九州大学学術情報リポジトリ
Kyushu University Institutional Repository
自律を目指す教育に関する自然主義的研究
宮川, 幸奈
https://doi.org/10.15017/4059965
出版情報:九州大学, 2019, 博士(教育学), 課程博士 バージョン:
権利関係:
博士論文
自律を目指す教育に関する自然主義的研究
宮川幸奈
序章 ・・・ 1 第1節 問題の所在
第2節 教育哲学における自律をめぐる諸議論 第3節 本研究の目的と方法
第4節 各章の概要
第1章 自分自身で行為を決めることと他人に依存すること ・・・ 24 第1節 自律と他律のパラドックスという問題
第2節 自律と他律の分かちがたさ 第3節 自律と他律をめぐる跳躍の在り処
第2章 理性的であることと感性的であること ・・・ 45 第1節 教育学的自律概念の重層性
第2節 二重過程理論からみる自律 第3節 理性と情動の分かちがたさ
第3章 自律を目指す教育を理解するとはいかなることか ・・・ 73 第1節 理性と感性・感情・情動の区別の意味
第2節 自律と他律の区別を身に付けるという跳躍の解明へ 第3節 自律を目指す教育の諸側面
第4章 意図と理由の空間への参入 ・・・ 87 第1節 意図と理由の公共性
第2節 意図と理由を述べることの意味
第3節 意図と理由の空間への参入過程(1):乳幼児による意図の理解
第4節 意図と理由の空間への参入過程(2):子どもに意図や理由を問うことによって
第5章 叱責が可能にするもの ・・・ 108 第1節 叱責の3分類とそれらの翻訳関係
第2節 叱責による自由の付与 第3節 人間の固有性
第4節 叱責の翻訳能力はどのように獲得されるのか 第5節 叱責を駆動する態度
終章 ・・・ 125 参考文献 ・・・ 131
序章
第1節 問題の所在
被教育者の自律autonomy、すなわち被教育者が自ら立てた規範に従って行為することは、
近代以降の教育(学)がその目的として掲げてきたことの一つである。自律という概念自体 は古代・中世にも存在したが、それがより強調されるようになったのが近代であることに異 論はあるまい。教育哲学者が自律概念について論じるとき、ソクラテス[Callan 2014]1やト マス・アクィナス[山室2017b〔2000〕]にまで遡ることもあるものの、今日的な自律概念の 基礎として参照されるのは、近代哲学の最重要人物の一人であるイマニュエル・カントの議 論である。
20世紀後半以降、とりわけ国内の教育哲学領域においては1990年代以降、近代教育の実 践とそれを支えてきた思考や価値観は様々に問い直されてきた。自律という近代の概念に 対しても批判的な眼差しが向けられ、それは本当に望ましいものであるのか、あるいはそも そも実現可能な価値であるのかが問われてきた。こうした近代教育(学)批判の大きな拠り 所となったのは、ポストモダンと称されるものを含む、20 世紀後半の哲学や思想の潮流で ある。いわゆるポストモダンの諸議論は、人間が自律的な主体であるという見方に対して異 議を申し立ててきた。例えば、ミシェル・フーコーの権力論は、自律的な主体が近代の権力 装置によって作られたものに過ぎないと論じたものとして、教育(哲)学にも大きなインパ クトを与えた2。こうした議論を受けて、少なくとも教育哲学領域では、自律した主体なる ものが近代のフィクションだという見方が広く行き渡っており3、いまや自律を文字通りに 実現可能な価値として称揚することは難しくなっている。また、多くの論者が他者の異質性 を尊重すべきものとして取り上げてきたことや、近代西洋的な理性の暴力性を指摘してき たことによって、理性と強く結びついた概念である自律を教育目的として掲げ続けること への疑念も生じてきた。すなわち、子どもの自律を目指す教育者によるはたらきかけは、他 者である子どもを、自律した(とされる)大人と同化させようとする介入であり、ある種の 暴力なのではないかということだ。
1 ソクラテスは自律について主題的に論じてはいないが、Callan[2014]は、何事にも批判 的な吟味を加えることを説いたソクラテスのうちに、カント以降の自律概念の萌芽を見て いる。
2 主体概念の変遷を教育哲学者が解説したものとして、田中[2017〔2000〕]を参照。な お、フーコーの議論については第1章で検討する。
3 自律的な主体を近代のフィクションであるととらえ、その成り立ちを思想史の観点から 探ったものとして、鈴木[2006]を参照。
ところが、上述のような批判を経てもなお、教育という営みにおいて自律という価値の重 要性は失われていない。むしろ、改正教育基本法(2006 年)が教育の目標の中に自律とい う語を加えた(第2条2項)ことが象徴しているように、国内の教育行政において、被教育 者の自律はますます強調されるに至っている。この流れがOECDの「キ―コンピテンシー」
の影響を受けているという関根宏朗・櫻井歓[2015]の指摘を踏まえれば、教育において自 律の価値を強調することは、今日の国際的な傾向だと言ってよいだろう。
こうした状況の中、教育哲学領域では特に1990年代以降、次節で確認するように、教育 目的としての自律概念を再考・再評価する動きが起きている。そこでは、近代教育(学)批 判を受け止めた上でなお、目指すべき価値として掲げることができる自律概念を練り上げ ることが、課題として引き受けられている。もちろん、再考の結果、改めて自律概念の問題 点を指摘する議論もある。だが、いずれにしても、少なくない教育哲学者が、自律概念につ いて検討することが今日においても重要な課題だと認識していることは確かである。
ところで、20 世紀後半以降になされた、自律的な主体の虚構性についての指摘は、ポス トモダン的な哲学や思想だけではなく、人間をめぐる諸科学にも依拠してきた。例えば、個 人の意思決定が他者の行動や周囲の状況に大きく左右されていることを明らかにする社会 心理学の知見を前にすると、個人の自律が文字通りのもの(自ら..
