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自律を目指す教育の諸側面

ドキュメント内 自律を目指す教育に関する自然主義的研究 (ページ 85-90)

第3章 自律を目指す教育を理解するとはいかなることか

第 3 節 自律を目指す教育の諸側面

第1章・第2章の考察は、自律を目指す教育に、前節で論じたもの以外にもいくつかの側 面があることを示しているように思われる。それらの側面について本節で論じておく。

(1)システム1のための教育/システム2のための教育

二重過程理論について検討した第2章第2節では、教育学的な自律概念がシステム1と システム2の双方に関わっているのだと論じた。このことを認めると、被教育者の自律を目 指す教育には、言うなれば「システム1のための教育」と「システム2のための教育」とい う2つの側面があることが見えてくる。

システム 1 のための教育という語で言い表しているのは、被教育者にその社会で共有さ れている一定の価値基準(常識や良識)を直観的に認めるように促すような教育者のはたら ききかけのことである。第 2章の叙述では、道徳的な判断を支えるシステム 1 のはたらき として、どちらかと言えば生得的な情動に焦点を合わせていたが、システム1は学習によっ て自動的・無意識的に作動するようになった認知過程も含むと考えられている(第2章第2 節第1項)。私たちが直観的に下す様々な判断は、生得的な傾向だけでなく、社会の中で身 に付けた価値基準にも依拠しているということだ。

情動が生得的なものであるかどうかというテーマは、情動に関する科学的・哲学的研究の 中で活発な議論がなされてきた。情動には、人類において普遍的なものと文化によって異な るものの両方があるように見えることから、生得主義ないし生物学的還元主義と、社会的・

文化的構成主義のどちらが情動の説明として適切であるのかが問われてきた76。現在は、情 動には、生得的・生物学的な要因と、社会的・文化的な要因の両方が関わっているという見 方が有力になっているようである。プリンツはこのことを、「情動は生まれにも育ちにも依 存している」[Prinz2004:157(273)]と表現している77。「育ち」が情動を作り出しているこ とについては、ソマティック・マーカー仮説を唱えたダマシオも、次のように言及している。

われわれが合理的な意志決定に使っているソマティック・マーカーの大半は、おそらく 教育と社会化のプロセスにおいて、特定の種類の刺激を特定の種類の身体状態と結び つけることで脳のなかでつくられたものである。[Damasio1994:177(278)]

76 情動の普遍性が生得主義と結びつけられた経緯については、服部の説明を見ておこう。

「ある性質が普遍的であることはそれが生得的な性質であることと同じではない。しか し、ある性質がある種にとって生得的であればそれがその種に普遍的に見出されるという ことは自然なので、情動表現が普遍的であるということは情動の生得性の有力な論拠にな りうるであろう」[服部2014:41-42]。情動の生得主義と構成主義の対立については、服 部[2014]の他、Prinz[2004]や遠藤[2013]を参照。

77 ただし、プリンツの見るところ、「情動研究のリサーチプログラムは、生まれ/育ちを 分断したうえでどちらか一方に焦点を合わせるものが多く、二つの要素がどのようにして 混ざるかについて詳しく述べているものはほとんどない」[Prinz2004:135(233)]とい う。

ソマティック・マーカーは、内的な選択システムの制御下と外的な環境の影響下で、経 験によって後天的に獲得される。ここで言う環境には、有機体が相互作用しなければな ら な い 実 在 物 や 出 来 事 だ け で な く 、 社 会 的 慣 習 や 倫 理 的 規 範 も 含 ま れ る 。

[Damasio1994:179(280)]

意識的な理性のはたらきを中心に据えた従来の議論においては、被教育者を自律させる ための教育者のはたらきかけとして、「自律せよ」と命じて熟慮を促すこと(システム2の ための教育)が主に想定されてきた。だが、私たちには、システム1の結論と反する結論を 出すシステム 2 のはたらきを不適切だと見なす傾向があり、一定の常識や良識を備えて判 断を下さない人間は自律者だとは認められないことがあり得るのだった(第2章第2節第3 項)。そのため、被教育者のうちに「適切な」直観を育む教育者のはたらきかけ(例えば、

自爆テロはどんな理由があっても許されないと直観的に判断するように導くこと)もまた、

自律を目指す教育のうちに含まれていると見るべきである。

もっとも、ここで示した 2 つの側面は理念的なものであり、具体的な教育場面において は、それぞれのシステムのための教育が純粋な形で行われることは不可能であるように思 われる。例えば、「自律せよ」「よく考えて行動しなさい」と命じるとき、教育者は「現在の 被教育者の在り方は自律ではない」「それではよく考えたとは言えない」という自らの判断 を暗黙のうちに前提としている。そこでは、「この範囲の振る舞いであれば自律していると 認めることができる」という形で、一定の価値基準が伝達されていると見ることができる。

