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林則徐の黄河・運河治水事業について

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Academic year: 2021

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(1)林則徐の黄河・運河治水事業について. r林則徐記念館」にて筆者が撮影したものである。.               兵庫教育大学大学院学校教育研究科               教科・領域教育専攻 社会系コース.               MO5221F      佐藤 義晃.

(2) 目  次.

(3) 林則徐の黄河・運河治水事業にっいて. 目 次. 序 論・. ・4. 第1章 河東河道総督 林則徐・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・…  8   第1節 河東河道総督 林則徐の黄河,運河治水事業 (1) 河東河道総督の着任・….  ・ ・ 。 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ …   15. (2) 運河工事・・・・・・…. ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ …    19. (3) 湖水調査・・・・・・…. ・ …    。 。 ● ・ ・ ・ ・ …    ● …    。22. (4) 運河竣漢工事・・・・….  。 ・ 。 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ …    24. (5) 黄河増水安定・・・・….  ・ ・ …    ● ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ …   25. 第2節 不正官僚の粛正 (1). 運河竣洪,黄河修築資材問題・・・・・・・・・・・・・・・・…  29. (2). 珈捕上三磨關座修築工事問題・・・・・・・・・・・・・・・・…  32. (3). 山東省運河克折雨道の河庫銭糧問題・・・・・・・・・・・・・…  35. (4). 河標四螢の兵員,銀爾問題・・・・・・・・…  σの…  σD D D37. 第2章 江蘇巡撫 林則徐・・・・…  一・・・・・・・・・・・・・・…  40.  第1節 江蘇巡撫 林則徐の黄河,運河治水事業   (1) 江蘇巡撫の着任・・・…  q・・・・・・・・・・・・・・・…  41   (2) 山東泉河磨戴村猿水塙の工事・・・・・・・・・・・・・・・・…  43   (3) 東河の拡護砕石工事・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・…  45   (4) 蘭儀磨察家棲の渥料問題・・・・・・・・・・・・・・・・・・…  48   (5) 河南省山東省黄河桃況問題・・・・・・・・・・・・・・・・・…  49   (6) 山東運河磨の土石塀工工事・・・・・・・・・・・・・・・・・…  50.   (7) 唯寧磨属提煽工事・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・…  54.   (8) 黄運爾河各道道光11年銀雨問題・6・・・・・・・・・・・・…  57. 第2節 不正官僚の粛正  (1) 河南省商虞磨料探焼失事件・・・・・・・・・・・・・・・・・…  64  (2) 河南省山東省各磨の料探補充問題・・・・・・・・・・・・・・…  68. 2.

(4) 第3節 漕運の状況及び漕船運行の救援業務.  (1) 道光12年漕運開始・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・…  74  (2) 漕運第2集団の再航・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・…  77. 第4節 軍事業務に関わる江蘇巡撫林則徐  (1) 河標四螢の官兵問題・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・…  79  (2) 新式大砲の設置・・・・…  ●●●。’。●●.●●●●。●6。●。81. 第5節 江蘇省の災害地区における救済業務・・・・・・・・・・・・・・…  84 結. 論. 付 録・…. ●   ●. ●   ●   ●. ・88. ・・. 3. 2.

(5) 序  論.

(6) 序論  本論文は,林則徐(1785∼1850)の黄河,運河治水事業にっいて,特に河東河道総督, 江蘇巡撫時代の林則徐の治水事業について考察をするものである。.  林則徐に関する研究はこれまで数多くなされている。しかし,その研究の多くは,道光 18(1838)年11月15目にカン〆トン(広州)に欽差大臣として派遣され,イギリスのアヘ ン商人から大量のアヘンを没収して焼却したこと,また,その結果として勃発したアヘン 戦争(1840∼1842)においても敢然とイギリスと戦った人物としての研究であった(1〉。.  このように,林則徐といえば,アヘン問題,アヘン戦争との関係でクローズアップされ ることが一般的である。しかし,林則徐の実像をアヘン関係の中だけで正しく伝えている のだろうか。井上裕正氏は,同著『林則徐』(2)の中で,官僚時代の治水事業について概要 を述べており,「経世官僚」としでの林則徐に触れている。また,森田明氏は,林則徐の「畿. 輔水利議」(3)を分析し,畿輔(首都地域)における林則徐の治水事業について明らかにし ている。中国の研究者では,郭国順氏が,同著『林則徐 治水』(4)の中で,林則徐の治水. 事業にっいて概要を述べている。しかし,河東河道総督,江蘇巡撫時代の林則徐について は十分には明らかにされていない。.  林則徐の経歴を辿っていくと,乾隆50(1785)年7月26目福建省福州府侯官県に生れ た。その後,嘉慶3(1798)年13歳で「生員」(地方の国立学校の生徒)となり,「科挙」. (官僚登用試験)の第1段階であるr郷試」を嘉慶9(1804)年19歳の時に合格し,その 合格者の呼称である「挙人」になった。更に,3年に1度の全国試験である「会試」では,. 2回失敗するものの嘉慶16(1811)年には合格し,その合格者の呼称である「貢士」とな り,科挙の最終試験である「殿試」に同年合格し,その呼称である「進士」となった。こ のとき林則徐は,満25歳である。.  しかし,これだけではなく,翰林院に残留させるかどうかを決める試験r朝考」という 殿試の再試験が控えていたが,その試験にも優秀な成績を修め,翰林院の見習いである「庶. 吉士」に任命され,更に庶吉士に対して行なわれる3年後の卒業試験である「散館考試」. でも優秀な成績を得て翰林院の編修に任命された。こうして林則徐は嘉慶19(1814)年か ら嘉慶25(1820)年まで翰林院編修を勤めることになる。ちなみに,庶吉士の3年間を併 せれば,9年間,翰林院にいたことになる。.  翰林院編修時代を終え,嘉慶25(1820)年2月に「江南道監察御史」に任命された。こ の職にあったとき,黄河の堤防が決壊し,その修復工事に携わっている。のちに林則徐は 河工,治水行政に精通した官僚に成長するが,その片鱗がこのころから見られた。.  第1章の【表1】から明らかなように,林則徐が満34歳になった嘉慶25(1820)年4 月23目,漸江省の「杭嘉湖道」に任命された。これまで翰林院編修,江南道監察御史と京 官(北京中央官僚)を勤めてきた林則徐は,ここで初めて外官,つまり地方官僚となった。. 以後51歳までの17年間を一貫して地方官僚を歴任することになる。しかも,官僚として. 5.

(7) の17年問では黄河河道担当の河東河道総督及び江蘇省湖広地方の地方官僚を歴任した。.  以上,林則徐の経歴で嘉慶25(1820)年から亡くなる道光30(1850)年まで,30年に わたる官歴のなかで,アヘン問題,アヘン戦争に関係したのは,欽差大臣に任命された道. 光18(1838)11月から道光21(1841)年5月までのたった2年半でしかない。(5)  この事実だけでも,従来のように林則徐をアヘン問題,アヘン戦争との関係だけで語る ことは真の林則徐の実像を知り得たとは言えない。そこで,欽差大臣に任命されるまでの. 林則徐に着目し,特に道光11(1831)年10月河東河道総督,道光12(1832)年2月江蘇 巡撫に任命された林則徐がどのような黄河,運河治水事業を行なっていたのか,また,井 上裕正氏は,林則徐が父の教えである「孝よりも官僚としての公務を優先すべきこと」を 実行し,家庭環境の中で経世済民への志向性を培い,翰林院編集時代に経世済民の資質を. 磨き,官僚時代の林則徐は当然「経世済民型官僚」であったと位置づけしているが,河東 河道総督,江蘇巡撫の林則徐は「経世済民型官僚」であったのかどうか,黄河,運河治水 事業における林則徐の治政を詳細に考察することにより,林則徐の実像を明らかにしてい く必要があると考える。.  研究に用いる史料として,林則徐が道光帝に意見書として提出した上奏文を参考にした。. これらの上奏文は,林則徐の実像を把握する貴重な史料であり,先行研究の書物の中にも. 取り上げられているが詳細に言及した研究は未だない。そこで本論では上奏文が集められ ている中山大学歴史系中国近代現代史教研組,研究室編『林則徐集』(6)を中心にその他の 史料(7)と併せて考察した。.  本論の構成は,第1章は,河東河道総督の林則徐について黄河,運河治水事業並びに不 正官僚の粛清を取り上げ,第2章では江蘇巡撫の林則徐について黄河,運河治水事業,不. 正官僚の粛清,漕運関係,軍事関係並びに賑位業務を取り上げ,林則徐の黄河,運河治水 事業の意義を明らかにしたい。. 【註】.  (1). 林則徐の先行研究として,森田明「畿輔水利議」(『中国水利史研究』第7号1975. 年11月),井上裕正『林則徐』白帝社(1994年11月),大谷敏夫『清代政治思 想と阿片戦争』(同朋舎出版 1995年2,月),来新夏『林則徐年譜新編』南升大学. 出版社(1996年3月),郭国順『林則徐 治水』黄河水利出版社(2003年5月) がある。 (2). 井上裕正『林則徐』白帝社(1994年11月). (3). 森田明「畿輔水利議」(『中国水利史研究』第7号1975年11月). (4). 郭国順『林則徐 治水』黄河水利出版社(2003年5月) ※史料の出典を記していないため,研究書としての扱いが難しく評価しづらい。. (5) 註(2)前掲『林則徐』参照。. 6.

