• 検索結果がありません。

余分の力は抜こうぜ

ドキュメント内 エッセー (ページ 60-65)

1993年入試でファイター三木が京大工学部に合格した話を「小さな数学塾のヒミツ」の「復 習ノートの勧め」のところに載せた。ちょっと長くなるが、まずこれを見ておこう。

1992年春、高3のクラスに三木という大男が入ってきた。「僕はクラブばかり やって来ましたから今の成績は悪いですが、これから頑張ります! 」志望校は阪大 だと言うが、とても1年で届くとは思われない状態だった。しかし妙に愛嬌があっ てガッツもありそうだから、私は「頑張れよ」と言うしかなかった。しばらくして 授業が始まると、こいつが体をゆすりながら爪をかむ癖をもっていて、加えて大柄 だから目立つと言えばこの上なかった。ある時、私は彼のノートの取り方が変なの に気付いた。顔を前に向けたまま字を書き続けているのだ。近付いてみると何が書 いてあるのか全く分からないようなぐちゃぐちゃのノートを発見した。「そらあか んやろ」の声に、やつはにんまり笑って「復習ノート」を取り出したのだった。そ れは、ぐちゃぐちゃの板書用ノートの中から彼にとって必要なことだけを抽出して 整理した内容になっていた。

 その後、三木の成績はどんどん伸び、夏ごろには「阪大じゃもったいないやろ」

という段階に入るようになった。さらにその成長は止まることなく、結局京大の工 学部機械学科に出願することになった。当時の工学部はたくさんの小さな学科の集 合体で、例えば今の物理工は航空、機械、金属、材料などを統合して出来上がった ものだ。 … 工学部の中では航空が最も難しく、京大の名前だけが欲しい者は大概

「石油」に出願した。石油は、競争率はいつもトップで、合格最低点は決まって一番 下という学科だったが、機械は人気が高い方で第2グループの1つとなっていた。

 2月の初め、ある友達が三木に尋ねた。「お前、後期はどこに出したん?」三木答 えて曰く「まだ分からへん、多分、金属にすると思うけど … 」ちょうど私もその 場に居たのだが、三木が何を言っているのか全く理解することが出来なかった。聞 いた友達も「どういうこと?」とけげんな表情。三木は、前期と後期を同時に出願 しなければならないことを知らなかったのだ。(2007年から京大は前期のみ、1回 の受験機会となったが、それまでは2回の受験チャンスがあった)

 これは、結果の話になるが、この年「機械」が高騰し、「航空」をはるかに超えて 合格最低点は680点を突破した。最近の工学部の最低点はずっと500点台で(2009 年は400点台後半だった)、680点を取って落ちる可能性があるということをなかな か信じてもらえないようになったが、そのぐらいこの年の機械は難しかったのだ。

そこに一発勝負で挑んだ三木は、前期が終わってすることがなく「先に滑って来ま す」とスキーに出かけた。受験当日も河原町から京大まで走って行ったというこの 体力のあり余ったファイターは見事合格した。

 この中で「お前、後期はどこに出したん?」と三木に尋ねている男が登場しているが、こい つは福田と言って、今は任天堂で働いている。ゲームを作っているのだが、数年前からはアメ リカ勤務になっている。彼は、元々は航空を志望していて、成績は常に三木より上だった。し かし最後の最後に安全策を採って、航空をあきらめて機械に出願することになったのだが、そ れが裏目に出た。680点も取ったのに不合格。もし航空に出していたとすれば受かっていたの だから皮肉なものだ。私もまさか福田が落ちるとは思っていなかっただけにショックだったが、

その後の1年間、彼にあと2人の浪人生を加えて個別指導したことが稲荷塾の出発点になった のだから、不思議な縁だと言うしかない。ただし、この個別指導は私が勤めていた塾の教室を 借りて、勤務時間中の空きコマを使って無料で行ったので、私が熱心にすればするほど教室長 の反感をかうことになった。初めは浪人してしまった元塾生をケアーするということに好意的 だった上層部も、すべての授業が終了した後、9時を過ぎてからするようにという指示を出し たり、さまざまな嫌がらせをするようになった。その不条理に耐えられなくなった私は上司と けんかをして、翌年予備校に移ることになった。

 さて福田達との授業だが、これはとても楽しかった。現役のときに既に並みの合格者以上の 実力を持っていた福田だったし、他の2人もすぐにそのレベルに追い付いて来たので、通常の 授業ではなく、大学への数学(数学専門誌)の学力コンテスト(難問で有名)などを使って、よ

