第 1 章 自分自身で行為を決めることと他人に依存すること
第 3 節 自律と他律をめぐる跳躍の在り処
(1)自律と他律の両義性モデルにおける成長・発達
自律と他律の両義性モデルを採ることによって、自律を目指す教育の見え方は大きく変 わる。まず、このモデルにおいて、人間の成長や発達をどのようにとらえることができるか を検討しよう。
従来の切り分け‐結びつけモデルでは、人間は、成長・発達の過程で他律から自律へ移行 するとされてきた。これに対して両義性モデルでは、完全な他律から完全な自律への移行を 想定することはできない。その理由はまず、前述の通り、大人であっても完全に自律してい るとは言えないからである。それだけでなく、幼い子どもであっても完全な他律状態にはな いと考えられるからである。幼い子どもに対しても、他者がその一挙手一投足を決めてしま
うことはできない。むしろ、幼い子どもほど、大人が何らかの命令をしたとしても、それに 従わずに思いもよらない行為をするものではないか。以下の引用部で土戸敏彦が述べてい るように、命令に従わない子どもは他律状態にもないと言うべきである。
たとえば、子どもたちに「静かにしなさい」という指示がなされる。この指示にすなお に従うことを「他律的」と呼ぶべきか。指示に従わない子どもは「他律的」でないこと になるのか。まさか、だからと言って「自律的」であることにはならないだろう。指示 に従わない理由はさまざまあるだろうが、そもそも与えられた規範の意味が分からな いというケースもありうる。このような場合は「他律」うんぬん以前の話である。規範 の意味が理解できず、規範の受容が端からできないような子どもの場合、「他律」とい うことすら妥当しない。[土戸2016:49]
土戸は、指示に従わない子どもは他律的でないだけでなく、自律的でもないと述べている。
確かに、規範の意味を理解できていない段階の子どもが自律しているとは言い難い(もしそ う言えるのであれば、自律を教育目的として掲げる必要はなくなってしまう)。しかしなが ら、他人に決められた通りに行為していないという消極的な意味において、指示に従わない 子どものうちに、自律性の萌芽があるという見方もできよう。
以上のように、両義性モデルの下では、人間が完全な他律から完全な自律に移行するとは 想定できない。ただし、〈ふり〉論に基づく両義性モデルは、それぞれの行為が異なる割合 で自律性と他律性を含んでおり、自律と他律のスペクトラム(連続体)上の異なる位置にあ ることは認める。すると、人間はより他律的な状態からより自律的な状態へと成長・発達す るという想定ならばできるかもしれない。確かに、多くの子どもは大人に近付くにつれて、
行為の適切さを判断するための知識を増やし、行為を決定するための様々な思考方法を身 に付け、自らの行為がどのような規範に従っており、その規範がいかに状況に適合している かを説明できるようになっていく。したがって、より他律的な状態からより自律的な状態へ、
という表現は、人間の成長・発達の一面を言い表していることは間違いない。
だが、子どもに起きる変化は、その表現の内にはとどまらない。逆に、必要に応じて他律 に服することができるようになることも、一つの成長ではないだろうか。つまり、時と場合 に応じて、自己主張を抑えて他者の命令に従えるようになるというもまた、子どもが徐々に できるようになることの一つである。この点について、土戸は先ほどの引用部に続いて以下 のように述べている。
そうだとするならば、「他律的」であることはすでに相当な能力が芽生えていること を意味する。さらに言えば、他者から与えられた規範に従う能力は、みずからがみずか らに与える規範に従う能力と紙一重だという仮定すら可能である。すなわち「他律」が
可能になるところでは、すでに初発段階の「自律」が機能していると考えられるのであ る。[土戸2016:49]
さらに、前述のフーコーの主体化=従属化論が明らかにしたように、人間には、きめ細かく 他律されるほど、ますます自律する(自らに規範を課す)という側面もある。言い換えれば、
私たちが自律的であればあるほど、ますます外部から課される規範に従順になっていると いうことだ。このように考えると、人間の成長・発達は、他律から自律へという一元的な軸 の上に位置付けることができるものではない。切り分け‐結びつけモデルの成長観や発達 観は、一面的であったとさえ言える。
(2)自律と他律をめぐる別の跳躍
自律と他律の両義性モデルの下では、人間の成長・発達は、他律から自律へという軸だけ ではとらえられなくなる。すると、自律を目指す教育を理解・説明するという課題の意味自 体が変わってくる。とりわけ、自律の達成をめぐって跳躍が見出される地点がずらされると いうことを強調したい。
自律に関する従来の議論は、自律と他律を両立不可能な異なる二項として切り分けた後、
一人の人間が他律から自律へ移行するという形で両者を結び付けようとしてきた。だが、一 度切り分けたものを結びつけることには論理的な困難が伴う。そのため、他律から自律への 移行は跳躍として表現され、その跳躍の理解が試みられてきた。これが、自律と他律のパラ ドックスをめぐる諸議論が行ってきたことである。ところが、自律と他律はそもそも両義的 であるため、各論者は、それぞれの関心によって異なる仕方で両者を切り分けてきた。序章 で確認したように、自律はまずその定義が論争の的となる概念なのである。こうした定義の ずれもあり、今日まで自律と他律のパラドックスが解明されたという合意は形成されてこ なかった。
これに対して、自律と他律の両義性モデルは、自律と他律が分かちがたく結び付いている ことを表している。したがって、他律から自律への跳躍的な移行はそもそも想定されていな いのだから、この跳躍を説明する必要はない。だが、両義性モデルを採ることによって、別 の地点で、跳躍と呼ぶにふさわしい決定的な変化が被教育者に起きていることが浮かび上 がってくる。それは、自律と他律を切り分けるようになる地点..................
である。前述の通り、私たち は実際には、自律とも他律ともつかない、自律とも他律とも言える形で様々に行為している。
それにもかかわらず、私たちはなぜか、自律と他律が異なるのは当然だと信じている。いつ しかそう信じるようになったのだ。決して切り分けることのできない自律と他律を切り分 けないままに生きる段階(おそらくこの段階では、より..
自律的であるかより..
他律的であるか という判断もなされない)から、自律と他律を切り分ける段階に移ること。この跳躍がいか にして遂げられており、そこで大人によるはたらきかけはどのように作用しているのか。こ
れを明らかにすることが、自律を目指す教育を理解・説明するにあたって決定的に重要であ ると考える。
本研究はこれから、ここで提示した新たな跳躍―被教育者が自律と他律を区別するよう になるという跳躍―を解明すべく考察を進めていくのだが、その前に、自律と他律が両義的 であるという見方をより精緻化しておきたい。前項では、自律と他律の区別の核心をなすと 思われる、自分自身で行為を決めることと他人に依存することの区別について検討し、その 曖昧さを踏まえて自律と他律の両義性モデルを提示した。自律と他律の区別については、そ のもう一つの重要な要素として、理性的であることと感性的(感情的)であることの区別を 挙げることができる。この区別もまた曖昧であることを、第2章で明らかにする。