(8) (6) 中山大学歴史系中国近代現代史教研組,研究室編『林則徐集』奏稿上(中華書局.   1965年3月) (7)その他の主な史料及び資料.  ①『中国河工群源』東亜研究所第二調査委員会第二部会,1940年8月(原本全国   経済委員会水利処編輯『中国河工辞源』,1936年7月)   ※これは,河工工事に関する史料である。.  ②『清史稿漕運志課註』星斌夫(1955年5,月)   ※これは,大運河に関する総合的研究である。.  ③『清國行政法』汲古書店(1972年6月)   ※これは,清朝時代の行政に関する史料である。.  ④趙爾巽等撰『清史稿』中華書局(1977年7月)   ※これは,民国時代に編纂された,特に官僚の清朝時代に関する正史。上奏文に   対して皇帝がどのような裁可を下したかが記されている史料である。  ⑤『清代職官年表』第2冊,中華書局(1980年7,月)   ※これは,清朝時代の官僚歴任年表である。.  ⑥星斌夫『大運河発展史』平凡社(1982年6月)   ※これは,大運河に関する総合的研究である。.  ⑦松田吉郎「清代の黄河治水機構」(『中国水利史研究』第16号1986年12,月).   ※これは,清代の黄河治水について南流,北流時期の特徴の研究である。.  ⑧諄其膿『中國歴史地囹集』第8冊,中国地囹出版社(1987年4月)   ※これは,清朝時代の地図集である。.  ⑨挑収源『京杭這河史』中国水利屯力出版社(1998年12月)   ※これは,大運河に関する総合的研究である。. 7.

(9) 河東河道総督 林則徐.

(10) 【表1】林則徐地方官僚歴任年表 就任履歴               職名.     職務内容. 嘉慶25(1820)年4月    漸江省杭嘉湖道①. 漸江省杭州,嘉興,湖州を 管轄する分巡道. 道光2(1822)年6月. 漸江塩運使署理(代理)②. 漸江巡撫師承癒のもと塩政 改革. 8月. 江蘇省潅揚海道③. 潅安,揚州,海州を管轄す る道員. 道光3(1823)年1月. 江蘇按察使④.         12月. 江蘇布政使署理⑤. 水害復興対策. 道光5(1825)年4月. 母の死により「丁憂守制」. 特例で決壊した黄河堤防修 復工事監督 (∼同年8月). 道光6(1826)年6月. 両潅塩政署理⑥. 江蘇省准北,潅南両准の塩 政改革. 道光7(1827)年5月. 布政使を署理(わずか二十. 陳西按察使⑦. 目あまり).         5月. 江寧布政使⑧.         10月. 父の死により「丁憂守制」. 道光10(1830)年6月. 湖北布政使⑨.         11月. 河南布政使⑩. 道光11(1831)年7月. 江寧布政使⑪. ∼道光10年1月. 江北(江蘇省長江以北)に おける災害復興事業統括. 10月. 河東河道総督⑫. 河南,山東両省における河 工最高責任者. 道光12(1832)年2月. 江蘇巡撫⑬. 道光17(1837)年1,月. 湖広総督⑭. 道光18(1838)年11月. 欽差大臣任命⑮. 江蘇省の行政長官. カントンに赴き,海港事件 を調査,処理. 道光19(1839)年12月. 両広総督⑯. 道光21(1841)年5月. イリヘ流罪. 新彊各地で水利,灌慨事業. 道光25(1845)年. 陳甘総督署理⑰. 罪を許され官界へ復帰. 道光26(1846)年3月. 陵西巡撫⑱. 道光27(1847)年3月. 雲貴総督⑲. 道光29(1849)年8月. 退職. 病気のため. 道光30(1850)年9月. 欽差大臣任命⑳. 広西省の内乱鎮圧.       10月19日. 逝去 享年66歳. 9.

(11) 讐 隈忠辺﹁皐邑瑚昌ヰ軸1. 一トz. 輩 囲. 劇. 酬. 露思蟄跨困.           口‡                   睡.      前.  固                認.       誹                 鼎 二    ⇔      盈.    融  _     日レ        掛     鮒.  ㌔ 画   圖E・   ⇔   ㊧.  詩  副           叫.            轟.   鐘用 .矧E     回        ⑬. 晒H.                   囲  酷.                    加.               謡瞳 首.          陣生 酎  滞.     み  む.           .     蜘   ・軒8  再蓼       副    囲 糾. 粟蚤吟■    、. 田     し.       1蝸. 謡. 首蛍          由1瞬. 狛. ㊧  會㊧.   ⇔會   ⑬        ・1          導 叫.          【図1】清時期全図(林則徐の地方官僚歴任箇所). 諦其膿『中國歴史地圃集』第8冊,中国地圏出版社(1987年)を参考に著者が作成した。 ※【図1】の番号①∼⑳は、【表1】職名番号①∼⑳と一致する。. 10.

(12) 【表2】黄河治水機構. (松田吉郎r清代の黄河治水機構j)より.       皇  帝        1       軍機大臣        f.     河道総督 河道総督 各省総督.      素 壱按豪使   給事中                       }.      1, 点 寿   御史      詐振淑嘉      ロ                .      河夫河夫真  清代の中国本土は18の「省」に区分されていた。末端の行政単位は「県」である。 県と州は,合わせて全国に約1,300あり,いくつかの県を集めて「府」,いくつかの府を集. めてr道」,いくつかの道を集めて1つのr省」となる。(県(州)→府→道→省).  それぞれに中央から長官として,r知県(知州)」r知府」r道員(台)」r巡撫」が各1名 派遣された。.  また,省には,財政長官としてr布政使」,司法長官としてr按察使」も各1名派遣され た。.  さらに,2つ以上の省を合わせた広域の行政長官として「総督」が派遣された。ただし, 巡撫だけ,または総督だけが置かれた省もある。【註】. 【註】井上裕正『林則徐』白帝社(1994年)より参照。. 11.

(13) 塊駅ユ礪十莇鉱一. 一聞L 5L曽5. ■. 勃. ・沼丁. 毎. 宣.         ‘.      、」. O道光”年惚月 ④道光11年陀月.    ヨ.            ⑤進光12年1月.            ⑪道光12年1月 !一乙 、㊨夏津 州㊨夏津       O道光12年1月.    。臨清州     ⑮o 1          Φ道光12年1月            ⑪道光12年1月. O博乎⑪     ⑭道光12年3月. 駿机、て 酔湖 田踏 南鳴.   . 瑠野.         ∼.           査査 査靴       ・      訓調箏 調、  、’     鳩雨エ査              査査現銀築訓. ゴ麟..            O道光12年3月 運          ⑫道光櫨年3月. 察.            の道光12年3月            ⑭道光12年3月            ⑮這光12年3月  ⑤東平州      ㊦道光12年4月.       O戴村⑪O道光12年5月1. 河匁∼制 \.           ⑱道光12年5月1.     ◎洩上②⑤  ※地図中①一⑱. 募庭工事現場妻見罪韓. 修築工事現爆視察 忌場視察. て堤防修築工事 51漕船団逼遡 聖漕船団適遇.    嘔邸閣茄 ◎登州府①⑪ 1  リリ   馬路聰◎克州府①⑪.     南旺1魂D照④.     〕ぐ               南          ■.    ◎鷺◎暫。器舞1㈱     東              ◎巨               電. 尺.{.       醐④題 、.               山湘④.       黛. 南. 遡  昭賜1晩 豊◎灘   ◎洲1府ヂ/へ 徴山}胡.緯庄⑱噛肥 黄@単 雪黄 ◎論覇’.  。④,.,。喚.∫.        \【  河 江  嘉 蘇           ’                 ,馬.           \      湖.             【図2】山東省における林則徐の業績 諦其嬢『中國歴史地囹集』第8冊,中国地圏出版社(1987年)を参考に著者が作成した。. 12.

