第三章 罪を犯した人の社会復帰支援の司法と福祉の関わり
第三節 これまでの刑事司法と社会福祉の関わりの変化
現在、社会的バルネラブルな罪を犯した人への援助が社会福祉に求められている。
では、罪を犯した人への刑事司法と福祉の関わりは近年始まったことだろうか。社会 福祉の中では、社会的にバルネラブルな人への援助は社会事業として行われて来たと いう経過がある。どこで、社会事業が更生保護として、刑事司法に位置付けられ、社 会福祉が関わらないことになったのだろうか。そして、近年、上記の司法福祉でみて きたような司法と福祉の連携が必要になったのであろうか、その過程で、高齢者で罪 を犯した人はどのようにとらえられていたのだろうか。これらの問題意識を背景に、
本節では、我国の罪を犯した人への社会復帰ということを中心にこれまでの刑事司法 と社会福祉の関わりの歴史の変化を確認する。
1.社会的バルネラブルな罪を犯した人の支援の源流としての救貧政策
明治の初めは、家族、隣人等による私的救済が中心であったが、1874年に社会福祉の 萌芽といわれる恤救規則が制定され、「無告の救民」「ほかによる辺のない者」が公の 救済を受けるようになった。罪を犯した高齢者の福祉的援助としては、明治時代に貧民 救済としてとして「恤救規則」では、生業不能の70歳以上の病人および障害者として 恩恵的に保護されたものがある。その後の社会保障としての公的扶助としての「救護法」
でも貧困で扶養者のいない65歳以上の老衰者として救済対象となった。だが、そこで は、欠格条項として「素行不良者を除外する」とされ、罪を犯した高齢者は社会保障か ら排除された。そこには、たとえ生活が困窮していようが罪を犯せば国の保護の対象に ならないという当時の福祉の考え方があった。
1880年には刑法(旧刑法)が制定され、翌年1881年には監獄則により、監獄の一種 類である懲治場が設置され、罪を犯した人は懲役刑としての就労が義務づけられ「懲治 場での強制労働が実施された。この懲治場の特色としては、有用労働、つまり生産とし て役立つような労働に従事したことと、改善・更生させて社会復帰させるという教育刑 論的な特別予防思想を内容としており、仮釈放後の監視や保護制度も含まれていた。
監獄での労働が受刑者の社会復帰に向けての教育・訓練手段とされた。監獄則には、
刑満了後の家庭環境の整わない人の収容場として「懲治監」が設置された。それは、刑 事責任の及ばない幼者または瘖啞者(いんあしゃ)を懲治するために留置した事実上の 監獄であった。その処遇の実際は一般犯罪者の刑罰と大同少異であった。
福祉的考え方で発祥した民間事業は、その後、次第に刑事政策に組込まれるようにな
り1900年には、国の中央監督機関として監督事務が内務省から司法省に変更になった。
ここで、罪を犯した人への対応は司法の管轄になった。1913年、民間主導で、司法保護 委員がおかた。これは,その後の保護司制度、司法保護委員制度の原型となり、出所後 の地域生活を支える要となった。その実施は民間の宗教家や慈善家等が中心になって行 った。
1922 年には社会内処遇としての在宅保護(保護観察)が旧少年法に導入された。少
年保護委員が、国の機関により保護観察を実施することにつながり少年審判所が置か れた。我が国最初の保護観察制度の導入であったが、最初の保護観察(社会内処遇)は 少年からであった。これは1939年の司法保護事業においても一部取り入れられ(思想 犯保護観察法)戦後の「犯罪者予防更生法」に引き継がれた。1924年には、仮釈放者保 護、執行猶予者保護、少年保護が一緒になり、更生保護の事業名の変更があった。免囚 事業から「司法保護」へ変わった。
司法保護事業では、保護司の前身である司法保護委員が制度化され、14,000人が司
法保護の対象者の保護を実施し始めた。また、罪を犯した人の社会生活の保護を行う事 業ならびにその指導•助成をする事業として司法保護団体が法制化された。これは、国 の制度として明確に位置付けられた。同法は,司法保護のうち収容保護と一時保護を分 け、団体の指導•助成を目的にして中央保護会を設立した。これによって、長い間、民 間保護事業化の善意にゆだねられていた司法保護事業が初めて、国の監督によって運営 されることになった。だが、これは国の責任によって実施するというものではなかった。
司法と福祉の関係を、森山武市郎は『司法保護事業概説』(1941)で「司法保護がま
だ出獄人保護事業や免囚保護事業という名で民間によって担われていた時、社会事業 の一種として考えられており、その後、司法保護事業法の制定に至ったことで司法保護 は社会事業に対して完全に独立した」と、制度上の分離がここであったことを指摘して いる。
2.非行少年の増加26と司法福祉
