第六章 調整されなくなる夫妻の役割分担
3.1 夫妻の異なる経験・資源・スキルと潜在的権力
本研究の分析は、権力作用の異なる次元に着目して導き出される「顕在的権力・潜在的権 力・不可視的権力」の枠組を採用してきた。この三つの次元の権力はそれぞれのカップルの 異なるライフ・ステージにおいてみられるが、「夫妻分担」状態のカップルよりも「妻中心」
「妻集中」のカップルのほうが潜在的権力、不可視的権力が多く捉えられ、結婚・同居の初期 よりも、調査時点に近づくにつれて、時間の推移に伴って潜在的権力、不可視的権力が多く 捉えられる傾向がある。第 4 章の議論では、子どもが生まれる前までは夫妻間で明らかな交 渉が多くなされており、例えその交渉が役割分担の変化に至らず失敗したとしても、そこに 顕在的権力の作用が把握される。このような明らかな交渉は「夫妻分担」の役割分担状態を 維持するために重要であり、パターンⅠのカップル(ex. H カップル、保育施設の場所の選定) ではよく見られる。第 5 章と第 6 章では、子どもが生まれる後では夫妻間の明らかな交渉が あまり見られなくなり、潜在的権力や不可視的権力の作用が主に捉えられることが分かった。
ここではまず潜在的権力について議論する。
潜在的権力は、夫妻間で明らかな交渉が行われていないものの、役割分担の調整をする場 合に存在しうる。無論、調整した結果、もとの役割分担が変化しないこともある。パートナー と明らかな交渉をしないで役割分担をどのように調整するかについて、次の行動スタイルが これまでの分析で示される。
まず一つ目は過去の経験に基づく判断で、自分が家庭役割を引き受けるという行動スタイ ルである。第 4 章で整理したように、J 妻や A 妻、Z 妻はかつて、夫の分担を促すために交渉
し、それが失敗した経験を踏まえ、その後は二度と交渉しなくなるという行動スタイルであ る。第 2 章の図 2 からも分かるように、こちらのカップルでは、役割分担自体が変わらない まま、妻一人で家事育児を遂行している。第 5 章においても、夜間の対応において、最初は 夫が起きていたにもかかわらず、結局おっぱいがないから諦めた(J カップル)ことや、夫を起 こそうとしたがなかなか起きてくれない(F カップル)といった経験で、最初は役割分担を買 えることを試みていた妻が現状を受け入れていく様子が分かる。このような経験において、
妻は役割分担をより自分の思う形へと動かそうとするが、夫の行動を変えるほどには、様々 な規定要因を組織する力がなかった。
二つ目は、夫妻双方を取り巻く現状やそれぞれが持つ資源などの判断に基づいて行動する スタイルである。例えば送迎に関して、保育施設の選定という時点で夫妻の交渉があったと しても、子どもを施設に預け、送迎が始まる時点ではほとんど明らかな交渉がなくなる。そ れは夫も妻も互いの勤務時間を把握しているからだと考えられる。自分がパートナーより勤 務時間が短い、もしくは仕事の融通が利く場合、送迎をパートナーにやらせようとしても相 手は納得してくれない。このような考えのもとで、夫妻は交渉しないまま、送迎を決めてい くことが多い。また片方の勤務状況にそれまでと異なる変化が生じる場合、例えば夫の仕事 が忙しくなると、妻が送迎を担うように切り替わっていくことも、こうした潜在的権力が作 用している。また、互いの収入を考慮して家計を支えるために誰の都合を優先にするかなど の要因も考慮されている。さらに夫妻互いの疲れる状況、例えば妻がずっと家にいても育児 で疲れるという点では、仕事をする自分とあまり変わらない(G カップル)と意識した時、夫は かつて用いた「仕事で疲れる」という要因で家事育児を妻に押し付ける方法がすでに通用し なくなると分かった。それで自ら役割分担を進んで担うようになる。
三つ目は、世間一般の通念や規範に基づいて判断し、行動するスタイルである。このスタ イルは潜在的権力だけではなく、不可視的権力の影響も受けている。ただし、不可視的権力 は夫妻の合意があるときに捉えられるのに対して、潜在的権力において、夫妻間にズレが存 在する。子どもの急病対応に関する D カップルの話が典型的である。そこには潜在的権力と 不可視的権力の両方が含まれている。D カップルは子どもの病気に、主に妻が休みを取る形で 対応している。これに対して D 夫は自分も休みを取れると述べながらも、「妻が取ってくれる と私が取らずに済むので、妻に甘えている」と説明した。一方妻は「休みの取りにくさや取り やすさは夫と同じぐらい」だと実際の状況を語りながら、「世間的に妻は夫より取りやすいだ ろうと思われ、夫もそう思っている」と述べた。ここで夫妻の説明にズレが見られる。夫は