(14)  開封府・論徳府の銀雨調査 ②道光署1年12月  i奎i聯十掌河一帯調査. 1軸1隷1山運. o道光12年1月.  南隣十享河一帯訓査. ④道光12年4月.  商丘・膚堤にむいて堤防修築工事. 来地画中o∼④ヒー致する。         ,・. 垣曲 ◎. 一.    温甚◎.                      ■.           .ζ/. 礪. ◎東平州. 穿3.ゆノ. 、凶丁. O道光11年. 東.   るゆへ. 孟注◎   兼賜◎.          『.   ヘ  ロ. 澤  中.   牟        倫  ^   .   . r. 一翻.   監︶へ,.. 南 ◎陳州府.     う              り.   . 蘇N. ◎弼南府.      マ. \  ㌔. 嬰,,《一 罵 皇._鳶悪鯉   江 ■           の. 安. \。. V北. 、    \ 湖    ’・. 嚇.       \・!『. 一. ,胃. り...          ぽ. 徽.   と.、∼..の .ノ 鑑●剛嘩. 二舅A中コ7分凄嘱.       勺. 邸.             【図3】河南省における林則徐の業績 1潭其駿『中國歴史地圖集』第8研,中国地困出版社(1987年)を参考に著者が作成した。. 13.

(15) 髭i働尺  二』1m團†斯賛迄一   .記5       曽5. 、凶丁. _..   山   東 .                   ロ.     監微耀庄  騨ノ      …    〆          ・・o萱林. ∼.     ㊨彿,州府. 蝕■. 江.         責    賂胤胡. 河.               ◎宿運. へ’〉脅一、∫へ影②  運. ①道光11年”月.  進安府、揚州府において.  賑畑業務 ②道光12年4月.          Lへ.制匡源◎.  碓寧において堤紡修築.  o, ,.             要.  工事 o道光12年5月. ◎潅妄府o 載ル 洪一 “㌧. .愈.  賜州府において賑畑業務 ※地図中O∼Oヒー致する。. 邸. W齎◎湘.      ◎丹陽. 、ノ州  江  ・揚  誼.     ぴ.〆⊆...     、.           長. 安. 蘇. 河. 鷲 江. ◎逼州. o.  ◎常州府. )・.        \. ..』    ◎. 太瑚. ◎.  州府.     ◎松江府.          ’. 徽 /       ∼漸 u. 江.              【図41江蘇省における林則徐の業績. 諦其膿『中國歴史地圖集』第8珊,中国地團出版社(1987年)を参考に著者が作成した。. 14.

(16) 第1章 河東河道総督 林則徐 第1節 河東河道総督 林則徐の黄河,運河治水事業 林則徐は,道光11(1831)年10月道光帝より,前河東(1)河道総督(2)嚴娘(3)から任務. の交代を告げられる。ここに,林則徐は河南,山東省における河工(4)最高責任者となった。. 林則徐が河東河道総督に就いたのは,道光11年10月から翌年の道光12年2月(5)までの 4ヶ月と短期間ではあるが,その4ヶ月の間に林則徐は如何なる任務にあたったのか,『林 則徐集』を史料とし,上奏文の中身を考察することで明らかにしていくことにする。 (1)河東河道総督の着任. 『林則徐集』11∼12頁には,以下の史料がある。.     「起程赴河東河道総督新任摺」 (道光十一年十一月十五目) 奏爲欽遵諭旨前赴東河新任,恭摺覆奏,仰所聖豊事:.  窺臣於十一月十三目在揚州勘災途次,承准軍機大臣字寄:“道光十一年十一月初五 目奉上諭=‘林則徐奏,接奉補授総河諭旨,具摺謝恩,所稻向末諸習河防形勢及土掃各工作 法,倶属眞情,並非有意推譲。朕因林則徐由翰林出身,會任御史,出暦外任巳歴十年,品學倶. 優, 事細心可皐,特昇以総河重缶披稻伊於河防工程末経講求,朕原恐熟悉河務之員深知 属員弊實,或意存謄顧,不肯認眞査出,林則徐非河員出身,正可麓捌弊端,母庸絢隠。該河督 惟當不避嫌怨,破除情面,督率所属,於修防要務悉心講求,親歴査勘,務合機宜,以副重寄。著. 印前赴新任,母得再以不諸河務爲詞也。將此諭令知之。’欽此。”臣脆訥之下,棟憧感激, 莫可名言。.  伏念臣不諸河務之眞情,巳蒙聖明術堕,猫荷垂慈途格,温諭下頒,寛之以工務之講求,期. 之以弊端之贅別。 事敢云可桑,恥天語而盆懐細心1品學誼易言優,繹聖訓而務除情面。 且蒙諭令印赴新任,母得再辞,臣汗背銘心,自不敢復行漬懇。而念責成之至重,恨知識之全 無,不知如何始可仰答高深,有不勝其戦競棟傑者。.  至臣前在江寧藩司任内,経督臣陶樹傳奉諭旨,令臣與常鎭道張岳松総司江北賑務;並 以左都御史白鋳奏,有積慣呑賑之興化縣民顧瑞華、張文華等迎逓呈詞,救交臣等嚴切根究,. 按律懲治。臣行至揚州,業経會同張岳梅審明定擬,詳請督撫臣覆霰具奏。薙新任江寧藩司. 趙盛奎赴任過揚,臣随経接曙,當將現 災賑各事宜詳爲告述,並將巳未覆査各庭災戸大小 口敷,分別移交 理。現在准、揚一帯災匝賑務,随査随放,均稻安静。臣自口由揚州起程,遵 旨前赴東河新任。.  再,査東河所轄運道歳 冬挑工程,此時亟磨興翠,若侯到任後再行往勘,恐致遅誤。臣 現擬取道關河,先行順途履勘,以便興ヱ挑 ,免致耽延。. 15.

