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意図と理由の公共性

ドキュメント内 自律を目指す教育に関する自然主義的研究 (ページ 90-93)

第 4 章 意図と理由の空間への参入

第 1 節 意図と理由の公共性

私たちは日常的に、自分の行為の意図や理由を述べている。「何をしようとしているのか」

「なぜそうしたのか」といった他者の問いかけに答えて述べることもあれば、問われずに述 べることもある。行為の前に述べることもあれば、行為の最中や後に述べることもある。ど の場合も素朴に前提としているのは、意図や理由は行為に先立って各人の頭や心の中に存 在し、それによって行為が成立するということである。

だが、意図や理由と行為の関係は哲学的には大きな問題である。意図を持つことはどのよ うにして行為を引き起こすと言えるのか。歩こうと思い実際に歩き出すことと、思うだけに とどめる(歩き出さない)ことの差を考えると、この問題の難しさがわかる。また、腕の上 昇という現象について、「人を呼び止めたかったから」という理由による説明と「腕の筋肉 に電気信号が伝わったから」という原因による説明が可能だが、この二つはどのような関係 にあるのか。

こうした問題を論じてきた行為論という現代哲学の領域では、行為の理由がその行為を 引き起こした原因でもあるかどうかが、行為の因果説と反因果説の対立として議論されて きた78。この議論に関して注目したいのは、いずれの説を採る論者も意図や理由を公共的な ものと考えているということである。つまり、行為の意図や理由は個人の頭や心の中に存在 してそこではたらきが完結するものではなく、他者とのコミュニケーションの中でこそは

78 英語圏を中心に展開してきた行為論の概説として野矢[2010a]を参照。行為の因果説 と反因果説の展開については、古田[2013:136-145]を参照。

たらくものだということだ。この見方について、反因果説の草分けであるエリザベス・アン スコムの議論を通して確認しよう79

アンスコムは、行為の理由 reason を述べることを行為の意味を明らかにすることととら え、行為を引き起こした原因causeを説明することと区別した80。そして、このような理由

=意味を求める「なぜ」という問いを受け容れるような行為を意図的行為 intentional action と呼び、意図や理由が行為に先立って存在するとは限らないと説明した。実際のところ、私 たちはいつも「~~という理由で○○をしている」と明確に意識して振る舞ってはいないが、

問われれば大抵は意図や理由を答えることができる。それで十分だというわけだ。ただし、

どんな答えでも意図や理由として認められるわけではない。答えは他者から合理的なもの として理解されなければならない。例えば、カメラが地下室にあることを知っているのに

「カメラを取りに二階に行くのだ」と述べれば意図を述べたとは見なされない81。「行為に おける行為者の意図は、それが何であるかを語ることに関して当人が絶対的な権利を持つ ほどには私秘的で内的なものではない」[Anscombe2000〔1957〕:36(69)]。アンスコムは、

行為者の内部で行為を引き起こすことではなく、行為の意味をめぐる他者とのコミュニケ ーションを可能にすることが、意図や理由の本質的な機能だと考えている。アンスコムの見 るところ、「意図は決して心の内での行為ではない」[Anscombe2000:49(93)]のである。

これに対して行為の因果説は、意図や理由が行為を引き起こす原因になっていると主張 する。だが、因果説の旗頭と目されるドナルド・デイヴィドソンもまた、意図や理由の公共 性を認めている。デイヴィドソンは、行為の理由を述べることを合理化と呼んでいる

79 教育哲学における最新のアンスコム研究として山口[2012]を挙げておく。山口がまと めているように、教育哲学領域において、アンスコムの行為論は、教育行為を考察するた めの手がかりとして参照されてきた。本稿は、アンスコムの議論から教育行為の記述・理 解に直接向かうのではなく、教育行為が前提としている自律・他律概念を問い直す契機と してアンスコムの行為論を参照する。

80 ただし、アンスコムは理由と原因という2つの概念がしばしば区別されていないことに も目を配っている。「その行為が単なる反応として記述される度合が多ければ多いほど、

われわれはそこで「原因」という表現を使用することに傾き、他方、その行為が反応とし て記述されたとしても、それが行為者の説明によって意義づけされるもの、、、、、、、、、

に対する反応と して、あるいは思考や問が織り込まれた反応として記述される度合が多ければ多いほど、

われわれは「理由」という表現を使用することに傾くだろう。だが、多くの場合、それを 区別することにはあまり意味がない」[Anscombe2000〔1957〕:23-24(45)]。彼女にとっ て意味があるのは、行為を引き起こした原因を説明することと独立に、行為の意味を明ら かにするという営みがあると示すことだった。

