり、その月のうちに注文書を受けて製造が始められたのです。品質、数量、

納期、すべて顧客の満足のいくものでした。製造と管理の責任者として、李安良は社内では製造 と管理を的確に行い、対外的にはメーカーと連携協力しました。作業場では技術者、加工労働者

らと奮闘し、厳寒の日にも酷暑の日にも、各外部協力メーカーとの間を忙しなく行き来しました。

会社は創業当時、生産規模が小さいために、各外部協力メーカーとの提携するときにも誇るべき 強みなど何も持っていませんでした。自分の真心とこだわりだけを武器に、一つひとつ難題に取 り組んでいくしかなかったのです。そして李安良はついに、各協力企業との関係性を調整して、

安定的な業務チェーンを構築しました。創業初期、一人ひとりがある種の職業倫理を体現してい ました。主に研修生で構成された従業員たちは、誰もがいくつもの役割を持ち、多彩な技能を身 につけて、個人の最大限のエネルギーを存分に発揮しながら、一致団結することもでき、チーム で協力するという模範的な例を生き生きと体現していました。とりわけ李安良はその代表的存在 であり、品質と納期を守るため、彼は休日を放棄し、家族との団らんを諦め、工場を家としてい ました。雨の日も風の日も働き、深夜までの残業も日常茶飯事でした。そんな彼にとって、何よ りの慰めは、自分の汗の結晶である製品一つひとつが包装されて、顧客に発送されていくところ を見ることだといいます。

会社は急速に発展し、設備や従業員も増え続けました。生産技術を成熟させるには、整備され た科学的な管理制度による後押しが必要であり、各方面の管理を強化し、改善していくことが、

すぐに検討課題に盛り込まれました。地元の従業員の増加を受けて、李安良は「5S管理」といっ た日本の生産管理、現場管理モデルを導入し、研修生出身の中堅社員として大いにその手腕を振 るい、各種制度の徹底化に取り組みました。李安良はいつも、忘我の境地で仕事に没頭するとい う熱意と職業倫理感によって、従業員一人ひとりに手本を示しました。また、日本で学んだ先進 的な加工方法や経験、心得等を、自らの言葉と行動によって新入社員らに伝授しました。このよ うな努力の結果、李安良は際立った業績を上げ、2002年末、加工課課長に抜擢され、加工現場の 業務全般を任されました。2004年10月30日、威海聯橋精密機械有限公司と日本の仲精機株式会社 は、合弁企業である威海聯橋仲精機械有限公司を設立しました。主な取扱い製品は、DVDや車載 CD用の光ピックアップベース、小型手動圧縮機、飛行機用の各種ブラケット及びヒートシンク 等の精密製品へと拡大し、製品のほとんどは輸出され、顧客は世界的な有名企業ばかりです。李 安良は、新しい合弁会社の加工課課長を引き続き担当しています。彼は、優れた製品品質だけが 顧客の信頼を得られ、優れた製品品質は絶えざる技術イノベーションという基礎の上に構築され るものであることをよく知っていました。2005年3月、日本側から撮影機用スライドシートを要 求されたのですが、日本側から提供されたのは関連資料と図面のみで、1か月以内に難しい技術 を完成させて、適合製品を製造することを求められました。また、この部品を製造できれば、日 本側のその他すべての製品についても、威海聯橋仲精密機械公司にとって技術的に難しいことは 何もないことになると言われました。日本側技術員のサポートがない状況で、李安良は中堅技術 員数名を伴い、昼夜兼行で設備のデバッグと検証を行いました。1週間後、彼は自らの手で、各 指標を完全にクリアした撮影機用スライドシートを日本の顧客に手渡し、会社には長期かつ大口 の供給契約をもたらしたのです。2006年、李安良はまた、日本側の技術専門家と提携して、高精 度のエア駆動チャックの製造技術を開発し、完成品の製造に成功して、中国の技術的空白を埋め、

ずっと日本やドイツ、台湾製品に独占され続けている中国の高精度エア駆動チャック市場の現状 を打破しました。2008年以降、企業の拡大にともない、さらに精密刻印機の完成品を導入して研