第 1 章 序論
1.4 本研究の概要と目的
以上述べたように,水素と金属材料との相互作用は原子レベルのスケールで見ても単一では なく,それに付随するマクロな材料応答の変化も,材料が持つ強度レベル,微視組織,化学組成 などの因子に依存して多岐にわたっている.また,同一材料や負荷モードであっても,水素の濃 度や試験温度,負荷速度などのパラメータによって脆化挙動が異なり,実験中に観測された現象 が必ずしも実部材で想定されうる破壊を模擬しているとは限らないことも,水素脆化に対する 理解を複雑化させている要因である.
現在,水素脆性破壊への懸念と,その現象自体への理解の乏しさから,燃料電池自動車の水素 タンクや水素インフラ用の配管,バルブ,蓄圧器に使用できる材料は非常に限られたものとなっ ている.例えば,日本自動車研究所(Japan Automobile Research Institute; JARI)の規格では,燃 料電池自動車用の材料として,実験に基づいて高い耐水素性が実証されているアルミニウム合
金6061-T6とオーステナイト系ステンレス鋼SUS316Lの2種しか使用が認められていない[191,192].
これらの材料は強度が低いことに加えて高価格であり,故にFCVまたは水素インフラの高コス ト化を招いている.水素社会実現のための経済性追求に向け,優れた耐水素脆化特性と高強度を 両立させた構造用材料の探索と開発は喫緊の課題の一つである.また一方でこれまでに構築さ れてきた材料規制は,基本的に対象とする材料が水素環境中で機械的性質の劣化を生じるか否 かという実験事実に立脚したものであり,そのような評価手法ではある特定の耐水素材料を見 出すことができても,その知見を拡大させて新たな適合材料を探索・開発することはできない.
実験事実に基づいた経験的判断に留まらず,各種材料における水素脆化現象のメカニズムを正 しく把握し,従来から提唱されてきたような原子レベルでの水素-材料相互作用が,破壊のどの プロセスに対し作用してマクロな脆化を引き起こすのかを理解することで,学術的観点から新 たな材料開発の発展に繋げることができると期待される.
水素ガスに限らず,一般的な高圧ガスを包含する部材の強度設計に際しては,材料をスクリー ニングするための降伏応力および引張強さ,あるいは破壊前漏洩(Leak before break; LBB)を満 足させるための破壊靭性値など,様々な強度特性パラメータが要求される.また,これらの静的 な特性に加えて重要となるのは,先にも述べたように材料中の疲労き裂の進展特性である.実際 に 高 圧 ガ ス 容 器 の 設 計 を 規 定 し て い る ア メ リ カ 機 械 学 会 (American Society of Mechanical
Engineers; ASME)規格のASME Sec. VIII Dev. 2や,日本国内における圧力容器設計を基準化し
ている高圧ガス保安協会規格KHK S 0220などにおいては,実験で取得した疲労き裂進展特性を ベースとして,容器内面に位置する欠陥から発生したモードIき裂が肉厚を貫通するまでの寿命 を破壊力学を基に計算することが設計プロセスとして組み込まれている[193,194].前節において,
水素は広範な金属材料中で疲労き裂進展特性の劣化を招き,特に高強度な材料ではその傾向が 顕在化することを述べた.これらの事実を考慮すると,様々な金属材料中の疲労き裂進展特性に 及ぼす水素の影響を微視的メカニズムの観点から理解することは,耐水素性に優れた高強度材 料の探索および創生に向けた最優先課題の一つであると考えられる.
以上の背景を踏まえ,本研究では高強度かつ水素環境下での疲労き裂進展特性に優れた次世 代の高圧水素機器向け構造用材料の選定・開発指針を確立することを目的とした.そのため,
BCCおよびFCC結晶を有する種々の金属材料のマクロな疲労き裂進展特性を水素ガス環境中あ るいは水素チャージ下で実際に取得し,光学顕微鏡や複数の電子顕微鏡観察手法を駆使してき 裂先端での変形組織をマルチスケールに解析することによって,各種材料の水素環境下での疲 労き裂進展加速を引き起こす決定メカニズムについて検討を行った.本論文の概要は以下の通 りである.
第 1 章 金属材料の水素脆化現象に関するミクロな機構や,水素環境中でのマクロな材料特性 の変化に関する従来の研究を概観し,本研究の目的を述べた.
第 2 章 水素による疲労き裂進展の加速が顕著に現れ,かつ最も多くの先行研究が行われてい るBCC鋼のモデル材として純鉄を選定し,0.2 ~ 90 MPaの水素ガス環境中における疲労き裂進 展特性とそのミクロなメカニズムを調査した.従来,この種の材料の疲労き裂進展の加速に関し ては,き裂先端における局所的な塑性変形の助長(HELP機構)が主要なメカニズムとして取り
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上げられてきた.一方で本研究ではこの従来説に反し,水素が引き起こすき裂先端における塑性 変形の抑制とそれに伴うミクロな脆性破壊が,BCC 材料における疲労き裂進展加速の主要因の 1つであることを明らかにした.また,同じ純鉄中であっても,水素によるき裂先端での塑性変 形の助長と抑制が,応力拡大係数の値や水素ガス圧力に依存して変遷し得ることを示し,これら とマクロな疲労き裂進展速度との対応関係についても明らかにした.
