絞殺
の般
市裁
につ
いて
一五
人
教康一等は諸縁でなくばどうして始めと成すか︑文出掛穣有りと鎚し︑間態無しと持して︑更に︑有ならば郎
ふり 有爵 無始 であ る
G是の如き人は見の過を誇る︒者箆無始と誌うをもって
ると
︒偏 なと いて
︑
切盟中空問者懇不終
終者景何終
非彩
非加
問終
つい
て一
不し
何人不取住彼人無物議
線不竣有無不器世界物
と有 無所 属慨 を皆 践し
︑間 取を 遮す こと によ って 過な 断ず るの であ る︒
〜p・
の
l土
の 一 台
M応
と﹁ 誠
L
いう だけ の
止まらず
。
若取有著市 ﹁
不断
不常
﹂に
つい
無則堕断見 て
是故貼慈者
若人見於有 叉
彼不知修行
若有
打無
︒
或白鰻他僅
如是見不見 不依止有無或
見無
以疋
醍
寂静安陰慮
一切
皆遮
︒以
無瞳
故︒
以不
竺約
一︒
有無
皆無
︒亦
無有
滅︒
或瞳或無瞳
悌法第一義
従って︑常断の相も是有所掻︒或非有撮如是二種を世等は皆遮される︒
醐阻
を説
けば
断惜
の過
を成
︑ず
るこ
とに
な
る︒それは過・現・未に於ても然りで︑得三世流韓︒若流轄者︒則是無常なりと︒
﹁不
一不
具﹂
につ
き
﹁若
一切
法皆
不生
者︒
十守
如是一異︒臆捨勿掻︒如是捨己︒知本性空︒ 一異之義︒云何可成︒如石女児︒本白不生︒無白韓故︒﹂叉︑
と説
く
1品
﹁不去不来﹂を︑若法不生︒則無去来︒と︑中論観去来品第二の初備を引いて︑
一五
九
無著の順中論について
己去則不去 無著の順中論について
未去亦不去
離己去禾去
復備
を以
て︑
有馬無来麗
叉亦無去慮 現去則非法念念不住故
如是故無住
一 六
O
離色之因縁 因縁皐寛不可得にして︑如是因縁を知るは空の故で︑色等の陰は無也と︒中論観五陰品第四の初備を引いて︑
亦復不離色
績いて
離色之因縁
物不得因縁 色則不可得而見色因縁色白成就色
と︑無因縁の故に色等一切則無にして 不得無因縁
此第一隠密 眼
則 不 見 色 識 則 不 知 法
世間不能知
何人自於白 中
論翻
六情
川川
第一
二の
部二
加閣
を引
川し
て︑
不首能自見
若不能見白
如是現無く不可得にして不去不来也と 云何能見他
一切
現見
行去
来の
義は
不成
であ
る︒
く LU ︑A︑
ノ\
入不は一切の戯諭を滅していくことにとどまらず︑
非 終
自 亦 非 他 非 二 非 無 凶
一切
法如
日比
是故皆不生
と四不生の備をもって結んでいる
七 結
び
かく
︑
入不の偏にはじまり四不生の隔で終っているが︑
展開を可能ならしめたことが窺知される ﹁中論しの中の偏頒を引用しながら解稗しており
③ ① 註
大正競経谷一二0
・一
ニ九
頁
中論四諦品第廿四の第八備の
諸 俳 依 二 諦 矯 衆 生 説 法 一 以 世 俗 諦 二 第 一 義 諦
と脚
異る
︒
中論観担架品第廿五の第三旧国
無 得 亦 無 至 不 断 亦 不 常 不 生 亦 不 滅 是 設 名 浬 繋
③
無著の順中論について 己に戯諭の滅した法牲を示している︒これらは一切法が空無自性不生の畑出繋たることを以上の如﹁中論﹂が﹁船若経﹂によりながら﹁般折経﹂以上に思担的
一六
得織 の六 角夢 想に つい て
一 六
俸給の六角夢想について
竹
内
光
範
起には﹁停檎の六角夢組﹂とありますが︑買は親機聖人全集︑一二円行筒2︑の﹁刺繍鳥夢記﹂解説を謹んでの感砲であ
り守
一す
︒
この﹁親驚夢記﹂は吾高田振では古来宗祖国県筆の六角夢想記として大切に品将軍惇承せられたものでありますが︑一息
信回文弁の種目ん巳来﹁偉給の六角夢組﹂は覧如上人の創作であるとか或は覧如上人日前既に高旧系統で備作され
てゐたのではないかとさえ言われるに至ったのであります︒今その古田間作説の根操となったものがこの﹁組鷺夢記﹂
なのであります︒そこで昭和九年末に布団摩報部九舶が異例上人研究班として設刊せられ︑その誌上でこの﹁親驚夢
記﹂は従来停ふる如く宗祖の買筆ではなくして買は高田訳出二沢民仰上人計局の﹁経理文問弁﹂中の一部であっ
て︑今より凡二百一二十年程前の亨保十四年に法鴨川物以翻の必要からこの部分が切取られ掛軸として表装されたと云ふ
