• 検索結果がありません。

創業者の息子たちによる躍進(1958 年~1970 年代)

ドキュメント内 組織能力の独自性 -成長企業3社の事例- (ページ 45-48)

4. 株式会社シマノ

4.3 創業者の息子たちによる躍進(1958 年~1970 年代)

創業者から息子へ

この創業者の想いや妥協しない性格は、後継者の 3 人の息子たちに、途絶えることなく 脈々と引き継がれていった。この「とことん技術に執着して妥協しない」ということはシ マ ノ の 体 質 に な っ て お り 、 シ マ ノ の 強 さ の 根 幹 に あ る と み ら れ て い る (Decide International / 決断,2009,p.35)。世界一の品質水準の部品をつくるという極めて高い目 標化した理念と、妥協せずに実現する体質が技術力を高めるとともに、組織能力を構築し ていったといえる。

1958年9月21日、創業者の庄三郎は肺ガンにより64歳でこの世を去った。庄三郎が他 界してから次期社長を役員会に諮ったが、古い役員も引き受ける人はいなかった。そのた め、常務だった長男の尚三が「自分がやる。三年でメドがつかなければ、やめさせてもら う」と宣言して30歳で社長に就任した。その頃の島野鉄工所の経営も最悪の状態であり、

売上5億円で5年連続の赤字と無配が続いており、累計赤字は3千万円にのぼっていた。

そのため、まず会社の黒字化が最優先課題であった。社長になった長男の尚三は、敬三、

喜三に「三人で全力疾走しよう」と決意をあらわにし、経営に取り組んでいった(日本経 済新聞, 2005, 私の履歴書⑩)。尚三が社長を務める傍ら、技術を支え先導していたのが次 男の敬三である。常日頃から技術のことばかりを考えていた。敬三は、自転車の技術に対 して純粋であり、「親父さんに一番よく似ていた」(日本経済新聞, 2005, 私の履歴書23)。

兄弟の中では、最も先を感じ取るのが早く、ある意味の変わり身も早かった。敬三は最先 端の技術を開発するだけではなく、開発した技術を活用して量産することにも重点を置い ていた。「最先端は若いのにやらせたらええ。しかし、その次、次の次が難しい。これは 経験ある人間に任せなくては」と考えていた(日本経済新聞, 2005, 私の履歴書23)。

米国市場への進出

シマノが海外展開を本格的に始めたのは 1960年代であった。1960年代には日本から米 国向けの自転車の輸出が伸び始めていた。その自転車にはシマノの3段変速機 3スピード ハブが装着されていたが、シマノが単体で部品のみを海外へ輸出するのは難しかった。米 国では英国スターメイ・アーチャー社の 3 スピードが圧倒的なシェアを獲得していた。一 方日本製は安物・粗悪品とのイメージを持たれており、1961年に米国ニューヨークのトイ

&サイクル・ショーへシマノの 3 スピードを出店した際も殆ど相手にされなかった。しか し実際は性能が良かったことから、関心を示すメーカーも現れた。シマノは自分で作った ものは自分で売るとの方針のもと、米国シマノを設立し、米国の完成車メーカーへの売り 込みを開始する。欧州では市場が確立され多くの部品メーカーがひしめいていたが、米国 は新しい市場でシマノは参入の余地があると読んでいたからである。

1965年7月1日に米国シマノを立ち上げた。社長は当時30歳であった三男の喜三が就 任し、副社長の本谷と秘書兼事務のカーンの 3 人で始めた。海外展開にあたって社長の尚 三は一流品メーカーの立場を貫こうと、価格でも妥協しなかった。喜三は完成車メーカー を訪問するなかで、シマノ製品の品質は認められ価格も納得してもらえるが、市場のニー ズがないために採用されないという状況にぶち当たる。先方には「シマノの部品を着けた 自転車をほしいという客がいない」、「お前のところが、需要を作ってこい」と言われた

(日本経済新聞, 2005, 私の履歴書⑫)。そのため、喜三は小売店や量販店に対して営業を 行い、シマノの製品を知ってもらうための講習会を開催した。

小売店最大のシアーズでは、メーカー顔負けの試験場を持ち自社ブランドの自転車をテ ストしていたが、ここでシマノの部品は評価を得ることとなった。当時の米国では7~8割 を子供車が占めていたが、子供車にシマノの内装 3 スピードハブが採用されたことは画期 的なことであった。シマノはメーカーと一緒に様々な工夫を施し、遊び心のある自転車を 目指して改良を重ねることに注力した。喜三がシマノ本社に試作や改良を指示すると、本 社は即座に対応しサンプルなどを送り返した。そして喜三がユニークな新製品、工夫した 部品やデザイン帳を持ってメーカーを訪れる、ということを繰り返していった。メーカー はシマノの対応の早さや製品の独自性に驚いた。米国シマノ設立後の苦しい 2 年間を乗り 越え、1967年には黒字化し、累損がなくなった(日本経済新聞, 2005, 私の履歴書⑫)。