立てた規範に従って行為す ること)として実現しているとは考え難い。
人間諸科学は、近代以降の人間観の問い直しを求めるような知見を次々と産み出してお り、その勢いは増すばかりである。中でも、哲学・思想の領域においても近年大きな注目を 集めているキーワードは、「認知」や「進化」である。「急速な発展をみせる認知と進化にか んする科学と技術」と「現在生じている人間観の変容」との連関を読み解こうとする吉川浩 満は、そこで「大きな役割を演じている」学問領域として、認知心理学、行動経済学、人工 知能研究、社会生物学、進化心理学、人間行動生態学を挙げている[吉川2018:6]。本章第 3節以降に見るように、近年の哲学研究には、これらの学問領域の知見を踏まえて人間の心 や社会をとらえ直そうという問題意識を強く打ち出しているものがある。
教育哲学研究に対して人間諸科学が与えてきたインパクトは、ポストモダン的思潮のそ れと比べれば大きいとは言えない。しかしながら、例えば、人工知能(AI)の発達によって もたらされるであろう社会の変化は、教育という営みにも影響を与えると目されており、そ れに対応する必要性が説かれている4。こうした社会的状況と、上述のような哲学研究の状
4 2017(平成29)年告示の中学校学習指導要領の解説では、改訂の経緯が、人工知能の発
達と結びつけて次のように述べられている。「こうした[子どもたちが直面することにな る]変化の一つとして,人工知能(AI)の飛躍的な進化を挙げることができる。人工知能 が自ら知識を概念的に理解し,思考し始めているとも言われ,雇用の在り方や学校におい て獲得する知識の意味にも大きな変化をもたらすのではないかとの予測も示されている。
況に鑑みれば、教育哲学研究においても、人間諸科学の進展と向き合う必要性がますます認 識されていくものと思われる5。
そこで、本研究は、人間諸科学の知見や、それを踏まえた哲学研究を積極的に参照し、教 育学的な自律概念や自律を目指す教育の内実を検討していく。もう一歩踏み込んで述べる ならば、本研究は、近代以降の人間観を揺るがすような人間諸科学が、どのようなかたちで、
自律を目指す教育の新たな理解を可能にするのかを探っていく。
ここで、「自律を目指す教育の新たな理解」として想定しているのは、自律を目指す教育 をパラドックスととらえてきた従来の議論を乗り超えることである。自律と他律のパラド ックス(あるいはアポリア)とは、未だ自律していない子どもを自律させるためには教育と いう他律が必要だが、「自律せよ」という他者の命令に従う限り子どもは他律状態から抜け 出すことができないということである。カントが定式化したとされるこのパラドックスを めぐって、これまで多くの議論が重ねられてきたが、決定的な解決として教育哲学者たちの 支持を集める見解は未だに見出されていない。本研究は、自律を目指す教育をパラドックス ととらえること自体の問題を指摘したうえで、人間諸科学の知見を踏まえつつ、それに代わ る理解の仕方を提案していく。
第2節 教育哲学における自律をめぐる諸議論
「自律」「自律性」「自律的」といった語は、教育という営みを語るうえで実に多様な仕方 で登場する。そこで、本研究が取り扱う自律がどのようなものであるかを示しておく。
関根・櫻井は、教育学において自律概念が追求されるテーマ領域として、「教育を通じて 実現されるべき状態としての「個人の自律」」、「政治や経済といった社会の諸領域のなかで 教育の領域が相対的に独立性をもつべきことが主張される際の「教育の自律性」」、「学問と しての教育学の独立性が追求される場合の「教育学の自律性」」の3つを挙げている[関根・
櫻井2015:119-120]。前節の記述から明らかであるように、本研究が取り扱うのは「個人の
自律」である。
このことは同時に,人工知能がどれだけ進化し思考できるようになったとしても,その思 考の目的を与えたり,目的のよさ・正しさ・美しさを判断したりできるのは人間の最も大 きな強みであるということの再認識につながっている。/このような時代にあって,学校 教育には,子供たちが様々な変化に積極的に向き合い,他者と協働して課題を解決してい くことや,様々な情報を見極め知識の概念的な理解を実現し情報を再構成するなどして新 たな価値につなげていくこと,複雑な状況変化の中で目的を再構築することができるよう にすることが求められている」[文部科学省2017:1(第1章・1・(1))]。
5 例えば、松浦・福田・鈴木[2019]は、人工知能技術が急速に進展する中で、教養形成 や教育について問う必要を説き、そのためのいくつかの論点を提示している。
個人の自律は、「教育を通じて実現されるべき状態として」だけではなく、教育がなされ る時点で子どものうちに既に実現されている状態としてとらえられることもある。後者の とらえ方を、Normanは「道徳的制限」と表現している。これは自律を「人を単に手段とし て扱うことを差し控えるというカント的な意味において、尊重されるべきもの」[Norman
1994:25]ととらえるということであり、子どもは既に尊重されるべき自律した存在なのだ
と見なすことによって、教育的はたらきかけに一定の制限を設けようという議論につなが る。類似した論点は、教育思想史学会第21回コロキウム「教育学的「自律」概念の再検討」
に対する宮寺晃夫のコメントにも見られる。宮寺は、自律をめぐるパラドックス的な問題構 成から抜け出すために、自律を教育の前提としてとらえること、つまり「育てる以前に人は すでに自律している、人は本来的に自由である、ということを前提にして.....
、それでもなお教 育は成り立つ、いや教育でなければできないことがあると示して見せること」[関根・尾崎・
小山・櫻井・宮寺・下司2012:219-220]を提案している。以下で見るように、自律を目指 す教育において被教育者の自由をいかに尊重することができるのかという問題は、自由主 義の流れを汲む諸研究において盛んに論じられてきた。ただし、そのことが論じるべき問題 だとされてきたのは、やはり被教育者が自律するためには何らかの教育が必要だと考えら れてきたからこそである。それゆえ、本研究は、「教育を通じて実現されるべき状態として」
の、すなわち教育目的としての個人の自律に照準を合わせて論を進めていく。
ここまで、非常に多義的な自律概念のうち、本研究の対象を教育目的としての(個人の)
自律にまで絞ってきた。しかしながら、教育目的としての自律に限ったとしても、その意味 や論じられる文脈はまだあまりにも多様である。その多様さは、「過去30年にわたって、自 律はその擁護者の数とほとんど同じだけの定義を獲得してきた」[Hand 2006:536]と言わ れるほどだ。それほど定義にばらつきが生じる原因について、自律概念の再評価にいち早く 取り組んできた岡田敬司は、「主体の定義の場合と同じく「自(autos)」とはいったい何なの かという問題が絡んでくるからである」[岡田2011:50]と述べている。つまり、自律概念 は律するものと律されるものの対立を含んでいるが、律するものにあたる「自」を何と見な すかは論者によって様々だということだ。例えば、第2章で検討するように、律する「自」
に無意識的なものや感情などを含めるかどうかは、特に見解が分かれる点である。同様の困 難が、自律を自己統治self-governmentと言い換えた際の「自己」についても生じることが、
Callanによって指摘されている。
[自律と自律のための教育という]両方の概念は、対抗する諸解釈に開かれている。な ぜなら、適切に統治する「自己」”the self”を精神the psycheのうちのどこに置くかにつ いて、見解の不一致があり得るからだ。[Callan 2014:69]
以上のように、自律とは、その定義そのものが理論的な論争の的となる概念である。教育 哲学者はしばしば、カントをはじめとして、社会学者のエミール・デュルケムや心理学者の