(17) 除到任日期男行奏報外,所有微臣遵旨起程赴任録由,謹先恭摺覆奏,伏乞皇上聖監謹 奏。.  道光11(1831)年11月15日の上奏文は,林則徐は道光帝に河東河道総督の任命に感謝 しているが, 「河工最高責任者となるに当って,河防(6)の状態や竣諜(7)工事の方法を知. らず,これが実情でありますが,決して投げやりなことは致しません」と.河工最高責任. 者であることの自覚と責任を持ち,道光帝に対する忠誠心を述べている。また,それに対 して道光帝は,林則徐に対して人品と学術に優れていると称え,また職務を細心の注意で. 行ってきた河東河道総督以前の林則徐の業績を称え,以上の理由により河道総督の重要任 務に任命すると述べ,林則徐に対する多大な期待を寄せている。.  また,林則徐自身は河防工程についてはまだ研究していないと言っているけれども,道 光帝は黄河治水任務を熟知している官吏は,黄河治水任務に属している官員の弊害をよく. 知っており,考察しようとする気持ちはあるけれども,真面目に調査しないことを心配し ており,林則徐は黄河関係の河員出身ではなく,弊害を粛正し,属員(8)を庇うことはない. だろうと述べ,ここでも道光帝は林則徐を信頼していることがうかがえる。.  道光帝は, 「当該の河東河道総督は人から嫌われ怨まれるのを恐れず,黄河治水任務に. 属している官僚を監督引率し,黄河治水の要務を熱心に考察研究し,自ら実地調査を行な い,時期,実情に合わせて仕事を行ない,朕(道光帝)の気持ちにかなうようにせよ。ま ずは新任地に赴き,二度と黄河治水任務をよく知らないという言葉を発してはならない」. と,林則徐に対して黄河治水任務に携わる不正官僚の粛正を行なうよう強く言い聞かせて いる。.  これに対して, 「私(林則徐)が黄河治水任務をよく知らないという実情はすでに陛下. がよく明察されており,それにもかかわらず格別の慈悲を下して頂き,諭旨を下された理 由が,黄河治水工事の研究よりも,むしろ属員の悪習を切除することに期待されているこ とをよくわかりました」と述べている。.  また,林則徐は,「現在江蘇省准安府と同省揚州府一帯の災害地区の賑憧(9)業務につい. ては,調査を進めるに従って資金,食糧を支出しており,均しく安静となった」と,河東 河道総督着任以前の江寧(10)布政使(11)林則徐としての業務内容も併せて上奏している。.  そして林則徐は,「河東河道総督が所轄する運河の歳修(毎年行なう修築工事)(12)の冬. 期竣煤工事は今,施行されようとしているが,着任後に実地調査を行なえば遅れや誤りを 来たす恐れがある。私(林則徐)は赴任の際の通過道路を運河にとり,まずは途上で実地 調査を行ない,遅れや誤りがないようにしたい」と,竣蝶工事に関する建議を述べている。 林則徐の文面から推測するに,おそらくは,江蘇省南京市から山東省済寧州(13)【図5】へ. 向かう途中に運河を調査し,工事の指揮をとっていたものと思われる。. 16.

(18)      r.      山  東 A,●.     微山湖  .一∫           ・r    ◎徐州、。一 》       黄河  辱編湖. 黄 ンエ. ヘー・、∫へ,◎  運        嘩           頓隔.  ・ ’.        ⑤潅出.. 毎.            射陽湖. 安. 洪澤湖  .,   冒申脱R.   c(\,..  鯨.           }町.   ひぱ.   J 陽州府◎. 徽.               暫丁               ’〔  〆  /   ◎南京  、、 マご. 貧 、.    (、     ノ     .      太∫    了9.    ’、!1’\           ’.          〆            甲・」’            》筑.        ∼辱 、. ンエ.  ー  【図5】江蘇省. 諄其膿『中國歴史地圖集』第8冊,. 中国地圏出版社(1987年)を参考に著者が作成した。. 17.

(19) 『林則徐集』12∼13頁には,以下の史料がある。.     「接任河東河道総督目期摺」 (道光十一年十二月初七日) 奏爲恭報微臣接象日期,叩謝天恩,仰所聖豊事:.  窺臣恭荷恩編,擢任東河河督,當経具摺度謝天恩。嗣由江南起程,遵旨即赴新任, 復経恭摺奏報在案。藪於山東途次,接奉殊批:“一切勉力爲之,務除河工積習,統蹄 誠實,方合任用壷職之道,朕有厚望於汝也。愼勉母忽!”欽此。又於交片内奉殊批: “當今外任官員,清愼自矢者固有其人,而官官相護之悪習,牢不可破。此皆係自顧身 家之輩,因循筍且,月豫保身,甚属可悪!記日:‘官先事,士先志ヲ。其可忽諸!” 欽. 此。臣脆讃之下,仰見皇上設誠務實,澄叙官方,訓誠諄諄,要在挽回積習。臣錐愚昧,. 具有天良,毎念一介寒微,渥被聖明知遇,筍志存温飽,念重身家,是巳失讃書致用之 本心,更何以仰酬君上?是以臣受恩愈重,棟催愈深,夙夜椚衷,惟矢此不敢欺之一念,. 任難勝而心務蓋,才未逮而守必嚴。且近閲邸紗,伏讃上諭1“各直省督撫,宜潔己奉 公,尤須正色率下。個正己而不能率属,則是形同木偶,於地方有何禅盆”等因。欽此。. 聖諭煙纏,至爲明切。況河工積習,尤所熟聞,將欲力振因循,首在破除情面。臣惟有 自持刻苦,不避怨嫌,以防意者防川,以糾心者糾吏,務糞弊除緕節,工固瀾安,以仰 副聖主委任提斯之至意。.  現於十二月初七目行至鄙縣地方,准前任河臣嚴娘筋委署臣標中軍副將穆奥邦、運 河同知朱長垣,恭齋河東河道総督關防移交前來。該庭距任所六十里,臣印於是目至署,. 恭設香案,望閾叩頭,恭謝天恩,砥領任事。所有磨辮一切事宜,容臣査霰案巻,悉心 講求,周歴履勘,随時奏請訓示遵行。.  所有到任日期,除恭疏題報外,理合繕摺具奏,伏乞皇上聖竪。謹奏。.  道光11(1831)年12月7目の上奏文では,道光帝は林則徐に対して,河東河道総督の 任務に尽力し,黄河治水工事の長年の悪習を除き,すべて誠実に行ない,官吏の道に合う ようにしなさい,と再び強く命令している。.  ここで言う悪習とは,黄河修復工事に際して,官僚が堤防修復用の資材を会計上の使用 額よりも少なく使って着服することである。こうした手抜き工事が黄河氾濫原因の一っと なったと言える。その意味で黄河の氾濫は人災でもあった。そのような官僚を「陞官発財」 (14)型官僚と称し, 「経世済民」(15)型の林則徐に道光帝は「陞官発財」型官僚の排除を命 じている(・6)。ここでも,道光帝の林則徐に対する期待がうかがえる。.  これに対して林則徐は,自分も黄河工事の悪習は熟知しているとして,これら「陞官発 財」型官僚の排除と黄河修復工事の経費の節約を誓っている。 林則徐の黄河治水業務の特徴の一つとして, 「悉心講求,周歴履勘(17)」と述べている. ように.心を尽くして調査し,自らあまねく実地調査を行うことで,悪徳官僚,黄河運河 工事の悪習を排除し,経費を削減して,工事を着実に行なうことにあった。. 18.

(20) (2)運河工事 『林則徐集』13∼14頁には,以下の史料がある。.    「運河冬挑描鍬日期並催 情形摺」 (道光十一年十二月十九目). 奏爲運河挑工次第播鍬目期,並督催起 情形,恭摺奏所聖堕事:.  霜照本年運河冬挑工程,業経前河臣嚴焼佑計,會同山東撫臣訥爾経額奏明 理。 臣到任後,査接管省内,波河大煽巳於十一月二十四目堵閉,並経運河道李恩繹督同各. 該磨螢按段籔釘誌椿,埋記灰印,催令工員雇,備人夫器具,枳水興挑。薙披報:運河. 磨之泣上,衛北,鈍嘉,濟寧等渦塘長各河,於十二月初七,初十,十r十五等日次 第描鍬,其餓各汗し,亦印陸績興工。臣藪之蕾案,本年播鍬巳較上年爲遅。詞披運河道. 磨,愈稽先因底泳較大,正在熟鰯枳水之際,又値瑞雪頻霧,積途盈尺,沿河土凍,難 以施工,不無稽有耽延。目來天氣晴和,巳播鍬者加夫趨挑,未播鍬者勤催起籍,総可 不致遅誤等語。.  臣査佑挑運河以通來歳新漕,至爲緊要,必須照佑挑足,依限早完・現巳節途小塞,. 沐凍雪阻,事所常有,亟宜上緊趨 ,以免草率遅延。印責成運河道督率各磨螢往來監 催,飾令工員計夫出ニヒ,按興工之先後定雇夫之多寡,並於向 章程之外,加倍添夫趨. 挑,以速補遅。臣伽欽遵諭旨随時親往査験,如有愉減草率,立郎指名嚴参,務期一律 深平,不誤來春啓嬬鋪水,以仰副皇上通漕利運之至意。.  除將挑成分敷男行彙奏外,所有挑工播鍬日期及督催起辮情形,理合恭摺具奏,伏 乞皇上聖塞。謹奏。.  道光11(1831)年12月19目の上奏文では,道光帝に具体的に運河の竣洪工事について 報告書を上奏している。竣洪工事の状況については,道光11(1831)年11月24日に山東 省の波河(18)の大煽(堤防)(19)の決壊箇所を防ぎ止め,また竣諜工事を起こしている。更 に,童文.と(20),衛北(21),鈍嘉(22),濟寧等【図6】において同年12月7日,10日,11. 目,15目等順次竣蝶工事が着工されており,それ以外の地点においても続々と工事を起こ した。.  しかし,今年の俊深工事は去年と較べて遅れており,その理由に雪が32cm以上積もり, また河沿いの土は凍っているため,工事の施工は困難であるとしている。  この上奏文の中で注目される点として,「責成運河道督率各臆螢往來監催(23)」と述べ, 運河道(24〉に責任を持たせ,各磨(25)螢(26〉を監督,引率し,自ら往来し監督にあたらせて. いることである。そこで, 「如有愉減草率,立印指名嚴参(27)」つまり,もし軽率な工事. があれば,すぐさまその官吏を指名して厳重に処罰するとあり,道光帝の意向に忠実に従. い,運河治水工事において万一不正な事件が起これば運河当該官僚を厳罰に処すという意 志を示しており, 「経世済民」型の林則徐がうかがえる。. 19.