それまでの米国市場は子供対象の自転車が中心であったが、1970年前後には、大人向け の自転車が普及し始める。アウトドアでのレジャーやスポーツを楽しむ「バイコロジー」

という考え方が浸透し始め、自転車の伝統がない米国では自転車の自由な楽しみ方が生ま れていった。自転車の楽しみ方が変われば自転車に対する要求も違ってくるはずと考え、

喜三は市場の最先端のニーズを捉えようと必死になっていた。自転車メーカーも同様であ ったため、喜三は彼らと良く議論をした。そのような中で喜三は、シュイン社元社長フラ ンク・W・シュインが、時折2~3ヵ月間かけて販売店回りをしていたことを耳にした。こ のことにヒントを得て、喜三は、米国全土6000店の自転車専門店を回るディーラーキャラ バンを行うことを決意する(日本経済新聞, 2005, 私の履歴書⑫)。

米国でのディーラーキャラバンと市場最先端ニーズへの対応

本社から部門を問わず若い社員を派遣してもらい、2 人 1 組で半年ほどかけて各地を回 り、次の組と交代した。キャラバンの目的は販売ではなく、アフターサービス、クレーム 処理、製品紹介、修理の手伝い及び情報収集である。販売店では学ぶことが多く、部品の

壊れ方、製品の評価、色やデザインの大切さ、エンドユーザーのニーズなどについて、身 をもって知った。それだけでなく、全国の販売店と強固な関係を築くことができた。ディ ーラーキャラバンは最初の3 年で6,000店をほぼ回り切ると、シマノは米国の自転車業界 情報通になっていた(日本経済新聞, 2005, 私の履歴書⑭)。

キャラバン隊からの情報を基に、シマノは10スピードの需要拡大を読み、品質を保ちな がら増産を実現した。米国での売上は2倍、3倍と伸び、シマノの自転車関連の6割を占め るようになっていた。1974年米国シマノの売上高は3,000億円以上になったが、1975年は 突然の10スピードの需要消失により、かろうじて利益が出るという状況まで落ち込んでし まっている。その状況に対しシマノは、同じく1970年代に西海岸から登場したBMXのニ ーズをいち早く捉え、BMX用部品を製造することで、持ち直していく。BMX(バイシクル モトクロス)とは、1970年代から米国で子供たちの間で人気となった、車輪の小さい競技 用の自転車である。立って漕ぎ、起伏をジャンプするため、どの部品も丈夫さが求められ た自転車であった。シマノが1974年にロサンゼルスに設立した修理部品とアフターサービ ス専門会社では、仕事を任せた3名の米国人がBMX通であり、情報収集に大いに役立って いる(日本経済新聞, 2005, 私の履歴書⑯)。

1960年代からの多角化戦略

シマノでは 1960 年代から新規事業進出が検討され始めた。「レジャーなスポーツを通 じ、健康にもかかわるという意味で自転車と共通性がある」ということで、釣り具とゴル フクラブが候補に残った(日本経済新聞, 2005, 私の履歴書⑰)。市場や輸出の可能性、素 材、製造工程、販売方法などを考えた結果、1970年夏に釣り具への進出を決めた。釣りの リールには、自転車部品の生産における駆動や制御部品、素材面での技術を転用すること が可能であった。釣り具市場でも、シマノはリーディングカンパニーを目指した。「まず 現場から」という姿勢は釣り具事業でも同じであり、シマノ社員は国内各地の釣り場を訪 ねてエンドユーザーは何を求めているか探り、様々な声に耳を傾けた。1972年にはポリエ ステル系素材の釣りざおを販売、アユ釣りファンの間で人気となった。また、1977 年、

1987年には米国のバス釣り名人と協働で開発したバス釣り用リールが市場の評価も高く、

大ヒットとなった。しかし釣り具市場は、日本国内だけでも多くの中小メーカーがひしめ きあい、価格競争が激しかった。また販路づくりにも苦労し、高品質のシマノの製品でも 軌道にのるには10年を要した。

技術革新

創業者庄三郎の理念を引き継ぎ、開発・生産技術の向上に情熱を注いでいるシマノは、

高い技術力を確立していった。1962年には、当時自動車部品メーカーでも殆ど行われてい ない冷間鍛造技術(鉄のプレス成形を常温で行う技術)を確立した。冷間鍛造は、高温で の鍛造に比べて強度、精度が高く、効率的な生産が可能になる。熱による変形がないた

ドキュメント内 組織能力の独自性 -成長企業3社の事例- (ページ 45-48)