ジャン・ピアジェなど、著名な論者が自らの学問的立場に応じてそれぞれに定義した自律概 念を参照しながら、教育目的としての自律について議論を重ねてきた6。また、そもそも自 律という語は、学問的な議論以外でも、様々な立場の人々によって、様々な文脈で用いられ ている。教育目的としての自律に関する学問的な議論は、そうした日常的な用法の多様性も 反映することになる。さらに、自律に関する議論の多様性は、「自由」「責任」「主体(性)」 といったそれぞれに多義的な類義語と絡み合ことによって増幅されているようにも見える。
こうした経緯から、教育目的としての自律に関する議論に限っても、その展開を通覧するこ とは非常に困難である。
以下では、本研究の位置付けを明確にするために必要な範囲で、教育目的としての自律に 関する諸議論の近年の動向を整理する。具体的には、近代的な自律概念への批判が本格化し た1990年代からの諸研究を視野に入れ、(1)自律という教育目的の是非や可能性を問う議 論と、(2)自律を目指す教育が抱える困難(パラドックス、アポリア、ジレンマ)に関す る議論の現状を概観する。なお、(1)(2)の区分は便宜上のものであり、実際には両方の 議論が同時に行われることもある。
(1)自律という教育目的の是非や可能性を問う議論
前述のように、教育哲学領域では1990年代以降、教育目的としての自律概念を再考・再 評価する動きが起きている。その大部分は、ポストモダン的な哲学や思想や、それを拠り所 にした近代教育(学)批判に触発されたものであるが(以下の①~③のタイプ)、中には人 間諸科学による人間観の問い直しを踏まえたものもある(以下の④のタイプ)。①②④のタ イプの議論は、自律の虚構性や暴力性に関する指摘を受け止めた上でなお、目指すべき価値 として掲げることができる自律概念を練り上げることを課題として引き受けている。
本研究では、何らかの自律概念を教育目的として掲げるべきだという規範的な主張は行 わないし、どのような自律概念が教育目的としてふさわしいかを検討をすることもない。本 研究は、現に自律を目的として教育が行われている状況をより的確に理解しようとするも のであるが、そのためにも、自律という教育目的の是非や可能性が様々な角度から問われて いることを確認しておきたい。
6 カント・デュルケム・ピアジェの自律概念を比較したものとして、岡田[2011:44-65] を参照。また、自律性概念の歴史を中世のトマス・アクィナスから説き起こしている山室
[2017b〔2000〕]でも、カントと並んでデュルケムに関する解説に大きく紙幅が割かれて
いる。その他の哲学者・思想家の自律概念を援用して教育について論じようとする研究も 様々に行われている。例えば、白銀[2017]や安道[2019]は、テオドール・アドルノの 教育思想を描き出す中でその自律概念についても検討している。
① 他者(性)の尊重を強調する哲学・思想を参照するもの
「他者(性)」は、近代教育(学)批判のキーワードの一つであり、自律という近代的な 価値を問い直すうえでも大きな役割を果たしてきた。
例えば、Chinnery[2018]は、エマニュエル・レヴィナスの他者論を踏まえて、教育目的 としての自律が孕む危険について論じている。Chinneryによると、レヴィナスは他律的な主
体性heteronomous subjectivityについて説明している。すなわち、「主体は他者への応答にお
いてのみ存在し始めるため、つねにすでに他者に服しており、他者への責任を負っている」
[Chinnery 2018:260]ということである。このような主体のとらえ方は、「自己統治的self- governingで自己中心的self-regardingな個人」[Chinnery 2018:261]という近代的人間観と は全く異なっているという。Chinneryは、近代的人間観に基づいて自律を教育の主たる目的 として推進することは、人々を他者との関係性や他者への義務に対して盲目にしかねない のだと主張している。ただし、Chinneryは、レヴィナスの思想が自律を完全に否定するもの だとは考えていない。「私たちの前提条件である他律と他者への実存的な負債を認識した後、
あるいはそれに気付いた後」には、「リベラルな教育の中心にある合理的で自律的な主体」
とは異なる、「レヴィナス的な種類の自律」が見えてくるのだという[Chinnery 2018:266]。 続いて、他者(性)の尊重を強調する他の哲学・思想を参照して自律という教育目的を問 い直したものとして、「ケア」論を参照した尾崎博美[2015]を見ておきたい。尾崎による と、「「ケア」論の要請は、「他者とのケア関係において完成する自己」を想定することを通 して、「自己」の在り方や「自己」の判断・行為をより適切に捉えることに向けられている」
[尾崎2015:189]。このような「ケア」論と、教育哲学者マーティンによるeducated person
(教育された人間)像をめぐる議論を併せて検討することによって、尾崎は教育目的として 掲げられる自律が「孤立」を意味しがちであることを批判している。そして、「他者との共 同でなされる「自己決定」や他者と知識・技能を分担し合うことを可能にする「知的能力」
の意義及び必要性」[尾崎2015:199]などを踏まえて、教育目的としての自律概念や、自律 と他律の対立そのものをとらえ直している。
「ケア」論の観点から特徴づけられる「自律」はどのように想定しうるだろうか。この 場合の「自律」は「孤立」に陥ることなく「共同性」と親和性をもち、「他律」は「自 律」と相反するものではなく「共同性」の基盤となる。「ケア」論の観点から見た場合、
「他律」と相反するものは「共同性」を損なうような他者との関係性、すなわち強制さ れるものとしての「同化」なのである。[尾崎2015:201]
Chinneryと尾崎は、それぞれレヴィナスの思想と「ケア」論を参照することによって、教
育目的として掲げられてきた自律に、他者(性)の尊重という視点が欠けていたことを批判 している。だが、それによって自律を教育目的から排除するのではなく、他者(性)の尊重
という視点を含むかたちで自律概念をとらえ直そうとしている7。このように、批判を受け 止めた上でなお、目指すべき価値として掲げることができる自律概念を練り上げようとす る方針は、以下の②及び④で見る諸議論にも共通している。ここに、教育(哲)学にとって 自律がいかに重要で魅力的な概念であるかを見ることができる。
なお、他者(性)への注目の高まりにより、カントの議論に他者という契機を読み取ろう とする研究も行われている(小山[2015]など)。
② 自由主義(リベラリズム)の流れを汲むもの
ここまで、20 世紀後半以降、自律という近代的な教育目的が様々な批判にさらされてき たことを前提として論を進めてきた。だが、実のところ、自律への批判の主たる原動力とな ってきたポストモダン的思潮は、自律という教育目的への支持を強める方向にもはたらい た。すなわち、山岸賢一郎[2010a、2010b]が分析しているように、ポストモダニズムによ って教育学が何らかの価値を教育目的として掲げることが困難になったからこそ、個人の 自律の実現という教育目的が、被教育者が持つそれぞれの価値を尊重することとほとんど 同義の形式的な教育目的として掲げられているという状況もあるのだ。山岸は、こうした状 況で用いられる自律概念を「自由主義的」と形容し、道徳性と強く結びついていたカントの 自律概念とは異なる、「自分のことは自分で決めてよいという「自己決定」概念に極めて近 しいもの」[山岸2010b:82]と位置付けている。
自由主義的な自律概念は、他者による強制がないこと(政治哲学者アイザイア・バーリン の言う「消極的自由」)にその意味を限定することで、理性の名の下で行われる他者への干 渉・介入―近代教育(学)批判はその暴力性を告発してきたのだった―を避けようとすると いう側面を有している。本節の冒頭で、個人の自律は教育目的ではなく教育の前提ととらえ られることもあると述べたが、ここでは2つの自律のとらえ方はかなり接近している。とは 言え、個人の自由を最も重要な価値と見なす自由主義(リベラリズム)においても、やはり 自律が教育目的であり続けてきたことは間違いない。なぜなら、近代的な思想である自由主 義は、「個人はあくまでも自己の行為を合理的に律することのできる自律的で理性的な主体
