ウィンブルドン男子決勝でアンディーマレーは力尽きた。全英国民の期待を背負って闘った が、わずかに届かなかった。スピーチが涙で言葉にならない。マレーのお母さんも泣いていた。
観ている私までが、思わずこみ上げて来るような場面だったが、今回はあえてこのお母さん のような子供との関わり方はどうなのかと考えてみたい。つまり子供への思い入れが強過ぎて、
全く余裕がないように見えることについてだ。実際、試合中のポイントとポイントの間にカメ ラがこのお母さんを捉えるたびに「もういいから、このお母さんは映さないでくれ」と言いた くなるぐらいだ。
テニスの選手はわずかのオフシーズンを除いて年中世界各地を転戦してまわるという、いわ ゆるツアー生活をしている。従って通常、相当に重要な試合の決勝ぐらいでないと、ファミリー ボックスに選手の親が座ることはない。しかし中にはほとんどすべての試合を会場で観戦して いる親もいて、目立つし、次第に名物的おじさん、おばさんになって行く。たとえば上記のマ レーのお母さんやシャラポアのお父さん、ウィリアムス姉妹のお父さんなんかは相当に有名だ。
特にマレーのお母さんやシャラポアのお父さんの観戦の仕方は、試合を楽しむというよりは、
選手以上に戦闘モードになっており、ちょっとこわい。(シャラポアのお父さんは、親子関係に 何かトラブルでもあったのだろうか、最近は姿を見せなくなった)推察するに、彼らにとって 息子、娘は自分の一部であって、決して別の人格をもった存在としては感じていない筈だ。子 供の勝利と成功、そして夢はすなわち彼ら自身の勝利と成功、そして夢なのだ。
どうしてそのように思うかと言えば、実はかつて私自身がそういうタイプの親父だったから だ。どの程度病的であったかについては「星一徹にも決して遅れをとらない」と表現すれば大 体のことが想像してもらえるのではないだろうか。 … 私と娘の1対1の早朝特訓は、彼女が小 学生になるかならないかの頃に始まり、息子が朝練に参加できる年令に達するまで、すなわち 3年間以上に亘って毎日続いた。まず、朝5時半に娘を起こす。5時40分には家を出て、車で コートに向かう。約1時間の練習を終えて7時過ぎに帰宅するというのが決まったスケジュー ルだったが、冬場だけはまず朝食をとってから出かけ、6時半から7時半の間で練習をするとい うやり方に切り替えられた。というのは、日が短くなると早朝はまだ暗く、一番短いときだと 6時40分にならないとボールが見えないからだ。そうすると、明るくなってボールが打てるよ うになるまではトレーニングをして待たなければならず、真っ暗闇の中で練習の大半をトレー ニングをして過ごすというのでは効率が悪過ぎるのだ。場合によってはそれも刺激的で、そう しているうちに夜が明けて、澄み渡る空気の中で朝日を浴びるのはとても気持ちが良かったが、
やはり実力をつけるためには効率的な練習を優先させた方が良い。こうして、これを来る日も 来る日もひどい雨の日以外はほぼ毎日続けた。もちろん正月もやったし、試合の当日も朝錬を
してから会場に向かった。雪が凍ってコートがつるつるになっていたこともあった。だから小 雨ぐらいなら基本的に決行だった。ただ使っていたコートが公園のクレーコートだったから継 続的に雨が降ると、地面がぐちゃぐちゃになり、そうなると使用不能になってしまう。そうい うときだけは休みにした。
もちろん夕方も、日曜日以外のすべてをクラブでの練習に充てるようにしていたので、おそ らく同年代の子の中では、日本一練習していたことになるだろう。実力も全国でトップだった と思う。テニスのジュニアの試合は2才きざみで区切られており、地方大会は9才以下、11才 以下、 … のようになっているが、全国大会のくくりは、12才以下の部が最年少で、次が14才 以下、 … のようになっている。従って9才以下の段階では、実際の全国大会で優勝したわけ ではないのだが、彼女が小学校3年生の冬に大阪で行われた大会には、中国地方のトップの子、
四国地方のトップの子も参戦して来ており、そこでの優勝は、彼女がNO.1であると私に確信 を与えるのに十分な結果であった。特に中国地方のトップの子との試合では、0 - 4から、作戦 を立て直しての逆転勝利であり、鳥肌が立つような感動を覚えた。
4年生の夏にはカルフォルニアにあるワイルテニスアカデミーに連れて行き、8日間のテニス キャンプに参加した。初めに自己紹介のスピーチをさせられたが「私もover 40 years old junior
tennnis playerとして練習に参加する」といったようなジョークを飛ばしたら大うけだった。そ