(21) 、−’. 勃. ﹂一口. β. 7.                 ご.        ,.」つ 、海       」 ’      1.     9◎夏」聖 山 \_. 隷.   〆一イ◎齢州.  ︶  ∼.  畳5        ◎博平 。・. 堂邑◎. 、繍◎運. (。,.    @陽釜.             ◎戴村. 上   東. ’梁山@◎鮮州. 、︺蟹.         馬踏湖. ’ 醐趣蜀山湖◎酬府               ◎縢縣    ◎所州府..ノー.         昭陽湖        ブ         rノ’一 ・河@麟   ’ 唾、’. 可.       、言講縣鞄鵠老    南 \つ  江   妹   !…、 \.                【図6】山東省 1潭其膿『中國歴史地圃集』第8研,中国地團出版社(1987年)を参考に著者が作成した。. 20.

(22) 『林則徐集』14∼15頁には,以下の史料がある。.       「査勘運河挑控工程片」(道光十一年十二月十九目).  再,臣因運河有磨 各挑工程,當経奏明順途親勘。弦経由油、運爾磨,査知挑工 業巳佑計,由前河臣嚴娘等會奏辮理。臣親至微山湖水■(註)測量誌椿,現存水一丈. 三尺九寸有零,巳符収蓄定額。加以十一月下旬瑞雪頻露,極爲優渥,臣所過徐州、究 州一樽,平地積至尺鯨,低窪之庭更不止此。正値凄苗出土,得此祥塞普被,潤透根茨,. 四野農民同聲歎慶。印湖瀦蓄水,一経雪澤融化,亦更充沸有餓。惟挑河工程,因積雪 深厚,凍土難以施工,不免稽有延滞。訥擦運河道李恩繹面稟, “波汎堵煽之後,上游. 先巳描鍬,日内天氣晴和,各沃皆可以次挑控。”臣低任後,査移交審内,此項工程, 欽奉諭旨,著臣随時親査。除飾運河道嚴催挑 ,務使依限完竣外,臣佃随時親往査験, 如有愉減草率,印行擦實嚴参,断不敢稽任遅誤。.  理合附片奏聞,伏所聖竪。謹奏。 (註)■は,原文では欠字となっている。.  道光11(1831)年12月19目の上奏文では,林則徐は道光帝に対して,山東省にある湘 河(28),運河の竣蝶工事は前河道総督嚴娘らによって計画されているが,竣洪工事は,積雪. が深く,土が凍っていることにより,難航し遅れていることを上奏している。竣蝶工事が 難航している理由を林則徐は運河道の李恩繹(29)に問い質したところ,意外にも“順調に進. んでいる”との返答があったが,林則徐は自ら実地調査し期限内に完成させるよう命令し ている。.  この上奏文でも,「臣親至微山湖水■測量誌椿(30)」とあるように,自ら足を運んで山東 省にある微山湖(31)【図6】の水位を測量して,規定量が貯水されていることを報告してい る。また,「此項工程,欽奉諭旨,著臣随時親査(32)」と,竣深工事において自ら現地に赴 き調査するとしている。.  更に, 「臣価随時親往査験,如有愉減草率,印行i朦實嚴参(33)」,つまり林則徐自らが. 工事現場に出向いて調査し,もし手抜き工事が見つかれば,実情に基づいて厳重に当該官 吏を処罰すると述べており,ここでも「経世済民」型の林則徐がうかがえ,林則徐は努め て道光帝の期待に応えようとしていることがわかる。. 21.

(23) (3)湖水調査 『林則徐集』15∼16頁には,以下の史料がある。.     「道光十一年十一月分各湖存水尺寸摺(附清輩)」          (道光十一年十二月十九目) 奏爲査明十一月分各湖存水尺寸,謹繕清輩恭摺具奏,仰所聖竪事:  窺照嘉慶十九年欽奉上諭:“湖水所牧尺寸,毎月査開清輩具奏一次”等因。欽此。. 臣到任後,査接管巻内,十月分湖水尺寸業経前河臣嚴娘開輩奏報在案。薮擦運河. 道李恩繹將十一月分各湖存水尺寸,開摺稟報前來。   臣査微山湖十月分存水一丈三尺九寸三分,十一月内水無消長,働存水一 丈三尺九寸三分1較上年十一月水大五寸三分。此外昭陽等七湖,或逓注下游,或啓放 斗門輩聞,消水五分至四寸九分。計昭陽湖存水六尺三寸,南陽湖存水四尺二寸,南旺 湖存水五尺七寸五分,濁山湖存水六尺四寸,馬場湖存水二尺七寸一分,蜀山湖存水八 尺五寸三分,馬踏湖存水三尺一寸二分。内惟蜀山一湖較小於上年,其鯨大自九分至一 尺六寸六分不等。.  現巳熟壌挑河,此後水無分泄。而蜀山、馬踏等湖価牧納波、洒府河之水,自必源 源報長。一侯沐融雪化,湖瀦更可漸増。臣惟當督筋道磨査照蕾章,妥爲儲蓄,総期來 歳新漕暢行無阻,以仰副聖主重瀦利運之至意。.  所有十一月分湖水尺寸,謹繕清軍,恭摺具奏,伏乞皇上聖監。謹奏。.               清輩  謹將道光十一年十一月分各湖存水實在尺寸,逐一開明,恭呈御覧:. 運河西岸,自南而北,四湖水深尺寸:. 一、微山湖 以誌椿水深∼丈二尺爲度。因湖底游塾三尺,實存水九尺,   即合一丈二尺之数本年十月分存水一丈三尺九寸三分,十一月内水無消長,佃存   水一丈三尺九寸三分。較十年十一月水大五寸三分。 一、昭陽湖 本年十月分存水六尺七寸,十一月内因遽注微湖,消水四寸,實存水六尺.  三寸。較十年十一月水大七寸。 一、南陽湖 本年十月分存水四尺六寸,十一月内因逓注昭、微二湖,消水四寸,.  實存水四尺二寸。較十年十一月水大七寸。 一、南旺湖 本年十月分存水五尺八寸,十一月内因啓放輩間,消水五分,實存水五尺.  七寸五分。較十年十一月水大一尺六寸六分。. 運河東岸,自南而北,四湖水深尺寸; 一、濁山湖 本年十月分存水六尺七寸,十一月内因啓放水口逓注昭、微二湖,   消水三寸,實存水六尺四寸。較十年十一月水大六寸。. 22.

