6. 株式会社ミスミグループ本社
6.2 創業期(1963 年~1970 年代中盤)
三住商事株式会社の設立と当時の業界動向
ミスミは1963年に三住商事株式会社として設立され、設立に参加した田口は専務に就任 した(後1989年に社名をミスミに変更)(日経ベンチャー, 1999/05)。電子機器、ベアリ ングの販売を目的としていたが、業界の中では後発にあたる創業であった。当初田口は、
手を洗う時に手を差し出すと自動的に水が出てくる自動水洗機の販売代理店を目指して田 口は仲間とともに創業していた。しかし、なかなか受注に結び付かず商売としては苦しか った。しかし何とか食べていかなければならないと、顧客先に足を運んで困りごとがない かを懸命に聞いて回った。そのような中で、米国で販売されているような金型部品は日本 では存在せず、困っている会社が多いことを知る。顧客が要望する製品を企画して金型部 品メーカーに生産を委託し、顧客に提供したところ大変感謝されたことから、「顧客の購 買代理店」というビジネスモデルを考え出した(日経アドバンテージ, 2003/5, p.128)。そ して田口は1969年社長に就任し(日経ベンチャー, 1999/05)、購買代理の理念を具現化し ていく。
次に、当時の業界動向について述べる。まず、金型とは、プラスチックや金属などの素 材を一定の形状に加工するために用いられる金属性の型のことである。製品の形を刷り込 んだ上型(雄型)と下型(雌型)の一組からなる。素材の加工には主に2種類あり、1つ目 は「プレス成形加工」である(綾部・國領, 1994)。2つの型の間に板金や金属片を挟み込 み、圧力をかけて打ち抜いたり曲げたりする(プレス用金型を使用)。2つ目は、「射出成 型型加工」である(綾部・國領, 1994)。2つの型の間に溶解したプラスチック等を注入し、
加工して成形する(プラスチック用金型を使用)。金型部品業界の対象市場であるこの金 型市場は、製品メーカー、製品用パーツメーカーの金型製造部門、及び金型専門メーカー から構成されている。プレス用金型とプラスチック用金型が市場全体の 70%ほどを占めて いる(綾部・國領, 1994)。プレス用金型とプラスチック用金型の両方を製造するメーカー は少なく、専業化されている。
金型市場と同様に、金型部品業界もプレス用、プラスチック用と専業化している企業が 多い。両方とも販売しているのは、主にはミスミと双葉電子工業である(綾部・國領, 1994)。このように専門化が進んでいるため、製品ごとに複数の企業と競合することはあ っても、ある企業間で製品のすべてが完全に重なるような競合は殆どなかった。金型部品 が必要となるのは、完成品メーカーの商品モデル・チェンジや新製品開発の時に、新しい 金型が必要になることから部品の需要が起こる。このため金型部品を扱う企業の業績は、
自動車や電機など需要規模が大きい産業の景気に左右される。顧客とのやり取りは営業担 当者が重要な役目を果たしており、顧客が求める部品の仕様を聞きだしたり、販売数量に
より異なる価格や納期を交渉して設定していた。
業界初の標準商品の展開
ミスミが急成長してきた背景には、田口の「購買代理」の発想が大きな役割を果たして いる(金・嶋口, 1994)。メーカーが製造した商品を代理で販売する販売代理という考え方 は一般的である。購買代理とは、その逆で「顧客企業の代理として必要な部品を複数のメ ーカーから探し出して顧客へ提供する」という顧客指向の考え方(石坂,2007, p.6)である。
要するに、「生産財のコンビニエンスストア」になるということであり(田口, 1997, p.2)、
田口は、ダイエーやイトーヨーカ堂と時を同じくして、生産財の流通革命を目指した(綾 部・國領, 1994)。
ミスミは、購買代理として顧客が求める製品を委託生産して提供するというビジネスを 始めたが、顧客の要望をそのまま受けるだけでは価値が高いとは言い難い。もしミスミが 付加価値を提供しないと、顧客はそのうち直接メーカーと交渉するようになるかもしれな い。こうした危機感から、田口らは受注生産とは異なる価値を示すために、部品の「標準 化による低価格化」を打ち出すこととなる(日経アドバンテージ, 2003/5, p.129)。1970 年ごろの金型部品業界では、部品の規格化が進んでおらず、必要な部品は都度内製化する か、協力会社が受注生産によって生産していた(綾部・國領, 1994)。しかし実際には、各 メーカーが使用していた部品の仕様には大差がなく、標準化を実現できれば、大量生産し て安く仕入れることが可能だった。ユーザーに、欲しいものが安く手軽に入手できると標 準品のメリットを説き、金型標準部品市場を切り開いた(綾部・國領, 1994)。田口にとっ て「標準化というのはどのユーザーに対しても公平な価格と安定的な供給を保証すること で成り立つもの」(金・嶋口, 1994, p.3)であり、「本当にお客様の立場で考えれば、やは り標準品の受注を増やして、お客様に利益を還元していくことを考えるべきだ」(金・嶋 口, 1994, p.3)と標準化の必要性を力説した。そのころ米国では既に標準部品の市場が存在 しており、一部の米国企業は日本で標準品の販売を始めていた。田口は、米国の標準部品 市場の情報を収集し、日本での市場開拓に活用した。
