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    スタジオ生のコスチューム

  ソロヴィヨフが演出した『サラマンカの洞窟』では「参加者全員同じパラード用の作 業 着プロザジェージュダ を着た」(註

57)。メイエルホリドの身体による表現は、既存の観念体系、およびそれらが

作り出す制度と対置するという意味を持っていた。社会的階級を示すような衣服(記号)

を身体から剥がし、そのかわりに身体の動きを損なうことのない作業着を着せたのは当然 の帰結であった。

4. 『見知らぬ女』と『見世物小屋』 (3回目)

このような中で、1914年

4

7

日、「三つのオレンジへの恋」編集部によってペテルブ ルクのテニシェフ学校講堂で上演されたブローク作『見知らぬ女』と『見世物小屋』(メイ エルホリドの

3

回目の演出)からは、ブロークが『見知らぬ女』以降、事物と融合させな がら保とうとしたシンボリズムの観念体系は一切捨て去られている。

  『見知らぬ女』の構造は、事物と(シンボリズムの)観念体系との接合であることはす でに述べたが(第

3

部第

3

章)、メイエルホリドの演出では、観念体系の部分はすでに捨 て去られている。第一次革命以前のブロークの救済のモチーフの一つであった「帆船」、戯 曲『見知らぬ女』では、日常の事物(壁紙に描かれた船)と観念(救済)との間に跨って いたこのモチーフを、メイエルホリドはこの時の演出で事物のレヴェルのみに収斂させて しまう。

最初のシーンは居酒屋が舞台となっている。いかなる役も演じないが、舞台設置作業 のために「前舞台プ ロ セ ニ ア ム

の召使い」として特別に遣わされていた一部の俳優たちは、特別の目 立たない衣裳を着て、リズミックに動きながらテーブル、椅子、カウンターを運び込ん だ後、いちばん奥で長い竹竿で緑色の緞帳を上げた。その時、薄暗闇の中に俳優たちが ボトルやグラスを持って、努めて気づかれないようにテーブルに置きつつ席に着き、ほ んの少しの沈黙があってから、低い声で笑い始めるとともに、どよめき、観客を居酒屋 の雰囲気に引き込んでいった。召使いの一人はどんな時でも床の上に座って、プロンプ ターの役を果たしたが、そっと台詞を教えるのは、誰かが台詞を忘れた時に限られた。

このシーンが終わってティンパニーの音が響くと、緞帳の上端を押さえていた前舞台の 召使いたちは、俳優たちの上に緞帳を広げながら前に出てきて、彼らを通り過ぎると、

緞帳の端を降ろしたので、俳優たちは観客から見えなくなり、小道具をすべて片づけな

がらあっという間に退場していった。その時、奥にいる前舞台の召使いたちは、こっそ り椅子に上がって、緞帳の巨大な端を持ち上げるだけであったが、緞帳は白色で、観客 の前は白い壁であった。同時に舞台の周りにいた他の召使いたちは、両側から木製の組 み立て式の橋を引きずってきて、舞台では新しい一団の召使いが金色の星々のついた青 色の紗でできた新しい緞帳を持ち上げた。だから前部の白い緞帳が降りた時、観客の前 には、星々が心地よく散りばめられた空を背景に、橋がコブのように聳えていた。[...] フットライトを風刺的に表現しながら、前舞台の召使いたちはその前で蝋燭を手に膝を ついた。[...]見知らぬ女が消える時間がやって来ると、彼女は単に緞帳の間を去り、

窓辺では前舞台の召使いが、棒に載せて支えている水色の星に火を灯した。ティンパニ ーの音に合わせて、再び緞帳が家具の上に落ち、フットライトを表していた召使いたち は、星のついた緞帳を持ち上げると、真ん中から引きはがし、戯曲で語られる帆船のよ うに持ち去った。戯曲は終わった。(ズノスコ=ボロフスキー、註

58)

  また『見世物小屋』の方も、シンボリズムの観念体系はぬぐい去られていた。「芝居は観 客の中に引き出された。前席の数列が一掃され、その場所に羅紗が広げられ、仮面劇が行 われた。[...]『見世物小屋』は主として観客の中で演じられ、舞台の上には神秘家たちの テーブルしかなく、大きな空間に見世物があふれた」(註

59)。

 

マルコフによって描かれたテニシェフ学校講堂でのメイエルホリドの『見世物小屋』上演

このような演出は当然のことながら『見知らぬ女』以降、事物と観念体系の両立を保と うとしていたブロークの批判を浴びることになる。彼は

1915

2

19

日付けの妻宛の手 紙で、メイエルホリドのスタジオを「愛することを望みながらも、真の愛の源泉を知らな いうつろな魂の周りにある模様のついたくだらないもの」(註

60)と批判した。

5. 『仮面舞踏会』

(1917年

2

25

日、アレクサンドリンスキー劇場)

  アレクサンドリンスキー劇場で上演されたレールモントフ作『仮面舞踏会』の舞台装置 は基本的に観客席空間の延長となるように作られていた。ゴロヴィーンによって制作され

た円柱ポルタールには、登場人物の登場用扉が二つついており、観客席の建築モチーフの延長であり、

細い柱は側面の

2

階席の柱の延長となっていた。アレクサンドリンスキー劇場を建築した ロッシは、白地に金の装飾をほどこしたが、ゴロヴィーンは舞台装置に金地に白の装飾を ほどこしたのである(註

