第 5 章 叱責が可能にするもの
第 2 節 叱責による自由の付与
自律と他律を区別するようになるという跳躍を解明しようとする本研究にとって、青山 が、叱責によって幼児に自由が付与されると論じていることが重要である。その主張がよく わかる部分を引用しよう。
われわれは幼児を叱責する際、いったい何を教えているのか。われわれは幼児に、そ の行為は悪い行為であること、より良い行為がほかにあったこと、そうしたことを教え 込む。だが、このときわれわれは、幼児に次のこともまた、教え込んでいるのである。
その行為はしないこともできた、、、
ということ。代わりにほかの行為をすることもできた、、、
ということ。この意味で、幼児は自由であった、、、、、、
ということ―。これは客観的事実という より社会的信仰の教説である。幼児はこのことを信じなければならない。それが信仰で あることを忘れてしまうほどに強く。そしてわれわれもまた、この信仰の内部にいる。
われわれは幼児が自由だと信じ、その信念のもとで叱責を行なう。教育におけるこの側 面は、われわれの目からも、ふだんは完全に隠されている。[青山2016:257]
ここで青山は、叱責が、幼児に対して自らが自由であったこと(他の行為をする可能性が あったこと)を教え込み、信じさせることだと述べている。幼児が自由であることについて
「社会的信仰の教説」という強い語が当てられているのは、青山が、大人を含めた人間一般 について、自由であることを客観的な事実として認めることはできないと考えているから である。このことについて、叱責をめぐる論考が収められている著書[青山 2016]の議論 を踏まえて確認しておきたい。
青山[2016]の主題は、分岐問題、すなわち「未来に向かって分岐する可能的な複数の歴 史から、現実の歴史が選ばれるのはいかにしてか」[青山2016:34‐35]という問題である。
私たちは、枝分かれする可能性の中からどれかを選び取って実現させているという感覚を もっている。「私が病院に行ったのは、熱が三十九度を超えたからだ。体温計を見た瞬間、
私は病院に行く決意をして、その後すぐに家を出た。まさにあの瞬間に、病院に行く歴史が 選ばれたのだ」[青山2016:32]というように。このとき、体温計を見た瞬間が、病院に行 く歴史と行かない歴史の分岐点だと感じられる。しかしながら、こうした感覚が実態に即し ていないことを、青山は歴史の可能性の樹形図を示しながら指摘している。
「病院に行く」歴史Aと「病院に行かない」歴史Bはどちらも、それらの歴史の分岐 点を歴史の一部として共有している(図 1)。だから、この分岐点上でのある決断―決 断Xと呼ぼう―によって歴史Aに進むことはありえない。
決断という出来事がいかなる種類の出来事であれ、分岐点上のすべての出来事は両 方の歴史に存在している。「決断Xによって病院に行った」「決断Xなしには病院に行 かなかった」―こう言うことが可能になるのは、決断 X が分岐点よりも後に、つまり 歴史Aのほうだけに存在する場合だろう(図2)。ところがこの場合には、次のことを 認めなくてはならない。決断 X は結局、歴史の選択に関わっていないということを。
なぜなら、決断 X が実現したのは、歴史 A がすでに選ばれた後だからである。[青山 2016:32]
このように、歴史の分岐を説明することは、私たちの直感の強固さに反して、実は非常に 難しい。青山は、歴史の分岐をどのように説明し得るかという点から、自由意志と決定論の 両立可能性をめぐってなされてきた様々な議論をとらえ直していく。その緻密な検討によ って明らかにされるのは、人間の自由意志なるものが介在するかどうかにかかわらず、ある 出来事がどのようにして分岐点として特定の歴史を実現するのかを説明することはできな いということである。
分岐問題の「解決」として、私たちが論理的に認めることができるのは次の二つのうちど ちらかであると青山は言う。一方は、一つの世界の中には実現し得る諸可能性などはなく、
その世界において歴史は単線的に決まっているということ99。もう一方は、歴史は確かに分 岐するのだが、どの可能性がなぜ実現するかを説明することはできず、偶然によってある分 岐が起きるとしか言えないということである100。いずれにしても、人間が自らの自由意志に よって歴史(自らの行為を含む)を変える、という説明は成り立たない。そのため、自律を 自らの意志によってある歴史を選び取ることと見なすならば、人間を自律した存在と見る ことはできなくなる。それどころか、青山の議論は、他律概念をも否定することになる。つ