のほか、練習以外のことでは、目の前でハチドリが花の蜜を吸っているところを観たこと、松 ぼっくりが超巨大で、日本のそれの5、6倍の大きさだったこと、ビーチが寒流の影響でとて も泳ぐ気になれないぐらいに寒かったこと、ハンバーガーやドリンクのサイズがとんでもなく 大きく、ハンバーガーを1つ食べただけで腹がいっぱいになってしまったこと、元プロのサッ カー選手だったというドイツ人コーチ、グレッグの肩幅が私の2倍ほどもあり、人間離れした スタミナを発揮したこと … 等を断片的に思い出す。とても刺激的な8日間だったが、練習も強 烈だった。私にとってはまさに命懸けの挑戦だったのだが、子供たちはそれを楽しそうにこな していた。私の見たところ、参加者の大半はテニスが大好きで、単純にもっと上手くなりたい という動機で来ているようだった。しかし中には本気でプロを目指しているような子も何人か は混じっていて、目が真剣だった。娘はと言うと淡々とメニューをこなしており、喜怒哀楽の 感情を表に出すタイプではないから、ちょっと目には分かりにくいけれども、私には輝いてい るように思えた。実際練習試合では、1つ年上のとても勝てそうにないような男の子にも勝っ ていたし、コーチの評価も高かった。このあたりの話については「小さな数学塾のヒミツ」の
「まずは情緒」のところにも少しだけ書いたように、このキャンプを通して彼女には才能があ り、将来が有望であるとの確信が益々深められる結果となった。そして極め付けは練習の合間 など、私が疲れ切って寝ていることが多かったのに対して、娘は進研ゼミのチャレンジを持っ
て来ており、寸暇を惜しんで勉強をしていたのだ。その姿を見ながら、これはただ者ではない とつくづく感じさせられた。
ところで、テニスで一流の選手になるにはどのようにしたらいいのだろうか。ちょうど音楽 の世界でも、ギターやドラムのように中学生か高校生、あるいはもっと遅くから始めても一流 になれる分野と、ピアノやヴァイオリンのように、もっと小さいときから基礎を叩き込まない と一流にはなれない分野があるように、スポーツの世界にも、アメリカンフットボールや登山 のように他のスポーツの基礎の上に、ある程度の年令になってから始めたとしても一流になり うる分野と、女子の体操のように小さな子供の頃からやっていないとどうしようもないような 分野がある。テニスは典型的な後者のタイプのスポーツだ。小学生になるかならないような年 令のときに感覚を作り上げないとトップ選手になるのは難しい。小学校の高学年、あるいは中 学生になってから始めてトッププレーヤーになったなどという話は聞いたことがない。そうす るとどうしても親が先導するケースが多くなり、親が引っ張り、親が環境を作ることになる。そ してそれなりのレベルに到達する。しかし難しいのはその後だ。中学生ぐらいになり、体がで きて来る、いよいよ本格的なハードワークを始めなければならないそのときに、本人自身がそ の道を自分の道だと思えるかどうかということが問題だ。
結論的に言えば、娘の場合、本気にはならなかった。どうして?! 私にはどうしても納得が いかなかった。だから彼女が中1の終わり頃に真剣に話し合った。「私には才能がない」と彼女 は言う。これは絶対に受け入れることができない。感情の高ぶった私はこぶしをテーブルにた たきつけた。そのときに割れたテーブルは記念に塾の1階の自習室に展示されているが、その あと決定的な一言が飛び出す。「私はテニスがそんなに好きじゃない」「…」
確かに私がテニスの試合をテレビで観ていても、娘が一緒にそれを観戦したことはなかった ような気がする。しかし本当に好きじゃないのだろうか … 。私の未練は続いたが、娘が中2の 秋にひどい捻挫をしてしまった。3ヶ月間練習ができなかった。そして練習を再開してからも、
怖くて踏み込めないと言う。結局元のレベルに回復するのに、さらにそれから半年ぐらいかかっ てしまった。中3になってからは1つ年下の子に負けるといったようなことまで起こり始めた。
遂に夢は終わったと、いくら執念深い私でもそれを認めざるを得なかった。
それから時は過ぎて、娘が高1の夏頃だろうか、私の呪縛から解放された彼女は「テニスが 好きになった」と言い出し、インターハイに出るために頑張り始めた。朝早くから自主トレー ニングをして、夜は9時を過ぎないと帰って来ないような生活を始めたのだ。「よくやるわ」と 感心しつつ、一方では勉強はどうなるのかと心配もした。しかし自分で決めて取り組んでいる ことに対しては、じっと見守るしかない。テニス自体はめきめきと強くなり、高3になる頃に は、私ぐらいのレベルでは勝てなくなってしまった。これならインターハイに出場できてもお