九州大学学術情報リポジトリ
Kyushu University Institutional Repository
分子認識ナノフィルタを用いた匂いクラスタリング システムに関する研究
今橋, 理宏
https://doi.org/10.15017/1441257
出版情報:Kyushu University, 2013, 博士(工学), 課程博士 バージョン:
権利関係:Fulltext available.
分子認識ナノフィルタを用いた 匂いクラスタリングシステム
に関する研究
今橋 理宏
2014
九州大学大学院 システム情報科学府 電子電子工学専攻
目 次
第1章 序論 1
1.1 はじめに . . . . 1
1.2 匂いとは . . . . 2
1.2.1 匂いによる価値判断 . . . . 2
1.2.2 匂いの効果 . . . . 3
1.2.3 匂いの分類 . . . . 4
1.3 匂いの計測技術 . . . . 5
1.4 嗅覚バイオモデル . . . . 12
1.4.1 匂い物質 . . . . 13
1.4.2 匂い受容体 . . . . 17
1.4.3 嗅覚の神経ネットワーク . . . . 23
1.4.4 匂いクラスタリング . . . . 30
1.4.5 匂いマップのセンサ応用の意義 . . . . 41
1.5 本研究の新規性と目的 . . . . 42
1.6 本論文の構成 . . . . 44
第2章 匂い分離測定装置の開発と匂いのクラスタリング 46 2.1 匂い分離測定装置の設計 . . . . 46
2.1.1 従来のガスセンサの構造 . . . . 46
2.1.2 一般的な匂いセンサシステムの構造 . . . . 47
2.2 匂い分離測定装置の開発 . . . . 57
2.2.1 システム構成 . . . . 58
2.2.2 測定シークエンス . . . . 60
2.2.3 ガス分離の原理 . . . . 63
2.3 実験結果 . . . . 64
2.3.1 匂い物質の分子パラメータによる 匂いマッピング . . . . 64
2.3.2 匂い物質の匂い分離応答波形の測定 . . . . 66
2.3.3 匂い物質のサイズと極性の測定 . . . . 70
2.3.4 測定された分子パラメータを基にした匂い物質のマッピング. . . 73
2.3.5 混合臭の分解とマッピング . . . . 74
2.4 まとめ . . . . 78
第3章 匂いマップの解析と分子パラメータを基にした匂いクラスタリング 80 3.1 匂いマップの解析 . . . . 80
3.1.1 匂いマップ画像 . . . . 81
3.1.2 本研究で扱う匂いクラスターの定義 . . . . 82
3.1.3 解析手法 . . . . 83
3.1.4 主成分と分子パラメータの相関 . . . . 84
3.1.5 人工匂いマップの作成 . . . . 85
3.2 解析結果 . . . . 87
3.2.1 匂いクラスタリングマップの定義 . . . . 87
3.2.2 匂いマップを説明するキーパラメータの抽出. . . . 93
3.2.3 匂い情報の可視化表現 . . . . 96
3.3 まとめ . . . . 99
第4章 分子鋳型法を用いた分子認識吸着剤の開発 101 4.1 分子認識技術 . . . . 101
4.2 分子鋳型法 . . . . 103
4.2.1 MIPの作成プロセス. . . . 104
4.2.2 鋳型分子(Template) . . . . 105
4.2.3 機能性モノマー . . . . 106
4.2.4 架橋性モノマー(cross-linker) . . . . 106
4.2.5 希釈剤 . . . . 107
4.2.6 ラジカル重合 . . . . 107
4.2.7 MIP研究の歴史と利用分野 . . . . 108
4.3 MITを用いた分子認識吸着剤. . . . 109
4.3.1 MIFAの構造 . . . . 110
4.3.2 MIPフィルタ . . . . 111
4.3.3 認識サイトの形成と吸着の仕組み . . . . 113
4.3.4 吸着層 . . . . 115
4.3.5 MIFAの特徴 . . . . 116
4.3.6 MIFAの高機能化 . . . . 118
4.4 MIFAの特性評価技術 . . . . 119
4.4.1 フーリエ変換赤外分光スペクトル(FT-IR: Fourier transform infrared spec- troscopy) . . . . 119
4.4.2 エリプソメトリー . . . . 120
4.4.3 固相マイクロ抽出法(SPME: Solid phase microextraction) . . . . . 121
4.4.4 質量分析器(MS: Mass spectrometry)159) . . . . 122
4.5 MIFAの作成 . . . . 122
4.5.1 基板の表面処理 . . . . 122
4.5.2 MIPフィルタの堆積. . . . 123
4.5.3 FT-IR測定 . . . . 127
4.5.4 膜厚測定 . . . . 127
4.5.5 混合臭の生成とMIFAへの吸着 . . . . 127
4.5.6 SPME/GC-MS測定 . . . . 130
4.6 実験結果 . . . . 131
4.6.1 FT-IR/ATR測定によるPAA層の堆積評価. . . . 131
4.6.2 MIPとNIPフィルタの膜厚測定 . . . . 132
4.6.3 フィルター効果と非特異吸着の評価 . . . . 134
4.6.4 MIFAの選択性. . . . 135
4.6.5 MIPフィルタの安定性 . . . . 140
4.6.6 Reconfigurable MIFAおよびMultiplex MIFAの実現 . . . . 141
4.6.7 cMIPおよびpMIPフィルタの開発. . . . 143
