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忘れられない経歴が、思い通りの仕事へつながる

きをかけ、日本語を彼女の会計という専門に次ぐ第二の専門能力としました。2008年冬、彼女は 北京で行われた日本語能力試験の2級に参加し、合格しました。

多くの人を海外へ働きに行かせ、その家族全員に裕福になって欲しいという熱意を胸に、彼女 はこの理念をだんだんと広めていきました。最初は彼女の身の回りの家族や友人たちから、彼女 を慕って海外へ働きに行こうと会社を訪れた見ず知らずの人まで、彼女は数えきれない人たちに 説明し、手続きを行いました。彼女が手続きをした人は、彼女を信頼する弟と妹を始め同じ村出 身の同窓生や同郷人まで、2010年現在で既に60人余りに達しています。彼女は、自分の粘り強さ で自分の経験を例に取って教え諭せば、前時代的な暮らしをする貧しい故郷の人々に根差した日 本人への敵愾心は和らぎ、貧ければ貧しいほど家から離れられない、「故郷を追われる」のでは ないかという不安を改めることができることをよく知っていました。そして、平邑県対外経済貿 易局の首長の強い後押しを受けて、より多くの人々が自分の限界を乗り越えて、祖国を離れ大胆 に海外へ出ていくことができると固く信じていました。

李方方自身の引率によって、李方方の身内から6名の家族・親族が通遠労務公司を通じて、日 本やシンガポールへ研修と就労に行きました。身内が次々に出国したため、家庭の経済状態は目 覚ましく改善し、身内で起業するための物質的な基盤が整いました。これは、社会で財を成し、

富を築く上での模範となり、地元では、「海外へ働きに出れば早く裕福になれる」という話が一 気に広まりました。このような反響も李方方にとって励みとなり、彼女はますます海外労務派遣 に入念に取り組むようになり、故郷の人々の通遠労務公司に対する信頼に報いたのです。

沂蒙山地区に住む同郷の人々は、海外労務派遣事業に関する知識はほぼゼロだったので、海外 へ働きに出て金を稼ぐなどという話を信用できず、首を縦には振りませんでした。自分の田舎に 対する認識にのみ基づいて、海外へ働きに出ることを認めてはならないという考え方は、創業し たばかりの平邑通遠労務公司にとって、試練となって立ちはだかりました。しかしこの困難によっ て、彼女は事業に対して一層大きな闘志を持ち、粘り強さを身につけたのです。

2008年から2009年の世界経済不況や不景気において、彼女たちは提携先を選別し、送り出す同 郷人の誰もが、確実に景気の良い企業で働けるようにしました。彼女は何度も青島、膠南、日照、

蒙陰等を訪れ、労務提携パートナーを視察し、慎重に選択して、同郷の人々を安心して任せられ る提携パートナーを選択しました。彼女は仕事のために休日もなく働き、疲れたり、病気になっ たりしなければ、休むこともありませんでした。各郷鎮を度々走り回って、懲りもせず、疲れを ものともせずに、同郷の一人ひとりに海外就労の良さを説明しました。彼女のこの執念と粘り強 さで、事業は徐々に拡大していきました。田舎のあちこちを走り回る娘が、ついに平邑海外労務 派遣市場のブランドそのものとなり、シンボルとなったのです。見ず知らずの人も彼女の電話番 号を覚えて、出国手続きについて尋ねるようになり、彼女の心意気に感服した人々は、ボランティ アで彼女の宣伝係となり、いろいろな人に紹介してくれました。

心優しい彼女は出国する人々一人ひとりの心を温めてやりながら、彼らの家族を安心させてや りました。彼女は閉鎖的な農村に住む人々を国外へと送り出し、お金を稼いで家族を養わせ、視 野を広げさせ、海外旅行へと連れ出しました。異郷の地にある彼らがホームシックにかかり、悩 むときには、誰よりも彼女に自分の心の内を聞いてもらいたいと思いました。彼女たちは李方方 の優しさに心を打たれ、彼女の真心を感じていたからです。彼女たちは家が恋しくなると李方方 とおしゃべりし、食べたいものがあると送ってもらいました。李方方にとって彼女たちのような 出国者は、友人であり、家族でした。お腹に赤ちゃんがいた李方方に対して、家族はできるだけ 携帯電話を使わないようにと言いましたが、彼女は遠い外国からかかってくる電話を受けると、

