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発 行 にあたって 財 団 法 人 国 際 研 修 協 力 機 構 ( 以 下 JITCO)は 研 修 生 技 能 実 習 生 の 受 入 れを 適 正 かつ 円 滑 に 推 進 するため 送 出 し 国 政 府 窓 口 と 協 力 関 係 を 構 築 してきました 2011 年 度 末 現 在 J

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外国人研修・技能実習に関する

中国帰国生編

(中国中日研修生協力機構 監修・編集)

成果事例集

2011

年度版

(2)

発行にあたって

財団法人国際研修協力機構(以下、JITCO)は、研修生・技能実習生の受入れを適正かつ 円滑に推進するため、送出し国政府窓口と協力関係を構築してきました。2011年度末現在、 JITCOと協力関係にある国は15ヶ国に上り、また、既に60万人以上の研修生・技能実習生が 帰国し、わが国で修得した技能・技術・知識を母国の経済・産業の発展に役立てています。 開発途上国の経済発展と産業振興の担い手となる人材を育成する観点から、本制度の担う 役割が重要となりつつあるなか、2010年7月から新制度が施行されました。新制度では「帰 国後の修得技能等の活用状況に関するフォローアップの重要性」について言及されているよ うに技能実習生の送出し・受入れ状況とともに、技能実習を終えて母国に帰国した技能実習 生の活躍状況に対する関心が一層高まっています。 このような観点から見て、本制度の成果を一層向上させるためには、わが国において実施 されている個別の技能実習の内容の充実化に加え、15の送出し国それぞれが、自国の技能実 習生の帰国後の活動について積極的かつ継続的なフォローアップ調査を行い、必要に応じて 支援等を講じることが重要となります。 このためJITCOは、送出し国の政府窓口に対し、帰国後のフォローアップの重要性を強調 してきました。また、その一環として、2005年度より帰国生の成果事例収集・編集への助成 事業を進めており、送出し国の政府窓口の協力の下、これまでに収集した中国・ベトナム・フィ リピンの帰国生150以上の事例を「成果事例集」として取りまとめ、関係者の皆様に配布し てきました。 本事例集は、中国人帰国生16名の事例を掲載しています。事例の収集・編集は、中国中日 研修生協力機構が行い、翻訳は提出された原稿を元にJITCOが行いました。 現在技能実習事業に参画されている関係者の皆様に加え、今後本事業への参加を検討され ている方々にとっても、本冊子が有益な参考資料となれば幸いです。 2012年3月 財団法人国際研修協力機構(JITCO)

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目 次

Table of Contents

1 趙 徳平  南通市水郷農業技術開発有限公司………

1

2 田 煥虎  威海国際経済技術合作股有限公司………

6

王 金瑞  滄州市対外経済技術合作公司………

14

万 甫来  中国江西国際経済技術合作公司………

21

劉 和智  中国国際技術智力合作公司………

29

蒋 麗芳  河南金城国際経済技術合作有限公司………

34

徐 慶江  吉林省天旨経済技術合作有限公司………

40

趙 純革  中国河南国際合作集団有限公司………

46

張 建東  秦皇島職工対外交流中心………

53

黄 愛娥  中国上海外経(集団)有限公司………

59

邱 永久  河南吉星対外労務合作有限公司………

66

段 建峰  中国河南国際合作集団有限公司………

71

襲 景強  秦皇島職工対外交流中心………

78

慕 開偉  中国雲南国際経済技術合作公司………

83

李 方方  煙台国際経済技術合作有限責任公司………

90

李 安良  威海市聯橋国際合作集団有限公司………

97

事例

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夢が実現

─趙徳平の業績

趙徳平、男性、28歳、濮陽県郎中郷大趙寨村。2007年1月、趙徳平は濮陽国際公司から日本へ 農業研修に派遣されました。研修期間中は業務に励み、勤勉に学習して、受入先企業から高い評 価を得られました。彼は人も羨むような大きな富を築いただけでなく、日本のハウス栽培野菜の 現場管理技術を習得しました。彼は、2010年1月に帰国して間もなく起業しました。既に特殊養 殖場を設立しており、現在は有機物の循環を利用した有機物の取扱い企業の設立も積極的に検討 中です。 2004年7月、信陽農業高等専門学校を卒業した趙徳平は、若者特有の情熱と自信に満ち溢れて、 故郷の濮陽県郎中郷大趙寨村に戻ってきました。両親や家族は、彼は農村を飛び出して大学生に なったのだから、そのまま都会で立派な仕事に就き、人も羨むような高給を取って暮らして欲し いと望んでいました。しかし、幼い頃より農村で生活し、農村や農民に深い思い入れのある趙徳 平は、彼を育んだ黄色い土地に大きな夢を託していたのです。 趙徳平は農業大学で、果物と野菜の栽培について学びました。彼は両親に、自分は高層ビルに 囲まれた都会で事業を興したりはせず、学んだ知識で農村と農民に恩返ししたいと言いました。 だからこそ大学卒業後、大学の先生が、彼が都市部にいられるよう、好意で引き留めてくれるの をやんわりと断り、人も羨む高給を放棄して、頑固にも故郷に舞い戻ってきたのです。 2004年から2006年の間、趙徳平は自分の専門に関連性のある職場を選んで働きました。果物と 野菜の技術員や営業の仕事もしました。ところが、理論から実践へと移る過程は、思っていたほ ど簡単なものではありませんでした。壁にぶつかって失敗を重ねるたびに、趙徳平は自分の無鉄 砲さを感じ、功を焦りました。2006年末、趙徳平は濮陽国際公司が日本への農業研修生を募集し ているという話を聞いて奮い立ちました。第二次世界大戦後、急速に発展した先進国として、日

事例

1

趙 徳平

生 年 月 日: 1981年11月18日 送出し機関: 南通市水郷農業技術開発有限公司 職   種: 農業 帰 国 日: 2010年1月

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本の発展スピードには刮目せずにはいられないものがあります。趙徳平は農業学校出身のエリー トらしく、日本の農業の発展も世界中から大きな注目を集めていることを知っていました。彼は このチャンスを利用して、日本に学びに行く「唐僧」になることを決意したのです。その上、3 年で数十万元の収入が得られるということでした。起業資金が早急に必要だった趙徳平にとって、 これは夢にまで見たチャンスだったのです。 2007年1月、両親と家族を説得して、趙徳平は村人全員の祝福を受けながら、濮陽県郎中郷大 趙寨村からの訪日農業研修生第1号として、飛行機に乗り込み、一路日本へと旅立ちました。 日本での趙徳平の研修課題は、野菜のビニールハウス・温室栽培と管理でした。幼い頃より農 村で生活し、果物と野菜栽培を専門的に学んだ趙徳平にとって、今回の日本研修はまさに渇望し ていたチャンスであり、農業従事者として鬼に金棒になるための経験だったと言えます。1か月 の語学研修の後、趙徳平は仕事に勉強に忙しい日々へと突入しました。彼は日本の温室やビニー ルハウスの構造と付属施設についてよく考察し、日本の野菜栽培に関する播種や管理技術を学び ました。自分が学校で学んだ知識を活かしながら、自分が管理するビニールハウスの実情を踏ま えて、大胆にも社長に対して自分の提案や考え方を述べました。日本人の社長は、この若者が勤 勉な上にしっかりとした考えを持ち、学識もあるところを見込んで、思い切って彼の提案を採用 したり、技術に関する仕事の一部を安心して彼に任せたり、その他の重要な職務を与えたりしま した。 趙徳平は日本で働いた3年間、業務に励み、勤勉に学び、日本の温室・ビニールハウス野菜栽 培の先端技術を習得し、熟練しただけでなく、相当な額の資金を貯めることができました。さら に社長には、多くの優れた提案を行い、温室野菜の販売量を大幅に増加させました。この3年間で、 趙徳平は社長から何度もお褒めの言葉を頂きました。 2010年1月、趙徳平は3年間の研修生活を終えて、故郷に戻ってきました。日本での3年間、 彼は起業の夢をずっと捨てず、日本にいるときも地方で特殊な養殖業に従事している友人と電話 で連絡を取り、夢をより一層具体化させていました。帰国した翌日、彼は矢も盾もたまらない様 子で、同窓生に電話をかけました。 2010年2月、趙徳平は友人の援助を受けて、濮陽県東竇堤村の養殖場を思い切って借り受け、 次に、濮陽市の野菜栽培の里の責任者と暫定的な契約を結びました。彼は自分が学んだものを活 用して、有機物連鎖を作り出し、有害食品を生活から遠ざけようと考えたのです。 1,000平方メートル以上もある工場建屋、10万元以上もした養殖設備に、趙徳平は非常に興奮し ました。もし日本での3年間の努力がなければ、彼にとっては夢に過ぎなかったものです。しか し今、夢はついに実現し、彼は自分のものといえる場所を手に入れたのでした。趙徳平の養殖場 は一般的な養殖場とは異なり、養殖されているのはなんと、人々から「四害(訳注:ハエ・カ・