4.7 まとめ . . . . 148
第5章 匂いクラスタリングシステムの開発 150 5.1 匂いクラスタリングシステム:MIFAを搭載した匂い分離測定装置 . . . 150
5.1.1 匂い分離測定装置の小型化 . . . . 150
5.1.2 MIFAの導入:測定原理 . . . . 155
5.1.3 測定シークエンス . . . . 156
5.1.4 センサシステムによる匂いの検知 . . . . 157
5.1.5 センサ応答を基にした人工匂いマップ . . . . 158 5.2 実験結果 . . . . 159
5.2.1 匂いクラスタリングシステムによるMIFAの吸着特性評価 . . . . 159
5.2.2 混合臭の測定 . . . . 161 5.2.3 センサ応答による人工匂いマップの作成 . . . . 162 5.3 まとめ . . . . 166
第6章 総論 167
6.1 本研究の意義 . . . . 167 6.2 研究結果のまとめ . . . . 169 6.3 今後の展望 . . . . 173
謝辞 176
参考文献 178
図 目 次
1.1 ガスクロマトグラフィーの構成22) . . . . 9
1.2 カラム内の吸脱着の様子23) . . . . 9
1.3 一般的なE-noseの構成35) . . . . 11
1.4 (a)匂い受容体の7つの膜貫通ドメインと(b)予想立体構造52) . . . . 19
1.5 嗅神経細胞内での情報伝達経路49) . . . . 20
1.6 マウスの匂い受容体の匂い物質応答特異性とアミノ酸配列同一性55) . . . 22
1.7 Odotopeと匂いコード56) . . . . 23
1.8 ラットの嗅覚の神経ネットワーク5)49) . . . . 24
1.9 匂いの吸着4) . . . . 25
1.10 嗅球での神経伝達(文献49)より改変). . . . 28
1.11 ばらばらの匂い情報の結合とカテゴリー化70). . . . 30
1.12 糸球体の匂い物質に対する応答特異性と嗅球での位置関係5) . . . . 33
1.13 匂い受容機構と嗅覚での匂いクラスタリング . . . . 35
1.14 森らの匂いクラスター分類5) . . . . 37
1.15 Leonらの匂いクラスター分類67) . . . . 40
2.1 ゼオライトの構造 . . . . 49
2.2 ZMSの分子ふるい効果67) . . . . 50
2.3 Carboxen-1012の形状(SEM画像) . . . . 52
2.4 使用するカラム用吸着材料 . . . . 53
2.5 MOXガスセンサの測定原理90) . . . . 54
2.6 MOXガスセンサのセンサ特性 . . . . 55
2.7 匂い分離測定装置 . . . . 59
2.8 使用する(a) MOXガスセンサと(b)マイクロセラミックヒータ . . . . 59
2.9 GCCAMを用いた場合の吸着分離セル . . . . 60
2.10 測定シークエンス . . . . 62
2.11 MS-M5の電流-温度特性. . . . 62
2.12 分子サイズと極性モーメントを基にした匂い物質のクラスターマッピング 65 2.13 ZMSを塗布して得られた匂い分離応答波形 . . . . 67
2.14 独立成分分析処理による応答波形 . . . . 68
2.15 CMSとGCCAMを塗布した匂い分離測定装置から得られた規格波形 . . 69
2.16 測定されたサイズ定数Siと分子サイズとの相関 . . . . 71
2.17 測定された極性定数Piと極性モーメントとの相関 . . . . 72
2.18 サイズ定数Siと極性定数Piによる匂いのマッピング . . . . 73
2.19 匂いマップ上での混合臭の分解 . . . . 78
3.1 ラットの糸球体で観察されるheptanalとacetophenoneの匂いマップ画像66) 82 3.2 PC1からPC6までの因子負荷量により区分された匂いマップの主成分画像 88 3.3 分子構造により分類された主成分得点散布図 . . . . 89
3.4 極性官能基と炭素鎖数によって分類された匂いクラスタリングマップ . . 92
3.5 分子パラメータによって記述された匂いマップとprogression . . . . 96
3.6 クラスター情報で表された人工匂いマップ . . . . 97
3.7 ラットの匂いマップ画像と人工匂いマップとの類似度表現 . . . . 98
4.1 典型的な分子鋳型合成プロセス108) . . . . 104
4.2 MIP研究論文数の推移127) . . . . 108
4.3 MIFAの多層構造と分子フィルター効果 . . . . 111
4.4 様々な特徴を持つMIPフィルタ . . . . 112
4.5 MIPフィルタ内の認識サイトを形成する分子間相互作用 . . . . 114
4.6 Reconfigurable MIFAとMultiplex MIFAの模式図 . . . . 118
4.7 エリプソメトリー測定の原理 . . . . 120
4.8 SPMEの構造と吸着ファイバー158) . . . . 121
4.9 表面ゾルゲル過程によるMIPフィルタの作成プロセス . . . . 124
4.10 cMIFとpMIFの作成プロセス . . . . 126
4.11 混合臭の生成プロセス . . . . 128
4.12 SPME/GC-MS測定. . . . 130
4.13 u-PDMSとPAA層を修飾したMIFAとのFT-IRスペクトルの比較 . . . . 132
4.14 基板に修飾されたTiO2/PAA層の膜厚変化 . . . . 133
4.15 u-PDMSに対するNIPフィルムのフィルター効果 . . . . 134
4.16 (a) u-PDMS,(b) MIFAhexanoic acid,(c) MIFAoctanoic acid に吸着した混合ガス から測定されたクロマトグラム . . . . 136