99 これは、二つの立場をまとめて表現したものであり、正確には、分岐問題の「解決」の 仕方は三つ示されている。まとめて表現した立場の一つは、そもそも可能性なるものが錯 覚であり、世界は単線的決定論に従うというものだ。もう一つの立場は「多世界説」であ る。多世界説は、あらゆる可能性が現実化すると考えるものだが、それはそれぞれに異な る多くの世界においてである。一つひとつの世界にとっては、実現される可能性は一つき りであり、したがって、一つひとつの世界において歴史は単線的に決まっていると言うべ きだとされる。
100 偶然が実在するかに関しては、青山は中立的である。その理由は、「今日の人間の認識 論的限界によってそれ以上の原因を遡及しえない現象(すなわち疑似的な偶然)と、無根 拠な真の偶然とを、見分ける方法が私には分からない」[青山2016:88]からだと述べら れている。
(図はいずれも[青山2016:33])
まり、他者によるものであれ、「律する(規範を立ててそれに従う)」という作用によって歴 史が変わること自体が認められないのである。第1章で、完全な自律及び他律は実現し得な いことを確認したが、青山の議論は、より根源的・徹底的に、「律する」という作用自体を 否定するという仕方で、自律及び他律の実現不可能性を示すものと見ることができる。
ここで、青山の議論と、第4章で参照したデネットの議論との関係を確認しておきたい。
デネットは、自由と決定論の問題は、2種類の視点を持とうとすることによって混乱してし まうのだと述べていた。2 つの視点とは、「過去と未来をすべて予め展開されたものとして 見る「神の目」と、宇宙の中にいる、、、、
動作主体としての行為者視点」[Dennett2003:93(137)] である。デネットは行為者視点に立つことによって、自由と決定論は両立するのだと論じて いた。すなわち、害を避けたり利益を得たりするために振る舞うという諸生物の有能性を、
決定論と両立し得る自由と見なしていたのだった。これに対して、青山が提示している分岐 問題は、「神の目」によって見えてくる問題だと言える。すなわち、過去及び未来と呼ばれ ている時間の経過を一度に見渡すと、人間の自由意志であれ何であれ、何かが歴史を分岐さ せたととらえること自体が困難であるということだ。そのように論じる一方で、青山は、デ ネットによる、行為者視点に立った自由についての議論の妥当性を認めている101。そして、
自らが自由であるという意識を持つ特異な行為者である人間の在り方を、以下のように描 いている。ここでもまた、鍵となっているのは、行為の理由を述べるということである。
101 デネットの議論のうち、青山が直接参照しているのは、2つのチェスプログラムに関す る思考実験[Dennett2003:77-83(115-123)]である。2つのチェスプログラムAとBを 1000回対局させると、全てAがBに勝ったとする。1000回のゲームは、乱数生成器を参 照することによって、全て異なるゲームとなっているが、プログラムを再起動して初期状 態を揃えると、その前と全く同一のゲーム展開となる。この意味で、2つのプログラムは 決定論世界にあるのだが、1000回ともAが勝ったことを「全てAが勝つように決定され たのだ」と説明してしまっては、AとBの重要な違いが見過ごされることになるとデネッ トは言う。「たしかにこのチェスプログラムは、昆虫や魚と同じで、道徳的に意味のある 自由意志のまともな候補にするには単純すぎる行為者だ。だがだからといってこの世界の 決定論が、チャンスを活用するというそれぞれのプログラムが持つ力や能力を奪うわけで
はない」[Dennett2003:81(120)]。Aのプログラムは、チェスのプレーヤーすなわち行為
者として、ピンチを避け、チャンスを活かすように指し手を選ぶ能力がBよりも高いのだ と見ることこそ、2つのプログラムの特徴をよくとらえることだとデネットは考えてい る。そして、このように指し手を選ぶ能力―言うなれば、進化の初期段階の自由―は、決 定論が正しいことによって失われるものではないと言う。こうしてデネットは、生物のみ ならず人工物にも、決定論と両立し得る自由を見出しており、青山もこの見方を支持して いる。