部品の標準化とあわせてミスミが独自に切り開いていった手法が、ハーフメード方式で ある。例えば穴をあけるパンチという部品の場合、標準品でも100分の1ミリ単位で異な る部品を販売している(田口, 1997)。この部品1つ1つを在庫することは現実的ではない ため、最終加工をしていない半製品(ハーフメード品)を協力メーカーに在庫してもらう。
顧客の注文が入ってから、寸法通りに最終加工し顧客に納品することで、納期が短縮で き、多品種の大量在庫を抱えておく必要がなくなる。これは同時に部品の標準化にもつな がり、大幅なコスト削減が見込めるはずだと田口は考えていた(金・嶋口, 1994)。
田口は生産財の流通革命を推進するため、前述の部品標準化のみならず、商物の分離を 訴えた(金・嶋口, 1994)。田口が目指していたのは、営業担当者が新規顧客を開拓し、顧 客からの注文は電話で受け付け、物流は運送会社に任せるというシステムであった。田口
は営業担当者に対して、製品を売るのではなく標準化を売るように、そして注文は本社が 受けるから得意先の開拓を最優先に行うように指示した。一時、需要が低迷したとき、顧 客から大型の特注品の注文があった場合でも、田口は標準化戦略を貫いている。
「標準化の宣教師」として隙間市場を開拓してきたミスミにとって、新しい成長の転機と なったのが1975 年の第 1 次オイルショックであった(綾部・國領, 1994, p.7; 金・嶋口, 1994)。ユーザーはコスト削減のために、今まで内製していた部品を外注化したり、標準 部品を使用する割合が多くなった。ミスミの売上は当時 40%近く落ち込んでいたが、こう したユーザーの変化が追い風となり標準品市場が拡大する中で、オイルショック後のミス ミの立ち直りは早かった(綾部・國領, 1994, p.7)。今までミスミは、東京以外の地域では 地域販売店や代理店を通じて販売していたが、これをきっかけにそれら間接販売方式を中 断し、東京以外の地域でも直販体制を構築し始め、名古屋や大阪にも進出していった。ま ず、現場の班長たちに、標準品のメリットや品質・納期を保証することを約束し、徐々に 受注を獲得していった。
外部資源の積極的活用
ミスミは購買代理を始めた当初から、部品の生産と物流を外部に委託していた。企業は 多かれ少なかれ所有欲があるが、所有した瞬間に身動きが取りにくくなり、常に変化する 顧客ニーズに合わせて組織を変えることができなくなる。例えばあるメーカーに資本参加 して関連会社化すると、連携強化により短納期などのサービス向上というメリットはある かも知れないが、より安く生産できる中国の工場に切り替えるといったことができなくな る。それは自社の都合を顧客に押し付けているに他ならない(日経アドバンテージ, 2003/05)と田口は考えていた。このような考えからミスミは、社内に資源を抱え込まず、
外部資源を極力活用するという「持たざる経営」を理念として掲げていた(綾部・國領, 1994)。
ミスミが創業した当時は、金型部品市場は特注品中心であったが、一部では JIS 規格の 標準品を生産する先発メーカーもあった(金・嶋口, 1994)。しかしJIS規格品だけではサ イズに限りがあり、顧客の多様なニーズには対応できていなかった。一方特注品の場合で は、注文が不安定で、顧客の影響力も強く、ミスミのような流通商社が自立できる余地が 少なかった。そこで田口が考え出したのは、前述の通り、少量多品種市場でも顧客の多様 なニーズに対応しながら量産効果を発揮できるハーフメード方式であった。
しかし受注生産や見込生産に慣れていた当時の部品メーカーに、ミスミが企画した標準 品を OEM で生産・加工してくれる協力メーカーを開拓することには、苦労した。そのな かで、「生産財の流通革命」に賛同して早い時期から協力関係を結んできたのが、後に経 営統合した清水市の駿河精機であった。技術力はあったが販売力が弱かった駿河精機は、
知名度は低いが大企業を中心に安定的な販売網を持つミスミに協力して、「パンチやダイ や、紙や金属版を打ち抜くための工具」などを提供した。そしてミスミは営業の拡大と共