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自律と他律の分かちがたさ

ドキュメント内 自律を目指す教育に関する自然主義的研究 (ページ 38-44)

第 1 章 自分自身で行為を決めることと他人に依存すること

第 2 節 自律と他律の分かちがたさ

(1)パラドックスの別の解き方へ

前節第3項で参照した諸研究は、自律と他律のパラドックスに様々な仕方で取り組み、自 律を目指す教育のそれぞれ異なる側面を明らかにしているように見える。しかしながら、教 育(哲)学において、自律と他律のパラドックスが全体として決定的に解明されたという合 意は形成されていない。

こうした状況の中で、本研究は、前節第1項で述べたように、自律を目指す教育をパラド ックスととらえる問題の立て方がそもそも適切であるのかを問うていく。その手がかりと して、様々な哲学上のパラドックスが検討されている『パラドックスの哲学』の中で、著者 であるセインズブリーがパラドックス全般に対する向き合い方について述べている部分を 参照したい。

私がパラドックスということで理解しているのは[…]明らかに受け入れることので きる前提から明らかに受け入れることのできる推論によって明らかに受け入れること のできない結論が引き出されること、これである。[…]それゆえ、一般的に言って、

われわれは次のどちらかの途を選択することになる。結論は本当に受け入れることの

33 富田[2015]は、保育における自立・自律を検討したものであるが、ここでも保育者と 幼児の関係性や環境の設定の重要性が注目されている。

できないものではない、という途か、さもなければ、議論の出発点もしくは推論になに か明瞭には現れていない欠陥がある、という途である。[セインズブリー1993:ⅳ]

この論述に従って、自律と他律のパラドックスが議論されてきた状況を整理しよう。自律と 他律は区別されること、人間は始め他律状態にあり後に自律状態に移行すること、未だ自律 していない子どもを自律させるためには教育という他律が必要であること。これらはいず れも、私たちにとって「明らかに受け入れることのできる前提」である。だが、これらの前 提を総合すると、「自律せよ」という他者の命令に従う限り子どもは他律状態から抜け出す ことができないという「明らかに受け入れることのできない結論」に至ってしまう。

このパラドックスに対して、これまでに選択されていたのは、「結論は本当に受け入れる ことのできないものではない」という途であった。すなわち、他律による他律から自律への 移行を一度跳躍と表現した上で、その跳躍を理解可能な形で記述することによって、パラド ックスを受け入れようとしてきた。カントの定式化に始まり、自律と他律のパラドックスを めぐってなされてきた多くの議論が、この方針をとってきたと言ってよいだろう。だが、カ ントの定式化から200年以上を経てもなお、教育学は、他律から自律への跳躍が十分に解明 されたという共通認識には至っていない。

これに対して、セインズブリーは、パラドックスと向き合うためのもう一つの途、すなわ ち、「議論の出発点もしくは推論になにか明瞭には現れていない欠陥がある」という途があ ることを教えている。本研究は、この途の中でも、特に「議論の出発点」に欠陥があるとい う途を検討したい。すなわち、自律と他律は異なる、人間は他律から自律へ移行する、とい った「明らかに受け入れることのできる前提」を問い直していくのである。前節第1項で述 べたように、そもそも自律と他律を区別しなければ、自律をめぐってパラドックスが生じる ことはないのだ。

そうは言うものの、私たちにとって、自律と他律の区別には一定のリアリティーがあり、

「自律せよ」というメッセージも全く無意味なものとは思われない。序章では、パラドック スに焦点化したもの以外にも、自律概念に関する多様な教育哲学研究がなされてきたこと を確認したが、そこでも自律と他律が区別されるということは当然の前提とされてきた。こ うしたことを無視してしまえばよいと言い放つだけでは、議論としては乱暴である。そこで、

自律に関して私たちが感じているリアリティーをできるだけ踏まえつつ、従来のような仕 方―切り分け‐結び付けモデルと呼ぼう―ではない仕方で自律と他律の関係を表すような モデルの構築を試みる。自律と他律について、切り分け‐結び付けではない語り方を探るの である。この試みは、自律をめぐる「近代的解釈図式の自明性に亀裂を入れ」[矢野1996: 202]た上で、新たな解釈図式を提案する作業となるだろう。

(2)手がかりとしての主体化=従属化論と〈ふり〉論

自律と他律に関する新たなモデルを構築するために、まずはミシェル・フーコーが『監獄 の誕生』などで展開した主体形成に関する議論を参照したい。フーコーは、フランス語の

sujet(英語のsubject)が主体/臣下という二つの意味を持つことを踏まえて、近代的な主体

形成を主体化=従属化assujettissementと表現した。すなわち、規律訓練という形で外部から 与えられる規範に合わせて進んで自らを律しているのが近代的な主体だということである。