戦前は、司法と福祉は分離していたことを確認した。福祉は、刑事司法領域にいる社
戦後、この状態は制度的に固定化されることになったが、増加する司法に関わる非行 少年に対して、司法だけで対応するには問題があるとした家庭裁判所の現場調査官か らの問題意識から司法福祉の動きが出てきた。司法福祉は⻘少年の保護,矯正,教育,
福祉の専門家を束ねる理論と実践の構築を目指した。
罪を犯した人への社会復帰援助については、司法と福祉で大きな議論となった。連軍
の司法改革では、罪を犯した人の社会復帰支援について、連合軍総司令部(GHQ プリズ ン•ブランチのバーデッド•G•ルイス(Burdett•G•Lewis))を中心とする更生保護改革 では、社会福祉への位置づけが主張された。また、戦前の民間委託を反対し、司法保護 委員制度を廃止するように主張した。GHQは社会福祉制度による「国家責任•公私分離•
無差別平等•必要十分」(1946年:社会救済に関する覚書)による民主化を進めたかっ た。
これらの、GHQの意向に対して、社会福祉の立場は、戦争によるインフラの破壊や衣
食住の不足、孤児や傷痍軍人、失業者の増加等に対応するために社会福祉施策の充実を 優先に着手する意向を示した。厚生省のGHQヘの回答では、厚生省に移管するメリット として、満期釈放者に対し再犯防止の観点から重視される居住や就労の支援は一般の 更生事業でも行いうると報告した。この回答の意図としては予算が追いつかないとい うものであった。
その結果、抜本的な犯罪対策改革案は通らず、戦後の更生保護制度改革はGHQと司法
省で進められた。予算がないため、民間人である保護司や更生保護会が実際の援助をす るようになり、保護司と保護観察官の官民恊働が続いた。更生保護制度は、それ迄の民 間主導で進められた社会内処遇が保護観察所主導になり、実践現場は委託により民間 になり、それを指導、監督するのが保護観察所という縦の構造が出来上がった。GHQに よる戦後改革の中で、社会福祉と更生保護の両方で「国家責任」「公私分離」が目指さ れたが、実現しなく現在まで続いている。近年制定された「再犯防止法」は、罪を犯し た人の社会復帰援助の国家責任を認めたものではない。
1949 年にそれまでの司法保護事業に代わって「犯罪者予防更生法」が施行された。
これは、犯罪者の更生や保護観察制度の運用などを定めたものである。この法律によっ て、更生保護の機関が保中央更生保護審査会、地方更生保護委員会、保護観察所等が規 定された。更生の措置としては、仮釈放、保護観察、更生緊急保護である。法律の目的 においては、①「犯罪をした者の改善及び更生を助け、、もって、社会保護し、個人及 び公共の福祉を増進すること」、 ②「すべて国民は、前項の目的を達成するために、
その地位と能力に応じ、それぞれ応分の寄与をするように努めなければならない」と国 民の更生保護に対する寄与義務が規定され、民間協力者の確保と組織の再構築が目指 された。結果として、立法当時にあった「社会事業」という言葉がなくなった。萩原は
「このことは、我が国における更生保護と社会事業の乖離を表すものかもしれない」と 分析する。
3.少年事件と保護観察官の福祉的役割
司法福祉が司法に関わる社会的バルネラブルな人への関心を持ち始めたのは非行少
年の問題であった。1949 年に少年法が全面改正され、新少年法施行されたが、非行少 年の背景に社会問題があることが指摘された。少年法は、当時、第二次大戦後の混乱期 であり、食料が不足する中、孤児などが生きていくために窃盗や強盗などをする少年が 激増し、また成人の犯罪に巻き込まれることが多く、これらの非行少年を保護し、再教 育するために制定されたものであった。
当時、司法の実体的な援助手法については、福祉的手法をベースにしたケースワーク
が中心であった(土井2007:3)。これは、アメリカでは保護観察官がソーシャルワー カーであったためであろうと考えられるが、有給の公務員である保護観察官はケース ワークの専門家であるとこが求められ、専門家になるためにソーシャルワーク(社会福 祉援助技術)の理論や技法が研修で行われた。
4.司法制度改革と司法福祉
1990年代になると司法に変化が起き、国民への司法サービスという視点が言われる
ようになった。これは、その後、刑事司法制度改革として、身柄拘束の是正として監 獄法改正につながり犯罪者の社会復帰として更生保護法制定につながった。国民や社 会の法的ニーズに応え、罪を犯した人の福利に役立つための実体的解決をめさしたも のである。
一方、福祉の方も社会福祉の拡大に関する論議として、木田徹郎の「社会福祉の対
象者は貧困に限らず急激な社会変動を背景として各種の社会問題、例えば、自殺、疎