• 検索結果がありません。

2010年の春は、北方の有名な港湾、営口港にも駆け足でやって来ました。この名高い不凍港は、

サワラの水揚げが盛んな港でもあります。この麗しい港に、なぜこんなにもせわしなくなく春が 訪れたのでしょうか。その理由は幾らでも挙げられますが、その中に最も真実で、最も感動的な 理由が一つあります。営口市経済技術開発区のハツ魚圏区に、1月16日、「何鮮菇火鍋城」が盛 大にオープンし、また一つ、帰国生による起業サクセスストーリーが生まれたからです。

訪日研修で夢が実現

この物語の主人公である徐慶江は、2004年11月、6か月間の出国前訓練を終え、家族の願いと 期待を背負い、若者らしい夢を胸に抱き、故郷を後にして海外へ旅立ちました。彼はずっと実家 で営農に従事していましたが、吉林省天旨経済技術合作有限公司が行う訪日研修で、多くの都市 や農村の青年を日本での研修・学習に派遣していることを耳にしました。研修に行けば一定の収 入を得られる上、先進的な技能や技術を学び、視野を広げることができると言うことでした。自 分の生活を変えるために海外へ出て奮闘しようと、彼は海外研修という人生の重要な選択をした のです。

日本に到着した徐慶江の目には、非常に新鮮で、故郷とはまったく違う風景が飛び込んできま した。そのあまりの違いに戸惑い、しばし呆然としてしまいましたが、幼い頃から堅実で穏やか な性格だった彼は、すぐに落ち着きを取り戻し、着実な生活を送り始めました。

勤勉な努力のおかげで、彼は間もなく日本での生活に馴染み、研修課題を順調にやり遂げるた めの基礎が出来上がりました。彼は、日本人の勤勉さに深い感銘を受けました。受入れ企業であ

事例 7

徐 慶江

生 年 月 日: 1976年7月14日

送出し機関: 吉林省天旨経済技術合作有限公司 職   種: 鋳造

帰 国 日: 2007年11月

る長野県の(株)炭平製作所では誰もがとても真面目で、几帳面に仕事をこなしていました。日 本人の職業倫理、自己研鑽の心は、徐慶江にとって良い手本となりました。実家で農業に勤しん でいた彼は、他人のすることにはほとんど関心を持ちませんでしたが、日本に来てからは、今ま でとは違う光景を目にするようになりました。工場の生産とは、誰か一人だけではなく、皆で一 緒にやり遂げる必要のあることでした。従って、自分の本業にしっかり取り組むことが、製品の 品質を保証する基本となるのです。

それからの研修でも、彼は謙虚な態度で懸命に仕事に励み、受入れ企業から高く評価されまし た。2006年、徐慶江成はその会社でただ一人、「優秀従業員」の称号を受けた外国人となりました。

彼は多くの研修生に手本を示し、日本の友人たちからは親指を立てた仕草で「グッド!」と褒め 称えられました。

公益活動に熱心に取り組み、思いやりの心で奉仕する。徐慶江は非常に思いやりのある青年で、

中国にいた頃は生活が困難な人々の手助けを度々していました。体が不自由だったり、働き手の 足りない隣近所の人々のために、ボランティアで助けてあげていました。日本に来てからも相変 わらず、助けが必要な人がいれば、いつでも当然の如く助けてあげていました。個人的な損得を 考えたことなど一度もない彼は、積極的に現地の自治体が企画したさまざまなボランティア活動 に積極的に参加して、自分が行動することによって、日本国民に中国の青年の熱意と愛を示しま した。

長野県の赤十字社が開催した無償の献血イベントでは、彼は中国の青年として日本国民への友 好を示すため、ためらうことなく献血に参加し、400mlの血液を提供しました。このような彼の 奉仕は、研修生を含むすべての若者に手本と模範を示しただけでなく、日本国民に中国国民の友 好と友情を伝えました。愛に国境はありません。彼の無償献血という正しい行いは、日中友好事 業を象徴する素晴らしい行為でした。

故郷に錦を飾り、心意気を示す

2007年11月、研修課題を無事遂行して、故郷へ戻ってきた徐慶江は、家族と短い団らんの時を 過ごした後、旅の疲れも癒えぬまま急ぎ大連へと向かい、大連竹炭金属有限公司に就職しました。