4.17 脂肪酸に対するMIFAf atty acidの吸着特性:(a) MIFApropanoic acid,(b) MIFAhexanoic acid, (c) MIFAoctanoic acid . . . . 137
4.18 ケトン・アルデヒドに対するMIFAの吸着特性:(a) MIFAheptanal,(b) MIFA3−octanone138 4.19 様々な匂い物質から成る混合臭に対するMIFAの吸着特性:(a) MIFAheptanal, (b) MIFAheptanoic acid . . . . 139
4.20 エタノールへの浸漬によるMIFAoctanoic acidの選択性変化. . . . 141
4.21 MIFAの可塑性を利用したMIPフィルタの変形 . . . . 142
4.22 Multiplex MIFAの吸着特性 . . . . 143
4.23 FT-IR/ATR装置を用いて得られた(a) MIPパウダーのFT-IR スペクトル, (b)ディップコートしたMIPフィルムの差分スペクトル,(c) cMIFの差 分スペクトル . . . . 144
4.24 異なる濃度のポリマー溶液への堆積時間に対するcMIFの膜厚変化 . . . 145
4.25 cMIFAとMIPパウダーの吸着量と選択性の比較 . . . . 146
4.26 FT-IR/ATR装置を用いて得られたペプチド層の差分スペクトル. . . . 147
4.27 異なるポリマー溶液への堆積回数に対するcMIFの膜厚変化 . . . . 147
4.28 pMIFAbenzaldehyde,pMIFAheptanoic acid,pMIFAheptanalの吸着特性 . . . . 148
5.1 センシングセル内部の構造 . . . . 151
5.2 従来のセルとセンシングセルの応答比較 . . . . 152
5.3 匂いクラスタリングシステム:MIFAを搭載した匂い分離測定装置 . . . 154
5.4 匂いクラスタリングシステムでの吸着と脱着の仕組み . . . . 156
5.5 3-octanoneを測定した時のu-PDMSとMIFA3−octanoneに対応する応答波形 158 5.6 単独臭を測定して得られたセンサ応答定数を基にしたMIFAの吸着特性 160 5.7 匂いクラスタリングシステムで得られた混合臭のセンサパターン . . . . 162
5.8 センサ応答を基にした人工匂いマップ . . . . 165
6.1 匂いマップ画像のカラーパターン . . . . 175
6.2 匂いアプリケーション . . . . 175
表 目 次
1.1 匂いの性質を表す代表的用語 . . . . 4
1.2 匂いセンサの応用分野と求められる性能 . . . . 7
1.3 極性官能基の種類と構造 . . . . 16
1.4 分子プロファイルの種類と構造 . . . . 17
1.5 クラスターを代表する官能基とその匂いの性質 . . . . 37
2.1 使用するCMSの構造と特徴 . . . . 51
2.2 様々なガスセンサの性能 . . . . 57
2.3 選択された匂い物質 . . . . 64
2.4 匂い物質の分子情報 . . . . 66
2.5 混合臭の分解結果 . . . . 76
3.1 ChemBio3Dで計算された分子パラメータ . . . . 85
3.2 計算された主成分と分子パラメータとの相関結果 . . . . 95
4.1 生成される混合臭の構成分子の飽和蒸気圧と濃度 . . . . 129
4.2 生成する混合臭の組成 . . . . 129
4.3 エリプソメトリーで測定されたTiO2/PAAの膜厚. . . . 133
5.1 センサシステムで測定する混合臭の組成 . . . . 161
5.2 センサ応答定数R(MIFAi, j)を基にしたクラスターNの活性度定数RN . . 163
第 1 章 序論
1.1
はじめに人は視覚・聴覚・触覚・味覚・嗅覚といった感覚を駆使し,その生命活動を維持し,日 常生活を送ってきた1).同時に,科学技術の発展に伴い,これらの感覚の仕組みを解明 したり,代用となるデバイスの開発が活発的に行われている.これら五感の中でも匂い を感受する嗅覚は生物にとって最古の感覚だといわれており,人は接するほとんどすべ ての物質や生物から匂いを感じることができる.たとえ全く揮発しない金属であっても,
触れると触媒反応によってアルデヒドが生じ,間接的ではあるが人は匂いを感じている.
つまり,人は匂いというものを意識していない時でも,常に匂いと接している.人間以 外の生物にとっても食物の探索,自分たちの縄張りを示すためのマーキング,天敵など の危険察知を行う手段・指標として匂いが用いられている.さらに,花の香りや異性の フェロモンを官能的に感じるためにも使用されている2).近年,脳の仕組みの解明が進 んでいく中,匂いを受容する機構に関しても同様に明らかになりつつある3)4).
なぜこのように,匂いが様々な指標として使用され,その違いによって行動パターンが 変わってくるのであろうか.それは匂いの多様性と嗜好性が関係していると考える.前 者において,匂いは複数の揮発性化学物質で構成されている.揮発性物質の数は40万種 類以上あるともいわれ5),その組み合わせパターンを考えると,匂いの種類というのは天 文学的数字になってしまう.その結果,ある生物のみが特異的に識別できる匂いパター ンが多く形成されるようになっていった.後者において,生物には匂いに対して嗜好性
が存在している.例えば,花や香水を心地よく感じ,腐敗臭や悪臭などを不快と感じた り,危険と見なしたりといった場合である.この生物のもつ匂いに対する感性によって,
好きな匂いを発する物には近づき,嫌いな匂いを発する物から離れるなどの行動パター ンの違いが現れる.匂いの嗜好性は経験や遺伝情報などに大きく影響され6),個人だけ でなく,種族ごとに特有の性質を持っている.