81 この例はAnscombe[2000〔1957〕:36(68)]による。

[Davidson1963]。つまり、理由によって行為が他者から合理的なものとして理解されるこ とを前提にしているのである。

アンスコムやデイヴィドソンの議論を踏まえつつ、意図が言語によって表現されること に着目してその公共性を論じているものとして、浅野光紀の論述を参照しておこう。

われわれの行為の目指すところ、行為の最中の意図とは、何か当人のみに接近可能な 私秘的なものではなく、あくまでも言語表現の形でパブリックなものにすることが可 能である。意図の言語表現を、意図にとって非本質的な、後から付け加えられる偶然的 なものと考えてはならない。言語表現とは独立に、何か意図なるものが前言語的状態と して当人の心のなかに存在し、言語はそれを必要に応じて描写するのではない。言語表 現は意図そのものの構成要件、それなくしては自分が何を意図しているのかについて、

またそもそもなんらかの意図を抱いているのかどうかさえ本人にも不明瞭になるよう な、必要欠くべからざる条件なのである。このことは、意図が徹頭徹尾社会的なもので あることを示している。[…]意図とは、つねに言語表現を通じた他者とのエクスチェ ンジ、他者への伝達可能性に開かれた心の状態であり、そのため当人以外には理解不能 な私秘的な意図といったものは存在せず、自分自身の意図に関してさえ、言語表現と独 立にそれを知ることはできないのである。[浅野2012:127-128]

ここで浅野は、意図が成立するにあたって、言語という他者と共有された媒体が不可欠であ ることを明示している。

もちろん、言語によって表されればすべてが意図や理由として受け入れられるわけでは ない。「人を殺したのは太陽のせいだ」というような言明は、日常会話では理由を述べたも のとして認められない。意図や理由がきちんと述べられているかどうかは、行為者本人が特 権的に判断できることではなく、コミュニケーションの参加者の間で公共的に判断される ことである。逆から見れば、他者とのコミュニケーションを円滑に進めている人間は、自ら の意図や理由を、他者から理解され得るかたちで述べているということになる82。野矢茂樹 の以下の論述は、意図という概念がそもそも他者とのコミュニケーションを前提としてい ることを説明している。

82 コミュニケーションは行為の意図や理由を述べることに尽きるわけではないし、そもそ も言語によらないやりとりもコミュニケーションと呼ばれ得る。そのため、自らの意図や 理由を、他者から理解され得るかたちで述べていない人物が全くコミュニケーションに参 加していないというわけではないが、少なくとも円滑なコミュニケーションを営んでいな いとは言えるだろう。

もし他人に理解されることを求めないならば、矛盾したことを言っても恥じることの ないように、表明した意図を実現すべく努力しなかったり、矛盾した意図を表明して平 然としたりしていられるだろう。だが、それはつまり、他人に理解されることを求めな い人にはそもそも意図なる概念が不要であることにほかならない。[野矢2010b:47]

人間はたいてい、他者とのコミュニケーションにおいて、他者たちの基準に合わせて自ら の行為の意図や理由を述べている。「合わせて」と言っても、これは必ずしも、他者に理解 してもらうためにあえて自らの内にある意図や理由とは異なるものを述べるという意味で はない。多くの人間にとっては、当該の状況における適切な意図や理由の基準を他者と既に 共有しており、特に意識しなくても他者から理解され得る意図や理由を述べることができ ているのが実情であろう。なお、ここで言う意図や理由の適切さには、道徳的な善さという 含意はない。「彼が憎かったから殺した」という発言は、道徳的に善いと認められなくても 理解はされ得るのであり、その意味で適切である。

以上の議論から、人間が成長の過程で自分の行為の意図や理由を述べるようになること は、意図や理由を尋ね述べ合うコミュニケーション空間に参入することであると言える83。 具体的には、それぞれの状況に関して他者たちが共有している適切な意図や理由の基準を 内面化し、自らの行為をその基準によって意味付けるようになるということである。個々人 が、他者とのコミュニケーションとは全く独立に、自らの内部で意図や理由を形成するよう になると想定するならば、それは事態を見誤っている。

ドキュメント内 自律を目指す教育に関する自然主義的研究 (ページ 90-93)