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ネズミ・スズメ又はナンキンムシ)」の一つとして忌み嫌われる「ハエ」でした。工場名もその まま、「ハエ・ウジ活性タンパク工場」といいました。 趙徳平がこのように特殊な養殖事業を選んだ理由と、彼の専攻や夢は切っても切れない関係に ありました。趙徳平は、学校で学んだ3年間と日本で研修した3年間で学んだことを実際に活か して、自分が作った本物の有機健康食品を人々に食べてもらいたい、自分の学んだもので、自分 を育ててくれた両親や家族、故郷の人々に本当の意味で報いたいと思っていました。これが、彼 のずっと消えることのない夢だったのです。ハエ・ウジ活性タンパクの養殖事業は、外国市場で 非常にもてはやされています。ハエ・ウジ活性タンパクが高タンパクの栄養製品であるだけでな く、食用にもなる上、養殖・飼育業にとっては素晴らしい有機飼料にもなるからです。科学的な 論証と実践によって、ハエ・ウジ活性タンパクを用いて育てたニワトリやアヒル等は、肉質も生 産量も、その他の飼料を用いた場合と比べて、最低でも30%の経済的便益の向上があることが証 明されています。また趙徳平は特殊なハエ・ウジ活性タンパクの養殖事業に対して、さらに遠大 な計画も持っており、「特殊養殖場は夢のスタートでしかない」と語っています。彼の計画とは、 特殊養殖場が生産したハエ・ウジ活性タンパクで飼料を作ることにより、科学によって一般的な 養殖業を健康的な方向へと発展させ、人々に有機健康食品を食べてもらうこと、そして、養殖業 で栽培業を牽引し、人々に有機肥料で栽培した野菜・瓜・果物を食べてもらうことによって、有 機物の良性循環のチェーンを形成することでした。 趙徳平の特殊養殖場は、既に操業し生産が始められており、また、鄭州の大規模な活性タンパ クの供給・販売会社と良好な提携関係を結んでいます。こうして、彼の計画は少しずつ進展して おり、遠くない将来、人々は思いがけないところで趙徳平の有機物会社を知ることになるだろう と確信しています。 (原稿提供:濮陽国際経済技術合作有限公司)

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梦 想 成 真

——赵德平事迹

赵德平,男 28岁,濮阳县郎中乡大赵寨村,2007年元月份,被濮阳国际公司派往日本进行农 业研修。在研修期间,赵德平工作努力,勤奋好学,深受日本会社的好评,他不但挣到了令人羡 慕的财富,还熟练掌握了日本温室培育蔬菜的现场管理技术。2010年元月份回国后,又立即投入 了自主创业之中。目前已创办了一家特种养殖场,利用有机生物循环的有机生物公司也在积极规 划中…… 2004年7月,毕业于信阳农业高等专科学校的赵德平怀着年轻人特有的激情和一颗踌躇满志的 心,回到了自己的家乡,濮阳县郎中乡大赵寨村。作为从农村走出去的大学生,父母和家人都希 望他能留在城市,有一份体面的工作,挣一份令人羡慕的工资。可是,对于从小生活在农村,对 农村、农民都有着极深感情的赵德平来说,那片养大他成人的黄土地却滋养着他的一个梦。 赵德平上的是农业大学,学的是果蔬种植,他告诉父母自己的事业不在城里林立的高楼大厦中, 他要用学到的知识回报农村和农民。所以,大学毕业后,他婉言拒绝了大学老师留他在城里的好 意和一份令很多人羡慕的高薪工作,执意回到了家乡。 从2004年到2006年间,赵德平一直围绕着自己的专业选择岗位,他做过果蔬技术员,搞过果蔬 的营销,然而,从理论到实践的过程,不是想象中的那么简单,一次次的碰壁和失败让赵德平感 到了自己的莽撞和急于求成。2006年底,濮阳国际公司招收日本农业研修生的消息让赵德平为之 一振,作为二战后迅速崛起的发达国家,日本的发展速度不得不令人刮目。作为农业院校的高材 生,赵德平知道日本的农业发展也颇令世界瞩目,他决定利用这次机会也做一次去日本取经的“唐 僧”。再说,三年下来几十万的收入对于创业急需资金的赵德平来讲也是梦寐以求的呢! 2007年元月,说服了父母和家人,赵德平带着全村人的祝福,作为濮阳县郎中乡大赵寨村第一 个出国日本的农业研修生踏上了飞往日本的飞机。 在日本,赵德平研修的项目是蔬菜的大棚温室种植和管理。对于自小生活在农村,学的又是果 蔬种植专业的赵德平来讲,这次的日本研修对他来讲简直可以用“如饥似渴”和“如虎添翼”来 形容。一个月的语言学习之后,赵德平便投入了紧张的工作和学习当中。他一边认真揣摩日本温 室大棚的结构和配套设施,学习日本在蔬菜种植方面的播种和管理技术,一边利用自己在学校学 到的知识,结合自己所管理的大棚实际情况大胆向老板提出自己的建议和想法。日本老板对这个 年轻好学,又有思想和学识的小伙子很是看好,不但大胆采用他的建议,还放心的把一些技术层 面的工作及其他重要岗位交给他干。 赵德平在日本工作的三年间,努力工作,勤奋学习,不但熟练掌握了日本温室大棚蔬菜种植的

事迹

1

赵 德平

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先进技术,给自己创造了可观的经济效益,还给老板提供了很多很好的建议,使得温室的蔬菜销 量大增,工作的三年间,赵德平多次被老板嘉奖。 2010年元月,赵德平结束了三年的研修生涯回到了自己的家乡,在日本的三年,独立创业的梦 想他一直没有放弃过,在日本的时候,赵德平和一位正在外地搞特种养殖的朋友取得了电话联系。 赵德平的梦想愈加清晰。回国后的第二天,他便迫不及待的拨通了同学的电话。 2010年2月,赵德平在朋友的帮助下先是果断的接下了濮阳县东窦堤村的一个养殖场,紧接着, 又和我市蔬菜种植之乡的负责人达成了初步的协议,他要利用自己所学的东西创造一个有机生物 链,让有害食品远离生活。 一千多平方的厂房,十多万元的养殖设备,让赵德平异常兴奋。如果没有他在日本的三年努力, 这些对他而言也只不过是梦想而已,可现在,他终于梦想成真,有了真正属于自己的阵地。赵德 平的养殖场可不是一般的养殖厂,他养的竟然是被人们归为四害之一的“苍蝇”,厂名就叫—蝇 蛆活性蛋白厂。 赵德平之所以选择这种特种养殖项目,自然离不开他的专业和梦想,在学校学习的三年和在日 本研修的三年间,赵德平一直想学以致用,让人们吃上他自己制造的真正的有机健康食品,让自 己学到的东西能真正的回报生养他的父母家人及乡邻,一直是他的一个不可磨灭的梦。饲养蝇蛆 活性蛋白在国外市场很好,不仅因为蝇蛆活性蛋白是一种高蛋白的营养品,不但可以供人们食用, 对于养殖业来讲,更是一种很好的有机饲料。经科学论证和实践证明,用蝇蛆活性蛋白喂养的鸡 鸭等,无论是肉质还是产量,比用其他饲料至少要提高30%经济效益。而且,搞蝇蛆活性蛋白特 种养殖,赵德平还有自己更长远的打算,他说,特种养殖场只是他梦想的开始,他的计划是用特 种养殖厂生产的蝇蛆活性蛋白做饲料,科学带动一般养殖业的健康发展,让人们吃上有机健康食 品,然后用养殖业带动种植业,让人们吃上用有机肥种植的蔬菜瓜果,从而形成一个有机生物的 良性循环链。 赵德平的特种养殖场目前已开始投入生产,并和郑州的一家大型活性蛋白供销公司形成良好的 合作关系,他的计划也在逐步实施,不久的将来,相信赵德平的有机生物公司一定会与人们不期 而遇。 (濮阳国际经济技术合作有限公司供稿)

