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EBSD によるき裂周辺の変形挙動および相変態挙動の分析

ドキュメント内 九州大学学術情報リポジトリ (ページ 123-133)

第 3 章 準安定オーステナイト系ステンレス鋼の疲労き裂進展特性に及ぼす

3.3 実験結果および考察

3.3.5 EBSD によるき裂周辺の変形挙動および相変態挙動の分析

◆低倍率観察

3.3.3節における破面観察の結果から,SUS304とSUS316Lのいずれにおいても,水素環境下

ではラス状の変形誘起マルテンサイト組織に起因した破壊がき裂進展の加速に対して重要な役 割を果たすことが示唆されている.本節では,これらのマルテンサイト起因のき裂伝播とそれに 付随するマクロな疲労き裂進展加速現象に対してより詳細な検討を加えるため,第 2 章の純鉄 の場合と同様,CT試験片を板厚中央部に沿って切断し,板厚中央部のき裂進展経路周辺をEBSD により分析した.Fig. 3-10に,各試験環境下におけるSUS304の疲労き裂周辺の結晶方位マップ ならびに相分布マップを示す.なお,これらのEBSD観察におけるビームステップサイズは0.25 μmとした.水素チャージを施していない場合の大気中のき裂周辺(Fig. 3-10 (e))では,き裂面

から10 ~ 20 μmオーダーの広い範囲に変形誘起α’相が分布していることが見て取れる.その一

方で,0.7 MPaおよび90 MPa水素ガス中で進展させたき裂の周辺(Fig. 3-10 (f)(g))では,き裂 面から数μm程度の範囲でしかα’相の存在は認められなかった.ここで,水素ガス中や水素チャ ージ材においてはき裂からやや離れた位置にも α’相が分布していることが確認できるが,これ

らの α’相は Fig. 3-1 (b)にも示したように,材料内に初期から存在していたものであると推察さ

れる.水素ガス中におけるき裂の伝播経路は主に α’相の内部であったが,部分的に α’相と母相 γの界面を伝播する挙動も見受けられ,き裂の伝播経路に一貫性は見られなかった.水素チャー

ジ材ではFig. 3-10 (d)中に指し示すように,部分的に焼鈍双晶界面に沿うき裂伝播が認められた.

このような双晶界面での破壊は,破面上に見られたファセット状の特徴(Fig. 3-6 (c))を反映し ているものと考えられる.また,SEM による破面観察の際にはあまり確認されなかったが,類 似の双晶に沿うき裂伝播は水素ガス中の場合にも同様に生じていることがFig. 3-10 (b)から明ら かとなった.

上述のように水素環境下でき裂周辺のマルテンサイト変態域が縮小することは,SUS316の破 面直下に対して X 線回折による分析を行った Tsay らの研究でも報告されている[27].また,

Murakamiらは本研究と同じようにき裂断面のEBSD分析から水素ガス中でマルテンサイト変態

域が縮小することを示し,これを水素によるき裂先端への塑性変形局所化(HELP)の証拠とし

てKanezakiらが提案したき裂進展加速機構を支持している[10].しかしながら,このような試験

環境間でのき裂先端における α’変態域の大小を議論する際には,き裂進展速度の差によって,

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き裂先端を取り囲む材料に対して負荷される塑性ひずみの繰返し数(累積塑性ひずみ)が変化し ていることにも注意を払う必要があろう.すなわち,き裂進展速度が10‒6 m/cycleオーダーの90 MPa水素ガス中ではき裂が数μmの距離を1回の負荷サイクルで通過してしまうのに対し,10‒7

m/cycleオーダーのき裂進展速度を持つ大気中においては,同じ距離をき裂が進展する間に数10

サイクルの塑性ひずみが繰り返されていることになる.GrossらはNi基超合金Haynes 230の疲 労き裂先端周辺から FIB により薄膜サンプルを採取し,き裂先端からの距離とミクロな転位組 織との対応をTEM観察により調べている[32].彼らによれば,き裂先端からやや離れた塑性域の 内部では初めにプラナーな転位配列が形成され,その後き裂先端が接近するにつれて転位密度 が上昇し,最終的にき裂の極近傍では繰返しの強変形によりナノスケールに微細化されたサブ グレイン状の組織が見られるようになる.この観察事実は,き裂先端での変形組織の発達が1サ イクルの負荷過程ではなく,初めに形成された巨視的な塑性域の内部をき裂が伝播していく際 の繰返し変形過程に強く依存することを強調している.つまり,Fig. 3-10 (e)で示した大気中のき 裂周りでは一定量の繰返し塑性ひずみによってき裂面から広い領域にかけて変形誘起 α’相が拡 大するのに対し,水素ガス中のようにき裂進展速度が速い場合には十分な塑性変形の発達を伴 う前にき裂が早期的に伝播したことが,α’変態域が縮小したもう一つの要因として挙げられる.

