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理性と情動の分かちがたさ

ドキュメント内 自律を目指す教育に関する自然主義的研究 (ページ 62-76)

(1)課題と用語の整理

これまで教育目的として掲げられる自律の中心的要素と考えられてきたのは、意識的な 理性のはたらきであった。これに対して、二重過程理論を踏まえた前節の考察から、意識的 な理性と重なるシステム 2 のみによって教育学的な自律概念を説明することは、実現可能 性の面でも望ましさの面でも不適切であることが明らかになった。現代を生きる人間にと って、システム2の重要度がますます高まっていることは確かである。だが、理性や意識の はたらきと対立すると見られる感性(感情・情動など)や無意識のはたらき(システム 1)

は、自律をめぐる議論の中で中心的な位置は占めてこなかったものの、実際には自律と呼ば れる状態の前提となっている。2つのシステムのどちらかのみによって教育目的としての自 律を説明することは不可能なのである。

加えて、システム2 がしばしばシステム 1 を合理化・正当化していながら本人はそれに 気付かないこと、また、システム2 がはたらいているかどうかの判断自体がシステム1 に よって下される傾向があることを踏まえると、私たちはある判断や行動がどちらのシステ ムによって実現されているかを見定めることはできない。このことは、自律概念をとらえる 際に持ち出される、理性と感性(感情・情動)の区別や意識と無意識の区別自体が、実は曖 昧であることを示唆している58

58 ある判断や行動がどちらのシステムによって実現されているかは、脳神経のはたらきを 調べることによって知ることができると言えるのかもしれない。というのも、「二一世紀 になると神経科学において、二つの認知システムの神経基盤となるような二つの神経シス テムがあるということが言われるようになってきた」[西堤2014:69]からである。具体 的には、システム1は偏桃体、システム2は前頭前野を中心に実現しているとされている ようである。ただし、「システム1とシステム2は、相互作用する部品から構成されたシ ステムという一般的な意味でのシステムではないし、どちらのシステムも脳のどこかに属 しているわけではない」[Kahneman2011:29(上57)]というように、2つのシステムと脳 の特定の部位との結びつきに否定的な論者もいる。システム1/システム2という用語の 提唱者の一人であるスタノヴィッチも、この用語が、二重過程理論における2つの過程が 2つの区別された脳のシステムに明白に対応しているかのような印象を与えることなどか ら、タイプ1/タイプ2という用語を用いる方がよいと主張している[Stanovich2012]。筆 者は2つの過程と脳の部位との結びつきの有無については判断しかねるが、少なくとも、

脳神経のはたらきを調べても、理性と感性(感情・情動)のどちらがはたらいているかを 知ることはできないと考える。なぜなら、この後に見るように、そもそも理性と感性(感 情・情動)の意味自体が様々な仕方でとらえられており、それらの区別についての共通の

近年の人間諸科学及びそれを踏まえた自然主義的な哲学においては、二重過程理論に言 及しているものの他にも、理性と感性(感情・情動)の区別を問い直すような議論が盛んに なされている。本節では、そうした議論をいくつか参照して、理性と感性(感情・情動)の 分かちがたさと、それと関連する、意識的であることと無意識的であることの分かちがたさ を確認していく。

なお、ここまで感性・感情・情動・衝動・欲望そして直観といった語を、理性と対比され るものとして一まとめにしてきた。このうち、これ以降に主に登場するのは情動である。情 動という語は、他の語に比べると日常的にはあまり用いられないかもしれないが、心理学や 神経科学で研究対象となっているemotionの訳語としては一般的である。もっとも、訳語の 対応は絶対的なものではなく、emotionが感情と訳されていることもある(感情という語は、

affectやsentimentの訳語として用いられることもある)。本節以降では、人間諸科学及び自

然主義的な哲学の一般的な用語法に合わせて情動という語を用いるが、情動と感情を特別 に区別しようという意図はない59

議論をスムーズに進めるためには、ここで情動ないし感情の定義を示すべきなのであろ うが、それは断念せざるをえない。なぜなら、心理学等やそれを踏まえた自然主義的な哲学 に限っても、その定義は一致をみていないからだ。心理学者の遠藤利彦は、「10人の研究者 がいれば10種類の定義が成り立つというほど、情動あるいは感情に関わる諸現象は微妙で 多面的な性質を有している」[遠藤2013:15]と述べつつ、情動の簡単な定義として「事象 に対する認知的評価によって立ち上がり、特異な主観的情感、生理的変化、表出的特徴、行 為傾向といった複数の構成要素が絡み合いながら発動される一過性の反応」[遠藤2013:20]