である」[山室2017a〔2000〕:397]ことを前提としてきたが、そのような主体は教育によっ
て実現するほかないと考えられるからだ。だが、こうした前提に基づいて自律という教育目 的を掲げることの是非は、自由主義の流れを汲む議論の中でも様々なかたちで問い直され てきた。
まず、繰り返し述べてきたように、個人は自律的な主体であるという前提は決して普遍的 なものではなく、近代に、とりわけ近代西洋に特有であることが、ポストモダン的思潮の中 で認識されてきた。それによって、自律的な主体とは異なる価値を掲げて行われる教育に、
7 Chinnery[2018]の他にレヴィナスの他者論を受けて教育目的としての自律について論
じている平石晃樹[2011]については、本節第2項で参照する。
これまで以上に目が向けられるようになった。その中でも、自由主義の流れを汲む議論の中 でよく取り上げられるのは、宗教に基づく教育である。以下でCallanが述べるように、宗教 に基づく教育は、自律を目指す教育とはしばしば対立する。
子どもたちを、あれこれの特定の宗教的な伝統の拘束によって、神に服従するように教 育することと、子どもたちの自律を養うように教育することは、控えめに言っても常に 容易には一致しない仕事である。[Callan 2014:72]
宗教に基づく教育をどう扱うかということは、自由主義にとって悩ましい問題である。一方 で、宗教に基づく教育は、子どもたちが自律的にその宗教を拒否して新たな価値の下で生き る自由を(少なくとも積極的には)与えようとしないため、自由主義としては受け入れがた い。しかし他方で、自律や自由の名の下に宗教的な価値を否定することは、自由主義が重視 しているはずの「多様性の喪失」[Callan 2014:72]を意味してしまう。この難問に対して、
例えば Brighouse[2006]は、自由主義の立場から、宗教に基づく教育の部分的な肯定を表
明している。具体的には、子どもたちが育つ環境から特定の宗教に関わる伝統以外を締め出 そうとすることは8、子どもたちの自由や自律を妨げるため認められないが、宗教に関する 知識を伝えたり宗教的な生き方を見せたりすることは、むしろ自律を促進するために必要 だという。なぜなら、子どもたちには宗教的な価値の下に生きる自由もあるにもかかわらず、
判断材料となるはずの宗教に関する知識が一切与えられなければ、自律的にそれを選ぶ道 が閉ざされてしまうからだ。このBrighouseの見解は、対立する二つの価値の両方を尊重し ようとするものではあるが、それぞれの価値を奉じる人々からの支持が得られるかどうか は不透明であり、議論は継続中である。
自由主義的な教育哲学者たちは、自律という教育目的を掲げることの是非を、宗教のよう な対立する価値との関係においてのみならず、自由主義そのものに内在的なかたちでも問 うてきた。自由主義的な教育の構想が抱えている構造的問題を鋭く指摘したものとして、山 岸賢一郎[2010b]を参照しよう。「真に満足した奴隷」(解放状態より奴隷状態を自ら選ぶ 人物)をめぐる諸議論の検討から、山岸が導き出す結論は以下のようなものである。
第一に、自律を目指す教育もまた不可避的に特定の価値を前提にしており、被教育者に とって何が善であるのかを常に事前に決定している。[…]第二に、我々は、自律的人 間を、自律概念の脱価値的で形式的な理解だけでなく、我々が無自覚的に前提にしてい る、我々自身の善き人間生活の観念をも用いて同定している。[…]以上の二点が示し ているのは、自律を目指す教育は善の構想の発達を被教育者自身に委ねる、といった言 明が、決して文字通りのものではありえないということでもある。[山岸2010b:93]
8 このような傾向をもつ教育の例として、Brighouseはアーミッシュの教育を挙げている。
自由主義的な自律概念は、教育の名の下に被教育者に特定の価値観が押し付けられ、その自 由が侵害されることを防ぐために、教育目的として掲げられているのだった。これに対して 山岸は、自律を目的として掲げる教育もまた、教育である以上、実は被教育者の自由を制限 する側面を不可避的にもっているということを明らかにした。
この構造的問題を別の角度から表現したものとして、Winch[1999、2002]も確認してお きたい。Winchの議論は、教育目的として掲げられる自律を「強い自律」と「弱い自律」に 区分して進められる。どちらの自律も自分の人生における目的を自分で選択することであ るのだが、強い自律は「その社会が許可していない目的を含む」[Winch 2002:30]範囲か ら選択をする自由であるのに対して、弱い自律は「その社会によって是認されている」
[Winch 2002:31]範囲から選択をすることを指すとされる9。Winchは、強い自律が「民主 主義社会における個人にとって正当な目的」[Winch 1999:80]であると認めつつ、特に公 的な教育における目的として適切なのは弱い自律だと主張している。強い自律が教育目的 として不適切とされるいくつかの理由の中で重要だと思われるのは、「強い自律を促進する ことは、[…]目的としての強い自律が正当に現れる土台を掘り崩す」[Winch 1999:80]と いうことである。つまり、強い自律とは、それを支えている民主主義的・自由主義的な諸価 値をも疑い、批判し得る立場であるため、公的な教育があえてそれを教育目的として促進す ることは「論理的に一貫しない」[Winch 1999:81]というのである。
以上のように、自由主義的な教育哲学者は、自律という目的を掲げる教育と個人の自由と の緊張関係を指摘してきた。すなわち、教育は多かれ少なかれ被教育者の自由の制限を含む 営みであり、それは自律という教育目的を掲げる場合にも当てはまるということだ。しかし、
山岸も Winch も、自律という教育目的を、あるいは教育そのものを放棄しようとするので
はなく、可能な限り被教育者の自由の制限を抑えるような、現実的に望み得る教育目的とし て、自律概念をとらえ直そうとしている。ここには、上述の①と同じく、批判を受けとめた 上で自律概念を練り上げるという姿勢が見られる。
ただし、自由主義の流れを汲む議論の中では、自律そのものが教育目的として不適切だと いう主張もなされてきた。例えば、Handによる「教育目的としての自律に抗して」と題さ れた論考[Hand 2006]を見ておこう。Handは、自律という語の通常の用法を2つ挙げ、ど ちらも教育目的としてふさわしくないと論じている。通常の用法の一つ目である状況的自
律circumstantial autonomyは、ある人が自由を奪われた状況(奴隷にされている、監禁され
ている、他者の指示に従うように義務付けられているなど)におらず、自分の行為を自分で
9 Winchは強い自律・弱い自律の区分を提案するにあたって、White[1990:102]や
Norman[1994]を参照しているが、それぞれの強い自律・弱い自律の区分の仕方や、その
区分に基づいてなされる主張には差異もある。例えば、Norman[1994]は強い自律と弱い 自律の連続性を強調するかたちで論を進めている。
決めることができることを指す。Handは状況的自律が望ましいことは議論の余地がないと しつつ、それが教育によって実現されるものではないことから、政治上の目的にはなっても 教育目的にはなり得ないと論じる。通常の用法の二つ目である傾向的自律 dispositional
autonomyは、ある人格characterの質、すなわち自分の行為を自分で決める傾向を指してい
る。傾向的自律について、Handはそれを教育することは可能だとしながら、教育目的とし て掲げるのは望ましくないという。なぜなら、自分の行為を自分で決めることが、本人にと って常に効果的で適切であるとは限らないからだ。例えば、問題となっている事柄について 他者の方が高い専門性を有している場合や、個人が組織の活動に従事しているときには、自 分で自分の行為を決めず、他者や組織の決定に従う方がよいだろう。Handによると、「私た ちはむしろ、独立した判断を行使するか、専門家のアドバイスに頼ったり正当な権威に服し たりするかを場合に応じて......