ChenらはSUS301やSUS304Lにおいて,水素ガス中でき裂先端に生じるα’変態域が縮小するこ

とをEBSD 観察により確かめ,本研究での指摘と同様に α’相に沿う早期的なき裂伝播が原因で あると述べている[12].ここで改めて0.7 MPa水素ガス中(Fig. 3-10 (f))と90 MPa水素ガス中で のき裂(Fig. 3-10 (g))を比較すると,90 MPa水素ガス中において0.7 MPa水素ガス中よりもや

や α’相の局所化が顕著であることが見て取れる.このような結果は,上記 2 つのいずれの議論

に基づいても説明することができる.すなわち,90 MPa水素ガス中の方が塑性変形の局所化の 程度が大きく,その分き裂進展加速が顕著になったと解釈することもできれば,90 MPa水素ガ ス中の方がき裂進展速度が速いがために,結果として α’相の形成範囲が縮小したと見ることも できよう.しかしながら,ここで考慮に入れるべきなのはFig. 3-10 (h)に示している水素チャー ジ材の結果である.Fig. 3-10 (f)~(h)を相互に比較すれば分かるように,水素チャージ材における α’変態域はマクロなき裂進展加速が比較的緩やかであるという事実に反して,水素ガス中と同等 かそれ以上にき裂近傍へと局所化した.Fig. 3-10 (h)の結果が意味するのは,水素チャージ試験片 中では何らかの別の因子が要因となり,α’相の局所化がもたらされているということである.

Fig. 3-11 に,SUS316L に対して同様の観察を行った結果を示す.SUS316L では Ni 当量が

SUS304と比べて大きく,オーステナイト相が安定であることから,α’変態域は水素環境でない

場合(Fig. 3-11 (e))においてもき裂の周辺のみに限定されている.また,水素環境下では内部水 素,外部水素いずれの場合においても,僅かではあるが α’相は大気中と比べてき裂の近傍へと 局所化し,程度の差こそあれ,全体的な傾向はSUS304の場合と同様であった.

MurakamiらはKanezakiらと同様に人工微小穴を導入した SUS304とSUS316Lの丸棒試験片

に20 ~ 100 mass ppm程度の水素をチャージし,含有水素量が多い場合には未チャージ材よりも

疲労き裂進展速度が低下する傾向を示すとともに,本研究と同じようにき裂周辺の α’変態域が 縮小することを報告している[10].彼らはこの特異な実験結果を以下のように解釈した.すなわ ち,基本的に水素はHELP機構に則って転位運動を助長する働きを持つが,材料中に多量に導入 された場合には他の溶質原子と同様に転位を固着し,材料を硬化させる作用があるものと考え られる.き裂先端極近傍の破壊プロセスゾーン内では高い局所応力によって転位が固着を外さ れ HELP による局所的な軟化が生じるが,その外側の領域では水素による固溶強化が働いて塑 性変形を抑制し,塑性域の拡大が阻害される.このようにしてもたらされた塑性域の拡大抑制効 果(材料そのものの硬化)により,多量の水素をチャージした試験片中では疲労き裂進展速度が 遅くなり,また α’変態は局所的な軟化が生じている破壊プロセスゾーン内に限定される.彼ら は多量水素による硬化の証拠を得るために水素チャージ後のビッカース硬さを測定し,水素量

が100 mass ppm程度の際には約10%の硬さの上昇が見られることを示している.またこれ以外

にも,特にFCC系の合金においては,水素固溶による引張試験中の降伏点や流動応力の上昇は 多くの材料に共通する一般的傾向として認識されている[33–35].Fig. 3-10 (h)で示した本研究での 水素チャージ材におけるα’変態域縮小の原因の一つとして考えられるのは,Murakamiらが指摘 したような転位の固着による塑性変形そのものの抑制であろう.しかしながら,そのような材料

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の硬化とマクロな疲労き裂進展速度との対応を考える際に不可解なのは,SUS316L の水素チャ ージ材における結果である.Murakamiらが行った硬さ測定ではSUS316LにおいてもSUS304と 同レベルでの硬化が確認されているが,本研究では 90 mass ppm 程度の水素をチャージした