同相が別にせられてから︑漸茨その貝貫性が確認せられて︑今同親問聖人全集の末尼に加えられあに至ったものと忠
ひ主
す︒
更に未だ震表の運︑ひになって居りませんが︑過般わが高田摩曾の方々が本山の費庫を調査の際︑宗租口県筆の﹁伊肉︑
不問
印肉
Lの要文を貼見したとこ為︑その紙背に行者桁報等の六角夢一組の四句文が判請されると一吉ふことで︑人ーはこの
要文が掛軸に表装せられ︑裏打されてゐるので外から見ることが出来ず︑誠に残念でありますが︑
恐ら く宗 祖の 賢一 乍
に問遣いないものと推定せられますので︑愈︑一呉打が取去られて外から拝見山川来おようになれば蛮に砂想の賢官性は
動かないものとなること﹂信じます
そこで聖人全集の﹁親鷺夢記﹂解説を謂んでの感却を要約しますと︑
第
﹁侍績の六角夢甜﹂の年次の問題
第二恵信尼文書と俸給の夢却との同県に就いて︒:;:の三黙であります︒
先づ始めに年決に就て魔如上人の祭と考へられあ停檎の専修寺木︑東本願寺本の六角夢想は共に﹁碓仁一六年︑立十円
四月五日︑夜寅時﹂とあって別に年次と干支の聞に喰遣いがあります︒計し建仁一二年なれば英亥であり︑立十円なれば
建仁一万年でなければなりません
今これに就て解説には﹁侍繍﹂東本願寺本専修寺本は︑共に建仁三年辛酉とするが︑同年は突亥であって辛凶では
ない︵西本願寺本は訂正されてある︶そして建仁三一年は聖人三十一歳である﹂とあり︑明に干支の誤と見て居られる
ょうです︒これは恐らく譲宅己来の古徳の読に従われたものと思いますが︑やはり問題ではないでせうか︒
︵西
本願
寺本に就ては後に申上度い︶
即ち同様な年衣と干支の喰遣は吉水入室の段にもあり︑そこには﹁建仁第三の暦︑春のころ︑聖人廿九歳﹂とあり
ます︒聖人廿九歳の年は辛闘でありますから︑雨者共に同じような誤を犯してゐるにもかLわらず︑吉水入率の場合
は年決の誤として建仁第一の暦と訂正しながら︑六角夢組の時には干支の誤として発亥と訂正するのはどうしても正
しくないと思います︒
侍織の六角夢想について
一六
停槍 の六 角夢 想に つい て
一六
四
殊に辛酉の干支に就ては直ぐ次の迂揮相停の段の始めに︑本典後序の﹁然愚禿稗驚建仁辛酉暦︑棄雑行分︑騎本願﹂
の文が引用されて居り︑聖人の吉水入室は辛酉で聖人二十九歳の時であることは覧如上人も充分承知して見える筈
で︑干支の上に誤記があるとは全く考えられません︒従って誤は明に年決の算出の上にあるので︑吉水入室を﹁建仁
第一の暦﹂と訂正するのが正しければ︑それと同様に︑六角夢想の場合も﹁建仁元年辛曲﹂と訂正するのが設も自然
であり︑正しいのではないかと思います
これは只私のみの考万ではなく︑五口高田恨の法主況下も高旧摩報第三十七︑入輯に五りつ聖人と六角堂の夢想﹂と
題する御護表があり︑それにはやはり﹁建仁元年辛同四月五日夜寅時﹂となって居ります︒叉司目純道師も同高田翠
報誌上で今の私の考方と梢々同様の御意見を護表になってゐます︒
尚﹁永仁第三暦﹂の奥書のある同本願寺の﹁善信聖人繕﹂は従来一部の皐者間には覧如上人の初稿本でないかとさ
え考へられ︑而も今本には解説の場合と同様に﹁建仁三年美亥四月五日佼寅時﹂と明記されてゐるのでありますが︑
との同本願寺本に閲して高田皐報第三一十八︑九雨輯に亙り︑琳岡本﹁善信聖人檎﹂に就いてと題する︑司田純遭師の詳
制な研究費表があります︒それに依りますと琳岡本の成立年代は︑その願主として考へられる向耐守の琳阿蝿陀怖の
在世年代から推定して﹁熱田神宮に日本書紀が奉納された永和一一一年と多くの年代主を見ない出のものであらう一と記
されてゐます︒印ちこのけ本書紀の中に琳阿の名が見えてゐるからであります︒永和ゴ一年は覧如上人の滅後一一十数年
であって︑司旧師は六角夢担の﹁年代と干支の誤去を介理化せしめた最初のものが琳阿本であらう﹂とさえ述へて見
えます︒解説でも今本の成立年代に就ては司旧師の誼に賛意を表して見えるのでありますが︑琳岡本井忠の底本とな
った.原本は﹁初稿永仁一二年以後︑東本願寺本の康永二年以前に出来ていなければならない︒﹂
とあ り手 す︒
これは増
補の内容の上から推定されたものと思われますが︑この原本の土に既に琳岡本と同様な干支の訂正があったものとも