第 3 章 BCC構造を有する純鉄に対し,FCC材料の代表として相安定性の異なる2種の準安定 オーステナイト系ステンレス鋼SUS304とSUS316Lを実験材料として選定した.これらの材料 に高温・高圧水素ガス曝露により水素チャージを施すことに加え,0.7 ~ 90 MPaの水素ガス中で 疲労き裂進展試験を行い,疲労き裂進展特性に及ぼす内部水素と外部水素の影響を調査した.先 述のように,準安定オーステナイト系ステンレス鋼中ではき裂先端における α’マルテンサイト 変態がき裂進展の加速に対して有害であることや,水素環境下では α’変態域の局所化が生じる ことが知られている.これらの事実はそれぞれ,水素拡散係数の大きいα’(BCC)相がき裂先端 への水素の凝集を促進すること,および局所変形助長機構に基づいてき裂先端の塑性変形域が 縮小することの結果として解釈されてきた.これに対し本研究では,各試験環境下における疲労 き裂先端のα’相の分布の詳細な分析により,以下の2点を明らかにした.1点目は,α’相に関連 したき裂進展加速は α’相そのものの早期的な破壊に由来したものであり,結晶構造変化による 局所的な水素拡散速度の変化が要因ではないこと.2点目は,α’相の局所化は早期的き裂伝播に よってき裂先端に付与される累積塑性ひずみが減少したことに起因しており,塑性変形の局所 化が要因ではないことである.第2章の純鉄に関する結果と総合し,比較的低強度な鉄鋼材料の 疲労き裂進展の加速にはBCC結晶が持つイントリンシックな耐水素性の乏しさが決定因子とな ることを明らかにし,水素環境下における優れた疲労き裂進展特性の実現には安定なFCC母相 の存在が必要条件となることを結論した.また上記に加え,予め多量の水素をチャージした内部 水素試験片では,外部水素環境の場合よりもき裂進展加速率が顕著に低下することを示した.こ の結果をき裂先端での変形特性に対する水素の影響の観点から考察し,水素が変形のプラナリ ティを上昇させ,見かけ上のオーステナイト相安定性を向上させることに由来することを明ら かにした.
第 4 章 準安定オーステナイト系ステンレス鋼に対し,同程度の水素固溶度かつ安定なFCC結 晶を有する材料の代表としてNi基超合金Alloy 718を選定し,その疲労き裂進展特性に及ぼす 内部水素と外部水素の影響を調査した.また,低強度なFCC母相の高強度化を図るための手法 として析出強化処理に着目し,析出物・転位・水素間の相互作用にフォーカスして研究を進めた.
従来研究により,Alloy 718 は水素環境下において時間依存型の疲労き裂進展を生じることが確 認されている.本研究においても内部水素・外部水素ともに同様の傾向が確認されたが,一方で その微視的な破壊機構は両者で全く異なり,外部水素試験では結晶粒界に沿う破壊が,内部水素 試験ではすべり面に沿う破壊が認められた.本研究ではこれらを,前者については結晶粒界に沿 う優先的な水素拡散と粒界の格子脆化,後者については析出物の存在と固溶水素が重畳したこ とによる変形のプラナリティの極度な増大によるものとして解釈した.以上の結果より,FCC相 安定性に優れる材料に関しても,母相の水素固溶度が大きく転位運動のプラナリティが極端に 高い場合においては,析出強化処理による高強度化に伴ってFCC→BCC変態を生じる材料とは 別の要因が発現し,これらが耐水素性の著しい損失に繋がることを明らかにした.
第 5 章 2 ~ 4章で得られた知見を応用させ,高強度と耐水素性を両立させた次世代の水素機器 部材用の候補材料として析出強化型ベリリウム銅合金に着目した.銅合金中の水素固溶度は鉄 基やNi基の合金と比べると極めて小さく,かつ安定なFCC結晶を有することから,優れた耐水 素性が得られることが期待される.また,Alloy 718と同様,本合金は母相となる銅の低い強度 を析出強化処理で補うことにより,引張強さ1200 MPa以上という極めて高い強度を実現した材 料である.115 MPaの高圧水素ガス中で疲労き裂進展試験を行い,0.01 ~ 1 Hzの幅広い周波数範 囲において,ベリリウム銅合金では水素による疲労き裂進展の加速が全く見られないことを明 らかにした.また同時に,高圧ガス部材の設計で重要となる引張特性,疲労寿命特性,破壊靭性 を同様に高圧水素ガス中で評価し,同材料の高い耐水素脆化特性を明らかにした.この結果に基