決める、合理的でバランスの取れた人をつくろうとしている」
[Hand 2006:539]。Handはさらに、自律の専門的な意味technical sensesとして4つのタイ プの議論を検討していくが、それぞれが教育目的にはふさわしくないと結論付けられる。
「教育における自律への誤った権利」と題された論考[Swaine 2012]では、著者Swaine は、「自らの信念、目的、愛着、欲望や関心を合理的に評価する状態」を「自律のコア概念 the core conception of autonomy」[Swaine 2012:108]としたうえで、それが自由主義的な他 の諸価値(「寛容、平等、正義、公平さ、他者への尊敬」[Swaine 2012:115])と一致せず、
それらを危険にさらすことがあり得るため、教育目的にはふさわしくないと断じている。
Swaine の見るところ、自律的な人間は自己利益を過度に重視しがちであり、そのため「自
律的であることは結局のところ、より賢いことやより道徳的であること、よりよく思考する こと、あるいはより慎重であることを意味しない」[Swaine 2012:117]。そこで、自律に代 わる教育目的として、「道徳的人格の基本的な理想に合致する、批判的な技能 skills や能力 capacities」[Swaine 2012:107]が提案されている。
HandとSwaineは、それぞれ自律を教育目的として掲げることを否定している。だが、彼
らの議論は、より望ましい教育目的となるように、自律概念の改訂を試みたものと見ること もできるように思われる。なぜなら、彼らが自律に代えて提案している教育目的(自ら判断 するかどうかを判断する合理性を持つことや、基本的な道徳的価値を尊重しつつ批判的に 考える力を持つこと)は、論者によっては、まさしく望ましい自律の内容として挙げるもの であるからだ。自律概念はそれだけ多義的であり、そのうちのどの要素を強調するかによっ て議論の様相が大きく変わるということである10。
10 Handは自律概念の多義性が議論を混乱させていると見ており、今後より適切な教育目
的を提案しようとする際には、たとえそれが自律と近しいものであったとしても、別の語 で表されるべきではないかと論じている[Hand 2006:549]。これは考慮すべき重要な点で あるとは思われるが、本研究は、多義的な自律概念と、それをめぐって行われている教育 実践を理解することを試みていく。
なお、自由主義的な自律概念に対しては、それがいわゆる自己責任論に容易に接続される ことの危険性が指摘されてきた([宮寺2014]など)。すなわち、個人の自律(自己決定)を 強調することによって、社会全体で対処すべき問題を「自己責任」として個人に押しつける ような社会的風潮がますます高まるのではないかということだ。これは現代社会において 非常に重要な指摘だと考えるが、本研究では主たる論点として扱わない。
③ 真正性authenticityと自律を対比させるもの
自由主義(リベラリズム)に対して、個人が共同体において形成されるという事実を軽視 しているという批判を展開してきたのが共同体主義(コミュニタリアニズム)である。共同 体主義者からは、自由主義的な自律という教育目的を掲げることにも異議が申し立てられ ているが、その中でも真正性 authenticity と自律を対比させる議論は、本研究にとって示唆 的である。
真正性という概念は、共同体主義者のチャールズ・テイラーが論じたことで知られている。
テイラーは、現代文化には「「自分自身に忠実であれ being true to oneself」という理想」
[Taylor1992:15(20)]があると言い、この理想を真正性と呼んでいる11。テイラーが強調 するのは、真正性という理想と、「自己決定的自由の理想」すなわち「わたしが自分に関す ることを自分で決めたときにこそ私は自由であって、外からの影響で方向づけられるとき にはそうではない、という観念」[Taylor1992:27(38)]との違いである。両者はともに近 代に発展したものであるが、テイラーによれば、「自己決定的自由の理想」は近代以降の人 間を不安に陥れた元凶である。なぜなら、「自己決定的自由の理想」は、「一点の曇りもない、
その真実性がおのずと証されるような合理性に達するために、身体の構造や対話的な状況、
さまざまな情動、そして伝統的な生活形態に埋め込まれて混乱した状態から、離脱して思考 する」という「人間の思考の理想的なイメージ」[Taylor1992:101-102(138-139)]を前提と しているが、このイメージは人間の実態に即していないからだ。テイラーは、人間がそもそ も状況に埋め込まれて存在し、身体や様々な情動を持つことを認識したうえで、そのような
「自分自身」に忠実であろうとすることこそが重要であると主張している。
テイラーの議論を受けて、教育哲学者であるBonnettとCuypersは次のように述べている。
自律と真正性は、どちらも個人の自由という性質に焦点を当てるが、これについて異な る解釈を与え、教育に対してもかなり異なる含意を示す。[Bonnett&Cuypers 2002:326]
11 真正性という語のこのような用い方の先例として、テイラーはライオネル・トリリング の著書『〈誠実〉と〈ほんもの〉―近代的自我の確立と崩壊―』(筑摩書房、1976年、原著 はSincerity and Authenticity、1972年)を挙げている。
自分の信条、思考、選択の「所有者であることownership」という観念の意味と重要性 が、合理的な自律の支持者と真正性の支持者との相違の一つのキーポイントである。
[Bonnett&Cuypers 2002:327]
ここで言う「自律」「合理的な自律」とは、前項で検討した自由主義的な自律のことであり、
テイラーの言う「自己決定的自由」にあたる。BonnettとCuypersは、合理的な自律よりも、
真正性を教育的関心の中心に据えるべきだと主張している12。
真正性をめぐる議論は、自律という教育目的が、意識的な理性のはたらきを強調してきた ことに対する異議申し立てとなっている。確かに、自由主義的な自律概念が取りこぼしてき たとされる諸要素(人間が状況に埋め込まれていること、身体や様々な情動を持つこと)は、
自律を目指す教育を理解するうえで十分に考慮する必要があろう。この点について、本研究 は、自由主義と共同体主義の対立とは異なる観点から、すなわち人間諸科学の知見を踏まえ て論じていく。
④ 人間諸科学の知見を参照するもの
自律という教育目的の検討にあたって、人間諸科学の知見が明示的に参照されることは 少ない。その中で、岡田敬司は、ピアジェやワロン、ヴィゴツキーやギブソンなど、多くの 心理学者の見解を踏まえて、目指すべき価値として掲げることができる自律概念について 論じている。人間諸科学の知見と整合するかたちで自律概念をとらえ直そうとする岡田の 姿勢がよく表れた箇所として、社会心理学者・小坂井敏晶の著作『責任という虚構』[小坂
井2008]をめぐる考察[岡田2011:4-9]を確認しておく。
小坂井[2008]は、人間の判断や行為が他者によって強く影響されていることを示す様々 な社会心理学研究(スタンレー・ミルグラムのアイヒマン実験13など)を踏まえて、人間が