(24) 一、馬場湖 本年十月分存水三尺二寸,十一月内因啓放斗門輩間,消水四寸   九分,實存水二尺七寸一分。較十年十一.月水大六寸七分。. 一、蜀山湖 定誌牧水一丈一尺爲度。本年十月分存水八尺九寸,十一月   内因啓放輩聞,消水三寸七分實存水八尺五寸三先較十年十一月水小七寸九分。. 一、馬踏湖 本年十月分存水三尺四寸,十一月内因啓放軍開,消水二寸八分,   實存水三尺一寸二分。較十年十一月水大九分。.  道光11(1831)年12月19目の上奏文では,林則徐は道光帝に対して,嘉慶19(1814) 年の上諭に,湖水の水位を毎月調査して目録書に書いて1回ごとに上奏しなさいとあった. ために,林則徐は道光11(1831)年10月分と同年11月分の山東省にある微山湖,昭陽湖 (34),南陽湖(35),南旺湖(36),濁山湖(37),馬場湖(38),蜀山湖(39),馬踏湖(40)【図6】. の貯水量を調査し報告している。.  その報告書によると,道光11(1831)年10月と道光10(1830)年11月 と比較して道光11(1831)年10月の各湖の水位の実寸を明らかにしている。 各湖の貯水量を示したr【表3】各湖貯水量表」によれば,ほとんどの湖は,. 道光11年(1831)11月の貯水量は道光10(1830)年11月の貯水量を上回 っており,湖水の蓄積は順調であったことがわかる。 【表3】各湖貯水量表 ⑤道光11年10月. ◎道光11年11月. ◎一@. 1丈3尺9寸3分. 1丈3尺9寸3分. 5寸3分. (428.8cm). (445.76cm). (445.76cm). (16.96cm). 5尺6寸. 6尺7寸. 6尺3寸. 7寸. (179.2cm). (214.4cm). (201.6cm). (22.4cm). 3尺5寸. 4尺6寸. 4尺2寸. 7寸. (112cm). (147.2cm). (134.4cm). (22.4cm). @道光10年11月. 微山湖 昭陽湖 南陽湖. 南旺湖 濁山湖 馬場湖. 1丈3尺4寸. 5尺7寸5分. 4尺9分. 5尺8寸. (130.88cm). (185.6cm). (184cm). (53.12cm). 5尺8寸. 6尺7寸. 6尺4寸. 6寸. (185.6cm). (214.4cm). (204.8cm). (19.2cm). 2尺4分. 3尺2寸. (65.28cm〉. (102.4cm). 蜀山湖. 9尺3寸2分. 馬踏湖. 3尺2寸1分. (298.24cm). (102.72cm). 8尺9寸 (284.8cm). 3尺4寸 (108.8cm). 23. 2尺7寸1分 (86。72cm). 8尺5寸3分 (272.96cm). 3尺1寸2分 (99。84cm). 1尺6寸6分. 6寸7分 (21.44cm). 7寸9分 (一25.28cm). 一9分 (一2.88cm).

(25) (4)運河竣深工事 『林則徐集』17頁には,以下の史料がある。.     「山東運河挑工分敷摺」(道光十二年正月初七目) 奏爲霰計運河挑工分敷,伽督催照沽加緊趨 ,恭摺具奏,仰所聖竪事:  窟照東省運河冬挑次第播鍬目期,前経臣於上年十二月十九目恭摺奏報後,旋披瀕 河等磨先後具報接績興工,節経運河道督筋各廉螢往來査催,錐開工梢遅, 理尚爲踊 躍。惟縢底又揺雪澤,氣候更寒,各夫墾泳擁雪,較之往歳挑土,倍費工力。幸爲時不 久,旋即晴舞,額募工員均照三倍袴足人夫趨 。以所報挑成段落及現挑未完工段通盤. 霰計,載至正月初六日止,約有三分鯨工。按日計工,総可不誤啓煽鋪水之期。現巳春 融凍解,一面督筋道磨嚴催工員,乗此添夫照佑加緊挑控,以速補遅,不許稽有牽延。. 臣於拝摺後,即親赴濟城以南縢汎十字河一帯逐細勘査,佃由南路折回,再赴北路之波 上等況要工段落,挨次験催,如有辮不如式以及楡減尺寸貼邊塾匡等弊,輕則押令翻挑, 重則嚴参懲 ,務期一律口1深1平,備濟新運,以仰副聖主愼重漕河之至意。.  所有運河挑工分敷,並督催趨辮縁由,謹恭摺具奏,伏乞皇上聖豊。謹奏。.  道光12(1832)年1月7日の上奏文では,林則徐は道光帝に山東省の運河に流れ込む各 河の竣喋工事の状況を上奏している。その状況については,山東省の運河に注ぎ込む湘河 の竣洪工事について,湘河磨から続々と工事を起こしているとの報告を受け,運河道は各. 磨螢に命令して往来調査して工事を督促したために,工事の開始は稽遅れたけれども工事 自体は順調に進んでいると上奏している。その遅れた理由については,道光11(1831)年 12月末に雪が積もり,気候は益々寒くなっており,各人夫(労働者)(41)は氷を砕き除雪. しているために,前年の竣深工事と比べて,人夫と費用は倍になっていると述べている。 竣漢工事の状況にっいては,竣洪工事の完了,未完の地点をすべて調べたところ, (竣洪. 工事記録)帳簿を1月6日に締めた段階では未完の工事が約3割残っていると報告してい る。.  この上奏文においても,林則徐は「如有排不如式以及楡減尺寸貼邊塾圧等弊,輕則押令 翻挑,重則嚴参懲辮(42)」と述べ,もし竣洪工事の処理が規定通り行われなかったり,水. 量を勝手に減らすという様な弊害が生じたならば,違反の程度が軽い者には強制的に渡藻 させ,重い者には厳重に懲罰を加えると述べ, 「陞官発財j型官僚の排除に努めている。. 24.

(26) (5)黄河増水安定 『林則徐集』17∼18頁には,以下の史料がある。.       「豫東黄河凌況安瀾摺」(道光十二年正月初七目) 奏爲豫、東黄河凌況安瀾,恭摺奏報,仰所聖監事:.  霜照上冬凌況未属,天氣巳寒,先経前河臣行令黄河道磨多備塘凌椿把及打凌器具, 並筋各磨會螢督汎親幣兵夫上限巡防。自交冬至後,豫、東爾省連得瑞雪,氣候尤寒。. 迫臣到任,正値朔風司令河水凝凍之時,復経巌飾各道廉加意愼防,不許稽渉籟解。節 接報:臨黄迎溜冬掃先巳量爲鑛高,釘椿桂柳不致鐘傷,其河勢兜溌慮所遇有積存沐塊,. 随時敲打推行,順流東注,並無塞遇之患,雨岸陛帰各工一律平穏。現巳節過立春,河 泳漸解,豫、東黄河安瀾順軌,洵堪仰慰聖壊。至前河臣任内奏准本年増培土工,已擦 各道分別派員領銀,雇定夫車,遵照蕾章,於正月下旬興工,容臣届期親往稽査督 , 不致遅延。.   所有豫、東黄河凌況安瀾縁由,理合恭摺具奏,伏乞皇上聖竪。謹奏。.  道光12(1832)年1月7日の上奏文では,林則徐は道光帝に河南省と山東省の黄河の凌 汎(解氷期の出水)(43)を安定させることを上奏している。.  この上奏文において,林則徐は既に行なわれている堤防工事の実情を述べている。その 内容は,去年冬の解氷期の出水はまだ黄河河道に届いておらず,天気は寒く,前河道総督 嚴娘は黄河道磨に命令して,多くの塘凌椿把(必)及び打凌器具(45)を備えさせ,また各磨に 命令して緑螢兵(46)及び緑螢兵の駐屯所を監督し自ら兵夫(47)を連れて堤防上を巡回するこ. とになっていた。ここで言う捻凌椿把とは,細い木を2∼3本を用いて,掃の前に置き結 氷の害を防ぐものであり【図7】,打凌器具とは,解氷期の出水は厳寒に遭えば河が凍結す るため,河水は流下せず,災害を惹き起こす。ゆえに河の氷を打ち砕く器具である【図8】。.  また,黄河河水の当たる箇所の堤防を高くして,また釘椿桂柳(姻の破損に注意し,河流. が湾曲している場所に氷塊があれば,随時打ち砕きそれを河流に押し流し,流れに沿って 東に排出すれば,両岸の提工(49)帰工(50)は一律に平穏になるであろうと,述べている。釘. 椿桂柳は,龍尾掃とも言い,大樹(柳の木)を刈り倒し,これをそのまま堤防の法面に繋 ぎ,波浪の害を防ぐものである【図9】。.  堤防増築工事にっいては,前河道総督嚴娘の任期中において今年の堤防増築工事は上奏 され認可されており,すでに各道台(51)によってそれぞれ黄河に派遣された官員は銀爾を受. け取り,人夫と運搬車を雇い入れ,従来の規定に従い,1月下旬に工事を起こすことにな っている。林則徐は任期中に自ら調査し督促し,工事の遅れがないようにすると述べてい る。. 25.