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農民から研修生、そして社長に

─田煥虎の業績

田煥虎、1962年10月26日生まれ、中国共産党員。本籍は山東省泰安市東平県新湖郷王思口村、 最終学歴は高等学校卒業。 彼は高等学校を卒業した後、ずっと自宅で営農に従事していました。本を読んだり独学したり しながら、素直な心で教えを乞い、科学的な農業耕作を研究して、高い技能を磨いていました。 その後、彼は果てしない憧れを胸に抱き、街で写真館を開き、その熱心な仕事ぶりのおかげで店 の評判は上々でした。しかしある日、山東半島東部からやってきたお客から、「たとえ山東半島 東部がこれから10年間発展がなかったとしても、東平県の経済はそれでも山東半島の水準には追 いつかないだろう」という言葉を聞きました。この言葉は、彼の心に深く刻まれました。 まさにこの言葉を聞いて、彼は家庭の状況を根本的に変えたい、故郷の姿を変えたいと思うよ うになりました。そこで彼は、既に37歳になっていましたが、アーク溶接技術と日本語を学び始 めたのです。1999年10月27日、彼は配管研修生として、新潟県で長く短い3年間の生活をスター トさせました。そのときの彼の目標とは、「日本人の友達を作り、ビジネスチャンスを持ち帰る」 ことでした。 中国式の日本語基礎をわずか3ヵ月間学んだだけの彼は、日本に来てからは、半分、聾唖者の ようでした。日本語は聞き取れない、仕事のやり方も違う、生活にも馴染めない…さまざまな辛 酸苦楽をなめ尽くしました。しかし、すべてのことはゼロから始まるのです。彼は新しい仕事の やり方や日本人の勤務態度や職業倫理について、一生懸命に学び始めました。 1年半後、彼は日本語で交流できるようになり、徐々に日本社会に溶け込めるようになりまし た。観察し、じっくり考えることで、日中両国の法律、人文、治安等における違いや隔たりを総

事例

2

田 煥虎

生 年 月 日: 1962年10月26日 送出し機関: 威海国際経済技術合作股有限公司 職   種: 建設関係 帰 国 日: 2002年10月

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括し、日本の経営管理、技術の集約化、安全意識、品質意識について調査や研究を行いました。 その結果、彼は外国に滞在する者として、特に先進国に暮らす者として、国を愛することが人を 成長させる大きな原動力となることに気づいたのです。人の資質には大差がなく、他国にこれほ どたくさんの申し分なく、手本とするに値する長所があることを発見したときに、彼の愛国心は 掻き立てられ、先入観を捨てて懸命に勉強し、根気よく継続し、心を奮い立たせて国のために努 力しようという気持ちが生まれました。このとき彼の中に、「より多くの中国人をここに連れて きて、先進的な技術と経営理念を学ばせ、より多くの優れた経験を吸収させれば、祖国をより強 く豊かな国にすることができる」という新しい考えが芽生えたのです。 彼は毎週、新潟友好会館に『人民日報』を閲覧に行っていましたが、ここの友達募集の掲示板 を通じて、日本の友人、青柳光洋と知り合いました。2001年11月18日、志向性が似ていて気の合 う二人は仲の良い友人となり、一緒に日中語学文化交流会「CHAI」を立ち上げました。そして、 現地の中国人と日本人に語学と文化の相互学習の機会を提供しながら、友達作りを手助けしたの です。この交流会を立ち上げたことは、日本でしたことのうち、最も意義あることだったそうです。 彼は多くの社会活動に参加しながら、持前の素直さと誠実さによって、大勢の日本の友人と知 り合いました。彼らとは未だに仲が良く、何でも腹を割って話すことができます。これら日本の 友人たちは、さまざまな面で無償の支援をしてくれており、彼はこれに非常に感動し、日本の友 人の誠意と友情をしみじみと感じています。これら友人を介してまた新しい日本人と知り会うこ とによって、ビジネスチャンスは無限に広がり、彼は夢に向かってまっしぐらに突き進んでいま す。日本でのこのような経験は、彼の人生に大きな豊かさをもたらしました。 しかし日本にも、国を愛する情熱に欠け、コンプライアンス意識の希薄な中国人もいます。彼 らは金儲けのためだけに、中国人の尊厳を踏みにじる行為をしていますが、このような悪い行為 がメディアを通じて明るみに出てしまっています。このようなニュースを見るたびに、彼は、「帰 国したら、自分が発する光と熱によって、日本を訪れる中国人を教育し影響を与えよう。たとえ たった一人の中国人だったとしても」と心に誓っているといいます。 2002年10月、彼は3年間の研修・実習期間を終えて帰国しました。2003年6月、彼は親戚や友 人たち皆の反対を押し切り、一人も知人がいないにもかかわらず、経済条件が整い、制度や文化 的環境が整備されているという利点を持つ青島に、誰にも頼ることなく独力での会社設立をひる むことなく選択しました。彼が会社を設立したその年は、ちょうど「SARS」が発生した年で、 業務はほぼ停滞状態にありました。続いて2004年には、福岡県で中国人留学生による刑事事件が 発生し、中国人のイメージが損なわれ、対日事業はまたもや大きな試練に見舞われました。当時、 会社の最大の問題は資金不足でした。彼は青島市の戸籍を持っていなかったので、銀行から資金 援助を得ることができませんでした。また、既存顧客もおらず、日本の友人が開拓した新しい顧 客ばかりでした。サイクルが長く、効果は遅く、仕事量は少なく、投資ばかりで収穫がありませ んでした。当時、既に絶体絶命の窮地に追い込まれていましたが、彼は信念と夢の実現のために、

