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被教育者の自律という近代的な教育目的は、様々な問い直しを受けつつも、依然としてそ の重要性を失っていない。教育哲学においては、近代教育(学)批判を受け止めた上でなお、

目指すべき価値として掲げることができる自律概念を練り上げることが課題とされており、

カント以降の、自律と他律のパラドックスに関する考察も続けられている。他方、人間諸科 学は今日、「認知」や「進化」をキーワードとしながら、近代以降の人間観の問い直しを求 めるような知見を次々と産み出している。こうした状況の中で、人間諸科学の知見と整合す るかたちで自律という教育目的を理解・説明するべく、自律を目指す教育をパラドックスと は異なる枠組みによってとらえ、その内実を探究することが、本研究の目的であった。

第1章では、自律を目指す教育をパラドックスととらえることの問題点を指摘し、新たな 枠組みを提示した。教育哲学研究ではこれまで、教育という他律によって、他律から自律へ の跳躍が遂げられるというパラドックスが、様々な角度から追究されてきた。これに対して、

このパラドックスは自律と他律を相異なるものと定義することによって生じる論理的な問 題であるため、経験的な知見をその理解のために活用する道が閉ざされているという問題 点を指摘した。そこで、自律を目指す教育をとらえるパラドックスとは異なる枠組みを得る ための方針として立てたのが、自律と他律のパラドックスの前提となっていた、自律と他律 の区別に疑いを差し向けるということである。第1章では、自律と他律の区別の最も核心に あると思われる、自分自身で行為を決めることと他人に依存することの区別が曖昧である ことを、土戸敏彦の〈ふり〉論に示唆を得て論じた。自分自身で行為を決めているかどうか という観点からすると、自律と他律はそもそも両義的なのである。そのことを踏まえて、自 分自身で行為を決めることと他人に依存することを区別するようになるという跳躍こそ、

自律と他律をめぐって解明すべきものであると主張した。

第2章の考察の主題は、自律と他律の区別のもう一つの要素である、理性的であることと 感性的(感情的)であることの区別であった。自律概念の中心には意識的な理性のはたらき が据えられてきたが、近年の教育哲学研究においては、感性(感情・情動・衝動・欲望など)

や無意識のはたらきもまた、自律と関連する要素として論じられるようになっている。この ようなやや錯綜した議論の見通しをよくするために、人間の認知に関する理論と支持を集 めている二重過程理論dual process theoriesを参照した。二重過程理論は、感性や無意識と言 われてきたはたらき(システム1)が人間にとっていかに重要であるかを明らかにするとと もに、それらと意識的な理性のはたらき(システム 2)の相互作用についても論じている。

この理論を踏まえることによって、理性や意識と、感性や無意識という一見対立する諸要素 が、自律という教育目的の中で絡み合う様を描き出した。さらに、情動の合理性や、情動と 認知の関係に関する諸議論を通して、理性と情動(感情)の分かちがたさと、理性と情動の 区別と意識と無意識の区別の対応関係も揺らいでいることを確認した。

第3章では、第1章・第2章を受けて、自律を目指す教育をとらえる、パラドックスとは 異なる枠組みについて考察を深めた。その手がかりとしたのが、理性と感情・情動・情念な どの境界線が古来様々に引き直されてきたのは、自己の制御や管理が人間にとって重要で あり続けてきたことの証左であるという、心理学史研究者のカート・ダンジガーの見解であ る。第2章で見たように、現代の人間諸科学は情動の合理性や理性の非合理性を明らかにし てきているにもかかわらず、また、情動と理性の境界は曖昧であるにもかかわらず、理性に よる情動の制御は依然として重要視されている。そして、教育学的自律概念は、自己のある 部分による別の部分の制御を想定している。これらのことから、理性的であることと感性的

(感情的)であることの区別についても、それらが区別されるようになる過程を解明するこ とが、自律を目指す教育を理解・説明するための鍵になると論じた。続いて、第1章・第2 章から読み取ることができる自律を目指す教育の他の側面として、システム 1 のための教 育とシステム 2 のための教育、他者から自律していると見なされるように導くことを挙げ た。

