第3章 自律を目指す教育を理解するとはいかなることか
第 1 節 理性と感性・感情・情動の区別の意味
(1)心的概念の歴史から
考察の手がかりとして、ここからは、心理学史研究者のカート・ダンジガーの見解を参照 していく。第2章第3節では、感性・感情・情動・衝動・欲望・直観といった、理性と対比 される諸々の語のうち、人間諸科学でよく用いられる情動という語に関して考察を展開し た。情動という語は、感性や情念、パトス、衝動や欲望といった、人間諸科学の隆盛以前か
ら哲学者によって用いられてきた類語の意味を部分的に受け継いでいる。ダンジガーは、19 世紀に情動という語が普及するまでは非常に重要であった情念 passion という語について、
古代ギリシャから中世、そして近世に至るまでの主だった用いられ方を検討している。それ によれば、情念の区分の仕方やその原因についての見方は、時代によって、また同じ時代で も論者によって異なっていた。その違いには、魂と身体の関係のとらえ方が変化したことな どが関わっているという。
ここで注目したいのは、ダンジガーが、情念という語の様々な用いられ方のうちに、共通 の機能を見出していることである。以下の引用の一つ目はアリストテレスにおける情念に ついて、二つ目はデカルトにおける情念について述べられている部分である。
[『ニコマコス倫理学』の議論をたどると]道徳的卓越あるいは徳の達成をときに思わ ず妨げるものが存在することに気がつく。[…][麻痺した脚と]同様に、魂のなかにも 制御できない独自の仕方で動く要素がある。その要素のいくつかは、私たちが影響をま ったく及ぼすことのできないような養育と成長の過程に関係があるはずである。また、
情念passionや欲望desireのような、ある程度まで制御できる要素も存在する。したが
って、善き人生を切望する人間の「理性」と、善き人生を達成したいなら規制されるべ き魂のほかの要素のあいだに区別がなされる。[Danziger1997:31(上57)]
過去の概念化と同様に、デカルトの情念についての概念化も、道徳的関心という文脈の なかに埋め込まれていた。善き人生を送りたいのであれば、情念は制御されるべきだと いうのである。人間個人のなかで、制御を行う上位の部分と制御されるべき荒々しい下 位の部分が根本的に対比させられ、その比較のなかで情念に場所が割り当てられた。
[Danziger1997:34(上63)]
2000 年ほどの時を隔てた両者の思想には、言うまでもなく大きな違いがある。ごく簡単に 言えば、アリストテレスにおいて、情念は魂(プシケー)の一要素であったが、デカルトは 魂と身体を区別し、情念は身体によって引き起こされたものとした。ここには、魂をめぐる 問題構成自体の変化がある。だが、人間のなかに制御する部分と制御される部分を見出し、
後者を情念と見なすという枠組み自体は維持されてきたのだとダンジガーは見ている。ア リストテレスとデカルトの間に位置するストア派やスコラ哲学においても、同様の大きな 枠組みが見られるという。この見解をより敷衍して述べている部分も引用しておこう。なお、
引用冒頭に列挙されている「欲望や喜び、反感」は、それぞれ情念の下位区分として数え上 げられてきたものである。
何世紀ものあいだ、欲望や喜び、反感といったテーマは、道徳的関心という文脈で議論 される傾向があった。その関心は、個人のなかにある高度で善良で責任ある部分と、不
幸と邪悪の源泉であり制御のもとに置かれるべきほかの部分とのあいだの根本的な対 立という図式によって特徴づけられていた。こうした言説は、人々に自分のなかの自然
(本性)について知らしめ、あたえられた社会状況下で自己管理するように促すことを 目的としている。自己管理をうまくやるためのひとつの方法は、道徳的な制御 control という目的に適う仕方で人々が自分の経験にラベルを貼り区分できるような分類スキ ーマをあたえることである。その分類スキーマは恣意的であるがゆえに、そのラベルを 貼る仕方についての合意はまったく存在しなかった。そして、それは、二〇世紀におけ る情動と動機づけの区別にどこかで似ていることは確かである。スキーマの具体的な 中身よりももっと重要なことは、そうしたスキーマが存在したということ、個人のなか の諸部分を統治するものthe rulingと統治されるものthe ruledに根本的に二極化したと いうことである。これらの特徴が、理性的でないnon-rationalと特徴づけられる人間性 の諸側面に向けられた諸概念の実用性と永続性を保証したのである。[Danziger1997:
35(上64-65)]