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何とか持ちこたえて時機を狙いました。 2005年、彼の日本の友人が組合を設立し、本格的に研修生の受け入れを開始しました。こうし て彼が待ち望んでいた、心に誓った自己実現のチャンスがついに到来したのです。 中国人労働者の愛国心を高めるため、彼らの「金を稼ぐだけ」という目的の方向性を変えるため、 彼らを3年間のチャンスによって複合型人材として成長させるため、また、中国人研修生・実習 生のイメージを一新するために、彼はまったく新しい経営理念を打ち出しました。日本式管理7 割と中国式管理3割を融合させた経営管理モデルを作り出し、「信頼とウィン・ウィン」という 経営発展の趣旨を定めたのです。目標は、「盛田」ブランドを冠したサービスを創造し、より多 くの人を中国から世界へと旅立たせることでした。 2007年7月、彼の会社である青島盛田国際経済技術合作有限公司は、商務部の発行した『対外 労務合作経営資格証書』を取得しました。このニュースを聞くや、彼の日本の友人たちは非常に 喜び、より積極的に顧客を紹介し、事業開拓を後押ししてくれるようになりました。選抜・派遣 する人員の能力水準が高いため、いつも高い評価を得ています。彼の顧客も日増しに増えており、 経営状態は益々好転しています。 研修・実習事業において、彼はずっと「人材選抜を厳格化し、研修を規範化し、人間本位の管 理を行う」を三大原則として掲げてきました。研修生に対しては、「日本語を習得し、日本の先 進的な技術と経営・管理の経験を学び、ビジネスチャンスを持ち帰り、豊かな収入を得る」とい う四大研修目標を提示しています。また、インセンティブ制度を構築して、日本語能力試験1級 に合格し、勤務成績が優秀な者には、帰国後に人民元5,000元を、日本語能力試験2級に合格し、 勤務成績が優秀な者には、帰国後に人民元2,000元を奨励金として支給しています。 候補生に対する3か月という短い訓練は、重要なプロセスです。彼らを教育し、影響を与え、 考え方を転換させるため、田煥虎は訓練に直々参加して、自らの言葉と行動で模範を示したり、 土日を利用して彼らに教養に関する授業を行い、次々とやってくる候補生に影響を与えています。 彼の講義の主な内容とは、愛国心と責任感を高め、実習生のイメージアップを図ること、そして、 日本での日本語学習方法、仕事上の注意事項、日本人の職業倫理、日本人の生活習慣、日本の先 進的な技術と経営管理、日本人とどうやって友達になるか、日本の友人に改革開放政策を実施し ている中国の国情についてアピールすること、いかにして優れた実習研修生になるか、といった 事項です。彼自身に派遣された経験があるため、講義は実際の仕事や生活に非常に密着した内容 で、とても受け入れられやすいそうです。 日本滞在中の人間本位の管理とは、さらに重要なプロセスです。彼は観察や研究、組合との検 討によって、実習生に関する問題の予防措置と対応措置について取り決めました。また、受入れ 組合と協議した上で、年一回の実習生座談会や受入れ企業セミナーを定期的に実施しています。

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これは、実習生の成長や顧客との交流にとって、非常に意義深いことです。実習生全員と受入れ 企業の面々を集めて行う一対一での交流には、田煥虎の会社からも日本駐在代表者を参加させ、 中国の最近の発展状況について報告と交流を行っています。 実習生がより勉強に打ち込めるようにとの田煥虎の要請を受けて、組合では日本語学習クラス を月一回開催しています。このクラスは無料である上に交通費も支給され、日本語試験への参加 費用も組合が全額負担しています。 彼は、企業にいる実習生に関する情報を速やかに理解、把握するため、毎年7、8回は日本を 訪れて受入れ先を何度も回り、日本の社長や実習生と交流しています。社長には中国の風習や習 慣、実習生の心理状態を説明し、実習生とのより良い相互理解と意思疎通を促しています。日本 の社長が感謝を表明するたび、実習生に抱きしめられるたび、彼はこの上ない幸せと誇りを感じ るそうです。 また、彼は自分の顧客という資源を利用して外資の導入に努め、外国の顧客には中国への視察、 投資、工場建設を勧めています。2010年1月及び9月に、青島盛田国際経済技術合作有限公司と 青島市招商局は、日本の顧客向けの青島投資説明会を2回開催し、大きな成功を収めました。 会社が設立されて以来、彼は身の回りの資源を用いて、故郷である東平県に戻り、十数回余り も国内外投資事業の窓口となり、大きな成果を上げました。県の首長から称賛を受け、東平県か ら「企業誘致大使」という栄誉ある称号を授与されました。 自らの努力で日中両国の交流の橋を架けることが、彼の仕事になりました。彼は、実習生を派 遣することは、彼らに見聞を広めさせ、外貨を獲得させるだけでなく、彼らにより重要な使命を 負わせることだと考えています。元気溌剌とした中国人実習生一人ひとりが、実は日本へ絶えず 送り込まれる親善大使なのです。彼らは自分たちの優れたパフォーマンスによって、両国国民の 友情と国家間の文化交流を促進すると同時に、中国人実習生のイメージと姿をアピールして、企 業を誘致し資金を導入することによって国に貢献しています。 田煥虎は日本へ労働力を送り出すことによって、技術と資金を蓄え、素養をさらに磨き上げ、 視野を広げて自分の人生を一変させました。彼は平凡な農民から、渉外事業に携わる会社の取締 役会長へと変身を遂げました。このような変化には、多少の困難が付きまといますが、まさしく、 「未来は懸命に努力する人のもの」という彼の人生の信条通りなのです。 中国の労働派遣事業は、さらにたくさんの平凡な人々の人生を変え、より多くの帰国生の起業 への道を切り開いています。この最大の受益者は、間違いなく国と社会なのです。

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从农民到研修生再到总经理

——田焕虎事迹

田焕虎,1962年10月26日出生,中国共产党党员。籍贯为山东省泰安市东平县新湖乡王思口村, 高中文凭。 高中毕业后,他曾一直在家务农,通过读书自学,虚心请教,研究科学种田,成了一把好手。 后来,对于生活有无限向往的他,在城镇开了一家照相馆,由于精于业务,也小有名气。然而有 一天,一位胶东的客人告诉他 :胶东十年不发展,东平的经济也赶不上。这句话,在他心中留下 了深深的烙印。 也正因为这句话,使他想要彻底改变家庭的状况,改变家乡的面貌。于是,已经37岁的他开始 学习电焊技术,学习日语。1999年10月27日,他以一名配管研修生的身份赴日本新潟县开始了漫 长而短暂的三年研修生活。那时他的目标是 :结交日本朋友,带回商机。 只有三个月中国式日语基础的他,到了日本后无疑半聋半哑,日语听不懂,工作方法不一样, 生活不习惯,酸甜苦辣都尝尽。但是一切都只能从零开始,他开始努力学习新的工作方法、日本 人的工作态度和敬业精神。 一年半后,可用日语交流了,他开始渐渐地走向日本社会,通过自己的观察、深思,总结中日 两国法律、人文、治安等方面的不同和差距,对日本的经营管理、技术密集化、安全意识、质量 意识方面都做了一些调查研究。他发现,对于一个身在国外,特别是身在发达国家的人,爱国是 促使人成长的强大动力。当发现人的素质差别之大,发现别国那么多可圈可点可借鉴的优势时, 爱国激发了他的爱国精神,也激励他放下成见,努力学习,持之以恒,奋发图强。那时,他就萌 生了一个新的想法 :让更多的中国人能到这里来,学习更先进的技术和经营理念,吸取更多的优 秀经验,这样才能让自己的国家更加富强起来。 由于他每周都去新潟友好会馆看《人民日报》,从而在交友留言板上结识了日本朋友青柳光洋。 2001年11月18日,这两个志同道合的好朋友共同创办了CHAI——日中语学文化交流会,组织起当 地的中国人和日本人,互相进行语言和文化的学习,同时结交朋友。创办了这个交流会是他认为 在日本做得最有意义的一件事情。 通过参加很多的社会实践,他的正直和坦诚也让他结识了很多至今仍关系密切的日本友人,他 们之间几乎无话不谈,这些日本友人对他各方面的无私帮助,使他非常感动,更加深切的感受到 了日本友人的真诚与友谊。通过日本友人再认识新的日本人,也给他增加了无限的商机,使他向 着梦想不断前进。在日本的这段经历,是他人生中的一笔很大的财富。 然而,在日本也有一小部分中国人由于缺乏爱国热情,遵纪守法意识薄弱,一心只为金钱,做