彼はこの日系企業で、その技術力と人柄で取締役会から認められ、高い評価を受けました。同社 の取締役会は彼の素晴らしい勤務態度と業績を認め、彼を社長補佐に就けるという破格の人事を 行いました。

周知のとおり、日本の単独出資企業で管理職になるのは非常に難しいことです。しかも社長補 佐という地位は、徐慶江自身でさえも唐突と感じるほどでした。しかし彼は以前のように従容と して冷静に、その重要な職務を受け入れました。まるで彼の座右の銘、「自信は探究と努力から 生まれる」という言葉を体現するかのように。

徐慶江の成功は、完全に彼の奮闘する精神によるものと言えるでしょう。彼自身も常日頃から、

「夢があれば、努力して実現させる。夢があれば、素晴らしい未来がある」と語っています。彼 はこう語り、その言葉通りに行動しました。だからこそ、彼は農村の青年から外資企業の管理職 にまでなったのです。まさしく自分が努力したからこそ、成功と収穫を得ることができたのです。

もしかすると、徐慶江が農村から足を一歩踏み出したときから、それからの人生の道程は平凡 ではないと定められていたのかもしれません。彼の夢も自分が経験を積むにつれて深まり、自分 の人生設計はますます明確になり、ますます方向性がはっきりしてきました。2010年、虎年の新 春を迎えた頃、彼は周りの友人たちが思いもよらなかった、辞職という驚くべき決断をやっての けました。なんと彼は、日系企業の職を辞して、自分の人生プランであった、起業をスタートさ せたのです。

起業、そして輝かしい成功へ

徐慶江が大連で働いていたときは、順調な人生を歩んでいたと言えるでしょう。多くの都市部 の若者が目標とするような、給与、待遇、仕事環境でした。とりわけ農村出身の若者にとっては、

より魅力的だったことでしょう。しかし彼は、言葉では言い表せない悩みを常に抱えていました。

自分は、過去と比べれば大きな成功を収めたのかもしれません。しかし、彼と一緒に育った、生 活をともにしてきた農村の仲間たちは、相変わらず農作業に勤しんで、何の変化もない暮らしを していました。だから彼は、自分の成果と成功を彼の親戚や友人たちとも分かち合いたい、彼ら とともに生活を送り、豊かな毎日を過ごしたいと思ったのです。

営業面積500平方メートル余り、約200人が収容可能なこのレストランを訪れるお客は、種類の 豊富なおいしい海鮮料理に舌鼓を打ち、至れり尽くせりのサービスを受けることができます。こ のレストランが、徐慶江が農村の幼馴染たち17名と立ち上げ、さらに30名以上の地元の失業青年 らを採用したとは、誰も思いもよらないことでしょう。

徐慶江は起業という歩みにおいて、彼と彼の仲間たちのものとなったこの広々とした世界を、

自らの真心と信念によって支えています。彼のレストランは、大規模とは言えないかもしれませ ん。彼の雇用する若者は、大勢とは言えないかもしれません。彼のできることには、限りがある かもしれません。しかし、彼は自ら行動することによって、微力ながらも社会に貢献したのです。

これは実に、敬服と称賛に値することでしょう。

歩むべき道はどこにあるかと問えば、道はすぐ足元にあるのです。その虎年、一度も歩みを止 めたことのない徐慶江は、またもや次の計画に着手しました。それは自分の故郷、自分の出発点 に戻ること、2010年末に何鮮菇火鍋城のチェーン店を出すことでした。こうすることで、彼はさ らにたくさんの熱と光を発し、故郷の友人たちをより大勢集めてともに事業を興し、故郷のため

により多くの事を成し遂げ、幼い頃からの夢を実現しようとしているのです。

徐慶江の成功は、多くの帰国生たちの真実の姿であり、縮図です。彼は何か決定をするたび、

どこかへ出かけるたび、常に着実かつ堅実なやり方で収穫を得ています。彼は農村青年として世 界へ飛び出し、人々に模範を示しました。誰でも夢を持つが、奮闘した人だけが夢を実現するこ とができるのです。

(原稿提供:吉林省天旨経済技術合作有限公司)