生物は匂いを嗅ぐことで膨大な情報を得ており,匂いが情報の伝達媒体としてとても 優れていると言える.しかし,匂いの多様性と嗜好性のために,人が匂いを表現するこ とは難しく,現在でも定量的に評価できていない.
1.2
匂いとは1.2.1 匂いによる価値判断
「匂い」や「香り」は直接的に人間の原始感情といわれる快感や不快感を生起させる.
人間は閾値以上の濃度の匂いを嗅ぐと「甘い香り」や「悪臭」など,何らかの価値判断 をする.人間は人や物の価値判断をするのに,匂いの情報を利用している.実際に,発 する匂いによって,人や物体の印象が大きく変わってくるという事例がいくつか報告さ れている.そのため,人間は匂いをコントロールすることを意識するようになっていっ た.例えば,香水を付けることで,自分から発する体臭や生活臭を隠しているだけでな く,相手に好印象を持たせることもできる.また,料理にスパイス等の香辛料を入れるこ とで,食欲を増進させることができる.人間社会において相手に抱かれる印象というの は重要なことであり,それに影響を与える匂いと嗅覚に対して人間は大きな関心を持っ てきた.
一方で,近年,揮発性有機化合物(VOC: Volatile organic compounds)などを基にした悪
臭が環境問題となってきており,1971年に悪臭防止法が施行されて以降,1995年には従 来の特定の物質の排出濃度に着目した規制(物質濃度規制)に加えて,人間の嗅覚を用い て測定する方法による規制(臭気指数規制)が導入されている7).つまり,人々が不快に 思うかどうかという価値判断が求められるようになった.
1.2.2 匂いの効果
匂いは上述した特性以外にも,生物の嗅覚やその他の器官に多くの作用をもたらすこ とがわかっており,心理学や精神物理学では匂いの効果に関する研究が盛んに行われて いる8)9).例えば,3Z-hexenol(leaf alcohol)や2E-hexenal(leaf aldehyde)といった植物の葉 の芳香成分をgreen odorと呼ぶが,green odorを被験者に嗅がせると血圧の上昇を抑え,
心拍数を正常値に戻す効果があり,また,抗ストレスや精神安定効果についても報告さ れている10).また,視覚・聴覚と嗅覚にはニューロンの信号統合の影響から共感覚作用 が存在するため,人は色11)や音楽12)によって,感じる匂いや心理状態に変化が生じる ことも確認されている.
このように,人は匂いによって行動や心境の変化をもたらされるなど,嗅覚には特異 的な性質をもっている.そのため,匂いの効果に対する注目度は大きく,様々な分野で 利用されている.例えば,食品や環境など多くの分野では,消費者に購買意欲を起こさ せるために,匂いをマーケティングに用いている.また,花や植物の芳香成分からなる アロマによって,心身の健康や美容を増進させるアロマテラピー効果が注目を集め,日 常生活や医療現場でも利用されている.特に,化粧品や香水に含まれる香り成分はヒト の価値判断を誘発させるものであるため,男女問わず使用する人が多く,化粧品業界の 業界規模は1兆7000億円に達している.「匂い」や「香り」に関する多くのビジネスが成 り立つようになり,匂いが人間社会に与える影響はとても大きい上に,社会基盤におい
ても重要な位置を占めつつある.
1.2.3 匂いの分類
一般的に,人は匂いを言語によって表現する.人が匂いを言葉で表現する場合,「バ ラの香り」や「リンゴの匂い」といったように主観的な言葉で表現される5)13)14).しか し,嗅いだ匂いに誘発される情報がすべて共通しているわけではなく,そこには個人差 が生じてしまう.そのため,多くの人にとっては「悪臭」と感じる匂いでも,ある人に は「芳醇な香り」など悪い匂いと感じない人も存在する.さらに,言語はその人の体験 や属する文化に依存し,共通した言葉が用いられるとは限らない.表1.1に日本と海外 で学術的に使用される匂い表現を示す15).英語と日本語だけでも多くの匂い表現が存在 し,その中には,似ているものもあるが,完全に対応してはいない.このように匂い表 現が曖昧になる一番の要因は,匂いの質の基礎となる匂い,つまり,「基本香」あるいは
「基本臭」というものが定義されていないことである.
表1.1 匂いの性質を表す代表的用語
味覚には,五基本味(甘味・苦味・酸味・塩味・うま味)と呼ばれる基本となるパラ
メータが存在するため,塩味が強ければ「しょっぱい」などある一定の表現に統一され る.視覚には,3原色(赤色・青色・緑色)が存在し,この組み合わせにより全ての色を 表現することができる.聴覚については,周波数の違いを検知することで音階の違いを 表現できる.そして触覚においては,体に受ける圧力や温度の違いを皮膚で検知し,そ の強弱により圧力や温度を表現できる上に,数値として計測できる.一方,嗅覚におい ては匂いの違いや強弱はもちろん認識しているが,それを具体的に示す明確な表現方法 が確立されていない.また,匂いは膨大な化学物質の組み合わせにより構成されるため,
基本臭を定義することが難しくなっている.
