s三三,
刀t v
傍
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牲 も
務 の識 で
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お あ い るよ る と
先づ問答をもうけ
一問
答で
は︑
衆生に締性ありや
し、
その
公口
には
つ不
也﹂
とし
︑
の機
の
文を引き︑法性無鱒であり︑金く無明に依るから悌性なしといい︑
関
長女
装コ
では黙らば衆立に俳牲なきゃと閥い︑その答にもといい︑次いで﹁菌線生法︑本自性なし白樺部
ち帥
抑性
なり
﹂と
も平
怖叩
聞の
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︑悌
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7 3
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︑三
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︶
叉衣に悌性
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故に
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て本願一一来は修に約して性を務じた波うもので
いて
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悌牲
は︑
若し
傍の
智見
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盤持
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か
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誌の無自性梯性設は︑梯牲に理換性︑行梯校︑策悌性を立て︑その酬明悌牲と稽せられるものは︑諸法の関線性無自
牲の
船搬
をい
うの
であ
り︑
無自
性空
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4'
蹴 抑 校 総
自性必めれば︑伸顧力を訟でしでも往生せしめ成梯拾しめるこ
であ
る︒
々凡夫が救携さのは︑凡夫が
本来 無自 性僕 如を 韓︑ とす る であ ると の
でふ
る︒
しかし︑誌の場合は理傍笠という
τ
も︑倦叡の如く︑事理とるべきものはなく︑欝頼関問の根祇的なもの︑椴滅的な窓味となるもの
此σ〉
って 救済 成立 の納 税殺 とし
ての梯性設が完全にその意義を霊揮したものというべきであろう︒
(王寺
傍 性
議瀦悌性請は借鎗に始まって︑鮮妙によって
の根 棋を なす 慾州 国で ある とい うと
ょう
であ
る︒
のご滞録﹂の
策海轄の下で﹁お有榔牲も授駒栄惑の上内向自己本有の勝戦のこと︑今引
のこ
︽ふ
ろ
へしたがへてとり給ふゆえに繍陀正受の
て一切衆生不等にたすかるべきな懇有線性
と示 し︑ 叩略 的仰 を鶏 陀所 謹に かぎ る所 に
ある ので ある
︒
議議犠牲読は第八像患の法界身糠から来るもので﹁諮傍如来は是れ法界身なり︑の心想の中に入
る
支た
の﹁描卵性すなはお如来なり︒この如来敏感世異にみち/\て乏し
は︑
ち
一切群生部の心にみちたまへるなりいの文によるもので︑若震のの性強力説な根抵としておるとも
ので
ある
︒
警議の忍岳部品調要﹂の輿抑分間にはて性を談ずるときは︑或は法議関川修の査性に約し︑成は瀬陀修徳
の妙理に約す︒衆生の上には軒︑心機牲の外更に本兵役談ずるの
︿中 略︶ 震途 より 立な 按ず れば
︑其 一や 等の 牲寝
都お蒲陀の研領︑無数簿の白丹謹なり︒故に﹁額名紗いには需弾陀如来は長護費戒の壁謹銀鈴本有の極理等?とG
にも 云
β等と示し︑録部在調陀に一切衆生に機性ありというは︑此の矯詫所謹の同県知
の過滞であると説くものである︒
比の説は鮮妙︑懇単一等︑近代の本有機性否認識者によ
て出 血く 煎い られ てお る誰 であ る
此の眠学識の持色は︑治問心獲得の可能性︑救縛成立の可能そ衆生本来のもの
ない で︑ 州知 来所 識の 国民 如の 溺満 とし
て︑衆生救済のをふ藤な如来にあるという艶にあるのであるυ
四 問 題 の
解 決
以上は緩める締散論の代表的なもの
ので あ
︑現代に於いては︑無自悌性設
を取るか︑議潟悌牲設な沼いかれておるということが出来るのであるGしかも︑救構成立の粧教に於いても国
来樺は動しではならないという立場に立てば︑震然無r白
性胤
卵性
設に
鎖信
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の間
初で
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︑ 名裁 の溺 問問 であ ると い
つ時は遍議梯性裁に
くも の ろう
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道援 が無 自性 描卵 性合 議き なが ら
よるものであり︑韓の紫墾所照の立場であって︑
(1)
らいうこ
との出来ないものだ
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72
北れは無自殺空というとは謹製の世
界︑成機せ反省替の上へきものであって︑首位の
特
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一一
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こと
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来な
いも
のと
おるもので︑此れを説くのは同県知縁起の無より右宕生ぜないという因果律に立つ弘のであることは︑その
交によ︿っても知ることが出来るのである︒しかし︑無自性空が生併の絞祇として存するという思閣は︑地力救械をさ
またげるほどのことはないにしてもは本来無白性懇であって︑如来の蹴方が来れ頃舗の締来れば
墾議すゐというものでは︑地獄は一定と
γ
つ思
