第Ⅲ章 生命倫理を視点とした公民科の授業開発
第2節 社会問題探求的アプローチによる生命倫理発展型の 授業開発
この節では、前節の授業構想をもとに、具体的な授業事例を3事例開発した。それぞれ の事例作成では、共通して、つぎの授業展開によって授業事例を作成した。メイサーのテ キストの、1【記述的生命倫理】、2【規範的生命倫理(背景に「原則」がある)】、3【相 互作用的生命倫理】という構成を生かして、下記の段階を授業に組み込んで構成した。
1【記述的生命倫理】の段階
① 事実の説明: 問題についての基本的な知識を得る。
この段階は、その問題はどんな内容の問題であるのかを生徒に把握させる段階である。
教材としては、NHKの番組からのVTRおよび写真を活用して、生徒の理解を助ける。
2【規範的生命倫理】の段階
② 感想の記述: 問題に対して、どうするべきなのかを決断を下す。その際にどのよ うな考え方をもとにして判断を下しているのかを、客観的に吟味する必要がある。こ のため、①事実の説明のケースに関する感想を書かせる。
③ 感想の分析:自分や友人の感想の背後にある社会的な状況を分析する。自分の意見 を反省的に見直して、自分の判断がどういう原理にもとづいた感想であるのか明らか にする。
この段階は、①事実の説明で学んだ知識をもとにして、その問題について「自分自身 は」どうすべきなのか」を書かせる。書かせる際に、自分はどんな考え方に基づいて感 想を書いているのかを意識させて書かせる。こうすることによって、自分の判断の根拠 がどこにあるのかが明確になる。そして、友人の感想を読み、自分のものと比較する。
意見を書かせるのは、態度をはっきりとさせて、自分が何に基づいてその意見をのべて いるのかを明確にして、議論を継続させるためである。どれが正解で不正解であるのか という問題ではない。
【相互作用的生命倫理】の段階
④ 感想の反省: 授業で得た知識や友人の感想を読むことにより、自分の意見がど のように深まり、あるいは揺れ動いたのかを書かせる。
⑤ 議論とまとめ:感想の反省を発表することにより、この生命倫理問題についての議 論を深める。これによって問題全体のまとめを行い、より発展的な問いを見出そうと する。
この段階は、友人や授業から得た知識と自分の意見とを比較するための段階である。
つまり、先に書いた自分の意見を客観的に読み直し、自分の中にある考え方が、他者や 社会からいかに影響を受けているのかを知る段階である。
以上の段階を組み込んでそれぞれの授業を開発した。
第1項 自主・自律の原則を活用した「オレゴン州自殺幇助法」
の授業開発
このオレゴン州自殺幇助法の授業開発はメイサーの「記述的生命倫理→規範的生命倫理
→相互作用的生命倫理」のそれぞれ1時間の計3時間の構成をとる。1997年、アメリカの オレゴン州で世界初の医師による自殺幇助が合法化された。つまり、回復の見込みのない 末期の患者が、医者から処方された薬で自殺することが法律で認められた。この手続きを 進めているジーン・パッセルさんを取材した番組、「NHKスペシャル 世紀を越えて い のち・生老病死の未来 自分らしく死にたい 〜安楽死が問いかける生と死〜」(2000年6 月17日放送)を手がかりに、なぜ自殺幇助を選ぶのかを問うた授業である。
表15 オレゴン州自殺幇助法の授業計画案
段階 教師の指示・発問 教授学習活動 子どもから引き出したい知識 苦痛で死期がせまって
いる人が医師に致死薬 を求めもよいのでしょ うか。
T:発問する P:答える
よい、患者の望みに答えている。あるいは、よ くない、医師が患者の寿命を縮めてはいけな い。
致死薬を求める人についてのVTRを視聴する 【資料1】
「自分らしく死にたい―安楽死が問いかける生と死」NHK特集2000.6.17
Ⅰ 記述的 生命倫理
① 事実の 説明
オレゴン州自殺幇助法 とは何か。
アメリカでは患者の権 利がなぜ主張されたの か。
T:発問する P:答える
T:発問する P:答える
この州では、回復不可能な患者が、自分の意志 で医師から致死薬を処方してもらうことがで きる。
1970年代の患者の権利運動から主張され 始めた。
1976年カレン事件で「死ぬ権利」が議論さ れた。日本の朝日新聞がこのニュースに「尊厳 死」という言葉を用いた。
Ⅱ 規範的 生命倫理
② 感想の 記述
自分の死を自分の決定 で行うことは許される のか。
そう考える理由はなに か。
T:感想 を書 かせる。
P:感想 を書 く。
予想される感想
感想A 絶え間ない苦痛からのがれるために 致死薬を服用してもかまわない。自分の命は自 分の所有物であるから、自分のすきなところ で、すきなように利用してもよい。