(27) 伽.     殴_ 打凌槌. 糖凌才e』. 【図8】打凌器具. 【図7】捷凌椿把. 、   v4》4晒70(・. _!  1 顧《㌔蟹. ^一−6. 底. 鑓起嬬           【図9】釘椿桂柳 (東亜研究所第二調査委員会第二部会『中國河工辞源』1940年)より 【註】. (1) 河東とは,河南省と山東省をいう(『清史稿』地理志)。 (2) 河道総督とは,清代,河道修築の事を掌る長官であぐ(『清國行政法汎論』工部)。 (3). 嚴娘は,清,仁和の人。嘉慶の間,主簿を以て南河に発す。道光の間,河東河道総 督,江南河道総督に歴官す。後に事に坐して運同に降ろされた(『清史稿』巻389)。. (4). 河工とは,河川工事のことをいう(『清會典事例』工部,河工)。. (5). 銭實甫『清代職官年表』第2冊(中華書局,1980年)1458頁参照。. (6) 河防とは,黄河の堤防を防護する専任の官のことである(『宋史』職官志)。 (7). 凌洪とは,泥をさらって深くすることである(『清國行政法汎論』工部,街道磨)。. (8). 属員とは,下役をいう(『清國行政法汎論』知府,職構)。. (9). 賑憧とは,施しめぐむ。施すこと。あわれみ救うことであり,救憧ともいう(『沈 約』南郊恩詔)。. (10)江寧とは,清代,七縣を領す。治は今の江蘇省南京市である(『清史稿』地理志)。. 26.

(28) (11)布政使とは,官名。全省の民政及び財政を掌る。清末,総督巡撫に直属した(『清   國行政法汎論』布政使,職権)。. (12)歳修とは,毎年定期的に行なう修築工事のことである(東亜研究所第二調査委員会   第二部会『中國河工辞源』1940年)。 (13)濟寧州とは,山東省濟寧州をさす(『讃史方輿紀要』山東,克州府)。 (14)陞官発財とは,昇格し,財を欲するものをいう(『宋史』選暴志)。.   井上裕正『林則徐』白帝社(1994年11月)では,官僚の職を財産形成の手段でし   かなく,公務よりも趣味に熱中する官僚を「陞官発財jと述べている。 (15)経世済民とは,世を治め民を救うこと(諸橋轍次『大漢和畔典』大修館書店,昭和   49年)。.   前掲註(14),井上裕正『林則徐』では,「孝」よりも官僚としての公務を優先すべ.   きだとする官僚をr経世済民」と述べている。 (16)前掲註(14),井上裕正『林則徐』参照。 (17) 『林則徐集』12∼13頁。. (18)波河とは,川の名。山東省に在り。運河の上流にある(『明一統志』)。. (19)煽とは,覇ともいい,強制の意。水を止めて,乏溢せしめざる所以をいう(前掲『中   國河工辞源』)。. (20)波上とは,縣名。山東省滋陽縣の西北にある(『清史稿』地理志)。 (21)衛北とは,山東省内にある地名。詳細は不明である。. (22)鈍嘉とは,山東省曹州府巨野と山東省濟寧州嘉祥をいう(『讃史方輿紀要』山東,.   克州府,清寧州)。 (23)『林則徐集』13∼14頁。. (24)道とは,道台を指し,地方長官の一つである。清代一省内の糧儲,監法,駅逓,兵.   備,海關又は巡守等の事務を管理し,各府縣の政務を監察した(『清國行政法』地方   官磨,本部総論,行政旺劃及地方官磨)。. (25)磨とは,役所,または清代,府の下にある行政区をいう(『清國行政法』汎論,行政   匝劃及地方官磨府之下)。. (26)螢とは,清代の兵制の名。八旗の不足を補うために設けられた兵(緑螢兵)の駐屯.   所のことである。漢人を以て組織し,緑色の旗を建てて八旗と区別し,各省に駐防   して地方の治安を掌った(『清會典事例』兵部,官制)。 (27) 『林則徐集』13∼14頁。. (28)伽河とは,山東省縢縣より江蘇省那縣に至るまでのすべての運河のことである(『讃.   史方輿紀要』山東,克州府折州)。. (29)李恩繹とは,詳細は不明であるが,道光11年12月の時点では,運河道台を任され   た人物である。 (30) 『林則徐集』14∼15頁。. 27.

(29) (31)微山湖とは,湖の名。江蘇省柿縣と山東省縢縣との間にある(『讃史方輿紀要』江南,.   徐州,浦縣,昭陽湖)。 (32)註(30) 『林則徐集』に同じ。. (33)註(30) 『林則徐集』に同じ。. (34)昭陽湖とは,湖の名。江蘇省演縣と山東省縢縣との間にある(『讃史方輿紀要』江   南,徐州柿縣)。 (35)南陽湖とは,山東省克州府にある湖をいう(『清史稿』地理志)。. (36)南旺湖とは,山東省克州府と濟寧州をまたぐ湖をいう(『清史稿』地理志)。. (37)猫山湖とは,湖の名。山東省縢縣の南にある(『讃史方輿紀要』山東,克州府,縢   縣,昭陽湖)。 (38)馬場湖とは,山東省濟寧州にある湖をいう(『清史稿』地理志)。 (39)蜀山湖とは,山東省波上縣の西南にある(『讃史方輿紀要』山東,克州府,東平州,.   波上縣)。. (40)馬踏湖とは,山東省克州府にある湖をいう(『清史稿』地理志)。. (41)人夫とは,荷物運搬,又は土木工事の手伝いなどする労働者,目雇いのことである   (前掲『大漢和群典』)。. (42)『林則徐集』17頁。. (43)凌汎とは,正確な始めと終わりの時期はないが,解氷期の出水をいう(前掲『中國   河工群源』)。. (44)摘凌椿把とは,塘凌把を指し,細い木を2∼3本を用い,これを嬬の前に置いて結氷   の害を防ぐものをいう(前掲『中國河工辟源』1940年)。 (45)打凌器具とは,打凌槌を指し,解氷期の出水は,厳寒にあえば凍結する。この時河.   状水深浅く,又湾曲している時には,氷は益々厚く張って,このために河水は流下   できず,結局災害を惹き起こすことから,この道具によって,氷を割った(前掲『中   國河工群源』)。. (46)緑螢兵とは,清代,各省で招募した漢人を以て組織した軍隊の名。其の旗幟が緑色.   であったことから名づけられた(『皇朝文献通考』兵考,兵制)。 (47)兵夫とは,軍螢に服役する人夫のことである(『六部成語』兵部,愈取兵夫,注解)。. (48)釘椿桂柳とは,柳枝を編んで作った堤防の保護物である。龍尾帰ともいい,大樹を.   伐り倒し,これをそのまま法面に繋ぎ,波浪の害を防ぐものをいう(前掲『中國河   工購源』)。. (49)提工とは,堤防工事をいう(前掲『中國河工辞源』)。. (50)帰工とは,堤防の保護物として用いられ,又決潰箇所の締切にも使用される。その   帰を用いた工事をいう(前掲『中國河工畔源』)。 (51)道台とは,註(24)に同じ。. 28.