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の因 たる
−⁝ 一心 共に 機無 であ ると い
は︑
仰向
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に 同州 なり 役感 ずる もの
そこ に異 如の 問問 題
問題︑救務め主鐘牲の問題等が生ずるようで︑此れ等の間同様
葬 毒
S三二タ
珂ミミ
融W
糾 世 論 問
真
で耳ミs,
悌 性 論
四
を十分考察した上でなければ此の問題の解決が出来ないのである︒しかし︑今は紙数の闘係でその結論だけを茨に示
して
見ょ
う︒
付 員 如 と 阿 調 陀 悌
遍満悌性説を主張する人々は︑真如を同調陀僻に限定する思想を有することである︒此れは︑宗祖の自然法繭章の
凡夫の思虐を離れた無上悌を自然といい﹁かたちもましまさぬゃうをしらしめんとて︑はじめて蝿陪悌とまふすと
品 名 誉 に
﹁ し か れ は 同 調
ぞき与ならひてさふらふ︒調陀悌は自然のようをしらせんれうなり﹂と一不されてあり︑
陀如来は久遠貫成の畳瞳︑無始本有の極理なり︑迷悟染串一切菌法ことん\く阿蒲陀のつ一字に掻在せずということ
なし﹂と示してある︒此のことは十分な論謹の後に結論を出すべきではあるが︑宗租は宇宙の員賞の根源を阿輔陀悌
という悲智のある人格的な悌とされたものであり︑同県如の理とは︑阿禰陀悌の理的面をいうにすぎないとの思想であ
ると見るのである︒此れは宗教としてはむしろ正しいものではないだろうか︒また﹃起信論﹄に員如縁起を説くのも
悌遭修行によって成悌する可能性を示すために本来真如より生じたという論理を用いたものであって︑宇宙構成の論
理を一不すものではないだろう︒そこに無明の忽然念起という語も用いられ︑峰印綿起の生ずる因練も説かれてないので
あろ
う︒
ただそこで示さんとするのは悌道修行によって成悌の可能性を説けばよいからである︒従って︑成悌の可能
さえ明瞭になれば︑真如縁起は必ずしも不動のものとせなくてもよくなるのである︒
阿禰陀悌と翼如とは事理の左右であって杢く同一であるとすれば︑その真如が宇宙に遍満して一切衆生の心中にも
行きわたるのは︑全く如来よりの遁満であって凡夫︵無明︶の迷界よりのものではないわけである︒
に) 悶 と 自 自 性
十本
有鵠
牲を
喬定
する
思砲
は
に盟問木容宏被祇としておるが︑因果には議誠治国果の決定的なものと︑目的々一関果
︿精
神的
思果
︶と
して
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ある
こと
は︑
異熟
西国
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所で
ある
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︑
果是無
記︒誉回出繁栄︑悪因苦果と︑流轄蓮減の器果には︑国が果を感ずるのは必黙であるが︑その果が次の果の毘になる持
こま一懇自由な行矯をなすことが出来るというのである︒そのの自由︑議掠の自由の中︑心をなすものは欲翻心
ゼあ
る︒
脳側
︑む
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布施
︑
器揺に緩めて明暗に
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ことの出来なかった私が救われるようになったという別途悶製の或立込考えら
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五 救 済 の 主 謹 性
要するに︑無自性僻性読と週満帥卵性設は︑教務の主韓牲の問題として設設うべきもののようであるよ部ち︑無自性
傍性誰は︑患采的な立場から︑衆生の数機約されるのは衆生に救済さるべき可能性︑鰭化性が有ったから救済が成立す
Q
て︑
救わ
の
つ議瀦換性識の人々は︑その
機願力
その
ので
ある
︒裁
って
︑
つも
の
と︑
信的
仰の
つも
のと
の
であり︑論躍的には揺環論法となって踊結な生ぜないものである︒
加来の救誠併は︑衆生に救捕される可能性があったからであると主張ナるに毅して︑一方では︑その可能性誌如来より
のも
ので
ある
と主
張す
る︒
しかし︑如来よりの可能性を領受する司詑牲が衆生になくては︑その可能性も或立せない
で誌
ない
か︒
いやその可能性の摸受の可諮牲も知来よりのものであると︑論理のくりかえしが行われることとなり︑
奨 察 機 後 論
:E.
築 家 出 開 性 総
六
難が先か︑卵が先かのような錆環論践に墜するのである︒弦に救済の持題として︑践の持題が限り上げられ
るよ うに なる ので 必る
︒
教機成立泣如来の
し
きか
の
るべさものかの主瞳牲の関紙は注意せなけ
れば なら ない もの 伯で ある
︒制 例え ば
枚の紙が燃えあ︒その時︑紙を中心にして考えれば︑紙に燃える性蟹があった
から火が燃やしたのである︒に燃える性質がなかったら火は燃すことは出来ないということが出来る︒無自性
傍性説は此の立場を寂っておるのである︒しかし︑若し逆に︑火の立場から見れば︑紙が鍛えるということは火が存
からである︒裁って︑燃えいうことも︑火の存在を濠翻せなければ考えられないものである︒
る可能性ということは火の誕生によって付輿された性撲であるということが出来る︒火が全く存寝せなければ
鍛える控えないというこ
ので はな いか
︒
からいえば︑併の存夜によってなる可能性
れるのであるから︑成務の可能性も傍よりのものという議満俳牲の
守〉
従って︑此の間
の解決の基礎になるものは主鰻性を帥怖におくか衆生におくかによって決定されるものであって︑
果開題でもなく︑真知問題でもないのである︒何故ならば︑因果関説にも自由牲のあゐ悶栄があり︑民知線臨も︑
切衆投の可能性さえ説明出来ればその践的は逮或されるからで必る︒
救隣成立の主網棚性の問題になれば︑察組は需に如来役主機的にされておることは﹃数行信諮いの他力題点刊の思閥︑
弟子一人も持たないとの思認などでも明確なことであり︑
しか
も︑
思慾震関か如来の願力
が愈々濃く︑機の罪悪が愈々
なっ て来 てお るの で︑ 静士 数郎 知懇 の展 開と して の締 越は 自ら 間引 かで あろ う︒ 1 註
大采
官級
媛大
ぽ関
西巻
︑間
関七
一一
︑除
糾慌
の牲
に凶
義を
一不
し録
一一
の憶
の義
に震
に絞
殺径
一亦
しあ
る︒