12 自律という教育目的を真正性と対比させて論じているものとして、他にCuypers
[1992]、Standish[1992]がある。
13 社会心理学者のスタンレー・ミルグラムが行ったいわゆるアイヒマン実験は、一般の人 間が、ナチスの絶滅収容所の責任者であったアドルフ・アイヒマンのように、権威者の指 示によって残虐行為を行うかどうかを確かめたものである[Milgram1963、ミルグラム 1980]。この実験では、「記憶と学習の研究」のために集めた実験参加者を、教師役と生徒 役に分けるのだが、実は生徒役は全て役者(サクラ)である。教師役とされた実験参加者 には、生徒役に対して、彼が単語のリストの学習で誤りを犯すたびに、だんだんと強さが 増す電気ショックを与えるように指示が出される。実際には電気ショックは与えられない が、生徒役は苦痛を受けている演技をする。多くの実験参加者(教師役)はショックを与 えることを嫌がるのだが、それでも続けるように実験者から指示をされる。すると、ほと
自己にとって外的な何ものにもとらわれない自由(意志)を行使し得るという見方に異議を 唱えている。加えて小坂井は、いくつかの脳神経科学の研究を、自由(意志)のとらえ方に 再考を迫るものとして紹介している。その中には、神経生理学者のベンジャミン・リベット の有名な実験もある。リベットが、任意のタイミングで手首を持ち上げるように実験参加者 に指示をしたうえで、その脳波を測定したところ、手首を動かそうという意志が生じるより 前に、手首の運動を起こす指令が脳波に生じていたという。この実験は、「まったく自由に 行為すると言っても、行為を開始するのは無意識的過程」[小坂井2008:22]であることを 示したものとされ、哲学者等の活発な議論を引き起こした14。こうした人間諸科学の知見を 踏まえ、小坂井は、人間は自由であるがゆえに責任があるという見方が社会的虚構であると 論じている15。
小坂井[2008]を受けて、岡田はまず、社会心理学や脳神経科学の諸研究が、人間が自律 した主体だ(自ら..
立てた規範に従って行為している)という見方を脅かすものであることを 確認している。これは、自律という教育目的が無効になりかねない事態である。だが、岡田 は小坂井の議論に対して、「「社会集合体(からの情報)に支えられれば、個人は十分に自律 の名に値する理性的な行為決定をなし得る」という少々複雑な理解」[岡田 2011:6]を提 示する。そして、「「社会集合体の影響下で自律的に行為決定する個人の自由意志」という物 語を構築し、(事の始まりという意味での)第一原因を物語の視点に仮構する術を得る」[岡
田2011:6]ことによって、自律という教育目的を掲げる余地を残そうとしている。
自律的な自由意志など(事実過程としては、あるいは物理過程としては)存在しない。
にも拘わらず、それを仮構することで他律的な教育の過程が稼動し、人格存在の形成と なって、ついには自律的な人格が行為したと同じ状況を生むのである。[岡田2011:9]
ここで岡田は、人間諸科学の知見を踏まえつつ、それと整合するかたちで自律概念をとら え直そうとしている。その方針は、別の箇所で明確に述べられている。
カントの理性と感性の区別による自律の定義は啓蒙期の人知を尽くしたものとして正 当であった。おそらく、われわれはこれに認知科学やシステム論といった現今の人間科 学の成果を加味して修正していくべきなのであろう。[岡田2011:109]
んどの実験参加者が、指示に従って、命に危険が及ぶとされる最高水準の電気ショックを 与えてしまうという結果が出た。
14 この実験についてはリベット[2005]を参照。ただし、哲学者の中では、リベットの実 験を、自由(意志)を否定するものと見るべきではないという主張もなされている
(Dennett [2003]、古田[2013]など)。
15 小坂井[2008]の内容とその含意については、宮川[2014]で考察した。
本研究は、岡田と同様、人間諸科学の知見を踏まえて、自律という目的を掲げて行われて いる教育についての探究を進めていく。ただし、岡田が一貫して「他律から自律へ」という 枠組みで論を展開しているのに対して、それとは異なる見方を本研究は提示する。
(2)自律を目指す教育が抱える困難((パラドックス、アポリア、ジレンマ)に関する議 論
自律を目指す教育が抱える困難(パラドックス、アポリア、ジレンマ)は、本研究全体で 考察の対象とするため、ここではごく簡単に、それが議論されてきた経緯について述べてお く。
上述の通り、自律と他律のパラドックス(あるいはアポリア)とは、未だ自律していない 子どもを自律させるためには教育という他律が必要だが、「自律せよ」という他者の命令に 従う限り子どもは他律状態から抜け出すことができないということである。ルソーによっ て気付かれ、カントによって定式化されたと言われるこのパラドックスは、近代教育学その ものを駆動する重要な問いとして、多くの教育(哲)学者によって取り組まれてきた16。 パラドックスの根本的な解決が見出されないうちに、ここまでに述べてきたように、自律 という近代的な教育目的そのものが批判の対象となった。だが、自律という教育目的が捨て 去れられることはなかったため、パラドックスをめぐる探究は続けられた。近代的な自律概 念への批判が本格化した1990年代以降、この探究は、もっぱら国内で活発に行われている。
岡田敬司[2004、2009、2011、2014]は「蓄積・圧縮仮説」によって、矢野智司[1996]は
「コミュニケーション論的解釈」によって、パラドックスとされてきた自律の達成を説明し ようとしている。また、藤田雄飛[2013]は「舞台論(ドラマトゥルギー)」という方法論 によって、関根宏朗[2015]は「アーキテクチャ的視点」から、それぞれに自律と他律のパ ラドックスを問い直している。さらに、平石晃樹[2011]は、自律概念への批判の立脚点と されてきたレヴィナスの思想を、「他律による自律」を論じたものとして読み解いている17。
16 その経緯については、例えば矢野[1996:173-192]を参照。
17 平石は、レヴィナスの〈教え〉概念から「他律による自律」を次のように読み取ってい る。「レヴィナスは、例えば自律を他の何ものにも侵害されない自由と同一視し、他方で 他律を隷属と同一視するような思考が必然的に陥るアポリアに拘泥することなく[…]、
他者の呼びかけに対する弁明という仕方での応答を介して初めて、独力では発言され得な い知の本性を覚醒させる私の理性的なあり方を、〈教え〉という他律による自律として明 らかにしたのであった」[平石2011:126]。そして、レヴィナスの思想と近代教育学との 関係について、次のように述べている。「レヴィナスの〈教え〉をめぐる思想は、理性の
第1章以降で検討するように、これらの研究は、それぞれの観点から、自律を目指す教育 の内実の解明を進めている。しかしながら、パラドックスの決定的な解決として教育哲学者 たちの支持を集める見解は未だに見出されていない。
第3節 本研究の目的と方法
