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位の企業が38億円であり、18億円、10億円、8 億円などの企業が上位に続いているが、他は 家族労働力を主体にパートを利用している 1 億円前後の業者が多いものとみられる。柴山港加工協にお

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兵庫県香美町における底魚加工業の現状と課題

売上高 1 位の企業が38億円であり、18億円、10億円、8 億円などの企業が上位に続いているが、他は 家族労働力を主体にパートを利用している 1 億円前後の業者が多いものとみられる。柴山港加工協にお

いてもほぼ同じ傾向であり、売上高 1 位の企業が18億円、続いて10億円、3 〜 4 億円の企業であり、他 は家族労働力を主体にパートを利用している 1 億円前後の零細規模の業者と推定される。

従業員(パート含む)の規模からみると、5 名以下の業者が 3 社、5 〜10人規模 8 社、10〜30名13社、

30〜50名 4 社、50〜100名 4 社、100名以上 2 社となっている。

(3)原料調達と製品市場の条件

香美町の水産加工業は底曳網漁業によって漁獲されるズワイガニ、カレイ類、ハタハタ、タラ、エビ 類、カニかご漁業によるベニズワイガニなどの地場原料を主体としており、基本的には地場原料依存型 といえる。しかし、規模が拡大するにつれて地場原料だけでは不足するため他産地の原料や輸入原料に 依存する度合いを強めてきた業者もある。地場原料、移入原料、輸入原料ともに量的にも価格的にも安 定的ではなく、原料調達の問題はいぜんとして重要な問題となっている。

但馬漁協における仲買人の買い入れ状況をみると、上位10社までの仲買人が63.1%を買入れており、

11位以下の60数人の仲買人の買入れ比率は36.9%となっている。仲買人のほとんどは水産加工業を兼ね ており、とくに上位の仲買人の買い入れ量は大きく、価格形成に影響をおよぼすものと推定される(表 5 )。ヒヤリングによれば、規模の大きい加工業者は隣接する浜坂や鳥取県の産地市場からも原料を仕 入れている。地場ものにこだわる業者もあるが、加工規模が大きくなれば地場ものだけでは賄いきれな くなり、他の産地からの移入原料や輸入原料に依存しなければならなくなる。とくに、200カイリ体制 への移行による漁業規制の強化や漁業資源の減少による自主規制などによって原料調達がきびしくな り、他産地の原料や輸入原料へと転換せざるを得なくなったものと推定される。ヒヤリングによれば輸 入原料の比率は20〜40%程度と推定されるが、カニはカナダ、アメリカ(アラスカ)、ロシア、イカは ニュージーランド、アルゼンチン、カレイは中国、韓国、ノルウェー、ハタハタは韓国などから輸入さ れている。輸入原料は製品取引先の卸売業者や商社から輸入する場合が多い。香住水産加工協では、か つてニギスなどを共同購入して加工業者に配分していたが、ニギスは資源が枯渇し入手が困難となった ため中止している。北海道のソウハチや島根のエテガレイなどを受託または買い取りによって仕入れて いる(表 6 )。

香美町の加工製品は、カニのむき身、カニみそ、ニギス、ハタハタ、カレイなどの一夜干し、塩干も のなどが中心であり、これらの製品は全国の中央卸売市場への出荷が最も多く、中央卸売市場から量販 店に出荷されている。観光地を活用した直売店、旅館、民宿、さらに近年ではインターネットによるダ イレクトマーケティングなども行われている。

(4)水産加工業展開の事例 1)A企業(子会社の

社を含む)

Aは1988年に有限会社として設立された。資本金は500万円。先代が1949年に地元原料を活用してち くわを中心とするねり製品の水産加工業を起業したが、1987年に倒産した。現社長は先代の長男で、高 校を卒業後家業の水産加工業に従事していたが、新たに別会社を設立し、再興を図ることとした。

まず1989年に水産物、観光みやげなどの直売施設「かに市場」を本社所在地に開設し、営業を始めた。

以後、水産物加工と販売施設の両面で積極的な事業展開を図っていく。水産物加工については、香住町

(当時)の近隣に位置する鳥取県岩美町の網代新港に新たな拠点を置き、1993年にエビ・カニの加工施 設「クラブハウス」(むき身加工主体)、1997年に塩干加工などの加工施設「鳥取工場」を建設した。ま た、販売施設の方は本社所在地に拠点を置き、1994年には「かに市場」の施設内に海鮮レストラン「れ んが亭」を開業した(2005年リニューアル)。また、これら事業展開と並行して度々増資をして資本強 化を行っており、1995年には株式会社化し、2008年以降の資本金総額は 1 億4,000万円となっている。