歴史上,基本臭の定義や匂いの分類を目指す試みは数多くなされてきた.例えば,ド イツの心理学者Henningは基本臭となりうる匂いとして,花,果実,樹脂,薬味,焦げ 臭,腐敗臭の6種類をあげたが,これらは19世紀の初めに欧米で代表的とされた匂い表 現と考えられる.その後1968年にHarparらが匂いの質を表す代表的な用語44個と代表 的な臭気物質45種を選び,両者の関係について調べている16).しかし,基本臭は存在し ないという研究者もいるなど,決定的な基本臭は定義できていない.そのため,匂いに 関連した研究を行う上では,匂いという情報を扱うことが困難になっている.現在まで に,匂いを適切に分類することができず,匂いを厳密に定性・定量化し,識別すること は実現できていない.これが匂いを扱う上で最も難しい点であると考える.
1.3
匂いの計測技術これまで温度センサなど多くのセンサが開発され,センサによる計測技術が人間の生 活の質や科学技術を大幅に発展させてきた.当然,匂いのセンシングにおいても社会に 与えるインパクトが計り知れないことは,センサの歴史からも明らかである.近年,希 薄な悪臭や環境汚染物質を高感度に検知したり,空気中における対象物質をモニタリン
グする需要が高まっており,匂いをセンシングするという行為を可能にするデバイスの 開発が進んでいる.さらに,そのデバイスより数値化された「匂い情報」を応用するこ とで,人をより満足させる香料の開発や匂いの可視化など匂いに関する新しい製品・分 野を開拓することもできる.
匂いのセンシングの応用例として,食品検査が挙げられる.現在,日本は生活水準が 向上した反面,諸外国に比べ,食料の大量廃棄が大きな問題になっている.日本人は1日 に3000万人分の食料を廃棄している.厳しい規制が食しても健康に問題のない食品の大 量廃棄に繋がっている.これらの問題を解決するために,匂いのセンシングが大きな役 割を担う.腐敗した食品の放つ匂いには,脂肪酸等の匂い物質が関係すると言われ,匂 いのセンシングにより,脂肪酸やカビ等に関係する芳香成分のみを検知・識別すること が可能になれば,将来的に必ず生じる食糧問題に一石を投じることができると考えてい る.
匂いのセンシングを可能にするセンサを一般的に匂いセンサと呼ぶ.匂いセンサは誰 も測定・定量化したことがない「匂い」を計測対象として,匂いを表すデジタル情報を 抽出することができるデバイスである.そのため,品質検査や,有害化学物質や爆発物 といった危険物質の検知などへの直接的な応用以外にも,体臭による人の識別や快適な 生活の維持などへの応用も期待されている.
現在までに気体媒体を測定できるセンサは多くあるが,匂いセンサは人が感じる匂い の違いなどの匂い情報を保ったままで,客観的にそれを数値化する必要がある.匂いを センシングする上では,濃度依存性や匂い物質の選択性などを制御して,意味のある数 値化をすることが求められる.意味のある数値化とは匂いを定量化することや適切に分 類することである.ここで,匂いの定量化が問題になってくる.現在,香りのスペシャ リストとして調香師がいるが,個人の感性と知識を基に香りを調合しており,「匂い」の 厳密な定量化はできていない.ゆえに,誰も定量化できていない匂いのもつ膨大な情報
を測定し,匂いの定量・分類を行う測定システムが匂いセンサの位置づけである.
以上のことを満たし,匂いの検出が可能なセンシングシステムが実現できれば,様々 なVOCや匂いを包括的に検知したり,適切に分類することが実現できるようになる.こ れにより,より広範囲への応用に加え,今まで定義することができなかった匂い自体を 区分する基準を定義することが可能になり,匂いを扱った新たなサービスや分野を生み 出すことにも繋がる.表1.2に,匂いセンサの応用範囲とそれに求められる匂いセンサ の機能や性能について述べる.本研究ではこのような匂いセンサの開発を目的としてい る.表1.2中の赤文字で表現された機能は,本研究で開発する匂いセンサシステムに期 待できる機能であることを示唆している.以上より,匂いセンサを実現できれば,社会 的にも,工学的にも大きなインパクトを与えることができると考えている.
表1.2 匂いセンサの応用分野と求められる性能
匂いセンサの研究は1990年代より,盛んに行われている.例えば,近年,癌患者か らは癌を示す特有の匂いが生じているという結果17)18)が報告され,犬が癌患者の匂いを 識別できた事例も現れるようになり,Pennazzaらは皮膚がん患者特有の匂いを検知・識 別できるセンサの開発を行っている19)20).加えて,人間の体臭にも指紋のような匂いパ ターンが存在している可能性があり,関係する揮発性化学物質の探索や検知するセンサ の研究も行われている21).このように,医療やバイオメトリックスといった分野におい て,特定の匂い成分の評価と検知できるセンサの開発が必要となってきている.そこで,
匂いの測定に用いられる代表的な計測方法やセンサデバイスとその研究について以下に まとめる.