(30) 第2節 不正官僚の粛正  清朝時代の官僚層の腐敗は,清朝支配体制の弛緩をもたらすほど,目に余るものであっ. た。そもそも,乾隆後期に芽生え,嘉慶帝時期に表面化した社会矛盾,軍隊の弱体化,官 僚層の腐敗等諸々を道光帝は継承しなければならなかった。.  官僚層の腐敗が特に目立ったのは,治水事業に携わる官僚たちであった。このことにつ いて井上裕正氏は,.  河工には様々な問題があった。なかでも宿弊であったのが河工担当官僚の腐敗である。.  河工官僚として総督以下,多くの官僚が設置されていたが,かれらの多くは河工を陞  官発財の機会としてしかみなかった。かれらは工事費を着服して私腹を肥やしながら,.  工事が完成すると功績があったとして出世できた。工事費を着服する方法としては,  堤防修復用の資材を会計上の使用額よりも少なく使ってカネを浮かした。(1) と述べており,「節倹」つまり質素,倹約家であったとして知られている道光帝としては,. 治水官僚の不正には頭を抱えていたと考えられる。.  そこで,河東河道総督時代の「経世済民」型官僚林則徐について上奏文を史料として考 察していきたい。. (1)運河渡洪,黄河修築資材問題. 『林則徐集』18∼19頁には,以下の史料がある。.    「験催運河挑工並赴黄河雨岸査料摺」(道光十二年正月二十二目). 奏爲験催運河挑工,統計已完六分,現佃督筋趨 ,臣即赴黄河爾岸査料勘工,恭摺奏 所聖堕事:.  霜照東省運河挑工,載至正月初六目巳 三分有鯨,経臣於奏報摺内聲明親往験催。 旬鯨以來,周歴沿河工次,南至縢汎之十字河一帯,北至波上等汎塘長各河,挨次履勘。. 凡已経挑完工段,除出土外,其塾繋大塊堅沐,暴繋山積。詞之土人,倉稻歴年河凍未 見如今年之厚,是以挑工之費力,器具之損傷,亦較往年加至敷倍。.  臣目観現挑之塵,先須墾起爾三層沐塊,或將凍土打籟,然後得施者拐。及至挑動 之後,不免滲水,錐経随挑随扉,而隔夜即又凍結昨已節交雨水,河泳尚在堅凝,其貼. 邊塾厘之積弊,因土凍不能膠鮎,已無所施其伎。臣當將所挑寛深尺寸逐段丈量,験其 灰印誌椿,均相符合,尚無楡減情弊。惟沿限出土之路,漸被泥漿拗撒,逐條凍積,名 日泥龍,往往工段挑完而泥龍尚末除浄。錐擦各汎員弁稟稻,向係全工完後一律起除。. 但日積日多,挑運更爲費事,且一経春雨,更恐沖入河心。臣復嚴筋工員押令夫役,凡 挑完一段即起浄一段泥龍,其已挑未浄之庭,官差夫頭均先量予懲責。並因鈍嘉汎主簿 督挑工内有稽偏於東岸之庭,錐量明丈尺無差,並非弊實,但不居中挑控,側注一邊,. 29.

(31) 則嘉西淺慮誠恐日久積沢,河身途窄,不可不防其漸。現値趨工緊急之際,臣先將該汎 主簿徐悔摘去頂戴,責令督夫加挑,展寛丈尺,務使一律均句,侯工竣時査験如果協宜,. 給還頂戴,個不如式,立即杏革示徹。蕪蔵至正月二十一日,統計各況挑有六分工程。 此後天氣融和,施工自易爲力。.  臣因黄河各磨購 料物,亟慮親往査験,並有督催土工勘 春鑛事宜,均難延緩, 即於拝摺後由濟起程,前赴豫、東黄河爾岸周歴履勘。惟査歴届験料往返不過半月,臣 於河務未能諸悉,必得將各工形勢細加膣察,諮訪研求,毎到一工,即不敢忽略走過。. 且思料物爲修防根本,果皆堆壕結實,防険當自裕如,若査料之時稽任以虚作實,以蕾 作新,則冒項誤工,即無有甚於此者。臣惟有細加折験,計束稻斤,総當從實從嚴,不. 敢補爲將就。但歳添爾料共有七千鯨壕之多,逐一親査,即不免多需時目。其運河未完. 挑工,一時不及兼顧,惟當責成運河道往來量験,並督飾磨螢汎閑,妥速趨挑。現在祇 鯨四分工程,自可依限全完,不誤啓塙鋪水。臣佃随時密加稽察,如有草率楡減,即行 擦實嚴参,不敢稽有絢隠。.  所有運河挑工已完分敷,並臣現赴黄河査験工料縁由,理合恭摺具奏,伏乞皇上聖 堕。謹奏。.  道光12(1832)年1月22日の上奏文では,林則徐は道光帝に運河の竣深工事を調査し, 並びに黄河両岸に赴き資材を調査したことを報告している。.  運河の淡洪工事の状況について,統計では6割完了となっている。また,1月6日締め では3割完了しているので,2週間弱であと4割残すのみとなっており,急ピッチで進め られているのがうかがえる。.  しかし,俊喋工事が完了した箇所では,竣漢された泥土以外に,砕いた大きな氷塊が山 のように積まれており,土人(土地の人)(2〉に問い質してみると,毎年の河の凍結時にお. いては今年のような氷の厚さを見たことがなく,竣漢工事の費用と人力,器具の損傷は去 年に比べても数倍になっているという状況にあった。.  また,実際に,林則徐自身が現地に赴き視察したところ,2、3層の氷塊をくだかなけ れば,竣喋工事ができない状況であると述べている。また,竣洪工事後の弊害として,堤 防から水が漏れるのを防ぐことができず,竣洪工事に従い泥土をかき出しているが,夜に なると凍結して前目に雨が降れば,河の氷はますます硬く凍り,堤防修復工事の技法であ る法面に泥土をつけることができないと述べている。.  しかし,以上のような弊害に直面しているにもかかわらず,竣洪が完了した河幅と深さ を測ったところ,規定の数値に合致しており,また官吏が勝手に水量を減らすといった弊 害も出ていないと報告している。.  この上奏文で,林則徐は治水事業の改善策を提案し実行している。それは,竣洪した泥 土が積んである堤防沿いの道では,泥土が投げ散らかされて積り,これらの泥土の塊が凍 結し,工事が完了した箇所でも未だ取り除かれていない。各汎(緑螢兵の派出所)(3)の員. 30.

(32) 弁(文武の官員)(4〉は,従来,工事がすべて完了した後に一律にこれらの泥土の塊を除去. していた。しかし,泥土の塊が目に目に積まれて高くなっており,一度に取り除くと運搬 費がかかり,また春になって雨に遭えば,泥土の塊が再び河の中に流れ込む恐れがある。. そこで,林則徐は凌深工事が完了した一区画ごとに泥土を取り除き,これによって経費の 節約につながるとして,官僚に強く命令している。.  また,黄河両岸工事関係の資材の調査を実施している。資材を調査するにあたって,林 則徐は,資材は堤防工事の根本であり,探(積み重ねた資材)(5)が確実に備わっておれば,. 治水は自ずと安定し,もし資材を調査し,無いものを有ると称したり,古いものを新しい と称したならば,資材の役割を果たさず,これほど弊害の甚だしいものはない。そこで「計 束稻斤(6)」,つまり資材の量と重さを量り,不正がないかどうかを確認している。  また, 「親往験催(7)(親ら往き験催し)」, 「予懲責(8)(懲責を予え)」, 「摘去頂 戴(9)(頂戴を摘去し)」,「杏革(10)(革を杏り)」,「親往査験(ll)(親ら往き査験し)」. とあるように,林則徐自身が幾度となく足を運んで現地を調査し,不正があれば官位を降. 格させる処置をとっている。更に,林則徐自ら随時に密かに巡察し,もし工事のおろそか な箇所があれば,事実に基づいて,当該官僚を厳しく懲罰し,自分は彼らを庇い隠すこと はしないと道光帝に述べている。. 31.

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六 水○ツ○○ 萩Oマ○ 一入一三三三二四三〇二九 性 ♀♀♀ ♀♀♀ 診  噺 肺結核 肺結核肺結核肺結核肺結核肺結核

︵原著及實鹸︶ 第ご 十巻   第⊥T一號   ご一山ハ一ご 第百十入號 一七.. ︵原著及三三︶

する愛情である。父に対しても九首目の一首だけ思いのたけを(詠っているものの、母に対しては三十一首中十三首を占めるほ

 一六 三四〇 一九三 七五一九八一六九 六三

︵漫 録㌧ 第十λ⁝櫓  麓伊九⁝號   二山ハご一

︵原著三三験︶ 第ニや一懸  第九號  三一六

シーリング材の 部分消滅 内壁に漏水跡なし 内壁に漏水跡あり 内壁に漏水跡なし 内壁に漏水跡あり 内壁の漏水跡が多い.

目について︑一九九四年︱二月二 0