現在の主要な事業内容は、鮮魚の販売、塩干品の製造販売、冷凍魚の販売であり、鮮魚はイカ、エビ、

カニなど、主として前浜ものを中心に扱っている。干物はカレイ、ハタハタ、キス、ゆで物はカニ、イ カ、ホタルイカなどである。前述のとおり直売施設、レストランを併設している。鮮魚の仲買人であり、

その取扱高は 8 億円、加工(干物類)が20億円、直売店8.5億円、レストラン1.5億円、振り売り 1 億円、

合計38億円である。

従業員は128人(女性70人、男性40人、中国人研修生18人)である。従業員の年齢は30歳代から70歳 代まで幅があるが、40〜50歳代が中心である。70歳代 6 人が雇用されている。社長によれば地域に労働 力は十分にあり原料も地場ものを中心に利用すれば足りないということはないと、考えているようであ る。最も重要な条件はマーケティングと情報力の問題と考えているようである。

販売先は中央卸売市場70%、食品問屋・水産会社が30%の比率であり、築地市場を中心とした関東の 表5 香住地区仲買人の階層構成 表6 香住水産加工協の原料取扱状況

市場が50%、関西市場が20%、北陸・中部20%、東北・中国・九州が10%の比率となっている。量販店 が主たる販売先であり、量販店との直接取引が重要なマーケティング戦略と考えており、量販店に選ば れる企業をめざして量販店のニーズを先取りしたカルテ(安全・安心の情報)を的確にすばやく公開し、

浜の情報を収集し正しく伝える能力を備えることが重要な問題と考えて対応している。

加工原料はカレイ800トン(製品560トン)、ハタハタ800トン(製品640トン)、カニ400トン(製品 400トン)、ホタルイカ300トン(製品240トン)、などが主要なものであり、カレイは北海道もの50%、

地もの50%、ハタハタは地もの80%、北陸もの20%、カニは地もの30%、輸入もの70%(ロシアからタ ラバガニを輸入し加工を始めた)、ホタルイカ地もの95%、福井も の 5 %である。子会社の

社では、

味付けものを中心に製造しており、のりの佃煮(びん詰め)の原料は三重県産のものを使っている。販 売先は大手水産会社を中心に確保されている。2 〜 3 年前から新たにホッケの干物をはじめ、サンマや ニシンも手掛けたが安定するまでに拡大していない。

2)B企業

創業は1880年代、先祖が地場ものの加工を始めた。現代の社長(先代社長の長男)は34歳で東京に在 住。イギリスの専門学校で経営学を学び、この会社の営業部門を担当し東京に住んでいたため、社長に なってからも東京在住。父親(先代社長)は引退したが香美町で会社の面倒をみている。先代の社長は 大学の経済学部で水産経済学を学んでいる。1970年に大学を卒業して叔父の経営する地元の会社(

商店)に就職(専務であった)。突然叔父が死亡したため40歳で社長に就任した。1985年に現在の社名 に変更した。

1991年ころには中国の天津、1993年ころには丹東、東港などに合弁(提携)工場をもち、カニ、アマ エビなどの冷凍加工、カレイ、ハタハタの干ものなどの加工事業をおこなっていた。1995〜2000年には タイに協力工場を持ち干物の加工を行っていた。現在は海外の工場をすべて廃止している。現在の年間 売上高は12億円である。かつて22億円であったこともあったが大幅にダウンしている。

現在はニチレイを中心とする委託加工をおこない、原料をニチレイから仕入れ、製品もニチレイに販 売している。アマエビ原料は200トン(製品100トン)であり、主としてカナダ、ロシア、グリーンラン ドの海外ものを利用している。多い時は1,200万トンの扱いがあったが最近ではニチレイが海外工場に 直接委託するようになり扱い量は減少している。ハタハタは300トン(製品150トン)であり、主として 頭をカットして唐揚げの素材や干ものにしている。日生協が主な販売先である。カレイ類の50トン(製 品40トン)は直売している。ヤリイカの600トン(製品360トン)は量販店に販売している。2 ㎏パック

(業務用)として販売している。ハタハタは日生協をとおして販売していたが、最近では単協(コープ ネット)との取引に変更している。ヤリイカなどは全国の中央卸売市場や地方卸売市場に販売している。

従業員は65名(男性10、女性55名)である。1985年代には110名の従業員であったから、およそ半減 している。中国の研修生を 9 名雇っている。工場は 3 工場あるが、1 工場は稼働していない。ここを中 国人の宿舎として利用している。柴山地区はズワイガニの産地で知られているが、原料供給は地場との つながりが薄く、他の産地や輸入原料に依存する傾向が強まっている。

3)C企業

C企業は1955年に先代が創業したC商店が前身であり、1967年に現在の社名となっている。1970年に

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