感想B 自分の命といっても、家族やさまざま 組織や社会制度がサポートしているからであ る。だから、致死薬をのむことを自分だけの判 断で行ってはいけない。
段階 教師の指示・発問 教授学習活動 子どもから引き出したい知識
● 感想Aについて なぜオレゴン州では自 殺幇助が認められてい るのか。
なぜ自殺幇助が法律に よって定められている のか。
● 感想Bについて 自分の死が家族に与え る影響はどうか。
T:発問する P:答える
T:発問する P:答える
T:発問する P:考える
苦しまずに死にたいという患者の意思を尊重 しようとするから。患者もそれで満足する。
致死薬の処方を法律で守らなければ、処方した 医師が殺人罪で訴えられるから。
次のVTRによって、家族一人の死が家族全体 の心に広がっていくことをみる。
オレゴン州で母親の自殺幇助を手伝った家族のVTRを視聴
「自分らしく死にたい―安楽死が問いかける生と死」NHK特集2000.6.17
③ 感想の 分析
● 感想AとBは、どの 点が最も違っている考 え方か。
実際にこの法律で死期 を早めた人はどんな人 か。
T:発問する P:答える
T:発問する P:答える
感想Aは、「自主自律」原則の徹底をめざして いる。感想Bは、「自主自律」原則に対するた めらいがある。
高学歴の白人男性が多い。
理由として多いの、病気や高齢による自主自 律」を失うことであった。 【資料2】
Ⅲ相互作用 的生命倫理
④ 感想の 反省
意見の背後にあるもの T:指示する 自殺がゆるされるとする意見は、「自分の意志 による決定であること」「死ぬことよりも、苦 痛や周囲への迷惑の回避をもとめる」「自分の 選択の正しさ」が内容。
ゆるされないとする意見は、生命の質を他人が 判定することの危険性を指摘。
⑤ 議論と まとめ
議論のふりかえり 自主自律の原則が効か ない場合がある
T:まとめる 自主自律原則の重要性とともに、その原則が大 切は周囲とのつながりを失うとき、不適切な影 響を他者にあてる場合がある。
(筆者作成)
【資料1】 オレゴン州自殺幇助法
アメリカの西部、オレゴン州。ここでは回復の見込みのない末期の 患者が、医者から処方された薬で自殺することが法律で認められてい る。オレゴン州は、医者によって患者の自殺を手助けする制度を世界 で初めて合法化した。
この安楽死の手続きを進めている人がいる。ジーン・パッセ ルさん。肺の病気で、残された命は半年以下との診断を下さ れている。呼吸を助けるため、酸素を送るチューブをいつも 身につけて生活しています。
パッセルさんは、自分の病気はもはや回復の見込みはないこと、さらに最 期は激しい呼吸困難に襲われ、おぼれるような苦しみがあることも知って いる。医者からは入院して治療を受けることすすめられた。しかしパッセ ルさんは、住み慣れたこの家で死にたい、何より死ぬ時を自分で決めたい と考え、そのすすめを断りました。
写真 NHKスペシャル 世紀を越えて いのち・生老病死の未来
「自分らしく死にたい 〜安楽死が問いかける生と死〜」
(2000年6月17日放送)より
【資料2】「オレゴン州存続死法施行後3年間(1998−2000)の実施状況」より 3年間で致死薬を投与された者は、96名。
教育程度は、高卒未満10%、高卒46%、大学、大学院43%
生命終結の理由は、延命治療の財政上の問題1%家族の負担37%自律性の負担83%
人生を楽しむ諸活動への参加不能77%。身体コントロールの喪失66%、不適節な疼痛コント ロール24%
(大谷いづみ(2002)「アメリカ合衆国における『安楽死・尊厳死』の現在―『死を学ぶ教育』
の課題」日本公民教育学会『公民教育研究』vol.10。)
この授業の目標
1 オレゴン州自殺幇助法がどのようなものであるのかを、背景にある社会的な問題や 状況を含めて理解する。
2 オレゴン州自殺幇助法について、個人や社会がなぜその選択をするのかを、「原則」
によって説明する。
3 オレゴン州自殺幇助法に対する意見に対して、自分と異なる意見の根拠について知 り、是非の二元論に陥らずに議論を継続する。
全体として、授業は次のような展開である。オレゴン州自殺幇助法の内容を知る段階 が、記述的生命倫理である。続いて、「自分の死を自分で決定してもよいのか、わるいのか」
を問う。この答の根拠を検討するのが規範的生命倫理の段階である。是か非かの二分法的 な答を出すのが目的ではなく、それぞれの答の背後にある「考え方」を検討するのが目的 である。自主・自律の「原則」にしたがって意見をまとめると、なにを根拠として判断し ているのかが明確になる。社会的背景を含めて考えると、相対主義的な結論で判断停止に 陥ることなく、自分はどう考え行動するのかといった議論が継続できる。つづいて、この 授業(3時間)の展開を細かく見ていこう。