「妻に甘えている」のに対して、妻は「世間一般」の考えとして夫の行動を捉えている。ま た、妻は休むことによる職場に対する申し訳なさも述べているが、できれば休みたくない気 持ちがありながらも結局自分が休むことになるという点で、潜在的権力が捉えられる。不可 視的権力については、後述するが、潜在的権力が作用したところに生まれる不満を吸収し、
結果を受容可能なものへと変えていく力である。D カップルの場合、子どもの急病対応を妻に 任せるもう一つの理由として、D 夫は「(病気の)子どももきっとお母さんのほうが安心するだ ろう」と主張している。これに関して妻も「自分の子どもになんかあるときは自分で行く」と 思っている。つまり夫妻とも「妻が子どもの対応をする」という特定の役割分担の組織方法
を認め、妻はこの点に関して不満なども思っていなかった。
こうして夫妻は役割分担を調整する時に、明らかな交渉をしないまま、それまでの交渉・
調整の経験、夫妻それぞれが持つ資源や家族の現状、そして世間一般の共通観念など、三つ の行動スタイルのいずれか、もしくはその組み合わせによって、結果的に妻が家庭役割を引 き受ける結果にたどりつくことが多い。今この場で議論して役割分担の調整をするような、
「現在」に作用する顕在的権力と比べ、潜在的権力はすでにあった経験や知っていた世間の 共通観念といった「過去」によって規定されている。
しかしその一方、子どもの誕生・成長に合わせて新たな役割が生まれ、夫も妻も新たな経 験やスキルを積み重ねていくうちに状況が変わる。潜在的権力の作用によって夫妻間で話し 合うこともなくなる中で、互いに今どのような状況であるかが分からなくなる。そうすると 夫妻間の経験が共有できなくなるだけではなく、相手のことを知っている「つもり」で行動 してしまう可能性がある。D カップルの事例で、妻は休むことで職場に申し訳なさを感じたり 自分の中で葛藤を抱えたりしているものの、夫は自分がただ「妻に甘えている」と説明し、病 気の子どもにとっても母の方がいいだろうと安易に捉えている。また A カップルの場合、夫 は仕事を調整して早く帰宅することが可能であるにもかかわらず、妻は夫の仕事が忙しいか ら自分が家事育児をして夫を支えないといけないと思ってしまう。パートナーと交渉しない で自分に有利な役割分担を維持していく戦略と、リアルタイムで変化するかもしれない実際 の状況を知らないまま、それまでの経験で交渉を持ち掛けることさえ諦めて自分に不利な役 割分担でも我慢し続ける状況は、潜在的権力というコインの両面であろう。
さらに、潜在的権力は過去の経験にかなり依拠して作用する点から、子どもの誕生によっ て夫と妻が異なる経験・資源・スキルを得ながらも夫妻間でそれを交替することが容易にで きないことも説明される。例えば S カップルや R カップルのように、夫が先にキャリアを形 成してから妻のキャリア形成を支えていこうと思っても、それが思うようにならない。夫が キャリアを形成し、より多くの稼得能力を身につけた時点で稼得役割から降りると家庭にと ってリスクも大きくなる。一方、家事育児のスキルも時間と共に積重ねられるものである。
日々子どもと一緒に過ごしてきた中で子どものシグナルが分かるようになり、子どもとの関 係が深まっていく。そのため、夫と妻が家庭役割の発注者と受注者に分かれた後になって夫 妻の役割分担を交替し、後から役割スキルを補おうとしてもそれができない。調味料の場所 が分からなくなる E 夫やサポート役に回される R 夫の語りが、この状況を説明している。ま た、U 妻が自営業で稼げるようになって外部サービスを利用して自分の役割負担を軽減でき たものの、夫の分担を効果的に促すことができないのも、こうした経験やスキルの交替が容 易にできないからである。
以上のように、子どもの誕生を契機に新たな経験・資源・スキルを得ていくだけではなく、
時間の推移に伴い、こうした経験・資源・スキルの夫妻間の差が広まっていくことが描かれ た。夫と妻が互いの経験・資源・スキルを交替したり共有したりしようとしても容易にでき ないことは、本研究で得られた新たな知見である。ただし、容易にできないとはいえ、潜在的 権力が作用する時の特徴として、不満は残されることが挙げられる。こうした不満が消えな い限り、役割分担が再び調整される可能性も十分考えられる。これに関して次は、子どもが