ダンジガーは、個人の中の、統治するものと統治されるものを区別するという発想が何世 紀にもわたって続いてきたことに着目している。この区別において、統治するものには主に 理性という語が、統治されるものには主に情念という語が当てられてきた。しかしながら、
理性と情念の区別の仕方はまったく一様ではなかった。それは「その分類スキーマは恣意的 であるがゆえ」だという。ダンジガーは、統治するものと統治されるものの区別について理 論化の努力が重ねられてきたことが、自己の制御や管理が人間にとって重要であり続けて きたことの証左だと見ている。
さて、ダンジガーは、古代の概念や実践を取り上げるにあたって、現代との非連続性を強 調していたのだった。
理性は、それをめぐって古代の自己対象化の言説が展開するひとつの軸をなしてい るが、他方で感情affectionsや情念passionsはもうひとつの軸をなしている。それらは、
おそらく古代ギリシャ・ローマのテキストのなかで最もはっきりとした「心理学的な」
カテゴリーである。けれども、現代心理学のカテゴリーが確立されはじめたまさにその ときに、それらの古典的カテゴリーは消え去り消滅したのである。[Danziger1997:23
(上41-42)]
しかしながら、心的なものをとらえるカテゴリーが現代心理学の確立以降大きく変わって はいても、個人の中の統治するものと統治されるものを区別するという発想は現代でも失 われていないし、自己の制御や管理が人間にとって重要であることにも変わりはないと考 えられる。そのことは、ダンジガーが一つ前の引用部で、個人の中の諸部分を二分するかつ
てのスキーマが「二〇世紀における情動と動機づけの区別にどこかで似ている」と述べてい ることにも表れている。
ダンジガーによれば、情動が情念に代わって重要なカテゴリーとなったのは18世紀のこ とである。その変化を描くためにダンジガーが取り上げている18世紀イギリスでは、「ある 種の情念は、新たに誕生した社会で成功を収めるために、有害どころか、必要不可欠である ように思われた」[Danziger1997:39(上72)]。「新たに誕生した社会」とは資本主義社会で あり、そこでは経済活動の原動力となる有益な情念と、その妨げとなる有害な情念が、「穏 やかな」情念と「激しい」情念といったかたちで区別されるようになったという。そして、
ヒューム等による理論化を経て、制御すべき「激しい」情念をもっぱら指す語として、情動
emotionが用いられるようになった過程が描かれている。加えて、情念の細分化は、理性の
とらえ方の変化と軌を一にしていたのだとダンジガーは論じている。その変化は、理性の道 具化とまとめられている。すなわち、古代から理性は個人と「宇宙の神聖な秩序」
[Danziger1997:43(上81)]とのつながりだと考えられてきたが、18世紀に至って、理性 は個人が自らの目標を達成するための計算の道具となったということである。ダンジガー によれば、この理性のとらえ方の変化は、理性が持つとされていた「ある種の因果的効力」
[Danziger1997;42(上78)]、すなわち人を行為へと駆り立てる力が失われることを伴って いた。ヒュームが「理性は情念の奴隷であり、またただ情念の奴隷であるべき」[ヒューム
2011:163]と述べたのは、「理性だけでは、意志のどんな働きの動機となることもけっして
できない」[ヒューム2011:161]と認識していたからだった。ここで、理性の主人として、
理性が計算すべき目標を設定する情念は、「道徳的に去勢され、動機として作用するような
「穏やかな」「安定した」属性を含むようになった」[Danziger1997;43(上80)]ものであ った。ダンジガーは、動機motive という語が人間行動の説明においてますます重要になっ ていったことにも言及しながら、一連の変化を次のようにまとめている。
理性は道具化され、かつてはより重要だった「穏やかな」情念と「激しい」情念の区別 が、動機と情動の違いへと展開していったのである。[Danziger1997;43(上86)]
このような経緯を見ると、個人の中の諸部分を二分するかつてのスキーマが「二〇世紀にお ける情動と動機づけの区別にどこかで似ている」という先の叙述は、個人の中の統治するも のと統治されるものの区別が、今日でも動機(づけ)72と情動の区別というかたちで続いて いることを述べたものだとわかる。
72 ダンジガーは、動機という語から派生した動機づけmotivationという語が、19世紀後期 以降盛んに用いられるようになった経緯と、そこで生じていた心理学の枠組みの変化につ いても論じている。