61)。ここでの舞台は基本的に模倣

ミメーシスを拒否している。舞台と観客 席を仕切る緞帳は、仮面舞踏会の場面では鈴のついたスリットの入った緞帳に入れ替わり、

舞踏会の場面では白とバラ色と緑の緞帳に変わり、フィナーレでは葬式用の花輪が縫いつ けられた緞帳に変わる(註

62)。

  つまりこれ以外に仮面舞踏会や舞踏会、寝室などを記述(模倣)するものはほとんどな いのである。こうした舞台では、ドラマの内容を表すのは俳優たちの演技に負うところが 大きい。この点でこの時の舞台はレールモントフのドラマトゥルギーと一致する。

  論文「ロシアの劇作家たち」(1911年)で、レールモントフの『仮面舞踏会』は、 行 動ジェイストヴィエ の演劇であるとメイエルホリドは述べた。そのことを彼は

1910

年代末、次のように具体 的に説明している。

[...]俳優の身振りは動きの反映である。船が通ると船が上げる波の他に、岸にわず かに打ち当たるものができる。それはまさしく船の動きの反映である。俳優において正 しい身振りとは正しい身体配置と同じように反映するものである。ミザンセーヌと私た ちが呼ぶものが、舞台で起きている行動の正しい反映にならなければならない。(註

63)

コメディア・デラルテにおける登場人物たちのシンメトリーと同様、図式的な視覚化を メイエルホリドは希求した。

    上流階級の人々は大きな全体の部分にすぎないことが常に感じられるように、パース  ペクティヴの中で位置を占め、照らし出され、活人画の中で移動しなければならない(メ イエルホリド、註

64)。

 

    [...]登場人物たちは一瞬たりとも、めまぐるしく変化する動きによって遮られるこ とはなかった。彼らの会話や行動はよく見えた。演技の場や、静かになったり荒々しく 広がったりする仮面舞踏会全体のリズムは、それほどまでに計算されていたのである。

    [...]別の群衆場面で、メイエルホリドは熱狂、恐ろしい危機、危険の印象を作りだ した。丸いカード用テーブルのまわりに肘掛け椅子があり、カード遊びをする人々が席 についていた。緑色の笠の下に大きなランプが上から下がっていて、テーブルとカード 遊びの人々だけを照らし出していた。立っている者もいれば、座っている者もいる。立 っている人々と座っている人々のコンポジション、彼らの動き、リズミカルな動き、姿 勢、身振りによって、そして重要なことに、カードを持っている手の動きによって、カ ード遊びに夢中の不吉な印象と興奮の雰囲気が作り出された。(スミルノーワ、註

65)

  そして彼らの行動全体から、アルベーニンを死に追いやる恐ろしい何かが感じられるの である。「アルベーニンは、仮面舞踏会の陰謀と偶然の網が蠅に絡まるように彼に絡まるた めに、仮面舞踏会の旋風の中に投げ込まれる」(註

66)のであった。

    『仮面舞踏会』

6.再び舞台模型へ

  第

2

部第

1

50

頁でも言及したように、かつてスタニスラフスキーは、日常生活の模倣ミメーシス として舞台模型 を用いた。しかし日常性を払拭しようとしたシンボリズム期のメイエルホ リドはこれを否定し、エスキースを用いた。ところが

1910

年代、再び舞台模型を肯定す る。もちろん日常生活の模倣(記述の対象の模倣)としての舞台模型ではない。事物(素 材)をいかに構成するかという意味での舞台模型である。

 

1918−1919

年に行われたメイエルホリドの講義によれば、それは組織化である。模倣 ではなく構成である。「若い世代は自然にあるものはいらないと言っている。事物を私達は 否定しない。私達は事物を変形する。自然にあるものを手に取り組織化するのである。そ して組織者の手がよく見えれば見えるほど私たちの創作物はすばらしい。」と語り、マイニ ンゲンやモスクワ芸術座のような「ミメティズムは芸術ではない」と言い切ることによっ て(註

67)、既存の観念体系にとらえ込まれること(模倣)に熱心であった 19

世紀以前の 芸術観との決別を宣言する。

  模倣ではなく、事物の構成に演劇の価値を見ているのであり、その意味で再び舞台模型 が必要になってきたのである。

[...]リハーサルを始めるに際して、演出家はすべての舞台配置を正確に知り、配置 を決め、計算しなければならない。[...]仕事を行うにあたって、あなたがた俳優は舞 台模型を所持していなければならない。(メイエルホリド、註

68)

実際に舞台模型の復活を確認できるのは

1917

1

月の『クレチンスキーの結婚』から であるが(註

69)、構成という発想は 1914

年、テニシェフ学校講堂で行われた『見知ら ぬ女』の演出の第

2

幕の橋にすでにはっきり現れていた。メイエルホリド劇場ミュージア ムのカタログ(1926年)には、構成主義の旗印のもとでの舞台形成の最初の試みとなった のは、橋の導入であったと書かれている(註

70)。

7.グロテスク

  組み合わせという発想は、グロテスクの問題へも展開していく。メイエルホリドは論文

『見世物小屋』(1912年)で、グロテスクについて次のように述べている。