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黄愛娥は1997年に研修生として派遣されました。日本での3年間、彼女は真面目に責任感を持っ て仕事に励み、奮闘努力して研修生のグループ長も担当しました。仕事ぶりや研修成果は、日本 側企業から認められ、高く評価されました。

2000年、黄愛娥は帰国後、日本で3年間働いて貯めたお金を元手に、友人たち数人と小さな工 場を興しました。規模は小さく、従業員も少人数でしたが、起業という幸先良いスタートを切り ました。数年間の経営を経て経験を積み、2004年には規模を拡大して、現在は金山呂巷工業園区 内に工場を持ち、二階建ての工場建屋に、約100名の労働者を雇用しています。工場の主要製品 は輸出用子供服で、80%は日本に輸出されており、月間製造量は約3万着となっています。

黄愛娥にとって、日本で研修・実習を行った3年間とは、人生に非常に大きな影響を与えられた、

大変貴重な3年間だったといいます。まず、3年間の就労でまとまった資金を貯め、起業に向け た経済的基盤ができました。次に、日本側企業の先進的な技術や経験、管理モデルを学ぶことが できました。最後に、日本人の仕事に対する態度と精神から大いに刺激され、帰国後に大きな成 功を勝ち取ることができたのです。

しかし、日本へ来たばかりの頃、黄愛娥はいろいろと面倒な出来事に悩まされました。中国国 内の企業は、改革開放政策の実施初期であったので、労働者に対してさほど高い要求はしていま せんでした。労働者はリーダーの言うことを聞いて、現場では言われた通りの仕事をこなすだけ という業務モデルに慣れきっていて、技術革新や自己改革などということはあまり考えませんで した。

黄愛娥はもともと技術力があり、縫製業務に対しても強い自信を持っていたので、工場の技術

事例 10

黄 愛娥

生 年 月 日: 1965年7月28日

送出し機関: 中国上海外経(集団)有限公司 職   種: 繊維・衣服

帰 国 日: 2000年10月

員の指導を無視することが多かったそうです。中国の工場であればこのような行為も許されたし、

とりわけ一芸に秀でた中堅技術者たちの「性格的特徴」は、手厚く配慮されていたからです。改 革開放政策の実施初期だったので、高い技術を身につけて際立った業績を残そうという意欲のあ る者は決して多くなく、ほとんどの人に一律待遇時の癖が残っていました。しかし日本では、こ のような行為は日本社会全体のコンセンサスに反することになります。

日本では、企業管理においてヒエラルキー意識を持つことが提唱され、社会の主流意識に従う ことを求められます。社内で管理に従わない従業員は、大きな面倒を抱え込むことになります。

仕事がスムーズにはかどらないばかりか、同じグループの仲間たちにさえ、「変わっている人」、「団 結を乱す元凶」とみなされ、排斥されてしまうでしょう。

派遣会社の出国前の教育課程でも、これに類する教育が強化されていましたが、自分の技術に 強い自信を持っており、中国の工場ではさまざまな優遇を受けてきた黄愛娥は、その教育課程を 歯牙にもかけていませんでした。彼女は自分の技術があれば、日本の会社でも重んじられ、中国 で受けていたような特別待遇を受けられるはずだと思っていたのです。

しかし、工場の対応は彼女をひどく驚かせました。送出し機関が受入れ先企業から、解雇警告 を受け取ってしまったのです。同じ縫製業とはいっても、技術的な要件には大きな違いがありま す。その上、日本では効率アップを図るために、度々技術革新を試行していました。このような 試行は、最終的に現場で働く労働者にまで影響を与えます。自分の技術基準にこだわるばかりで、

工場が求める技術革新に従わない者がいた場合、短い期間では何も変わらなくても、技術革新を 続けていくうちに、非常に大きな差が出てきます。従って、日本の企業ではこのような従業員は、

非常に惜しいが解雇すべき者とみなすのです。

送出し機関の人員が彼女に関する情報を聞いたとき、非常に意外なことだと思いました。黄愛 娥は候補者の中で最も高い技術力を備えていたのに、日本企業からは不合格と評価されたのです。

