第 8 章 まとめと今後の課題
8.1 まとめ
本研究では,第二言語習得における日本語と韓国語の目的語の格標識(対格と与格)の 学習困難度について有標性と他動性という2つの概念に基づいた仮説を提案し,その予 測について学習者コーパスのデータを分析した.
本研究では,まず,Eckman(1977)およびEckman(1991)の類型論的有標性を用いた 研究を理論的枠組みの一つとして用いた.しかし,Eckman(1977, 1991)の類型論的有 標性をそのまま格標識の学習困難度に応用することができないという概念的問題を指 摘し,類型論的有標性に代わるものとして頻度に基づく有標性を採用した.そして,パ ラレルコーパスにおける頻度に基づいて格標識の有標性を定義づけた.そして,他動性 というもう一つの理論的枠組みからも分析を行った.二つの異なる理論的背景に基づく 仮説を検討することによって,学習困難度に関わる要因の多面的かつ包括的な説明を試 みた.
以下では,章ごとに本研究の内容を簡単に要約する.
まず,第1章では,第二言語習得研究における学習困難度の研究の理論的な背景とそ の発展を説明した.その後で,本研究の対象を明確にし,本研究の理論的な枠組みの概 略を説明した.
第2章では,本研究が用いた理論的枠組みの一つである「有標性」に関する先行研究 を概観した.学習困難度の研究に有標性が用いられるようになった過程を3つの時期に 分けて,有標性の概念がどのように発展してきたのかその史的変遷を辿った.また,有 標性を用いた研究の問題点として,MDHやSCHによってなされた主張を支持する研 究の多くはL2の音韻論の領域に偏っていたこと,そして,有標性の概念に問題がある ことについて論じた.Eckman(1977)の類型論的な有標性の定義では,その含意が明確 でない領域においては,その帰結が明確ではなく,結果としてMDHやSCHによる予 測もできないという有標性を格の学習困難度に応用する際の問題点について論じた.そ の上で,有標性に基づく格の学習困難度に関して,有標性の問題点を解決するために,
類型論的有標性に代わる概念として頻度に基づく有標性の概念を提案した.
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次に,第3章では,日本語と韓国語の格の対応関係について概観し,日本語の二項動 詞の目的語の格標示の統語的性質を明らかにした.特に日本語の二項動詞の目的語を標 示する「に」は与格の格標識か後置詞であるというSadakane & Koizumi(1995)の分析 を示した上で,日本語の「に」と韓国語の対格「을/를[ul/lul]」が対応する場合について,
統語的なテストを行い,対応関係を明確にした.統語的なテストを行うことによって,
これまで指摘されてこなかった後置詞「に」と「을/를[ul/lul]」が対応する動詞(例えば,
「似る」,「同情する」など)があることを明らかにした.その上で,日本語と韓国語の目 的語の格標示の頻度を韓日パラレルコーパスで調査し,目的語を対格で標示する韓国語 の用法よりも目的語を与格/後置詞で標示する日本語の方が有標であることを示した.
さらに,この調査によって明らかになった有標性の関係に基づいて,韓国人日本語学習 者の格の学習困難度を(1)のように予測した.
(1) SCHに基づく韓国人日本語学習者の学習困難度の予測
(a) 対格「を」と対格「을/를[ul/lul]」が対応する場合,どちらも無標なので対格
「を」の学習は易しい
(b) 与格の格標識「に」と対格「을/를[ul/lul]」が対応する場合,より有標な「に」
の学習は難しい
(c) 後置詞「に」と対格「을/를[ul/lul]」が対応する場合,より有標な「に」の学 習は難しい
第4章では,有標性に基づく学習困難度の予測を検証するため,韓国人日本語学習者 のコーパス及び日本人韓国語学習者のコーパスを用いて,調査を行った.正用例,誤用 例の出現時期と数を分析するだけではなく,誤用として表れてこない「回避」の可能性 についても考察した.3章で提案したSCHによる日本語と韓国語の二項動詞の格標示 の学習困難度についての3つの予測のうち(1a)「対格「を」と対格「을/를[ul/lul]」が対 応する場合,どちらも無標なので対格「を」の学習は易しい」及び(1b)「与格の格標識
「に」と対格「을/를[ul/lul]」が対応する場合,より有標な「に」の学習は難しい」の2 つについて,韓国人日本語学習者のコーパス(「タグ付き KY コーパス」および「C-JAS(Corpus of Japanese As a Second language)」)の分析に基づいて考察した.