了解もないからである(システム1/2と理性/感性はそれぞれ完全に重なる概念ではな い)。

59 論者によっては、情動と感情を異なる概念として取り扱っている。例えば、情動をめぐ る自然主義的哲学研究のなかで現在広く参照されているジェシー・プリンツの著作

[Prinz2004]の邦訳では、emotionの訳として情動が、affectの訳として感情が用いられて

いるが、この訳語の選択について訳者の源河亨は次のように述べている。「[プリンツによ ると]アフェクトは、エモーションだけでなく、気分(mood)、動機づけ(motivation)、

心情(sentiment)などを含む上位のカテゴリーであり、そして、こうしたさまざまな心的

状態がアフェクトとしてまとめられるのは、それらがすべて正/負の「感情価

(valence)」をもつからである。「感情価」は訳語としてかなり定着しているので、感情価

によってまとめられるアフェクトに「感情」を当てる方が適切だと判断した」[源河

2016:422]。感情affectを情動emotionやムードmoodなどの反応・状態の上位に置くまと

め方は、感情心理学の入門書(大平[2010:5-7])にも見られる。なお、このまとめ方 は、「感情を厳密に定義することは難しく、心理学において一般に認められた感情の定義 というものは存在しない」[大平2010:5]と断ったうえで提示されている。

を提示している。恐怖という情動を例にとるならば、それは、何らかの対象が自分にとって 有害であるといった評価と、まさに怖いのだという主観的な感じ、全身のこわばりや冷や汗 といった身体的反応、他者からも怖がっていると気付かれるような特有の表情、その場から 逃げ出す傾向などを伴っているということである。ただし、「仮定されている構成要素のど れ1つを取っても、それを情動の中の決して欠かせない要素、あるいは情動という現象のす べてに必ず通底して在るユニークな要素とは見なし得ない[…]換言すれば、情動の発動に 何が必要条件としてあり、あるいはまた十分条件として在るのかということが一意的に定 まらない」[遠藤 2013:22]。どの構成要素が情動にとって本質的であるのか、また構成要 素間の関係がどのようになっているのか、ということは、それ自体が情動に関する研究の重 要な論点なのである。したがって、上述の定義はあくまでも、研究を始めるための暫定的な ものとして示されている。本節の論述も、遠藤に倣い、上述のような複数の構成要素の絡み 合いを大まかにイメージしながら進めていくこととする。

(2)情動の合理性に関して

本節では、理性と情動の区別を問い直す一つの潮流として、情動の合理性に関する諸研究 を検討する60

情動は非合理的なものであり、合理的な理性によって制御されるべきだという見方は根 強い。哲学において、その歴史はしばしばプラトンにまで遡られる。「理性は情念の奴隷で あり、またただ情念の奴隷であるべき」[ヒューム2011:163]と述べたデイヴィッド・ヒュ ームのように、情念の重要性を論じる者もいたものの、全体的な傾向としては、人間を特徴 づける合理性を担うのは理性だという見方が優勢であったことは間違いない。この状況は、

19世紀後半に哲学から離れて独自の発展を始めた心理学においても同じであったという。

これに対して、哲学においても、心理学を含む人間諸科学においても、1970年代頃から、

情動の合理性が様々な形で指摘されるようになってきた。それによって、今や、理性と情動 の区別を合理性と非合理性の区別に対応させて理解することは適切ではなくなっている。

現在、情動を扱う哲学・人間諸科学において、以下のような認識は標準的なものだと言っ てよいだろう。

少なくともわれわれ人間においては、情動がまったくなければ、合理的な振る舞いは可 能ではないようだ。情動が不合理な振る舞いをもたらすのは、情動が歪んでいるか、あ るいは強すぎたり弱すぎたりするためであり、情動が適切であれば、不合理な振る舞い

60 哲学及び心理学において、情動の合理性が注目されるまでの経緯については、遠藤

[2013]、西村[2018]等を参照。

ドキュメント内 自律を目指す教育に関する自然主義的研究 (ページ 62-76)