第Ⅱ章 生命倫理を視点とした公民科の授業構成と 授業実践の特質
第3節 自己探求的アプローチによる生命倫理発展型授業構成
―大谷いづみ「ベビーM事件」実践
この節では、生命倫理の問題を主題としながらも、発展的な内容を自己の探求というア プローチで行った授業実践について、授業構成を分析して、その特質を検討する。取り上 げた授業実践は、東京都立国分寺高等学校の大谷いづみが、1993年度の社会科「現代社会」
(1年生、4単位)で、展開した「生命科学と生命倫理ⅠベビーM事件」のテーマ学習の 授業内容を、生徒の授業ノートと大谷の作成した授業プリントと生徒ノートをもとにして 再現する。(4月24日から5月24日の間に、13回の授業が行われている)。これを再 現するのは、大谷実践の概要、構成、実践の特質を解明して、実践の背後にはどんな考え 方があるのかを検討するためである。自己探求的アプローチによる生命倫理発展型授業構 成の特徴を見るためである。
第1項 「ベビーM事件」の概要
大谷いづみは、東京都立高校で生命倫理教育のエキスパートの授業者として活躍し、2007 年4月より立命館大学産業社会学部教授に赴任している。この実践は、1993年度の社会科
「現代社会」(1年生、4単位)で展開したものである。この年度、大谷は年間授業をつぎ のように実施している。
表8 大谷実践の 1993 年度「現代社会」年間計画 学
期
章 主 題 授業時数
序章 オリエンテーション 2時間
第1章 生命科学と生命倫理Ⅰ ベビーM事件 13時間 1
第2章 生命科学と生命倫理Ⅱ 脳死・安楽死・尊厳死 18時間
第3章 生命の質と選択 9時間
2
第4章 ドイツ・ナチズム研究 27時間
3 第5章 自己と他者の受容――アイデンティティの発見 18時間
(1993年 東京都立度国分寺高校1年2組ノートより作成)
この中の、第2章「生命科学と生命倫理ⅠベビーM事件」について検討する。ベビーM 事件とは、1985月、メアリー・ベス・ホワイトヘッド(以下、メアリー・ベス)が、スタ ーン夫妻と代理母契約を結び、夫の精子で人工授精が行われ、1986年にベビーMを出産し た。出産後ただちに、親権を放棄する約束であったが、メアリー・ベスは、引き渡しを拒 否し、連れさったため、夫婦が訴えて裁判となった事件である45。大谷は、この事件を報じ た新聞記事(朝日新聞 1987 年 02 月 26 日夕刊「親権叫ぶ代理母―米の裁判大詰め」)に刺 激を受けて、このテーマの授業をすることとした。
実践の13時間は、前後2つのパートの別れる。前半が、生殖に関わる生命科学と生命
45 立岩真也(1997)pp.94-95。
倫理について、後半がベビーM事件についてである。前半では、生殖技術について科学的・
法律的・社会的な詳細な議論が展開されている。後半では、ベビーM事件が事件の概要と、
アメリカでの裁判の争点(1987 年、ニュージャージー州上位裁判所:代理母契約合法の判 決、1988 年同州最高裁判所:代理母契約無効の逆転判決)を内容として授業が展開されて いる。
前半で、生命倫理問題の背景にある理論的な説明がおこなわれ、生命科学の発達により、
生殖技術が人間のコントロールの元に行われるようになったことがのべられている。する と、より才能に恵まれた質の高い子どもを求めて、アメリカでは精子バンクが誕生した。
人々がこんな子どもが欲しいという合理的な選択が、親と子どもの関係性をゆがめる可能 性がでてきた。大谷は、生殖技術の分類を展開することによって、その背後にある親が質 の高い子どもを選ぼうとする欲望を明らかにする。単に、生命医療技術の発展による生命 倫理問題が発生したという展開ではなく、法律的に親子とはなにか、不妊の女性が社会か ら被る圧力とはなにか、はたして、親であり子であることとはどんなことなのか、といっ た法律的、社会的な領域の問題を含めた授業展開がなされている。そして、後半部で、ベ ビーM事件の裁判を通して、生命倫理問題に実例が題材となり、授業が展開する。