まず,(1a)の対格「を」の正用については,学習の初期の段階から対格「を」の発話
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ができており,習得が易しいことを示唆した.次に,対格「を」の誤用については,中 級,上級の学習者であっても「バスを乗る」,「友達を会う」のような誤用が見られ,習 得が難しいことを示唆した.さらに,誤用が見られた「乗る」と「会う」について縦断 的なコーパスである C-JAS で誤用も含めた習得の過程について分析した. C-JAS の 調査の結果,「~に乗る」,「~に会う」の形の正用は,学習の後半の時期に発話されて おり,習得が難しいことが示唆された.一方,「~を乗る」,「~を会う」の形の誤用は 少なかったが,「バスφ乗る」,「車φ乗る」のような格標識の脱落の現象が多く,どの 格を用いたらよいかわからないため,意図的に回避したとも考えられた.そのため,さ らに,同じ話者が他の他動詞(「読む」)の場合に対格「を」を用いているかどうか調査 し,K1およびK3の学習者については「本を読む」などのように発話する頻度が高か ったことから,格標識脱落が回避の結果である可能性が高いことが示唆された.さらに,
宇佐美まゆみ監修(2011)『BTSJ による日本語話し言葉コーパス(2011)』を用いて,日 本語母語話者の発話との比較も行った.日本語母語話者の格標識の脱落と韓国人日本語 学習者の格標識の脱落の割合と比べると「φ乗る」は韓国人学習者の約半分程度であり,
「φ会う」は半分以下の割合であることから,日本語母語話者の格標識の脱落とは性質 が異なると考えられた.この結果は,韓国人日本語学習者は,学習困難度の高い格標識 を回避していることを強く示唆しており,SCH の予測(1b)が経験的に正しいことを示 していることを論じた.
次に,SCHによる日本人韓国語学習者の学習困難度について,(2)のように予測した.
(2) SCHに基づく日本人韓国語学習者の学習困難度の予測
(a) 対格「を」と対格「을/를[ul/lul]」が対応する場合,どちらも無標なので対格
「을/를[ul/lul]」の学習は易しい
(b) 与格の格標識「に」と対格「을/를[ul/lul]」が対応する場合,より無標な 「을/를[ul/lul]」の学習は難しくない.
(c) 後置詞「に」と対格「을/를[ul/lul]」が対応する場合,より無標な「을/를[ul/lul]」
の学習は難しくない.
(2a), (2b)について,日本人韓国語学習者のコーパス(「KC Corpus」)の分析に基づい て考察した.その結果,データの不足の問題はあるが,すべての予測が経験的に裏付け
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られることを示した.しかし,有標性の仮説だけでは格の学習困難度を十分に説明する ことができないということも論じた.
第5章では,もう一つの理論的枠組みとして用いる「他動性」に関する先行研究をま とめ,他動性に基づく学習困難度の仮説を提案した.まず,他動性がどのように定義さ れ,研究されてきたのかHopper and Thompson(1980),角田(1991/2009)などの代表的 な先行研究を概観し,日本語と韓国語の格と他動性に関する先行研究をまとめた.さら に,他動性を用いた第二言語習得研究についても取り上げ,他動性の基準が曖昧である こと(あるいは一部の他動性の概念に偏っていること)という問題を指摘した.そして,
その問題点を踏まえ,他動性の概念に基づく格の学習困難度の仮説について論じた.
第6章では,他動性に基づく学習困難度の仮説について,韓国人日本語学習者のデー タを対象として,学習者コーパスによる調査を行い,(3)の仮説の検証を行った.
(3) 他動性と頻度に基づく学習困難度の仮説
i) 二項動詞を含む文は他動性と動詞の頻度の2つの要因によって4つの組合せ (a)-(d)に分類される.
(a) 他動性:高,頻度:高 (b) 他動性:高,頻度:低 (c) 他動性:低,頻度:高 (d) 他動性:低,頻度:低
ii) 動詞の学習困難度はこの範疇ごとに異なる.
対格「を」を取る動詞は,(3a)「他動性:高,頻度:高」のグループから発話される 傾向があり,このグループの動詞は予測通り習得が易しいことが示唆された.一方,学 習の比較的初期の段階でも,(3d)「他動性:低,頻度:低」の類に属する動詞である「勉 強する」などの動詞は正しく発話できていることがわかった.しかし,この結果は,他 動性と動詞の頻度という要因だけでは説明できない現象として残った.
一方,「に+動詞」の正用の初出時期(習得のしやすさ)については,他動性がある 程度低くなると他動性よりも頻度が影響することを示唆した.
第7章では,Haspelmath(2015)の「他動性卓越(transitivity prominence)」の概念に ついて紹介し,この枠組みを用いることによって,3章で論じた有標性を他動性の一部
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として取り込むことができることを論じた.最後に,「他動性卓越」と意味的特性とし ての「他動性」に基づく学習困難度の仮説を提案し,パイロット的な調査であるが,コ ーパスデータを用いて検証を行い,その問題点を指摘した.