ガスクロマトグラフィー(GC: Gas chromatography)22)23)
ガスクロマトグラフィーは700度までの沸点をもつ揮発性物質の分離同定・定量 に用いられる分離分析法とその装置のことを指す.目的に応じて測定条件を設定で き,適応範囲が広いので,微量成分の測定や,多数の成分を一度に分析することも 可能である.また,分離性能が高く,高感度に化学物質の検知を可能にする.ヘリ ウムガスなどの不活性な気体をキャリヤーガスとして,分析対象ガスと共にカラム とよばれる管の中に流し、カラム内の固定相である吸着剤との相互作用(吸着・分 配)によって,移動相に流れる物質を分離する.化学物質によって移動の速度が異 なるため,測定ガスを単一のガスとして検知することができる.ガスクロマトグラ フィーの全体図を図1.1に,カラム内での測定ガスの移動の様子を図1.2に示す.
図1.1 ガスクロマトグラフィーの構成22)
図1.2 カラム内の吸脱着の様子23)
固相マイクロ抽出法(SPME)や質量分析器(MS)と組み合わせることで,測定す る匂いを構成する化学物質の高感度検知と高度な分析を可能にする24).これらの
装置を用いて,がんの検知25)26)や匂いの記録27)などが研究されている.
加えて,におい嗅ぎGCと呼ばれるGCによって分離された匂いを分析者の嗅覚 によって評価する装置を用いて,悪臭や食品の評価も行われている28).GCにより 検出された化学物質のすべてが,人が感じる匂いの性質に大きな影響を与えるわ けではない.これは,人間の鼻に対する認知閾値が匂い物質ごとに異なるためであ る.従来のGCとは違い,におい嗅ぎGCは混合臭からカラムにより分離された化 学物質を,分析者の鼻により分析できるため,匂いの性質に関係のある物質のみを 検出することが可能になる.匂い物質の認知閾値や匂いに対する有意性を調べる手 法としては,様々な濃度に希釈した芳香物質をにおい嗅ぎGCで測定するアロマ抽 出物希釈分析法(AEDA)29)や匂いの印象に関する分析者のアンケートを用いる6段 階臭気強度表示法28)などが挙げられる.
しかし,GCは測定時間が長く,持ち運ぶことが困難で,モニタリング等で求め られるリアルタイムの測定ができない.
電子鼻(E-nose: Electronic nose)30)31)
匂いやVOCを測定できる世界で最も有名なデバイスとしてE-noseが挙げられ る.E-noseは測定する匂いやガスを検知し,電気信号に変換できるデバイスであ る.生物の嗅覚での匂い情報処理の模倣を目的としており,人間の嗅覚になぞらえ て開発された装置で,人工鼻として注目を集めている.1982年に発表されて以降,
1990年代より匂いセンサ研究の主要研究としてE-noseは盛んに研究開発がなされ た.そのため,一般に使用される匂いセンサの多くはE-noseになる.
E-noseは主に非特異センサデバイスアレイと出力応答のパターン解析で構成さ
れ,得られた測定ガスの応答パターンを基に,匂いやVOCの定性化や識別を実施
できる.図1.3に嗅覚の神経ネットワークに対応したE-noseのシステム構成を示 す.センサアレイは数百個にも及ぶこともあり,生物の嗅覚のような分子認識能力 はないが,特性の異なるセンサを併用することで測定ガスの検知を行っている32). また,得られたセンサ応答は人間の脳内処理を模倣したニューラルネットワーク33) やフーリエ変換34)などを用いて解析される.
図1.3 一般的なE-noseの構成35)
初期のE-noseは高価で,大型な装置が多かったが,センサアレイと処理機構を
一つのコンピュータチップの中に組み込むことで,軽量化・低価格化だけでなく,
高感度測定を可能にしている.現在のE-noseは,ポータブル性や操作性に優れた 検出器と主成分分析結果などを表示させるパソコンで構成されるため,臭気計と して工場などで使用されている.また,異なる種類のセンサアレイを使用すること で,測定ガスのモニタリング36),特定の化学物質の識別に成功している37)38). しかし,用いるセンサデバイスは選択性が乏しいため,センサアレイ化すること で化学物質の測定を行ってきたが,特定の化学物質の識別や大まかな匂いの差別化
は可能でも,多種類の化学物質から成る匂いを包括的に検知できているわけではな い.つまり,厳密には生物の嗅覚のように,匂いを適切に定量したり,分類できて はいない.加えて,測定ガスの識別能力を非特異センサアレイの種類と数に依存し ているため,測定対象化合物の分子構造に合わせて,検知部を設計することが困難 である.これらの欠点のために,E-noseは1990年代より盛んに研究されてきたが,
限定的な使用に留まり,世界的な実用化には至っていない.そのため,近年では,
より高度な嗅覚模倣を目指し,センサ応用のための分子認識部の開発研究も多く行 われている.
以上のような匂い計測デバイスによって,いくつかの匂いやVOCの識別は可能になっ ており,実際に工場や研究機関などでも使用されている.しかし,これらのシステムは 時間・人・お金の面でコストがかかる上に,再現性や,湿度などの非特異応答が問題にな る場合が多い.さらに,これらのセンサシステムでも,匂いを包括的に検知できず,適 切に分類することができない.そのため,カーボンナノチューブ39)を用いたセンサや嗅 覚の検知部を模倣したセンサ40)41)などの新しいセンサ技術の研究が行われている.しか し,まだ生物の嗅覚に匹敵する匂いセンサは存在せず,実用化できるレベルに達してい ないと言うのが現状である.