大谷が 着目するのが、代理母のメアリー・ベスと依頼者のエリザベス・スターン(以後スターン 夫人)の二人の女性である。大谷は、2人を徹底的に比較する。メアリー・ベスは高校2 年生で中退、夫はゴミ収集の肉体労働者、法廷での言動をみると感情的でつじつまの合わ ない証言を繰り返す。いったん代理母契約を結んでおきながら、それを破りベビーMを連 れて逃走する行き当たりばったりの行動をとる。一方、スターン夫人は小児科医、夫は生 化学の教授、夫妻は理知的で法律に詳しく、高所得者である。メアリー・ベスはなぜ代理 母を引き受けたのか。スターン夫人はなぜ代理出産を依頼したのか。そして、二人に関わ る父親としてのスターンはどうなのか。人工生殖が可能になったことによって、当たり前 の家族の常識が破壊されていくことが取り上げられている。
生殖技術の発展という状況の中で、人間の心理の複雑な動きが、どのような生命倫理問 題を引き起こすのかを追求する内容である。このように人間の心理に着目して、心の中に 深く入っていき、いったい親とは何か、子どもとはなにか、家族とはなにかを追求しよう とするが大谷実践の特色である。つまり、題材において、生命倫理を中心にしながらも発 展的な内容を組み込んで内容が構成されているという点から、生命倫理発展型であり、人 間心理への探求によって、生命倫理問題を探求していこうとする点から、自己探求的アプ ローチの実践ということができる。
第2項 「ベビーM事件」の構成
「生命科学と生命倫理ⅠベビーM事件」の授業は、1学期の13時間の実践が行われて いる。この13時間を一つの単元とみて、授業内容を生徒の授業ノートと大谷の作成した 授業プリントによって再現すると次の表9となる。なお、教科通信とは、授業用プリント とは別のもので、授業中に配布される。内容は、生徒の授業内容に対する意見、質問、感 想が掲載され、大谷の感想やコメントが書かれている。この授業が行われた 1993 年度は、
No1から、No52までの教科通信のプリントが発行された。生徒にとって、授業中に質問で
きなかった疑問点や他人の意見、感想を拾い上げてくれるため、授業に参加している意識 が高まる利点がある。大谷にとっても、講義に対する生徒の理解度、反応、関心のあると
ころをモニターするために有効な手段となっている。
表9 大谷実践「生命科学と生命倫理Ⅰ ベビーM事件」の内容構成 時間 段階 内容
1
問題提 起
ベビーM事件アンケート
新聞記事から各自の意見をまとめる
朝日新聞 1987 年 02 月 26 日夕刊「親権叫ぶ代理母―米の裁判大詰め」
2 『生命科学と生命倫理』
(1)バイオテクノロジーとバイオメディシン 1.1 バイオテクノロジー、1.2 バイオ メディシン、
3 (2)人工生殖の方法と課題 2.1 人工授精
(教科通信:人工生殖の方法と課題感想①)
4 教科通信:ベビーM事件感想、バイオテクノロジーとバイオメディシン感想 によるまとめ
5 6
(2)人工生殖の方法と課題
2.2 体外受精(試験管ベビー)、問題点。
(教科通信:人工生殖の方法と課題感想②)
7
展開1
生命科 学と生 命倫理
VTR「ソニアの赤ちゃん」6年前になくなった夫の精子で体外受精
(教科通信 VTR「ソニアの赤ちゃん」感想)
8 (3)ベビーM裁判
非配偶者間体外受精、複雑な親子関係、ベビーM裁判
(教科通信:法的な親子決定感想、ベビーM争点①代理母契約は有効か。) 9
10
(3)ベビーM裁判
ベビーM裁判争点①代理母契約は有効か。争点②子の親権・養育権は誰に。
11
(3)ベビーM裁判
VTR「NHK 報道スペシャル代理母」(代理母制度の長所・短所のレポート)
12
展開2
代理母 裁判
(3)ベビーM裁判 依頼者と代理母の結びつき
(教科通信:ベビーM争点②親権・養育権は誰に、契約の背景、VTR「代理出産」感 想
13 まとめ 3 ベビーM裁判
分裂する父性と母性。人工生殖が問いかけるもの。
(教科通信:分裂する父性、分裂する母性。人工生殖が問いかけるもの)
(1993年度 東京都国分寺高校1年2組ノートと授業プリントより作成.)