事迹

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田 焕虎

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出了有损中国人尊严的事情,这些不良现象常常被媒体曝光。每次看到这种新闻,他都在心中默 默宣誓,回国之后,一定要发挥自己的光和热,去教育和影响赴日的中国人,哪怕只影响一个人。 2002年10月,他研修3年期满回国。2003年6月,他冲破所有亲朋好友的阻拦,顶住了压力,在 单枪匹马,举目无亲的情况下,毅然选择在经济条件和国际软环境优越的青岛创办了公司。创办 公司的那一年正赶上“非典”,业务基本处于停滞状态,接着2004年发生了一起日本福冈华人留 学生刑事案件让中国人形象受损,对日业务又一次受到重创。那时公司的首要难题是资金短缺。 由于他不是青岛户口,无法得到银行资助。也没有现成客户资源,全是利用日本朋友开发新的客 户,周期长,见效慢,业务量少,只有投入没有收获。当时已频临绝境。但是为了自己的信念和 梦想,他一直坚持着,等待时机。 2005年,他的日本朋友成立了自己的组合,正式开始研修生的接收,他终于盼到了实现自己誓 言的机会。 为了增强劳务人员的爱国心,为了扭转劳务人员单一挣钱的目的,为了让劳务人员利用三年的 机会变成复合型人才,为了打造中国研修生新形象,他开创了全新的经营理念,开创将70%日本 式管理和30%中国式管理融合一体的经营管理模式,树立“诚信、共赢” 的发展经营宗旨,目标 是打造“盛田”的品牌劳务,让更多的人跨出国门,走向世界。 2007年7月,他的公司——青岛盛田国际经济技术合作有限公司正式获得了商务部颁发的《对 外劳务合作经营资格证书》,得到这一消息,他的日本友人们也欢欣鼓舞,更加积极努力在日本 为他介绍客源、开拓业务。由于选派的人员素质水平较高,得到一致好评。他的客户也越来越多, 经营状况也越来越好。 在研修生事业上,他坚持“严格化选人,规范化培训,人性化管理”的三大原则。给研修生树 立四大研修目标 :学好日语、学习日本先进技术和经营管理经验、带回商机、获得丰厚的收入。 并且还制订了激励制度,获得日语能力考试一级、工作优秀的研修生回国后给予奖励人民币5000 元 ;获得日语能力考试二级、工作优秀的人员给予奖励人民币2000元。 对研修生短暂的三个月培训是关键环节,为了教育、影响、改变劳务人员的思想,他亲自上阵, 言传身教,利用周六周日的时间给他们上素质课,感染了一批又一批的研修生。他讲课的主要内 容有 :增强爱国心和责任心,树立研修生新形象、在日本的日语学习方法、工作注意事项、日本 人的敬业精神、日本人的生活习惯、日本的先进技术和经营管理、怎样和日本人交朋友、向日本 朋友宣传改革开放的国情、怎样成为一名优秀研修生等。由于是他的亲身经历,讲课内容非常贴 近研修生的实际工作和生活,也非常容易使人接受。 在日的人性化管理更是一个重要环节,他通过观察研究,通过与组合的探讨,制订了研修生不 良问题预防措施和应对措施,并和接收组合商定定期开展一年一度的研修生座谈会和一年一度的 接收会社研讨会,这对研修生的成长,对客户间的交流具有重要的意义。召集全体研修生和会社 面对面的进行交流,公司也派驻日代表参加,将中国的发展近况进行汇报和交流。 为了激励研修生更加努力的学习,在他的要求下,组合每月举行一次日语学习班,不但免费讲 报,还提供交通费,参加日语考级的考试费用也全部由接收组合承担。 为了即时了解、掌握会社研修生信息,他每年赴日七、八次,多次巡回并与日本社长、研修生 交流,向社长解释中国的风俗习惯和研修生的心理状况,使社长与研修生之间能够更好的理解和 沟通。每当得到日本社长感谢的时候,每当得到研修生拥抱的时候,他都感到无比的幸福和自豪。

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另外,他还利用自己的客户资源,努力引进外资,推荐国外客户来中国考察,投资建厂。2010 年1月和9月,青岛盛田国际经济技术合作有限公司与青岛市招商局合作举办了两次日本客户来青 投资说明会,并取得了很大的成功。 公司创办以来,他利用身边的资源,回家乡东平县联系国内外投资事宜十余次,取得了很大的 成果,得到了县领导的赞赏,并被东平县授予“招商大使”的荣誉称号。 通过自身的努力,搭建起中日两国交流的桥梁,成为他的事业。他认为,派遣研修生,不只是 要让他们见世面、赚外汇,还要让他们肩负更为重大的使命。一个个朝气蓬勃的中国研修生,其 实就是不断输往日本的亲善大使,他们将通过自己的优秀表现,促进两国人民之间的友谊和国家 间的文化交流,同时展现中国研修生的形象和风采,也为国家的招商引资做出贡献。 赴日务工使田焕虎积累了技术和资金,更提高了素质,打开了视野,改变了他的一生,让他由 一名普普通通的农民,变身为一家涉外公司的董事长。这种转变包含着多少艰辛。正如他的人生 信条 :“未来是属于努力拼搏的人”。 中国外派劳务事业还将改变更多普通人的一生,使更多的归国人员走上创业的道路,而国家和 社会无疑是最大的受益方。 (青岛盛田国际经济技术合作有限公司供稿)

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夢を実現させた研修、主婦が金色に輝く鳳凰に変身

─王金瑞の業績

数年前、王金瑞はごく平凡な農村の娘でした。しかし今では、彼女は幸せな家庭を築いているだ けでなく、ブライダル事業まで立ち上げて、スズメから鳳凰に変わるほどの変身を遂げました。海 外で働き、帰国して起業するまで、チンプンカンプンな状態から熟知し精通するまで、王金瑞の 事業はわずか2年という短い期間で目覚ましく成長しました。これは、彼女のたゆまぬ学習と進 取の気性だけによるものでなく、海外で働いた経験も起業のための礎石となったのです。彼女は、 事業とは適当にするものではなく、事業を興すならば成功しなければならないと考えていました。 幼い頃、王金瑞の家は決して裕福とはいえませんでした。経済的に苦しいため、聞き分けの良 い彼女は、中学卒業後すぐに働きに出るようになりました。しかし、彼女は貧しくても高い志を 持っていました。海外で働けば高い収入を得られるだけでなく、外国の先進的な技術や知識を学 ぶことができると知った彼女は、少しもためらうことなく、日本へ働きに出て、自分を高めるこ とを決意しました。2006年1月から2009年1月まで、滄州市対外経済技術合作有限公司から派遣 され、王瑞金は食品加工の研修を受けました。この3年間、たった一人で海外生活を送った彼女は、 独立心が旺盛になり、考え方も成長し、視野も大きく広がりました。労働契約期間が満了になっ た後、王金瑞は故郷、黄驊へ戻りました。日本での勤務時に、度々優秀従業員に選ばれていた彼 女は、故郷に戻ってからものんびりなどしていませんでした。彼女は、女性は他人に扶養されたり、 一生涯を台所の周りで過ごすのではなく、自分の仕事と夢を持つべきだと思っていました。こう して彼女は、自分が成長できる場所を探し求め始めたのです。 2009年、同世代の女性たちの多くが次々に結婚し、そのたびに結婚式に呼ばれていた彼女は、 現在のブライダル市場が前途有望であることを発見しました。花のアーチ、光輝くバージンロー ド、ファッションショーのような華やかさ、絶えず変化するレイアウト、司会者のさまざまな演 出に、彼女は眼の前がぱっと明るくなるような気持ちになりました。そして、結婚式の演出は多