第4章・第5章では、第3章までにとらえ直された自律を目指す教育が、どのように実現 されているのかを検討した。とりわけ、もはや所与の前提とは言えない自律と他律の区別が どのように身に付けられていくのかを問うたことが、自律を目指す教育にパラドックスを 見出してきた従来の研究と本研究の最も大きな違いである。第4章で着目したのは、人間が 自らの行為について意図や理由を述べることである。意図と理由の公共性に関する哲学的 な議論を踏まえると、人間が成長の過程で自分の行為の意図や理由を述べるようになるこ とは、意図や理由を尋ね述べ合うコミュニケーション空間に参入することと言える。このこ とはむしろ、行為の意図や理由を述べることが、自律(実際に自らが立てた規範に従って行 為を決めたこと)の指標ではないことを意味するのだが、日常的には、自らの行為について 意図や理由を述べることが、その人間が少なくとも当該の行為に関して自律しているとい う判断の手がかりとなっているようである。そこから、自律と他律の区別が、自らの意図や 理由を述べることによって、信じられ引き受けられていることを導き出した。すなわち、意 図や理由によって自らの行為を説明することにおいて、他人に依存しているのではなく自 ら行為を決めているのだ、しかも感情に任せた判断ではなく理性的な判断を行っているの だ、という2つの区別が実現されているということである。それゆえ、自律と他律の区別が 身に付けられる過程を解明すべく、子どもが意図や理由によって自らの行為を説明するよ うになる過程を検討することとした。そして、進化の観点から人間の自由について検討して いるダニエル・デネットの議論などを踏まえ、大人が子どもに行為の意図や理由を繰り返し 問うことが、子どもがそれらを述べるようになるために不可欠であると論じた。

第5節では、行為の意図や理由を問うことに先立つ、自律を目指す教育のより基礎的な過 程として、大人が子どもを叱責する(過ちについて責め、叱る)ことについて検討した。こ の分析の重要な導きとなった青山拓央の論考では、叱責が幼児に自由を付与するのだと論 じられていた。すなわち、自らが自由であり、他の行為をする可能性があったということは

「社会的信仰の教説」[青山 2016:257]にすぎないのだが、子どもは叱責を繰り返される 中で、それを信じるようになるということである。自分が自由であるという認識は、言語を もち、否定の意味を理解する人間のみが有するものであり、自分自身で行為を決めることと 他人に依存することの区別をするための前提となる。それゆえ、大人が叱責によって子ども を自由と可能性の世界に引き入れることを、自律を目指す教育の基礎的過程と見なすこと とした。第5章の後半では、子どもを叱責する大人の態度にも注目しながら、この過程につ いて考察した。子どもははじめ、大人による叱責の意味を適切に理解することができない(3 つの叱責を翻訳できない)ため、叱責はずれを孕む曖昧なコミュニケーションとなる。それ でも大人が子どもを叱責するのは、ストローソンの言う客体的態度と反省的態度の両方を、

大人が子どもに向けているからだと論じた。すなわち、大人は、幼い子どもにはまだ複数の 可能な選択肢を検討して行為を決めるような能力がないことをわかっていながら、しかし 部分的にはそのような能力があるように信じ、怒りを伴う叱責を行っている。それが繰り返 されることによって、子どもはいつしか叱責の意味を理解し、自らに自由や可能性がある

(あった)のだという認識のもとで振る舞うようになると考えられる。

本研究全体の締めくくりとして、自然主義を掲げて自律を目指す教育について探究して きた本研究の意義と限界、そして今後の展望について述べておく。

本研究は、人間の心や行動に関する科学的知見を、自律を目指す教育の理解に活用すべく、

自律を目指す教育を、自律と他律の区別を可能にするはたらきかけととらえることを提案 した。そして、自らが自律した存在だという人間の認識が進化によって実現していることを 確認しつつ、大人が子どもに行為の意図や理由を問うことや叱責をすることが、個々の子ど もがそうした認識を持つことを可能にしているメカニズムを検討した。本研究によって、子 どもと大人のコミュニケーションに関する科学的研究と、自律を目指す教育に関する(教育)

哲学的研究とをつなぐ道は、いくらか整備されたものと考える。今後、行為の意図や理由を 問うことや叱責を含む、子どもと大人のコミュニケーションに関する様々な科学的研究を 参照することによって、自律を目指す教育の細部への理解を深めることができるだろう。

また、本研究は、無意識的な感性・感情・情動が、従来の教育哲学研究において想定され ていた以上に、教育目的としての自律に関わっていることを明らかにしてきた。人間諸科学 において、現在、情動や感情に関する研究は大きな盛り上がりを見せている。情動のメカニ ズムやその発達、進化等についての知見は今後さらに積み重ねられていくことだろう。特に、

情動の発達に関する研究は、それを促す諸々のコミュニケーションについての理解も新た にするはずだ。そのような研究を参照して、自律を目指す教育をより的確にとらえていくこ とを、今後の大きな課題としたい。

以上のように、本研究は、人間諸科学の知見やそれを踏まえた自然主義的な哲学を参照し、

自律を目指す教育について探究してきた。しかしながら、当然のことではあるが、本研究で 参照できたのは、自律を目指す教育の理解に関わる科学的知見の一部にすぎない。自己につ

ドキュメント内 自律を目指す教育に関する自然主義的研究 (ページ 128-134)