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社会問題探求的アプローチによる生命倫理発展型授業構成

ドキュメント内 Darryl R. J. Macer (ページ 57-74)

第Ⅱ章  生命倫理を視点とした公民科の授業構成と 授業実践の特質

第4節  社会問題探求的アプローチによる生命倫理発展型授業構成

―Darryl R. J. Macer

『文化を越えた見識ある市民のための生命倫理』

  この節では、生命倫理の問題を主題としながらも、発展的な内容を社会問題の探求とい うアプローチで作成された授業について、授業構成を分析して、その特質を検討する。取 り上げた授業は、ニュージーランドの生物学者・生命倫理学者  Darryl R. J. Macer52(ダ リル・メイサー、以下メイサーと記す)が「生命倫理教育プロジェクト」53を推進するため に、世界の高校生に向けてメイサーが制作したテキスト:『Bioethics for Informed Citizens

across Cultures』(「文化を越えた見識ある市民のための生命倫理」、以下テキストと記す)

の内容を分析した。メイサーのテキストを分析したのは、西アジアからインド、中国、タ イ、フィリピン、オーストラリア、ニュージーランドの教員・高校生に生命倫理教育の情 報を提供しつづけているメイサーのテキストから、生徒にとって意義ある生命倫理の授業 開発に示唆を得られるのではないか、と考えたからである。また、社会問題探求的アプロ ーチによる生命倫理発展型授業構成の特徴を見るためである。

第1項  『文化を越えた見識ある市民のための生命倫理』の概要

(1)テキスト全体の目標

メイサーは、テキストの序文で、生命倫理学を「生きている有機体的組織体の利用と関 連する倫理的な問題と意思決定の研究」として定義している。つまり、生命倫理学とは、

生命科学技術の発達によって、人間や動物の生命が操作され侵害されそうなとき、われわ れはどのような判断や決定を行うべきかについての研究であるといえる。科学技術と産業 の発達による地球環境の破壊が人間や動物の生存を脅かしている。地球が持続可能な未来

52元筑波大学生物科学系助教授メイサーは、1990年来日、1991年日本、1993年オースト ラリア、日本、ニュージーランドにおける生命倫理教育に関する調査を実施した。この調 査を基にして、1996年生命倫理に関する補助教材を作り、これを全国5510校の高校に配 布した。また、同年、社会科、理科、家庭科などの高校教員をまとめた「学校における生 命倫理教育ネットワーク」を設立した。2005年、バンコクのUNESCOに移り活動を続け ている。

53  メイサーが主催する「ユーバイオス倫理研究所」のサイト

(http://eubios.info/betext.htm)には、この生命倫理教育のプロジェクトが説明されてい る。このプロジェクトは、2003年から2006年に「ユーバイオス倫理研究所」によって行 われたもので、このテキストを作ったのがその成果である。(資金は、笹川平和財団より提 供されたもの)プロジェクトリーダーはメイサーである。協力校は、フィリピン、中国、

台湾、日本、ニュージーランドの高校、大学である。メイサーの国際的な調査では、学校 の教師たちが、利用できる生命倫理問題の教材がないという共通点をのべていた。そこで このプロジェクトによりテキストを作成した。

を迎えられるように、生命倫理学は個人や社会が利益とリスクのバランスをとって判断す る能力をのばすことを目指す。メイサーは、こうした意味から、「生命倫理学は医学倫理学 と環境倫理学の両方を含んでいる」とのべている。

テキストの序文では、全体の目的を、①生命に対する尊敬の念を増すこと、②科学と技 術の利益とリスクのバランスを保つこと、③別人の見解の多様性をよりよく理解すること であるとしている。こうした力を身につけた「見識ある」市民の育成がめざされる。

「見識ある市民」とは、医師や科学者のように専門的な知識を持たないが、他者や社会 の問題に興味関心を持ちながら自分の考えを表明し、公共の意見を形成しようとする意欲 を持った市民をさす。この概念は、社会学者の野村一夫の紹介するアルフレッド・シュッ ツが知識のあり方をめぐって構成した3つの理念型から得た54。「見識ある市民」とは、市 民が形成する公的なコミュニケーションの領域(市民的公共圏)の担い手になる自己教育 的な市民を指す。医師や科学者のような「専門家(expert)」、一般の人々「しろうと(man on the street)」と対比して、「見識ある市民(well-informed citizen)」は国家や文化を越 えた公共の意見の担い手であるとされる。生命の操作さえ可能となった医療技術に対して、