事例

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王 金瑞

生 年 月 日: 1984年11月10日 送出し機関: 滄州市対外経済技術合作公司 職   種: 食品製造 帰 国 日: 2009年1月

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様性が求められる流行の産業であり、今後ブライダル業界は大きく発展していくだろうと予測し ました。しかし彼女の村には、きちんとしたブライダル専門企業はありませんでした。そこで、 ブライダル企業を設立しようという考えが芽生えたのです。この構想が生まれると、王金瑞には みるみる意欲が湧いてきました。それまでブライダル関係の仕事の経験は一切ありませんでした が、日本で培った業務経験と学んだ知識を武器に、彼女は迷うことなく、「やると言ったら必ず やる」という精神で取り組みました。日夜考えに考え、計画を練り、計算をして、海外で3年間 働いて貯めたお金を元手に、起業という夢を追いかけ始めたのです。 素晴らしい夢は、残酷な現実に直面して少しずつしぼんでいきました。度々結婚式に参列してい るからといって、式場では既に配置され準備が整った状態しか目にしていませんでした。彼女は、 各種のブライダル用品や音響設備、アーチ、ランタン等を飾ればそれでOKだと簡単に考えていたの ですが、それだけでは遥かに不十分だったのです。彼女はインターネットで調べて初めて、これらの 設備は最も基本的なもので、ブライダルの中身はもっと奥深く、どの設備もそれぞれに異なるニー ズを考慮して購入する必要があることを知りました。例えば、音響設備の良し悪しは式場の音響効 果に直結し、アーチの造型は式場全体の調和に影響を与えます。門外漢であった彼女は、一連の問 題にぶつかって最初はとても困難を感じました。そして、規模の大小にかかわりなく、滄州市内の ブライダル企業のほとんどに足を運びましたが、大きな収穫は得られませんでした。彼女がこれか らどうするべきかと途方に暮れているとき、日本へ働きに出る直前に、滄州市対外経済技術合作有 限公司の責任者と話した、「今日、あなた方は一つの物事をやると決断した。決断した以上はそれを 最後まで、最大限努力してやり遂げて欲しい。中途半端な人は、永久に何の成果も得られない」とい う言葉を思い出しました。深く悟った王金瑞は、絶対に負けるものかとひそかに決意したのです。 王金瑞がブライダル企業の起業準備をしていたのは、自分が結婚する日までわずか3か月に 迫っているときでした。しかし、彼女は自分の結婚はそっちのけで、夫になる人にすべてを任せ きりにしていました。彼女は毎日夜を徹してネットで資料を検索したり、あちこちの結婚式の見 学に出かけたりしていました。連絡がつけば、彼女はどこへでも出向いて学びました。あるとき、 天津の某ブライダル企業を見学させてもらうことになっていました。彼女がその企業に到着した とき、ちょうどある結婚式のプランを立てているところでした。彼女はそばで学びながら手伝い もして、会社側がどのように顧客とコミュニケーションするのか、顧客の特徴に応じて、式をど のようにオーダーメイドするのかを学びました。初対面ではありましたが、天津の某ブライダル 企業は、彼女のこだわりと一生懸命さに感心して、彼女に南方地域の経済が発達した都市にある 某ブライダル企業を紹介してくれた上、設備一式を購入する手助けをしてくれました。王金瑞は 自宅にいる時間がさらに少なくなり、1か月のうち数日しか家にいられませんでした。 彼女は設備だけではなく、ウエディングドレスさえも自分で選びました。品質からデザインま で、曖昧にしたことはありませんでした。彼女はしばしば、自分のことを「スーパーマン」だと言っ て笑いました。未来の素晴らしい青写真が頭に浮かんだとたん、自分を止められなくなってしま うというのです。寝るのはソファーでちょっとひと休み、お腹がすけばパンをひとかじり、といっ

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た生活で、1か月も経たないうちに体重が十数キロも減ってしまったこともありました。ある夜 など、夢でとても美しい結婚式を見たので、飛び起きて夢の光景を描き写したこともありました。 その後、夢で見た結婚式のスタイルが彼女の店の主力スタイルとなり、多くの新婚カップルから 好評を得ています。夫は彼女に、自分たちの人生の一大事をおろそかにしていることに不満をも らし、少しは休んで、あまり大変ならばやめて欲しいと言いました。しかし彼女は、そんな言葉 を淡々と笑ってやり過ごしました。自分が欲しいのは、適当に作った露店ではなく、彼女の村で、 郷で、県でナンバーワンのブライダル企業なのだと知っていたからです。 彼女の会社は、ついに開業しました。彼女自ら心血を注いで、「郡燁ブライダル」という社名 をつけました。「開業した日は、自分が結婚してからわずか1か月後でした。でも、自分のブラ イダル企業が開業したのを見たときは、結婚したときよりも感動しました」と彼女は言います。 開業したての頃、商売はそこそこの状態でした。さほど宣伝もせず、ほとんどの顧客は友人の紹 介で、利益も少ない状態でした。しかし時間が経つとともに、経営に伴う苦しみをだんだんと味 わうようになりました。彼女の店のウエディングドレスのデザインは斬新で、ウエディングドレ スのレンタルに来る客が大勢いました。彼女のミスで、礼服一式を同じ日に二重に予約を受けて しまったことがありました。そこで王金瑞は、同じドレスを後から借りに来た新婦に、先着順な ので違うドレスに変更してくれないかと相談することにしました。しかしその新婦は変更を承知 しないばかりか、彼女にひどく腹をたて、きつい言葉を浴びせかけたのです。王金瑞は自分が先 にミスを犯したのは分かっていたので、その客をなだめながら、批判の言葉を聞きました。客は 帰る直前に、「このドレスを借りて来られないなら、こんな店やめちゃいなさいよ」と言い放っ たといいます。その客が帰ると、王金瑞の目からは涙があふれて出てきました。やりきれなさ、 申し訳なさ、悲しみがこみあげてきて、言葉も出ませんでした。その後、彼女は知人に頼んで、 天津のウエディングドレスショップでそっくりのドレスを作ってもらい、事なきを得たというこ とでした。彼女は、「お客様のさまざまなニーズはほぼ叶えてあげられますが、理解してもらえ ないことも度々あります。やるせなくなったり、傷ついたりすることもありますが、できる限り お客様を満足させてあげたいですね」と語っています。 辛い経験にも収穫はありました。黄驊と滄州のブライダル業界のイベントに参加してからとい うもの、村内での王金瑞の評判が徐々に上がってきたのです。商売も少しずつ好転してきて、彼 女に式の司会を任せる新婚カップルまで出てきました。このような依頼を受けた彼女は、無論の こと喜びました。彼女のビジネスが認められた証であり、彼女自身への信用の表れでもあるから です。しかし彼女は、司会の様子を度々目にはしていても、専門的な勉強をしたことはありませ んでした。彼女はうれしい半面、緊張して、毎日ステージマナーを練習し、セリフを暗記して、 寝言にさえ司会の言葉が出てくるほどでした。彼女は未だに、式のときの新婚カップルの様子を はっきりと思い出すことができるといいます。彼女の司会が終わると、式場からは温かい拍手が 沸き起こり、彼女は舞台裏でしばらくの間泣いてしまいました。それを見た人々は、初めての司 会が成功して感激したのだろうと思いましたが、実はその涙には、成功の喜びだけでなく、その 裏に隠された辛さも入り混じっていたのです。