ジェレミー・ベンサムが考案したパノプティコン(一望監視装置)のモデルは、まさにそれ を明らかにするものであった。

ある現実的な服従強制asujettissementが虚構的な〔権力〕関連[=パノプティコン]か ら機械的に生じる。[…]権力の効果と強制力はいわばもう一方の側へ―権力の適用面 の側へ移ってしまう。つまり可視性の領域を押しつけられ、その事態を承知する者〔つ まり被拘留者〕は、みずから権力による強制に責任をもち、自発的にその強制を自分自 身へ働かせる。しかもそこでは自分が同時に二役を演じる権力的関係を自分に組込ん で、自分がみずからの服従強制の本源になる。[Foucault 1975:236(204-205)](〔〕内 は訳者による補足)

『監獄の誕生』はカントについて言及していないが、フーコーの主体化=従属化論はカント 的な自律的主体の実情を明るみに出すものとして受容されてきた34。その際、ともすればフ ーコーは人間が専ら他律的であることを暴いたのだと受け止められてきたが、それではフ ーコー読解としておそらくバランスを欠いている。確かにフーコーは、何者からも導きを受 けないような完全な自律者が存在するとは考えない。しかし、フーコーが描く近代的主体は、

目前の他者による強制がなくても規範に従うという点で、加えて多くは自ら行為を決定し たと感じている点で、自律的.

だと言えよう。主体化=従属化論は、パノプティコン的な監視 の体制が普及した近代社会で、他律に裏打ちされた自律、つまり自律的.

な主体が行き渡った 様を描いていると見るべきではないか。すなわち、主体化=従属化論は、人間の完全な他律 性ではなく、自律と他律の分かちがたさを論じたものと見るべきだと考える。主体化=従属

34 例えば、貫成人は次のように述べている。「ロックにしてもカントにしても、人間は誰で も自由に考え、選択し、行為する主体、自由で理性的な人格であると考えていた。[…]だ が、それはとんでもない錯覚だ、とフーコーは言ったのである。自由な主体と言われていた ものは、じつは近代における学校教育や工場その他で機能していた「生の権力」の規律化の メカニズムによって構築された存在にすぎない」[貫2007:102‐103]。その他、檜垣[2010: 100‐106]や中山[1996:144‐147]も参照。

化論をこのようにとらえることによって、自律と他律は異なるという「明らかに受け入れる ことのできる前提」は揺るがされる。

それでは、分かちがたいにもかかわらず分けられるかのように考えられている自律と他 律の関係をどのように描くことができるだろうか。それを検討するために、続いて土戸敏彦 の〈ふり〉論を参照する35。土戸は〈ふり〉という語によって、人間のあらゆる行為が、遂 行(生真面目な、行為そのものになりきったあり方)と演技(醒めた、自身の行為から距離 をとったあり方)の両義性を有している様を表している。

土戸はまず、どのような行為も完全な遂行ではなく、演技性を含んでいると言う。なぜな ら、人間の行為がすべて、他者(オーディエンス)に対するパフォーマンスであるからだ。

独りでいるときであってもパフォーマンス[=〈ふり〉]は完全な遂行と化すことはな いのである。ひとたび言語なるメディアと言語的コミュニケーションという方法を獲 得したとたん、それを獲得した者には他者の目がビルトインされるからである。[…]

要するに、ひとはほとんどつねに、自分の中の「他者」に対している。[…]事実上の 他者が居合せないとき、すなわち行為者が独りのときでさえ、演技はなされるのである。

[土戸2011:80]

加えて土戸は、(演劇等の特殊な状況でない限り)完全な演技もあり得ず、どのような行為 にも遂行性が含まれるのだとも言う。なぜなら、「演技とは本質的に遂行の演技である」[土 戸2011:80]から、すなわち「演技は、他者に対して遂行であるように、否、遂行として映 じなければならない」[土戸2011:79]からである。こうして土戸は、行為における遂行と 演技の入れ子型の構造を〈ふり〉及びパフォーマンスという語によって浮かび上がらせ、行 為が完全な遂行あるいは完全な演技である可能性を否定する。

しかしながら、土戸は決して、遂行と演技の区別自体が存在しないと言っているのではな い。私たちにとって、遂行と演技の区別は確かに意味があることを認めつつ、その区別が単 純な二項対立ではないことを描き出しているのである。

われわれの日々何気なく行なっている行為には、遂行と演技の双方の要素が含まれて おり、両者の間にはっきりした境界など存在しないのだ。

要するに、「ふりをする」とは、一方の「生真面目」すなわち、いわば行為そのもの になりきったあり方と、他方の「醒めたあり方」すなわち自身の行為から距離をとった あり方の、双方を(両者の割合のバランスはどうあれ)含んだ行為なのである。たしか

35 〈ふり〉論については、土戸[2009、2011、2015、2016]、宮川・土戸他[2014]、岡野他

[2015]、宮川・岡野他[2016]を参照。

ドキュメント内 自律を目指す教育に関する自然主義的研究 (ページ 38-44)