われわれが専門家ではないという理由で問題から逃げ、議論を避けようとするとき、技術 の暴走が起こる。

  メイサーの「informed citizen」は、テキスト本文中に直接的な定義がない。しかし、序 文で示された上記の①から③の目標から、「informed citizen」とは、生命に対する尊敬の 念を根底にしながら科学と技術の利益とリスクのバランスを評価する知識と意欲をもつ市 民であり、その意見を「別の見解を持つ人」と議論し続ける市民を指すものであるといえ る。そこで、この「informed citizen」を「見識ある市民」という訳をあてた。

(2)テキスト全体の構成

テキスト全体は、2つの大きな部分に分けられている。

前半 「ページごとの生命倫理学」(pp.1-24とp.148)

後半  「十分な章と教材」        (pp.25-147)

前半と後半は、章の数も章ごとのページ数も異なっているが、同じ分野の内容を同じよ うな構成の仕方で配列されている。前半の「ページごとの生命倫理学(Bioethics page by

page)」は、1ページごとに一つの生命倫理問題のトピックが記述され、トピックのパラグ

ラフの後に関連する2〜3の質問を置く構成である。後半の「十分な章と教材(Full

chapters and Teaching Resource)」では、具体的な生命倫理問題を詳しく学び、学習者が

問題を深く考える構成になっている。前半の中の重要なトピックスが選ばれて取り上げら れている。

「ページごとの生命倫理学」では、トピックの問題点が直接的に示され、学習者への質 問がおかれている。たとえば、遺伝子診断を受けるという選択が引き起こす倫理的・社会 的問題が簡潔に説明されている。「十分な章と教材」では、家族が似ていることを導入とし て遺伝子についての基礎的な説明している。たとえば、遺伝子検査を行う自己決定が持つ 倫理的な問題点を取り上げた後、自分にとって究極のプライバシーとも言える遺伝子の持 つ意味を考えさせて、最後にプライバシーの流出による雇用や保健における差別問題に言

54 野村一夫(1994)pp.196-197。

及している。章の構成は、「基礎的な知識」からスタートし、ひとつ検査を受けるのかどう かという自己決定の持つ倫理的な意味を考えさせ、自分の決定が現代社会の差別問題にま で発展する構成をとっている。これは、科学の発達によって可能となった遺伝子検査とい う医療技術が、個人のプライバシーを暴き、社会問題を引き起こす危険性を持っているこ とを示し、社会全体から見た個人の決定の持つ意味を考えさせることを意図した構成であ る。専門的知識を持たない市民でも問題の危険性に対する意見を引き出す構成がとられて いるのは、見識ある市民を育成しようとする意図の表れであるといえる。

全体計画の中の前半にある「ページごとの生命倫理学」の内容を表10―1〜3で示す。

全体の単元がどのように設定されているのかを見るために、各章の主な「内容」とそこで の中心的な「問題点」を取り上げた。

表10    メイサー「ページごとの生命倫理学」の内容構成

章   内容   問題

1  自主・自立の原

生命倫理の原則「オートノミー」は、

個人の選択の権利を平等に認める。

全ての人の権利が同じように認めら れるわけではない。

2  公平さ 社会の全ての人たちに平等で公正な チャンスを与えることが公正さであ る。

個人の「オートノミー」を尊重するこ とと社会全体の利益とは相反する。

3  利益とリスク のバランス

行為の理由付けとして、利益とリスク のバランスをとるという方法がある。

科学や医学の行為の結果が、つねに確 実だとは言えないこと。失敗するリス クと成功する可能性がある。

4  動物の権利 動物に特定の権利があれば、人間はそ れに対応する義務がある。

人間の間で、動物にどれだけの義務が あるかは、一致できない。

5  動物の使用に 対する倫理的要因

動物使用の判断基準には、本質的な倫 理要因と外的な倫理要因とがある。

危害を加えないという理想に反して、

人間は動物の生命を傷つける。

6  遺伝子テスト とプライバシー

遺伝子テストを用いることで、遺伝病 を持っているか、新生児のスクリーニ ングを行ったりできる。

病気の早期発見、生活習慣の改善が可 能。治療法が見つかっていない病気の 情報を知ってしまう。

7  ガン遺伝子罹 患性テスト

遺伝子テストによって乳ガンや卵巣 ガンを抑制する遺伝子が正常でない とわかったとき、さまざまな選択肢が ある。

遺伝子テストなどの情報をできるだ け多く得たいという考えと、回答を望 まないという考えがある。

8  エイズ検査 HIVは感染する経路が限定されて いるので、エイズは危険だが予防でき る。

サハラ以南のアフリカで最も深刻で あるが、その地域にはHIVやエイズ の知識が普及していない。

9  心臓移植 心臓移植で助かった小学校6年生の

提供者(ドナー)が現れなければその 子はやがて死んでしまう。

10  車を運転す ることと倫理

自動車がもたらす便利さと所有する ことで支払うコストの大きさ。

自動車がもたらす利点の定量化と個 人が負担するコストの定量化が難し い。

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