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意図と理由を述べることの意味

ドキュメント内 自律を目指す教育に関する自然主義的研究 (ページ 93-97)

第 4 章 意図と理由の空間への参入

第 2 節 意図と理由を述べることの意味

もし他人に理解されることを求めないならば、矛盾したことを言っても恥じることの ないように、表明した意図を実現すべく努力しなかったり、矛盾した意図を表明して平 然としたりしていられるだろう。だが、それはつまり、他人に理解されることを求めな い人にはそもそも意図なる概念が不要であることにほかならない。[野矢2010b:47]

人間はたいてい、他者とのコミュニケーションにおいて、他者たちの基準に合わせて自ら の行為の意図や理由を述べている。「合わせて」と言っても、これは必ずしも、他者に理解 してもらうためにあえて自らの内にある意図や理由とは異なるものを述べるという意味で はない。多くの人間にとっては、当該の状況における適切な意図や理由の基準を他者と既に 共有しており、特に意識しなくても他者から理解され得る意図や理由を述べることができ ているのが実情であろう。なお、ここで言う意図や理由の適切さには、道徳的な善さという 含意はない。「彼が憎かったから殺した」という発言は、道徳的に善いと認められなくても 理解はされ得るのであり、その意味で適切である。

以上の議論から、人間が成長の過程で自分の行為の意図や理由を述べるようになること は、意図や理由を尋ね述べ合うコミュニケーション空間に参入することであると言える83。 具体的には、それぞれの状況に関して他者たちが共有している適切な意図や理由の基準を 内面化し、自らの行為をその基準によって意味付けるようになるということである。個々人 が、他者とのコミュニケーションとは全く独立に、自らの内部で意図や理由を形成するよう になると想定するならば、それは事態を見誤っている。

意図や理由を述べることが、自らが立てた規範に従って行為を決めるという自律の過程が はたらいたことの指標となっているということだろう。意図や理由の内容は行為を導いた 規範を含んでおり、それらを自ら述べていることが、規範を立てて従う過程を自らたどった ことの証だ、というわけだ84

もし、自らの行為の理由や意図を述べることが、実際に...

自らが立てた規範に従って行為を 決めたことの結果として生じているのであれば、本研究が第 3 章までに行った提案は的外 れ、ないしは不必要だったことになる。というのも、被教育者が自律と他律を区別するよう になるという跳躍を解明すべきだという提案は、自律と他律の区別が曖昧であることを前 提にして行っていたからだ。自らの行為の意図や理由を述べるかどうが、自分自身で行為を 決めることと他人に依存することの区別と明確に対応しているのならば、被教育者が意図 や理由を述べるようになる過程を描き出すことによって、他律から自律への跳躍を解明で きることになる。あるいは、行為の意図や理由を述べるということが、その人物が感性的(感 情的)ではなく理性的であることを明示しているとしても同様である。いずれにしても、自 律と他律がどのように区別されるようになるかを問うといった、迂遠な問題設定をする必 要はなくなる。

だが、幸か不幸か、事態はそうではない。すなわち、意図や理由の公共性を踏まえると、

それらを述べることが、実際に自らが立てた規範に従って行為を決めたことの指標である とは言えないのである。その理由を、以下、2つの観点から述べる。

第一に、意図や理由を述べることは、行為を導く規範を行為者が自ら作り上げたことを意 味しない。むしろ事態は逆である。行為者の発言が行為の意図や理由を述べたものとして通 用している以上、そこに含まれている規範は、他者たちによって共有されている適切な意図 や理由の基準と、少なくとも部分的に合致している。コミュニケーションが円滑に行われて いるとき、それぞれの行為者は、一つの状況に対していくつか存在する適切な意図や理由の 基準から一つを選ぶか、いくつかを組み合わせて述べているはずだ。ときにはその基準から ずれた内容を述べることもあるだろうが、ずれ方がはなはだしければ、それは意図や理由を 述べたものとは認められないことになる85。これが、意図や理由が公共的であるということ

84 ただし、意図や理由が欲求に依拠している場合、後に登場する例で言えば「のどが渇い たから水を飲みに来た」というような場合、これを自律の指標と見なすかどうかは判断が 分かれるだろう。欲求に突き動かされることも他律と見るカント的な見方をすればこの場 合は他律ということになるが、他者に導かれることのみを他律と見るならば自律と言って もよいことになる。

85 適切な意図や理由の基準からずれた内容が述べられるときには、行為者=発言者の、意 図や理由を述べるべき状況の認識の仕方がずれている(あるいは意図的にずらされてい る)ことがあるだろう。状況の認識の仕方についても、それが一定の許容範囲内に収まっ ていなければコミュニケーションが成立しないと考えられる。

の意味であった。文化や歴史によって異なる規範や基準が共有されていることに鑑みれば、

他者から学ぶことなしに個人が公共的な規範や基準にたどり着くことは考え難い。すると、

意図や理由を述べることは、むしろ行為を導いた(とされる)規範が他者からもたらされた ことの指標と見るべきである86

第二に、意図や理由を述べることは、行為者が行為に先立って....