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細かいことにも気を配る王金瑞は、小さな成功で気を抜いたりはしませんでした。彼女は顧客 に対応するたびに、いつも自分の至らない点を見つけています。彼女は多くの若者は、結婚する ときは何を準備すればよいか迷っていることに気がつきました。忘れたり、おろそかになりやす い細かい事項がたくさんあります。そこで王金瑞は、自分の結婚時に培った経験をもとに、「新 婦ハンドブック」という冊子をまとめました。さまざまな事柄について細かく説明した冊子で、 店に訪れた新婚カップルに、もれなく1冊プレゼントしています。彼女は常に自分の考えを新し くして、式にはいつも新しい趣向を凝らしています。「この業界はもともと、時代とともに発展し ていく産業です。今の若い人は見た目の良さだけではなく斬新さを求めていて、どの新婚カップ ルも他人とは一味違った式をしたいと思っています。だから私は常に自分を成長させて、手品師 のようにならなければ認めてはもらえません」と彼女は言います。「郡燁ブライダル」の経営状態 は徐々に好転してきて、周りの村人たちも彼女の店に結婚式の手配を依頼するようになりました。 事業が軌道に乗り出して、王金瑞の名が顧客や同業界内に知れ渡るようになってから、彼女は 自分の苦労が報われたことを実感しました。彼女の今日の成功は、汗と涙によって勝ち得たもの なのです。彼女は高慢になることなく、喜びながらも、「やるからには最高を目指す」という最 初に掲げた目標をずっと忘れてはいません。彼女は、すべての成功は、海外で働いたときに受け た教育のおかげだと思っています。流行の最先端を意識した日本での生活が、彼女にインスピレー ションとオリジナリティを与えました。そして日本人の几帳面な態度に彼女は敬服し、起業する 際にそれを常に守るべき仕事上の原則としたのです。 最近では「郡燁ブライダル」も、王金瑞が一人で切り盛りすることはなくなりました。彼女は 生活に困窮している村の娘たちをそこで働かせながら、彼らの生活上の問題を解決したり、ブラ イダルに関する知識を教えたり、店を出すのを手伝ってあげたりしています。「開店してからと いうもの、同郷の人々からいろいろ気遣ってもらったり、とてもお世話になりました。だから彼 らに何かしてあげるのは当然のことです」と彼女は真剣な面持ちで語ります。そして、王金瑞か ら影響を受けて、彼女と同世代のたくさんの村人たちが海外へ働きに出て、視野を広げ、人生を 変え、自己実現を果たすようになっています。 (原稿提供:滄州市対外経済技術合作有限公司)

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研修圆梦 渔家女变成金凤凰

——王金瑞事迹

几年前王金瑞还只是一个普通的农村小姑娘,如今,她不仅建立了幸福的家庭,还拥有了自己 的婚庆事业,完成了由麻雀变凤凰的转变。从出国打工到归家创业,从一窍不通到熟悉精通,王 金瑞的事业在短短的2年时间里飞速的发展着,这不仅靠着她不断学习和进取的精神,出国务工 的经历也给她的创业路铺垫了基石,在她的意识里事业不能凑合着干,要做就要做出个样来。 小时候的王金瑞家里并不富裕,因为没钱,懂事的她中学毕业便出来工作挣钱,但她人穷志不 短,在得知出国务工不仅收入丰厚还能学到国外的先进技术和知识后,便毫不犹豫地决定赴日务 工充实自己。2006年1月至2009年1月经沧州市对外经济技术合作有限公司选派,王瑞金赴日研修 食品加工。这一走就是三年,独自在外生活的她变得独立了,思想充实了,视野也得到了极大的 拓展。务工合同期满后,王金瑞回到了老家黄骅。在日本务工时就经常被评为优秀员工的她,回 到家乡也是闲不住,她认为女人不能靠别人养活,一生总是围着灶台转,要有自己的事业和理想, 于是她开始不断寻觅可以令自己发展的空间。 2009年,许多和她年龄相当的姐妹都陆续结婚了,参加了很多婚礼的她发现如今的婚庆市场前 景广阔,花拱门、星光大道、演绎走秀,不断变化的布置和司仪主持各异的场面让她眼前一亮, 婚庆设计变化多样,是一个时尚的行业,她预测以后的婚庆礼仪一定还有很大的发展空间。而在 自己村里,还没有成规模的专业婚庆公司,于是她萌生了开一家婚庆公司的念头。有了这一想法, 王金瑞的激情被完全地调动了起来,虽然之前没有接触过任何和婚庆有关的行业,但凭着在日本 务工积累的经验和学到的知识,她没有犹豫说干就干,她开始日思夜想,筹划计算,并拿出了自 己3年出国务工挣的钱,开始追逐她的创业梦想。 理想的美好在现实的残酷中一点点的被侵蚀。虽然经常参加婚礼,但看到的也只是婚礼上已经 布置和设计好的场景,简单的她认为备置一些各式的婚庆用品和音响、拱门、花灯等就可以了, 可这些是远远不够的。她上网一查才发现,这些设备只是最基本的,里面的学问还很深,在选购 每一件设备的时候都有着不同的要求,例如 :音响的好坏直接关系到典礼现场的音效、拱门的造 型影响着典礼现场整体的协调……一系列的问题让她这个门外汉在刚开始的时候举步维艰。她几 乎跑遍了沧州市大大小小的婚庆公司,收获并不是很大,就在她不知下一步该怎么走的时候,她 记起了当时在赴日本务工临走之前,外经公司的一位领导和她们讲过的话 :“今天你们既然决定 做一件事,就要把这件事做完并尽最大的努力做好,半途而废的人永远不会有什么成就。”深深 领悟此话的王金瑞暗下决心绝不退缩。 当时,王金瑞在筹备婚庆公司期间距离自己结婚的日子也仅有两三个月,可她根本没有心思顾

事迹

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王 金瑞

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及自己的婚事,把结婚的一切事宜都交给了老公打理,而她自己每天不是熬夜上网查资料,就是 出门学习各地的婚庆礼仪,只要是能联系到的地方她都要亲自去向别人学习。有一次,她联系了 一家天津的婚庆公司决定去学习,当她赶到时正好这家婚庆公司在给一个婚礼做策划,她从旁边 一边学习一边帮忙,学习人家和顾客怎么沟通,怎样按照顾客的特点量身定制婚礼现场。虽然只 是第一次见面,天津这家婚庆公司被她的这种执着和认真劲所打动,不仅为她介绍了南方一些发 达城市的婚庆公司去学习,还帮她联系购置了一批设备。而王金瑞在家的时间就更少了,一个月 的时间几乎在家呆不了几天。 不仅是一些设备,连婚纱她都要自己亲自去挑选,从质量到款式从不含糊。她常笑自己是超人, 一想到将来美好的蓝图她的脚步就停不下来,有时候累了就靠在沙发上休息一会儿,饿了就吃点 面包,不到一个月的时间,人就瘦了十几斤。记得有一次晚上睡觉的时候,她做梦突然梦到了一 个很美的典礼现场,她猛的一下爬起来把梦里的场景记录下来。后来梦中的这套婚庆造型成了她 店里的主打,受到很多新人的欢迎。老公埋怨她终身大事也不放在心上,家里劝她歇歇如果太辛 苦就不要做了,但她只是淡淡的一笑而过。因为她知道自己要的不是一个凑合起来的摊子,她要 做到他们村里,乃至乡里、县里最好的婚庆公司。 公司终于开业了,她给自己的心血起名“郡烨婚庆”。她说 :“我开业的日子比我结婚的日子只 晚一个月,但看着自己婚庆公司开业的心情比结婚时还激动”。刚开业时的生意很一般,因为没 有太多的宣传,多数顾客都是朋友介绍来的,钱赚的也少一点。但随着时间的推移,经营中的酸 甜苦辣慢慢地多了起来。因为她这里的婚纱款式比较新颖,来她这里租婚纱的比较多,因为自己 的疏忽,王金瑞把一套礼服在同一天租了出去。王金瑞决定和后租的那位新娘商量一下看是否可 以换个款式,毕竟要有先来后到。但后租的那个新娘不但不肯换衣服,还对王金瑞大发脾气,说 的话句句伤人。王金瑞自知是自己有错在先,一边劝顾客一边听着顾客的指责,顾客在临走时说 : “这衣服你要是给我协调不好你的婚庆店也别开了”。顾客走后,王金瑞的泪水一涌而出,是委屈, 是歉疚,是心酸,连她自己也说不出来。后来,王金瑞托熟人在天津的婚纱店又做了一套一模一 样的,这才将事情平息。她说:“顾客的各种要求我基本上都会满足,但是顾客的不理解也是常有的, 有时候觉得很无奈,也很伤心,但我还是尽量做到让顾客满意”。 有心酸也会有收获,在参加了黄骅和沧州的一些婚庆行业的活动后,王金瑞在村里的名气渐渐 大了,生意也逐渐好了起来,甚至有新人点名要她主持婚礼。顾客有这种要求她固然高兴,这不 仅是对她生意的肯定也是对她本人的信任,可是虽然经常看到司仪主持,但是自己没有专业学习 过,她是既高兴又紧张,接下来的日子里,她天天练习台风,背台词,晚上说梦话都是主持词。 她现在还清晰地记得在那对新人的婚礼现场,当她主持结束后,现场报以热烈的掌声,而她自己 却在后台哭了很久,大家都以为她是第一次主持成功太兴奋了,可只有她自己最清楚这泪水里夹 杂的是成功的喜悦和成功背后的辛酸。 细心的王金瑞没有因为一些小小的成功而放松,她不断地在每一位顾客身上发现自己的不足。 她发现很多年轻人对结婚要准备什么东西很是迷茫,很多细节都容易遗漏和疏忽,为此王金瑞便 把自己在婚礼过程中积累下来的经验编成一本“新娘手册”,把各个方面的细节都记录下来,只 要进店里的新人都会送上一本。她不断更新自己的想法,总有一些新花样出现在典礼上,她说:“这 个行业本来就是一个与时俱进的行业,现在的年轻人不只要好看更要有创新,每一对新人都希望 自己的婚礼和别人的不一样,我只有不断地充实自己让自己像变戏法一样,才能得到人们的认可”。