何やかやと質問したりして、延々と長電話していました。もしかすると出国者の両親は、彼女に 会うとまるで自分の娘のような親しみを覚え、彼女を信頼して仲良くなり、自分の子供を託して 海外へ出稼ぎに行かせてもよいと思うようになるのかもしれません。これこそ、商業的なブラン ド効果というものかもしれませんが、このブランド効果には、きらきらと輝く人格的な魅力が隠 されていたのです。

2008年は、金融危機という試練の影響を最も受けた年でした。日本の受入れ企業はおしなべて 減産、破産に追い込まれ、経済的に非常に困難な状況にありました。このため、彼女の会社から 海外に派遣された人々の所得にも影響が出て、多くの人々が困惑し、こんなに大変な思いをした のに稼げなかった、出国する前と大差ない状況だなどと恨み言を言ったり、後悔する声が聞こえ てきていました。この年も、彼女は毎月、海外就労者の一人と連絡を取り続け、送り出した一人 ひとりの状況と受入れ企業の状況を把握して、彼らの家族にどのような状況かを説明し、景気回 復への希望を持たせ、諦めないで欲しいと励ましました。破産の瀬戸際にある企業に対しては、

就労者の他の受入れ企業への移動を積極的に進めたり、帰国手続きを行ったりしました。彼女が 皆をうまく励まし、なだめたおかげで、一名が帰国した他は、全員元の職場に留まり、金融危機 という冬をやり過ごし、新たな収入のピークを迎えたのです。出国者らがより多く家族に送金で きたのを知り、彼女はとても喜びました。

2010年、彼女が手配して送り出した最初の研修生一行が続々と帰国し、異国で蓄えた起業のた めの資本を元手に故郷に投資して起業し始め、自分が出稼ぎ中に温めた財を成すための計画を実 現していきました。これらの帰国生たちは稼いだ外貨を用いて、地元の経済の発展を大きく牽引 しました。李方方は、第一期、第二期の帰国生が続々と故郷に戻ってきた後も、身重にもかかわ らず、それまでのように帰国生の自宅まで出向いて、海外で働いた感想を聞いて回り、後に続く 人々にとって有用な経験から得た教訓を蓄積しました。そして彼女は、この家庭訪問で得た貴重 な資料を、内容がぎっしりと詰まった一冊の本にまとめ上げました。帰国生らは、彼女が大きな お腹を抱えても、海外就労という考え方を普及させるために奔走する姿を見て、自分が出国当時 にも姉のように接してくれたことを思い出し、深い感動を覚えました。彼女は、より多くの人々 が海外へ出ることによって自分を変え、家族の考え方を変えて欲しい、そして帰国した一人ひと りが、大きなお腹を抱えながらも、熱心に紹介する姿の裏に秘められた真心を感じ取って欲しい と思っています。彼女の努力は報われ、ブランドは効果を発揮し、規模は拡大し発展しました。

平邑通遠労務公司というブランドが確立されるとともに、李方方の個人的な影響力も拡大してい きました。他県や他市の農民たちも続々と応募に訪れ、学習、訓練を経て、訪日研修へと旅立ち ました。2010年、平邑通遠労務公司も彼女の指揮により、蒙陰公司等と提携同盟を結んで資源の 共有を実現させ、通遠労務公司をより成熟した発展の道へと導いたのです。

蒙陰姫路労務公司との提携は、2010年初頭、李方方と葛秀偉経理が何度も検討した末に選択し た発展への道でした。彼女は、臨沂市場全体には規模が大きく、整理統合された労働力輸出拠点 がなく、分散して規模の小さい海外労務派遣企業では、庶民が海外就労を信用し切れないのだと 分析しました。そして、長年にわたる泗水県の海外労務派遣市場の発展から得た教訓に基づき、

蒙陰や蒼山と共同発展していく道を思い立ったのです。この構想は、蒙陰姫路労務公司の姜秀飛 社長の計画と図らずも一致していました。こうして、李方方の主導のもと、蒙陰、平邑、蒼山が 一緒に、一つの大規模な海外労務派遣機関を設立することになりました。こうして平邑通遠労務 公司は、節目となる一日を迎えたのです。

人間がすることを、神様は見ておられます。李方方の努力によって、平邑県に住む庶民の信頼 を獲得し、平邑対外経済貿易局の首長の賛同も得られました。2010年以降の平邑県の労働力輸出 市場は、李方方の統率によってより健全な方向へと発展しています。平邑県は、山東省の労働力 輸出市場における美しき景勝地となることでしょう。

(原稿提供:業界海外労務派遣基地・臨沂市基地)