1.4
嗅覚バイオモデル匂いは複数の揮発性化学物質によって構成されている.生物は匂いを鼻で嗅ぐ際,そ の匂いを知覚し,匂いの違いを認識することができる.しかし,構成する匂い物質が何 であるかわからないことが多く,調香師でさえ,すべての構成化学物質を認識している わけではない.生物が嗅覚から得られた膨大な匂い情報を取捨選択することで,最適化 しているのではないかと考えることができる.ここで,生物の嗅覚は匂いを構成する匂
い物質から分子構造を記述する分子パラメータを匂い情報として抽出している.しかし,
すべてのパラメータが生物が匂いとして認識する情報に利用されているわけではない.
本研究では,生物が分子から抽出する分子パラメータが膨大で乱雑である様子を匂い情 報のエントロピーと定義する.
生物の嗅覚では,得られる匂い情報のエントロピーを匂いの識別のために最適化する ことで,高度なガス検知を行っていると考えてることができる.そこで本研究では,生物 の匂い情報処理を模倣した嗅覚バイオモデルを定義し,嗅覚メカニズムに基づくセンサ システムの開発を行っていく.E-noseも生物の受容機構の仕組みを真似てはいるが,匂 いの認識能力はセンサ応答パターンの解析を主としており,センサそのものは分子認識 能力に乏しく,それがE-noseの欠点につながっている.そのため,生物と同様の分子認 識能をもつセンサシステムの開発が求められる.ここで,以下に生物の匂い受容機構を 記述する.
1.4.1 匂い物質
「匂い」を発する化学物質は一般に匂い物質(odorant)と呼ばれる.匂いは多種類の 匂い物質で構成されるが,1種の匂い物質単体でも,特有の匂いを持っている.つまり,
匂い物質は人間が感じる匂いの性質に関連した決定要因を含んでいる31).匂い物質のサ イズはÅレベルの分子であり,匂いは多数の分子の集合として存在している.一般的に
分子量は30〜300ほどで,それより大きい分子は飽和蒸気圧が低く,揮発しにくいため
匂いを感じることは困難である.逆に,揮発する化学物質は一部の炭化水素を除くほと んどが匂い物質であるといえる5).生物はこの匂い物質から,匂いの性質などに関する 匂い情報を抽出し,それを電気信号に変換し,脳に伝達することで匂いを認識している.
匂い物質の種類は,分子構造から推測すると数十万種,人の鼻で感じるものでは40万
種以上,存在しているともいわれている1).実際に,一万種類の化学物質が匂いを示す匂 い物質であると確認したという研究結果もある.また,硫化水素やアンモニアなど,ご く簡単な無機化合物を除けばほとんどが有機化合物である.これは炭素骨格を基本構造 とする有機物が揮発しやすい低分子化合物であると同時に,生物の生存にとって重要な 物質になるため,生物が有機化合物を匂いとして認識できるようになったと考えられる.
匂い物質を構成する分子において,匂いに関係のある元素としては,炭素(C),水素(H),
酸素(O),窒素(N),リン(P),硫黄(S),塩素(Cl),臭素(Br),ヨウ素(I)などが挙げられ る42).
この中でも炭素は,匂い物質を構成する上で,最も重要な役割を担っており,分子の 形状を構成する基本骨格となる43)44).しかし,炭素や水素しか持たない直鎖の炭化水素 の匂いを人は知覚しにくい.そのため,実際にこれらの炭化水素をガス燃料として扱う 際には,危険防止として,他の匂い物質が微量に含まれている場合が多い.匂い物質を 構成する元素の中で,匂いに関わる元素として,酸素,窒素,硫黄が有名で,特に酸素 は,確認されている匂い物質に含まれる場合が多い元素である.水素と炭素とこれらの 元素の組み合わせによって,匂い物質は構成され,発する匂いの特徴を決定付けていく.
匂い物質の分子構造
分子の構造において,その電荷分布や極性が極めて重要で,構成する原子の相互 作用により,電子密度の配分を示す分子軌道が決定され,この分子軌道により分子 の形状が決定される.匂いの認識において,匂い物質の分子構造は極めて重要であ り,生物の嗅覚は匂い物質の特徴を捉えることで,匂いを識別していると考えられ ている.例えば,Amooreは1952年に有香物質約600種について化学構造の立体 構造を作り,同じ匂いを発する化合物の共通因子は分子全体の大きさが関わってい るとする「立体化学構造説」を唱えている45).Adrianは匂い物質の極性官能基や
脂溶性というパラメータが匂いの識別に関連していると主張している46).正確に 同じ性質を持つ匂い物質は二つとないといわれるなど,分子構造のわすかな違い であっても生物は異なる匂いであると感じる.このように,匂い物質の分子構造に は,嗅覚が匂いを認識・識別する際の決定要因が存在している可能性が高い.
知覚する匂いに関わる匂い物質の分子構造の決定要因として,次の2つの特徴が 挙げられている.その一つは酸素,窒素,硫黄原子を含む極性官能基である.極性
官能基はosmophore(匂い物質の官能基)として知られ,水素結合やファンデルワー
ルス力といった分子間力によって,嗅覚の受容部と相互作用を起こしやすい.その ため,極性官能基は知覚される匂いの性質に強く影響する5).表1.3に極性官能基 の種類と構造を示す.例えば,脂肪酸はカルボキシル基(-COOH)を持ち,比較的 近い匂いの性質(pungent,fatty,rancid)を誘起させる.また,脂肪族アルコールは ヒドロキシル基(-OH)を持ち,同様にfreshやsweetと感じさせる5).このように,
脂肪酸とアルコールでは匂いの性質が大きく異なっており,生物が知覚する匂いに とって極性官能基が重要な役割を持つことが示唆される.表1.3に関連のある匂い の性質を示す.