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渐渐地,“郡烨婚庆”的生意越来越好,连周围村子的人都来她这里订婚庆。 事业走上了正轨,王金瑞这个名字被顾客和业内所熟知,她深知她的辛苦没有白费,她的今天 是用汗水和泪水换来的。她并没有骄傲,在高兴之余,仍然没有忘记当初给自己定下的目标 :要 干就要干到最好。她把这一切成功认为是和出国务工时受到的教育有关,在日本,时尚前沿的生 活带给了她灵感和创意 ;日本人在做事时一丝不苟的态度让她敬佩,并成为她创业过程中时刻遵 循的工作准绳。 如今的“郡烨婚庆”,王金瑞不再是单枪匹马一个人干,她安排本村家庭困难的小姐妹在她这 里工作,帮他们解决生活上的困难,还让他们学习婚庆礼仪的一些知识,帮助他们开店。她真诚 地说:“开店后乡亲们给了我不少的照顾和关心,能为乡亲们做点事情是我义不容辞的”。与此同时, 在王金瑞的影响下,本村的很多同龄人也踏上了出国务工之路,从而开阔眼界,转变人生,实现 了自己的人生价值。 (沧州市对外经济技术合作有限公司供稿)

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ちょっと名の知れた牛飼い富豪

─万甫来の業績

現在32歳の万甫来は江西省南昌市出身で、以前は江西金牛畜牧技術服務有限公司の一介の従業 員であり、主に牛の飼育、搾乳、餌作り、飼育舎の清掃等の業務を担当していました。辛い仕事 にもかかわらず、わずかな収入しか得られず、来る日も来る日もこの狭い世界にいた万甫来は、 外の世界に対して渇望するような憧れを抱き、心の奥底に起業と成功への大きな希望を温めてい ました。 2004年1月、偶然のチャンスが彼の人生を変えました。中国江西経済技術合作公司が、中国国 内から日本へ派遣する畜産業研修従事者を募集していたのです。彼はためらうことなく家と牛舎 を売り払い、応募して面接に参加し、大勢の応募者の中から頭角を現し、研修生に選ばれました。 3か月間の訓練の間、彼は基礎がなく、教養が低いという弱点を克服するため、勉強に励み、基 本的な日本語のコミュニケーションスキルを習得しました。訓練終了後、彼は飛行機で日本へ旅 立ち、3年間の日本での生活がスタートしました。 日本文化を理解し、起業への情熱が沸き起こる 彼は当初、「海外に出て広い世界を見ながら、金をたくさん稼ごう」としか考えていませんで した。しかし日本で働いてからは、日本人の真面目な勤務態度や先進的な管理技術と理念に、大 きなショックを受けました。 彼にとって一番印象的だったのは、農場の社長が生まれたての小牛を助けた出来事です。母牛 が難産だったため、生まれたばかりの小牛は既に虫の息でした。瀕死の小牛を助けるために、社 長は何の道具も使わず、すぐさま小牛に人工呼吸を施したのです。人工呼吸をしている間、彼は、

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万 甫来

生 年 月 日: 1978年12月5日 送出し機関: 中国江西国際経済技術合作公司 職   種: 農業 帰 国 日: 2007年1月

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小牛の口についている胎内の血や汚物が社長の口にもつき、口を伝って流れ出しあごや襟、衣服 にまでしみこんでいくのを驚きながら見守っていました。 中国では、こんな救助法は誰もしようとはしません。しかし日本の農場の社長による速やかで 効果的な人工呼吸によって、小牛は息を吹き返したのです。従業員たちがほっと息をついたとき にも、万甫来はまだ驚きから覚めていませんでした。社長は、そんな彼を見ると、「習いたいな ら教えてあげよう。これはとても効果的だよ」と言いました。しかし日本へ来たばかりの彼は、 慌てて首を横に振り、手を左右に振りながら、「習いたくないです」と言ってしまったのです。 万甫来は未だに、当時の光景がありありと目に浮かぶと言います。 彼はそれからも、この光景を思い出すたび、日本人の全力を尽くす、積極的かつ真剣な勤務態 度にいつも感嘆する思いがするそうです。彼は、「習いたくない」と答えてしまった後、なぜ自 分の最初の反応が、「習いたくない」だったのだろうか、なぜ社長はいとも簡単に、あんなこと ができるのだろうかと考え始めました。よくよく考えた末、勤務態度の違いによって、仕事の結 果は必然的にまったく別のものになることが徐々にわかり始めました。人工呼吸の裏には、中国 企業の仕事のやり方に慣れてしまったために、まったく気がつきもしなかった深い意識の問題が 隠されていたのです。 技術や設備の面でも、万甫来は中国企業と日本企業の差を感じました。例えば、乳牛の搾乳時に、 江西の畜産企業ではまだ手搾りを行っています。手搾りだと、7、8分かけてやっと一頭の牛を 絞り終え、ゆっくりやれば10数分もかかってしまいます。日本の畜産企業では搾乳機を使用して おり、両側同時に搾ることができ、わずか5分間で8頭を搾乳することができます。このように 高効率の日本の畜産企業を目の当たりにし、万甫来は江西省の畜産業がいかに立ち遅れているか を実感しました。また同時に、彼の心に、江西省の畜産業のイノベーションを図り、改革したい という熱意と意志が呼び起こされたのです。 穏やかに友好的に付き合い、日中両国間の友情を伝え広めていく 普段の忙しい仕事の合間に、彼は隣近所の人々と仲良く付き合い、目立たないながらも友情の 架け橋となりました。休みになると近所に住む老婦人が、彼やその他の研修生らに日本の伝統的 なごちそうを振る舞ってくれました。外で遊ぶ機会が非常に少ない彼らも、こうして現地のグル メにありつけたのです。万甫来とその他の研修生らも、中華料理を作って、隣近所や日本の同僚 たちに振る舞ったり、近所のお年寄りの農作業まで手伝ってあげました。 3年間の研修・実習期間が終了し、間もなく帰国というときに、農場は万甫来らのための送別 会を開いてくれました。万甫来やその他の実習生らは、非常に名残惜しく感じて、みな感動の涙 を流していました。日本の同僚や隣近所の人々は、彼らが中国へ戻っても、お互いにこの国境の

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