送出し機関の責任者はこの現象を重く見て、日本企業に連絡を取ると同時に、黄愛娥と話し合う ためわざわざ訪ねて行きました。

話し合いによって、黄愛娥は日中両国の文化と管理面での違いをすぐに理解しました。彼女は もともと非常に賢い人なので、すぐさま自分の行為の中の日本の習慣と相容れない部分に気がつ きました。

それから黄愛娥は、今までの傲慢不遜な態度を改め、非常に謙虚に技術指導員の指導に従うよ うになりました。もともと技術水準が高く、日本語の上達も早かったため、工場で技術革新の試 行が行われるたび、彼女は日本語が不自由な多くの研修生を指導するなどして、常に積極的に技 術革新を推進するように働きかけました。工場はこのような黄愛娥の変化に気づき、送出し機関 に対して何度も彼女のことを褒めました。この事件を通じて、黄愛娥も技術革新という事柄に注

目し始め、技術革新が考えるほど簡単なものではないことに気がつきました。失敗するときはあっ ても、成功した技術革新を絶えず積み重ねていくことによって、最終的には中国企業が真似でき ないようなテクニックが形成されていきます。たとえ自分たちがそっくり真似たとしても、相手 が新しいものをどんどん作り続けるならば、自分たちはいつもその後ろを追いかけていくことな るのです。

黄愛娥は、縫製労働者として流れ作業ラインで実際に操作をしながら、日本の先進的な縫製技 術を熟知、把握するだけでなく、勤勉に学習し懸命に練習し、型紙を引くことから、裁断、縫製、

完成まで、それぞれの知識を拡充かつ向上させました。これは、現在の彼女の会社の現場管理に とって、非常に重要なことでした。日本での3年間で見聞きして、いつの間にか学んだ管理モデ ルも、帰国後に素晴らしい活用の場を得られ、彼女の工場を発展させる切り札の一つとなりまし た。そして最後に、日本人の仕事に対する態度や精神は、黄愛娥に大きな刺激を与えました。日 本の工場の労働者たちは皆若くはありませんでしたが、勤務中は常に時間を無駄にせず、決して 高齢を理由にのろのろ働くことなどなく、何をするにも効率を重視していました。この点に、黄 愛娥は非常に感心しました。だから今では彼女も自分の工場で、部下の従業員たちにこのような 日本人の精神に学んで欲しいと求めています。

日本人従業員は、自分のミスを残業によって補うことができます。何時まで残業することになっ ても、自分の犯したミスを挽回してからでないと退社しないのです。また、自分の手に余る仕事 に出くわして、やり遂げられないときには、工場の全従業員が手助けしてその仕事を終わらせて いました。そして、勤務中は技術的な要件に基づいて製造を行うと同時に、自分でもそれを総括 して、良いアイディアが生まれたときはグループ長に申し出て、技術革新に向けて自発的な働き かけをしていました。黄愛娥は労働者一人ひとりが、工場を自分の工場とみなして経営している 姿を目の当たりにしたのです。

そのため、彼女は帰国後、自分で設立した工場を経営するときにも、この理念を普段の管理の 中に組み込みました。しかし、上記のような労働者を探すのは、決して容易なことではありませ んでした。労働者の多くは、自分というしがない労働者が、なぜそこまで工場に尽くさなければ ならないのか理解できず、工場を辞めてしまう者さえいました。確かに、黄愛娥の工場よりも賃 金が高く、業務環境も良く、そして何より重要な、自分の仕事を時間通りに終わらせればそれで おしまいで、社長が一日中、自分の周りであれこれ指図することのない工場は他にもたくさんあ りました。このような挫折を経験した黄愛娥は、「これは、二種類の管理理念の間に生じる矛盾 です。理解してもらえなければ、同じ理念を持つ人を他に探して一緒に仕事をしていくほかあり ません」と言いました。彼女は、「日本で良いことを学んだからには、これを自分の手で大きく できるか、何としても試してみなければなりません」と語ります。

黄愛娥は毎日、日本にいたときと同じように、注文を取ると同時に技術革新を忘れず、地道に こつこつと働きました。また、従業員の中に同じ理念を持つ仲間がいないか、探すことも忘れて