他方、何らかの常識や良識に基づいて直観的に判断するように被教育者を導こうとするこ とが、被教育者の反発を呼び、むしろその常識や良識の是非に関する意識的な検討を促すこ ともあり得る。このように、自律を目指す教育は、「システム1のための教育」と「システ ム2のための教育」が分かちがたく絡み合いながら展開していると考えられる。いずれの側 面についても、教育者が意図せずに被教育者に与えている影響が大きな役割を果たしてい ると言えよう。被教育者の自律を目指してなされているはたらきかけが、教育者の意図とは 必ずしも合致しない効果をもたらしているという点は、この先の探究を進めるにあたって 留意しておきたい。

(2)他者から自律していると見なされるように導くこと

ここまでに、自律を目指す教育を理解するにあたって、被教育者が自律と他律を区別する ようになるという跳躍を解明すべきだと論じてきた。被教育者は、自律と他律を区別するよ うになることによって、自分が自律しているのだという認識を持つことができる。したがっ て、自律を目指す教育を、自律と他律の区別を可能にするはたらきかけととらえると、この はたらきかけは、被教育者自身が自分を自律していると見なすように導くという側面を有 していると言える。

これに加えて、自律を目指す教育には、被教育者が他者から自律していると見なされるよ うになるように導くという側面もあることを確認しておきたい。というのも、ここまでの考 察の中で、ある人間が自律しているかどうかは、その本人だけが決められるものではないこ とが何度も示唆されていたからである。

第1章では、教育目的として掲げられてきた自律概念において、行為を律する基準・規範 は他者による強制ないし導きを含んでいるのだと述べた。他者に依存せず自分自身で行為 を決めることは、自律概念の中核をなしている。だが、自己が自己だけのために設けた規範 に従って行為するという、完全に自己に閉じた自律は、教育学が退けるか、取り立てて望ま しいと判断しないものである。他者を害するような行為をしようと決め、その通りに行為し たとしても、教育目的としての自律を達成したとはまず見なされない。「歩くときは必ず左 足から前に出す」というような、他者にとって特に意味を持たない行為についても、それは 同じであろう。自律が教育目的として掲げられるとき、明示はされていないとしても、被教 育者が他者ないし社会から課されている規範に則って行為を決めるように導くことが想定 されている。

自律が主に意識的な理性と結び付けられているということは、上述の想定の 1 つの現れ だと言える。教育目的として掲げられる自律は、理性的であることと結び付けられることに よって、単なる放縦とは異なる望ましい状態を指し示している。だが、ある人間が理性的で あるかどうかもまた、社会的な基準に照らして判断されるものである。前項でも繰り返して 述べたように、私たちには、システム1 の結論と反する結論を出すシステム 2 のはたらき を不適切だと見なす傾向があり、一定の常識や良識を備えて判断を下さない人間は自律者 だとは認められないことがあり得る。多くの人々のシステム1によって正しい・よいとされ る範囲内の結論に至らなかった場合には、他者がシステム 2 をはたらかせたことを認めな い(それゆえ自律しているとも認めない)こともあるということだ。そのため、前項では、

自律を目指す教育にはシステム 1 のための教育という側面があると述べたのであった。シ ステム2のための教育、すなわち熟慮を促すことは、被教育者がある程度の常識や良識を身 に付けていること、あるいは身に付けようとしていることを前提として行われるのである。

もっとも、自律が教育目的として掲げられる際には、他者ないし社会から課された規範の 妥当性を批判的に検討するという要素が強調されることもある。例えば、道徳性の発達につ いて論じたローレンス・コールバーグは、「道徳的価値や道徳原理を、集団の権威や道徳原 理を唱えている人間の権威から区別し、また個人が抱く集団との一体感からも区別して、な お妥当性をもち、適用されるようなものとして規定しようとする明確な努力が見られる」レ ベルを「慣習以後の自律的...

、原理的レベル」とし、道徳性の発達の最終段階、すなわち到達 すべき最も高次の段階と位置付けている[コールバーグ 1987:172 ※強調は引用者によ る]。また、テオドール・アドルノは『自律への教育』において、カントの「啓蒙とは何か」

における「成年Mündigkeit」概念を自律Autonomieと重ねてその必要性を訴えているが、そ れは何よりアウシュビッツでの大虐殺という野蛮を二度と繰り返さないためであった。つ

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