もう一つの決定要因は分子形状に相当する分子プロファイルである5)47).例とし て,ベンゼン環等の環状構造や不飽和結合が挙げられる.ベンゼン環を有する化 学物質は,芳香族化合物と呼ばれ,特徴的な匂いを有することが知られている.ま た,植物や昆虫が生成する生体物質であるterpene類のように極性官能基は有して いなくても,不飽和結合や立体構造によって,嗅ぐと植物の発する特有の甘い匂い がする物質も多い.これらの分子プロファイルを有する匂い物質は生物の受容部と 相互作用が生じるため,生物は匂いを感じることができる.表1.4に知覚される匂 いに関係する分子のプロファイルの種類と構造を示す.対して,プロパンなどの直 鎖の飽和炭化水素は,知覚される匂いに関係する決定要因を有していないため,匂
いがしにくくなっている.
極性官能基と分子プロファイルの特有の組み合わせにより,匂い物質の基礎構造 が決まり,生物が感じる匂いの性質が決まってくる.しかし,炭素鎖数,枝分かれ 構造,二重結合の位置,構造異性体といった構造的には微小な違いであっても匂い の性質が大きく変わる場合もある.匂い物質の分子構造と人が知覚する匂いと関係 には注目が集まっているが,この仕組みはまだ解明されていない.もしも,この関 係性を解明できれば,様々な分野への応用だけでなく,センサ開発に多大なる影響 を与えることができる.
表1.3 極性官能基の種類と構造
表1.4 分子プロファイルの種類と構造
1.4.2 匂い受容体
鼻腔内の嗅細胞中に発現する匂い受容体によって匂い物質がキャッチされることで,
生物は匂いを感じることができる.そのため,匂い受容体は生物における匂いセンサと 考えることができる.近年,匂い受容体に関する研究において,1991年にアメリカ出身 の研究者であるLinda BuckとRichard Axelの2人は,匂い受容体の構造と仕組みについ ての画期的な研究結果を発表し48),その功績によって2004年度ノーベル医学生理学賞 を受賞した.彼らの研究成果は今まで確立されていなかった嗅覚での匂いの受容機構を 決定づけるものであった.これらの研究により,匂い受容体および匂い受容体遺伝子が 深く研究されるようになっただけでなく,嗅覚の匂いの認識までの神経ネットワークの 解明が進んでいくなど,生物の嗅覚に関する研究が盛んに行われるようになった.
匂い受容体遺伝子の数は生物の種によって異なるが,約100〜2000個あり,その中で 人間の場合400個近い遺伝子が匂い受容体をコードしていることがわかっている49)50). 匂い受容体の種類はこの遺伝子の数で決まり,人間,マウス,犬の場合,それぞれおよ
そ400種,1000種,900種類存在している49).多くの異なった嗅覚受容体が存在するの は数多くの匂いをかぎ分けるためであり,マウスなどの動物は人間に比べ,より多くの 匂いを嗅ぎ分けることができる.つまり,この匂い受容体の種類が多いことは,匂い検 知の選択性が優れていることと同意である.また,匂い受容体をコードしない遺伝子は 偽遺伝子と呼ばれ,塩基配列の欠失や挿入などが原因で,遺伝子として機能を失ってい る.この偽遺伝子の数は,人間,マウス,犬の場合,それぞれおよそ400種,350種,300 種類存在している49).このように,人間は他の生物に比べ,匂い受容体遺伝子が偽遺伝 子になりやすくなっている.これは,人間の嗅覚が進化の過程で,人にとって重要な匂 い物質にのみ対応するようになった可能性が高く,選択性という点では劣化していった ことを意味している.匂い受容体遺伝子はクラスIとIIという2種類に分類される5)51). クラスIの匂い受容体は,魚類に共通した受容体と言われ,1つ以上の極性官能基を持つ 親水性の高い分子群を認識する傾向にある.対して、四肢動物特有のクラスIIの匂い受 容体は疎水性の高い分子群を認識する傾向にある.
匂い受容体はG蛋白質共役受容体と呼ばれる膜蛋白質であり,7回貫通するドメイン をもつ受容体(7回膜貫通型蛋白質)で,細胞膜の表と裏を7回縫うように貫通し,膜中 に円筒形状の3次構造をもっている(図1.4(a)).そして,匂い物質はファンデルワールス 力などの分子間相互作用によってこの円筒形状の中に引きつけられ,取り込まれる.匂 い物質がこの円筒形状内の吸着部位(匂い受容ポケット)に吸着することで,受容体の一 部の構造が切り替わり,匂い受容体が活性化する(図1.4(b)).つまり,吸着した匂い物質 がスイッチの役割を果たしている.これが匂い受容の第一段階になり,次のターミナル へと情報が送られていく.この受容ポケットの形状は匂い受容体の種類によって異なっ ており,各匂い受容体にとって対応する匂い物質の種類は決まっている.そのため,受 容ポケットの形状と極性配置に当てはまる匂い物質であれば,その受容体を活性化させ ることができる.このことからも,匂い受容体は柔軟で高度な分子認識能力を有してい