生命科学と生命倫理ⅠベビーM事件の単元構成の原理を見ていこう。
第1時間目の授業は、問題提起からはじまる。ベビーM事件を報じる新聞記事(朝日新 聞1987年2月26日)を提示して、つぎの質問を先入観のない状態の生徒に答えさえる。
1 メアリー・ベス・ホワイトヘッド(代理母、ベビーMの産みの母)をどう思うか。
2 ウィリアム・スターン(ベビーMの生物学上の父)の訴えをどう思うか。
3 エリザベス・スターンについてどう思うか。
4 ベビーMにとって必要な措置はどうあるべきだと思うか。
5 代理母契約について考えたことをのべなさい。
この質問に生徒が書いたものは、第4時間目に「教科通信」によってフィードバックさ れている。その結果、約8割の生徒が、ベビーMはスターン夫妻の子どもであると考えて いる。理由は、「約束は約束だから守らなければならない」からである。こうした「常識」
に対して、「生命をめぐる問題はそんなに単純ではない」ことを示し、「だから、一緒に考 え続けないといけない」ことを生徒に伝えるのが大谷実践の目的である。
ベビーM事件を検討するために背景となる生命科学技術の発展について、6時間の授業 が行われる。「バイオテクノロジーとバイオメディシン」についてでは、生物に関わる技術 としてのバイオテクノロジーとバイオテクノロジーを応用した先端医療のバイオメディシ ンが取り上げられている。「人工生殖の方法と課題」についてでは、家畜から人間へ範囲を 広げた人工授精、不妊症対策としての体外受精(試験管ベビー)、それらの問題点が取り上 げられている。つづいて、6年前になくなった夫の冷凍保存された精子で体外受精を行お うとする母の姿を描いた、VTR「ソニアの赤ちゃん」視聴して実際の体外受精に関する問 題を見せている。以上はベビーM事件を見る際の基本的知識と生命科学技術の発展に関す る視点を生徒に提供している。VTR「ソニアの赤ちゃん」では、科学の発展と共に、この 技術を活用して亡くなった夫の子供を産みたいというこれまでには考えられなかったニー ズがおこっているという視点もともに提供されている。
大谷がこの前半部分で強調したかったことは、生命科学の発展は、未来の生命に対する 現在の人間のコントロール願望である、ということである。人工生殖で取り上げた試験管 ベビーは、不妊治療のために開発された技術であるが、受精を人間のコントロール下に置 くことに成功したため、より役に立つ「生命」を選択できるようになった。その延長が、
凍結精子によって、亡き夫の子どもを産もうとするVTRの内容である。こうして、人間 の手に及ばなかった生殖技術が手に入ったときに、人はどんな行動に出るのだろうか。
生命へのコントロール願望が、現実の訴訟に発展したのが、第8時間目からのベビーM 事件である。非配偶者間の体外授精によって、生物学上の母と産みの母とが異なり、親子 関係が複雑化する。代理母の場合はとくに代理母の父の嫡出否認、親権放棄などがからみ より複雑化する。ベビーM事件では、産みの母(メアリー・ベス)は「親権を出産後ただ ちに放棄する」契約になっていた。しかし、妊娠し、出産して新しい関係を作るはずの子 供が「契約」によって、1万ドルと引き替えに引き渡されることに耐えきれなくなったメ アリー・ベスはベビーMとともに逃亡する。FBIの捜査によって発見された代理母に対 して、ベビーMの引き渡しを求めて、スターン夫妻は訴訟を起こした。
第9時間目、10時間目は裁判とその争点をめぐる授業となっている。ベビーM事件の第 一審、第二審判決が説明される。第一審では代理母契約の有効性が争点となり、第二審で は、子の親権・養育権の帰属が争点となった。
第一審の授業では、代理母契約の内容が吟味されている。大谷の視点は、ジェンダーを 読み解くものである。どんな契約であったのか。「妊娠したら薬をいっさい飲んではいけな い。羊水診断を受け、胎児に障害があれば中絶する(報酬はなし)。流産・死産には1千ド ル、健康な子が生まれたら1万ドルの報酬。出産後、ただちに親権を放棄する」女性の身 体は契約によって管理される。まるで、子どもという商品をつくる道具としてとらえられ