人間諸科学の知見と整合するかたちで自律を目指す教育を理解・説明するべく、自律を目 指す教育をパラドックスとは異なる枠組みによってとらえ、その内実を探究すること。これ が、本研究の目的である。
第1節で述べたように、本研究は、人間諸科学が近代以降の人間観の問い直しを求めるよ うな知見を次々と産み出している状況に鑑み、人間諸科学の進展を踏まえた教育哲学研究 を進めたいという問題意識から出発している。それでは、そのためになぜ、自律と他律のパ ラドックスを問い直すのか。その理由は、人間の心や行動に関する科学的知見は、自律を目 指す教育の理解に大いに資すると思われるにもかかわらず、問題をパラドックスととらえ る限り、それを十分に活かすことが難しいからである。すなわち、自律と他律のパラドック スは、自律と他律を相異なるものと定義することによって生じる論理的な問題であるため、
経験的な知見をその解決のために活用する道は閉ざされてしまっているということである。
以下では、上述の目的をより明確にするために、まず、自律を目指す教育を探究するため の、パラドックスに代わる枠組みの概要を述べる(1)。続いて、人間諸科学の知見を踏ま えて自律という教育目的を検討する意義について論じるが、これは本研究の方法の説明を 兼ねることになる(2)。
(1)自律を目指す教育をとらえる新たな枠組み
自律を目指す教育を探究するための、パラドックスに代わる枠組みを提案するにあたっ て、自律概念が非常に多義的で曖昧であることに注目したい。第2節で述べたように、自律 とは、その定義そのものが理論的な論争の的となる概念である。教育哲学者による自律のと らえ方が実に多様であることは、ここまでに概観した諸研究からも明らかであろう。この多 義性・多様性・曖昧さは、研究上の混乱というより、自律概念そのものの性質であるはずだ。
そうであれば、ここに大きな問いが生じる。これだけ多義的で曖昧であるにもかかわらず、
自律という概念が意味あるものとして一般に通用しているのはどのようにしてか。多義性 の中で、自律はその対義語である他律とどのように区別されているのか。
啓蒙を主張とする近代教育学と通底する志向を備えつつも、同時に、それを内在的に批判 するに足る着想を含んでいる」[平石2011:130]。
自律をめぐる多くの議論を見渡してみると、自律と他律の区別は、おおよそ2つの要素に よって構成されているようである。1つ目の要素は、自分自身で行為を決めることと他人に 依存することの区別である。この要素は、自律と他律の区別の核心をなしており、言うまで もなく、自分自身で行為を決めることが自律であるとされる。自律と他律の区別の2つ目の 要素は、理性的であることと感性的(感情的)であることの区別である。今日的な自律概念 の基礎として参照されるカントは、理性と自律を強く結びつけてとらえていた(カントの自 律概念については第1章で検討する)。
これらの 2 つの要素によって自律と他律を区別することに対しては、今日まで様々な疑 問や批判が寄せられてきた。前節までに述べたように、他人に依存しないという自律の要件 は、ポストモダン的な哲学・思想や人間諸科学によって、その実現不可能性が指摘されてい る。主体を他者(たち)によって形成されたものと見る哲学的議論や、個々の意思決定にあ たって他者(たち)が及ぼしている影響の大きさに関する科学的研究を踏まえると、人間が 全く他人に依存せずに、自ら立てた規範に従うことなど不可能だということである。
他方、カントは自律のもう一つの要件として、感性的なものに突き動かされないことを挙 げていた。これに対して、第2章で検討するように、近年の教育哲学研究の中では、感性や 無意識のはたらきもまた、自律概念と関連する要素として論じられるようになっている。認 知科学等の領域では、感性(感情や情動)のはたらきと、いわゆる理性のはたらきの分かち がたさについて研究が進められており、なおかつ、感情や情動をもっぱら非合理なものと見 なすことは否定されてきている(これらの論点については第2章で取り上げる)。
以上のように、哲学的にも科学的にも、2つの要素による自律と他律の区別を、事態を適 切にとらえたものと見なし続けることはできそうにない。だが、ここで述べたいのは、自律 と他律の区別がもはや用をなしていないということではない。むしろ逆である。様々な批判 を受けながらも、自分自身で行為を決めることと他人に依存すること、理性的であることと 感性的(感情的)であることの区別は、私たちにとって確かに意味を持っている。今日でも、
一般的に、それぞれ前者が自律、後者が他律の特徴だと見なされ続けている。
こうしてみると、自律をめぐって問われるべきは、自律と他律の区別に関する一般的な感 覚の不思議さではないだろうか。すなわち、哲学的・科学的な批判にさらされながらも、自 律と他律の区別がそれなりに妥当なものとして通用しているのはなぜなのか、ということ だ。自律と他律の区別が自明なものではないと認めるならば、自律を目指す教育について問 うべきことは次のようになるだろう。人間は、自律と他律の区別をどのようにして身に付け るのか。具体的には、自分自身で行為を決めることと他人に依存すること、理性的であるこ とと感性的(感情的)であることの区別をどのように体得し、そうした区別を自明のものと 見なして生きるようになるのか。その過程において、教育者によるはたらきかけはどのよう な役割を果たしているのか。
自律を目指す教育をパラドックスととらえてきた従来の研究は、自律と他律が異なる状 態であることを前提として、他律から自律への跳躍を説明しようとしてきた。それに対して
本研究は、自律と他律の境界は曖昧であり、両者をはっきりと分けることはできないという 前提に立つ。そのうえで、自律を目指す教育を、自律と他律の区別を可能にするはたらきか けととらえ、その内実を解明することを目指す。これが、自律を目指す教育の内実をパラド ックスとは異なる枠組みにおいて探究する、という本研究の目的が意味するところである。
(2)目的かつ方法としての自然主義
前項では、人間をめぐる科学的研究が、自律と他律の区別の自明性を揺るがしていること を確認した。それゆえ、自律と他律の境界は曖昧だという前提に立つことは、人間諸科学の 知見と整合するかたちで自律という教育目的を理解・説明するという、本研究の目的を構成 しているもう一つの要素にも適合している。
本研究では、自律と他律の分かちがたさを的確にとらえるために、人間諸科学の知見や、
それを踏まえた哲学研究を参照していく。加えて、自律を目指す教育―自律と他律の区別を 可能にするはたらきかけ―の内実を解明するための手がかりも、人間諸科学に求めていく。
人間諸科学の知見を積極的に参照する本研究の方法を、自然主義と表現することができる。
以下、哲学における自然主義がどのようなものであるかと、本研究がこの立場をとる意義に ついて論じる。
自然主義naturalismという語もまた、非常に多義的である。教育哲学領域では、自然主義 という語から、堕落した文化を批判し、被教育者の内なる自然を尊重するような、ルソー的 な教育の理想が思い浮かべられることが多いかもしれない18。