特定の規範を選び取り、そ れに従って行為したことの証であるとは限らない。野矢茂樹の以下の論述から、意図や理由 の形成自体がしばしば他者の働きかけの結果生じていることがわかる。

私が日常なめらかに何ごとかを為しているほとんどの場面において、私は意図形成の ようなことをいっさいしてはいない。[…]私はのどの渇きを覚え、椅子を立ち、台所 へ行き、コップをとり、水を入れて飲む。[…]ここにおいて私はただ、いま述べたこ とを為しただけである。[…]私が自分の行為の意味を自覚するのは、私自身が何ごと かを選択するとき、あるいは人から「何をしているんだ」とか「なぜそんなことをする のか」と尋ねられたときである。それゆえ、いかなる選択肢も念頭になく、いかなる問 いにも晒されていない場面では、いかなる意図も形成されてはいない。[野矢 2010b:

135‐136]

この例であれば、行為に先立って形成されていたが本人にも意識はされていなかった意図 や理由(「のどが渇いたから水を飲みに行こう」)が、尋ねられて答えることによって意識さ れた、と解釈する余地がある。だが、この解釈がいつも成り立つわけではないことは、いく つかの心理学実験によって示されている。第 2 章で参照したニスベットとウィルソンによ る実験もその1 つである。この実験に参加した人々は、全く同じ4 組のストッキングの中 から「最も品質が高いもの」を選ぶように求められ、自分があるストッキングを選んだ理由 として選んだストッキングの特徴(編地が優れている、伸縮性など)を挙げたのだった

[Nisbett&Wilson1997]。ここではもう 1 つ、実験心理学者のピーター・ヨハンソンらによ る、選択盲choice blindnessの実験を紹介しておこう[Johansson et al. 2005]87。ヨハンソン らは、男女の実験参加者に、女性が1人ずつ写った2枚の写真を見せ、どちらが魅力的かを 選ぶように求めた。そして、一度2枚の写真を裏返した後、もう一度選んだ写真を見せ、な ぜそちらの方が魅力的であるのかを尋ねるという過程を15回繰り返した。実は、15回のう ち3 回は、写真が裏返されるときに密かに 2 枚がすり替えられており、再び見せられた写

86 このことは、社会的な規範がときに変わるということを踏まえてもなお、妥当すると考 える。規範が変化するメカニズムをここで詳細に検討することはできないが、少なくと も、新たな規範は、既存の規範の一部分を共有しながら、それをずらすようなかたちで生 じるものと思われる。

87 この実験についての解説として、一川[2019:110-112]、渡邊[2015:5-11]を参照。

真は最初に選ばれなかった方であったのだが、実験参加者の多くはそのすり替えに気付か ず、自分が選んでいない写真について、それを選んだ理由を述べたという。これらの実験か ら、私たちは行為に先立つことが絶対にあり得ない理由をも述べているということ、いわば 理由の捏造をしているということがわかる。意図や理由として述べられたことが、行為に先 立つ内的な過程を正しく反映しているとは限らないのだ。

以上の議論から、意図や理由を述べることが、実際に自らが立てた規範に従って行為を決 めたことの結果として生じてはいないことは明らかである。したがって、意図や理由を述べ ているかどうかによって、自律と他律を明確に切り分けることはできない。私たちが述べる 意図や理由は他者からもたらされた基準に則ったものであり、何らかの意図や理由に基づ いて行為したという意識すらしばしば他者から尋ねられることによって生じるのだ。する と、意図や理由を述べることはむしろ他律の指標であってもいいように思えてくる。とは言 え、行為に先立って意図や理由があったかのように語ることと「他人に無理強いされたから やったのだ」と述べることには大きな違いがあるため、全ての行為は他律的だと見ることも また生産的ではない。ここまでに論じてきたように、自律と他律は両義的なのである。

今や、意図や理由を述べることが日常的に自律の指標として機能しているのは奇妙だと 言わざるを得ない。だが、だからこそ、自律と他律の区別が、その両義性にもかかわらずど のように実現されているのかをここから読み取ることができる。すなわち、自律と他律の区 別を構成している 2 つの要素―自分自身で行為を決めることと他人に依存することの区別 と、理性的であることと感性的(感情的)であることの区別―は、自らの行為の意図や理由 を述べることにおいて実現しているということである。

これまでに論じてきたように、意図や理由を述べるとき、私たちはある意味、それらを述 べないとき以上に他者の影響を受けている。しかし、意図や理由を述べる人間はそのような ねじれなど意に介さない。また、行為の後に理由が捏造されていることや、システム2によ るシステム1の正当化・合理化のようなことも、意図や理由を述べる人間には気付かれてい ない。「○○をしたのは~~だからだ」と述べることによって、私たちは、行為に先立つ内 的な過程によって自ら行為を引き起こしたという事実を作り出し、引き受けている。そうし た事実などなかったとわかっていながら捏造するのではなく、まさに事実であったと信じ ているのである88。自分自身で行為を決めることと他人に依存することは分かちがたく結び ついているにもかかわらず、私たちは、自らの行為の意図や理由を述べることにおいて、そ の行為をまさに自ら選び取ったものとして引き受けている。さらに、他者から理解され得る 意図や理由が、行為に先立って検討されていたのだと信じられることによって、その行為者 は感情的ではなく理性的であったのだということになる。こうして、自律と他律の区別は、

自らの意図や理由を述べることによって、信じられ引き受けられている。

88 「他者に強制されたのだ」という発言は、その事実をどうしても信じることができない 場合になされることになる。

ドキュメント内 自律を目指す教育に関する自然主義的研究 (ページ 93-97)