〜いどんで解き比べなどをした。彼らは京大オープン模試や京大実戦模試の成績優秀者の欄に 名前が載りまくっていたし、特に何かを教えなければ合格できないというわけではなかった。

だから私が気を付けたことは、彼らのモチベーションが下がらないようにすることだけだった と言ってよい。そういう意味で彼らとの勝負においては常に圧倒的な力の差を見せつけ、彼ら にもっと頑張って勝ってやろうという気持ちを維持させることが大切だったのだ。

 当然の如く彼らは京大に合格し、私はと言うと予備校講師として新しいスタートをすること になった。しかし、予備校講師1年目はあまり楽しいものではなかった。それは関西学院大学 卒業というだけで、京大出の講師達の下請けのような仕事をさせられることが多かったからだ。

こんなにも学歴で人が評価されるような職場も少ないのではないかと思うが、この世界で生き て行こうと思うなら、何が何でも京大を出ていないといけないという事実を私は身をもって知 ることになった。

 予備校講師の生活は結構忙しかった。昼間は浪人生、夕方からは高校生のための授業があり、

模擬テストの問題の作成や、テスト後の採点、それにテキストは毎年改訂されるので、その雑

務もかなりあった。それに加えて特に1年目は親しくなった国語の講師S氏から仕事の誘いを 受け、それが大変だった。何でもZ会が通信添削の業務とはまた別に、塾と予備校の中間的な 存在としての京大マスターコースという塾?を立ち上げようとしていて、そのための人材集め をS氏が任されているのだということだった。だが、S氏の構想は、国語は自分が担当し、数 学は私、英語はTさんがそれぞれ一人で担当し、たったの3人で出発するというものだったも のだから、テキストを作ったりするような仕事のほかに、コース案内の文章を考えたりするよ うな雑務などもあり、本当に激務だった。しかしそれらをこなしつつ、私は自ら京大を受ける 準備も進めていた。

 物理、化学は前職の塾講師をしていたときにそれらのクラスを担当していたので、基礎はで きていたし、英語も京大の英語なら、「読め、訳せ」以外の細かいことは一切問わないから大丈 夫だということで、落ちる要素は全くなしと判断していたが、センター試験だけは心配してい た。京大理学部の場合、センター試験で足切りのラインが設定されている。低い基準ではある が、社会や国語で点数を落とし過ぎるとまずいことになるのだ。社会は地理で受けようと思っ ていたが、12月に入ってセンターのための勉強を始めてみたところ、とても間に合いそうにな いことに気付き、急遽、倫政(倫理と政治、経済のこと)に変更した。政治経済は覚え切れな いと思ったが倫理は感覚で何とかなった。何と言ってもそのとき既に35才のおじさんだっただ けに、一応の常識があったと言うことができる。(じゃあどうして政治、経済はできなかったか と言えば、それはまあ … 問わないでほしい)国語の中で漢文は比較的短時間で点がとれるよ うになった(S氏に勧めてもらった本が良かった)が、古文は絶望的だった。だからこそ古文に は一番時間を費やして勉強したのに、本番で時間配分を誤り、古文の問題の本文を読んでいる 時間がなくなってしまった。一か八か問いだけを読んで解答した結果、はじめの2問しか合っ ていなかった。選択肢に流れがあって、これはひょっとして全問正解か? と期待されたが、途 中から本文の主張が変わってしまうということだった。残念。一体古文にかけた時間は何の意 味があったのか?! まあしかしセンター試験による足切りを免れて、2次試験を受けることが できるようになって本当によかった。通常、大学入試ではセンターの得点と2次の得点を合計 して合否が決定されることになるが、京大の理学部はセンター試験を足切りのためだけに用い、

それをクリアした者には、2次試験の点数だけで合否を判定することになっている。これでも うこっちのものだと私は思った。

 しかし実際はそんなに甘いものではなかった。試験会場では何が起こるか全く予想がつかな い。たとえば、センター試験をこっそりと目立たないように受けるつもりだったのに、予備校 の生徒に見つかってしまい、「偵察ですか?」などと休憩時間のたびに入れ替わり立ち代り集中 力を乱す「声かけ攻撃」を受けることになってしまった。また、センター英語は配点の大きい6

ドキュメント内 エッセー (ページ 60-65)