本研究の方法となる、哲学における自然主義とは、大まかに言えば、科学的知見や科学的 方法を用いながら哲学をすることを指す。これは、哲学が科学から独立した領域や方法を持 つという見方を退け、哲学を科学と連続した営みと見る立場である。また、哲学が科学を基 礎付ける「第一哲学」を自認することを拒否し、必要であれば科学的知見と適合するように 哲学説を改めようとする立場である。哲学における自然主義は、教育哲学領域ではまだあま り注目を集めていないが、ウィラード・ヴァン・オーマン・クワインの論文「自然化された 認識論」[Quine 2008a〔1969〕]による提起以降、英語圏を中心に盛り上がりを見せている。
ただし、クワイン以降の哲学における自然主義に限っても、そのとらえ方は論者によって 様々である。井頭昌彦は、その混乱の原因はクワイン自身の自然主義規定の曖昧さにあると し、クワインの諸著作を精査したうえで、その最終的な自然主義規定を次のように示してい る。
18 教育哲学領域における自然主義の多義性については、原[2017]及び今井[2017]を参 照。
仮説演繹法以上の正当化手続きの存在を否定し、「哲学が科学に先行しそれを基礎づけ る」という第一哲学的構想を避ける立場。[井頭2010:72]
ここでいう仮説演繹法とは、「理論的仮説の妥当性を判断する方法の一つであり、問題とな っている仮説から観察可能な帰結を演繹的に導き、それを実際の観察結果に照らしてテス トする、という手続き」[井頭2010:72]であり、実験的方法とも言われている。
井頭は、「さまざまな自然主義的立場は、「哲学が科学に先行しそれを基礎づけるという第 一哲学的構想の拒否」および「仮説演繹法以上の正当化手続きの否定」という見解をその共 通部分として持つ」ことから、先に引用したクワインの最終的な自然主義規定を「最小限の 自然主義」と呼んでいる[井頭2010:82]。「最小限の自然主義」を抽出することによって、
井頭は、自然主義が必ずしも「自然科学主義」すなわち「自然科学のみが実在や真理に対す る真正の探究である、とする立場」[井頭2010:60]ではないことを明確にしている。つま り、仮説演繹法以上の正当化手続きを否定しているならば、言い換えれば「実験的方法それ 自身より確固たる基盤」[Quine2008b:276]が主張されないならば、自然科学以外の科学―
仮説演繹法・実験的方法を用いる営み―に依拠した自然主義は可能だということである。現 にクワイン自身も、「科学それ自体」のうちに「実験心理学、歴史学、社会科学」が含まれ ると述べている[Quine2008b:275]。
本研究は、「最小限の自然主義」の立場を採り、自然科学に分類されないものを含む、人 間に関する科学的知見を参照していく19。例えば、心理学が自然科学に分類されるかどうか は見解が分かれるところであるが、心理学が探究している、諸個人の行動や意志決定が外部 環境や他者の影響を受けながら生じるメカニズムは、人間的な自律を否定するものとして 受け止められることがある一方で、人間らしさを解明するための有力な方法として期待を 寄せられてもいる。
人間に関する科学的知見の中でも、特に本研究が注目するのは、認知科学の諸成果である。
認知科学とは、心のはたらきを情報処理の観点から解明することを目指す、哲学・心理学・
脳神経科学・人工知能研究などにまたがる学際領域である。認知科学の基本構想の登場は 1950 年代とされるが、それ以前において、人間をめぐる科学的研究や心の哲学の基調をな
19 自然主義は、しばしば「存在論的自然主義」と「認識論的自然主義」に区分される。前 者は「この世界には特定の種類の事物しか存在しないということを述べる存在論的な主張 としての自然主義」、後者は「哲学の方法と科学との関係のありかたについての方法論 的・認識論的主張としての自然主義」[戸田山2005:101-102]とされる。この区分に関し ては、本研究は後者に属する。ただし、井頭は、この区分は「自然主義という思想潮流の うちに共に含み入れられるべき認識論的議論や存在論的議論を分断することによって統一 的な理解を妨げる危険性があるため、自然主義という哲学的立場そのものの理解としては 不適切なものである」[井頭2010:72]という見解を示している。
していたのは行動主義であった。行動主義とは、人間及び人間以外の動物に関する科学的研 究の対象を、観測や測定が可能な行動に限定し、行動する主体の内的・心的な状態を扱わな いという立場である。認知科学は、この行動主義への批判として登場した。すなわち、特に 人間の行動の理解のためには、行動主義のように刺激と反応を見るだけでは不十分だとし、
主体のうちでどのような内的な過程が進行しているのかを明らかにしようとしているのが 認知科学である。主体の内的な過程を説明するにあたって、認知科学はしばしば、心や脳を コンピュータに準えた。つまり、認知科学は、同じく20世紀後半に急速に発展していたコ ンピュータのように、情報を様々に処理する過程として、心と呼ばれる内的な過程をとらえ ようとしてきたのである20。これが、人工知能研究が認知科学の中核に位置付けられるゆえ んである。
1950年代に登場した認知科学は、1990年代頃から、「生物学的シフト」と言われる大きな 変革を迎えたとされる21。これは、情報処理過程の解明において、人間やその他の動物が、
身体を持ち環境の中で生存する生物であることが重要視されるようになったということで ある。この生物学的シフトにおいて、認知科学の中で重要度を増したのが進化という視点だ。
つまり、人間やその他の動物の認知の在り方が、進化によって実現したものととらえられる ようになったのである。これによって、人間の認知に関する研究を、他の動物の認知との連 続性に着目して進めていく傾向が強まったと言える22。
哲学の中でも、いわゆる心の哲学の領域は、認知科学と互いに影響を与え合っている。す なわち、哲学者が認知科学に参画し、そのプロジェクトを進めている側面と、認知科学の成 果を踏まえて心をめぐる哲学的議論が進められているという側面がある。いずれにしても、
認知や進化に着目する自然主義的な哲学者たちは、人間の心や知性をめぐる哲学的議論に、
科学的知見を踏まえて新たな視点をもたらしている。
哲学における自然主義は、本研究のテーマである自律と関わりの深い、自由という概念を めぐる議論にも及んでいる。哲学では古くから、人間の自由ないし自由意志と決定論の問題 が様々に論じられてきた。これは、人間の意志や行為を含めた世界の成り行きが自己ならざ るもの(神や自然法則)によって決定されているように見えることと、自由との両立可能性
20 認知科学登場の歴史的経緯については、中川[2002]、大芦[2016]などを参照。
21 生物学的シフトについては、鈴木[2016]を参照。
22 進化という視点、そして人間と動物の連続性に対する認識は、行動主義にも見られた が、その意味合いは生物学的シフト後の認知科学におけるそれとは異なる。「進化論の強 い影響下にあった行動主義は、人間と動物を同一線上に位置づけていたが、これは必然的 に人間独自の高次の意識過程を軽視することにつながった」[大芦2016:149]。これに対 して、認知科学の中では、他の動物とは異なる「人間独自の高次の意識過程」が存在する ことを認めつつ、その成り立ちを進化の観点から、他の動物の認知と連続するものとして 解明することが目指されている。