SUS316L において,未チャージ材との疲労き裂進展速度の差は誤差のレベルでしか検出されな

かった.仮にMurakamiらが主張したような水素による硬化とそれに伴うα’変態域の縮小が水素 チャージ材での疲労き裂進展速度低下の要因であるならば,本研究でのSUS316L水素チャージ 試験片中のき裂進展速度は,未チャージ試験片中の速度よりも遅くならなければならない.以上 のような結果の不整合を考える際には,対象としている疲労き裂が Murakami らや Kanezaki ら の研究のように数100 μm程度の短いき裂であるのか,あるいは数mm~数10 mmの長いき裂な のかが主な論点となる.微小き裂の進展特性や進展下限界値が材料硬さの影響を顕著に受ける

[36]一方,一般的認識として,パリス則が成立するような長いき裂の中間ΔK域の進展速度を支配 するのは材料の弾性率であり,硬さ(降伏応力)でなはい[37].つまり,たとえ微小き裂の進展速 度低下が水素による硬化現象を基に説明できたとしても,同一の議論を長いき裂の進展速度が 変化することの説明には適用できない.また,彼らの実験はR = ‒1の下で行われたものであり,

本研究における実験と応力比が異なることにも注意すべきである.

以上のような一連の議論から,本研究では SUS304 において水素環境下の α’変態域がき裂近 傍に局所化する現象や,内部水素試験における疲労き裂進展速度が外部水素試験よりも低い値 を示す現象の理由を以下のように考える.まず前提として,オーステナイト系ステンレス鋼にお ける水素環境下での疲労き裂進展加速を引き起こす決定因子はき裂先端でのα’相の存在であり,

この α’相に関連した脆化は局所的な水素拡散速度の増加によるものではなく,α’相のイントリ

ンシックな耐水素性の乏しさによるものであることを強調しておく.Narita と Birnbaum は 104 Paの水素ガスを導入できる環境セルを備えた超高圧電子顕微鏡(HVEM)中でSUS304の水素脆 性き裂の伝播挙動を観察し,き裂の前縁で形成された α’相中をき裂が伝播していくという事実

から,α’相の存在が脆化に対する必要条件であることを結論している[38].少なくともこのような

仮定に基づかなければ,従来研究や本研究で見られたようなオーステナイト安定度が低いステ ンレス鋼ほどき裂進展加速が顕著になる傾向[9,15,27]や,本研究における水素チャージ材の結果を 合理的に説明することはできない.先述のように,予め多量の水素を含むオーステナイト相がα’

相へと変態した場合には,α’相中に熱力学的平衡濃度を遥かに超える水素濃度が一時的に達成さ れる[16].すなわち90 ppm程度の水素をチャージした試験片において,き裂先端の水素濃度は破 壊過程を通して常に飽和状態にあると考えられ,故に脆化に際して外部水素環境あるいは水素 量が少ない水素チャージ材におけるようなき裂先端への水素の侵入と拡散のプロセスをほとん ど必要としない.したがって,仮に α’相を通した水素の高速拡散が脆化の決定因子であるなら ば,内部水素試験において外部水素試験よりも低いき裂進展速度が観測されるという実験事実 は極めて不可解である.また,Kanezaki らは低温で予ひずみを与え初期 α’相を導入した試験片 でき裂進展加速が顕在化することを理由にα’相に沿う水素高速拡散説を裏付けている[9]が,この 考え方は水素の拡散を補助するはずの α’相が HELP 機構によりき裂近傍に局所化するという彼 らの考え方と矛盾しているようにも思われる.むしろ,水素環境下では潜在的に耐水素性に乏し い α’相が,生成された直後に早期的に破壊し,き裂が高速伝播した結果 α’変態域が縮小したと 考える方が,本研究および従来研究で報告されている実験事実を矛盾なく解釈できる.少なくと も,本研究ではFig. 3-10 (e)~(h)に示したように,α’相の局所化とき裂進展加速量の間に一定の関 係は見出せなかった.これらのことを踏まえた上で,本研究での内部水素試験における特異な現 象を説明できる唯一の仮説は,多量の水素を固溶させたことによって脆化の根源である α’相が 形成されにくくなった,言い換えればオーステナイトの相安定性が向上したというものである.

固溶水素によるα’変態の抑制効果を説明する1つの考え方はMurakamiらが主張したように固溶 強化に伴う塑性変形そのものの抑制[10]であるが,以下の節ではこれとは異なる考え方に基づき,

オーステナイトの相安定性向上について詳述する.すなわち,材料の硬化によるき裂進展速度の 低下が期待できない長いき裂において内部水素によるき裂進展加速が外部水素の場合よりもマ イルドであったのは,α’相の早期的破壊というネガティブな効果と,その脆化の根源自体の生成 が抑制されるというポジティブな効果が相殺したことによって生じたというのが本研究での主 張である.

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