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1潭其膿『中國歴史地圃集』第8珊,
【図24】江蘇省
中国地團出版社(1987年)を参考に著者が作成した。
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『清國行政法』第4巻(第11章「救憧」第3節「非常時二於ケル救憶」第2款「當 事ノ政策」第2項「襲賑」) (汲古書院,1972年)より引用。
前掲『大漢和辮典』より引用。
佐藤武敏『中国災害史年表』(国書刊行会,1993年)参照。
河庫とは,河道の倉庫をいう(前掲『大運河発展史』)。
爾江総督とは,江南と江西とをいう。江蘇,安徽,江西の地。清初,江南総督を設 けて今の江蘇・安徽の二省を統治し,後に兼ねて江西を管轄して雨江と改称した(『清 國行政法汎論』行政匠劃)。
陶樹とは,清,湖南安化の人。字は子森。號は雲汀,桃花漁嬰。論は文毅。嘉慶の 進士。官は道光中,太子少保,爾江総督となった(『清史稿』巻385)。
劉家口とは,地名。山東省と河南省の境界にある。詳細は不明である。
訥爾経額とは,道光9年から道光12年まで山東巡撫であった(『清代職官年表』第
2冊)。
道庫とは,清制,監運司,監法道,糧道,河道,兵備道等の所管に属する倉庫のこ とである(『戸部則例』)。
(10)江寧とは,清代,七縣を領す。治は今の南京である(『清史稿』地理志)。
(11)藩司とは,布政使の異称である(『清國行政法』地方官磨,支那本部総論,行政匪 劃及地方官磨)。
結 論
結論
以上,林則徐の黄河,運河治水事業にっいて,河東河道総督及び江蘇巡撫時代を基点と して考察した。本論文では,第1章で道光11(1831)年10,月に着任した河東河道総督にお ける治水事業,第2章で道光12(1832)年2月に着任した江蘇巡撫における治水事業を『林 則徐集』(D史料を基に考察してきた。
第1章において,河東河道総督時代の林則徐の実像が明らかになった。道光帝が林則徐 に河東河道総督に任命した大きな意義は,新たな河工方法の提案や工事形態の展開ではな い。道光11(1831)年11,月15日の上奏文で「林則徐非河員出身,正可螢別弊端,母庸絢隠(2)
(林則徐河員の出身に非ず,正に弊端を螢捌し,絢隠を庸いることなかるべし)」から明らか となったように,道光帝は,林則徐は河員出身ではないので,河防について知らないこと は承知の上であった。それを理由に,不正官僚を庇うことはないだろうと考え,林則徐に 不正官僚の粛正という任務を与えた。これが最も大きな道光帝が林則徐を河東河道総督に 任命した目的であった。林則徐も同上奏文で,「所稻向末諸習河防形勢及土掃各工作法(3)
(稻する所向に末だ河防の形勢及び土帰の各工作法を諸習せず)」とあり,林則徐は河防 の方法や土帰工事方法を知らないと述べている。しかし, 「寛之以工務之講求,期之以弊端 之螢捌(4)(之を寛めること工務の講求を以てし,之を期すること弊端の萱別を以てす)」と 述べ,道光帝が林則徐に対して期待していることは,治水工事の研究より不正官僚の粛正 であることを理解している。林則徐が実施した不正官僚の粛正として,上奏文に数多く述 べられている「親往査験(5)(親ら往き査験し)」,「如有愉減草率,立印指名嚴参(6)(如
し愉減草率有らぱ,立ちどころに即ち指名し嚴参し)」であり,っまり林則徐自らが現地 に赴き調査し,また工事を疎かにするようなことがあれば,官僚を指名して厳重に処罰す るとしており,徹底的に不正官僚の排除を実施している。また,林則徐は道光帝の「節倹 政治」に応えようとしていることも注目すべき点である。林則徐は治水事業に新たな方法 を提案することはなかったが,従来の河工方法を合理的に改善するとともに工事費の削減 に努めていた。例えば,道光12(1832)年1月22目の上奏文では,従来の泥土除去作業 に対して改善策を提案し実施している。また,工事費の見積もりを該当する官僚に見積も らせるのではなく,林則徐が自ら工事現場に赴き,その状況を視察した上で自らが工事費 の見積もりを行なうことにより,不正見積もりの防止に努めている。林則徐が河東河道総 督に着任した4ヶ月問は,管轄する河川において氾濫が起きることはなかった。着任した 時期が真冬であったため,河川が凍り氾濫を免れたのが一番の原因と考えられるが,林則 徐の堅実な治水事業も忘れてはならない。しかし,真冬の運河竣漢工事は困難を極めてい たことは,既に考察した上奏文の中で明らかになっている。この中で,林則徐は,各該当 する工事現場に赴き,官僚に命令して早急に工事を完了させるよう指揮していた。
第2章では,江蘇巡撫時代の林則徐の実像を考察した。道光帝が林則徐を総督から巡撫 に異動させた意向は,本論でも述べた通り,一般民政だけでなく治水にも尽力させるため である。林則徐が江蘇巡撫に着任した時期は,間もなく桃汎が始まる時期であり,また漕 運が往来する時期でもあったため,河道総督以上に江蘇巡撫の方が黄河,運河治水に重要 な責務をもっていたと林則徐は自覚していた。江蘇巡撫に着任した林則徐の公務は,河東 河道総督時代よりも更に厳しく,数多くの職務をこなしていた。林則徐は,治水工事に使 用する資材は国家財産と同等と考え,特に資材の管理を徹底的に行なうことで節約に繋が ると考えていた。また,資材を調査することにより,予め資材を買占めて,下級武官に資 材を放火させ,値段が高騰するのを待ち高値で売りさばくという不正行為の実態が明らか になった。不正官僚の排除については,不正官僚を名指しで指摘し厳しく懲罰を与えるこ とによって,他の官僚に恐怖心を与えた。治水事業にっいてもやはり自ら現地に赴き視察 し監督に当っていた。そして漕運の往来に備え運河の堤防工事を堅実なものにしたり,災 害地区にて救済業務を行なったりと,巡撫に与えられた職務を厳格に遂行していた。
以上の考察から,井上裕正氏が指摘している(7),林則徐は「経世済民」型であることは 明らかとなった。また,本論によって,林則徐は道光帝に非常に忠誠心を持っており,道 光帝の期待に応えるべく職務を遂行していたこと,他の官僚から嫌われ怨まれることを恐 れず不正官僚を徹底的に排除したこと,自ら工事現場に赴き監督指揮に当ったこと,など から「硬骨官僚」であったことも明らかとなった。
しかし,本論で林則徐の実像を考察したのは,道光11(1831)年10月から道光12(1832)
年5月の約半年間であり,17年間地方官僚を勤めた林則徐にとっては,まだまだ十分でな いと言える。今後の課題として,引き続き林則徐の地方官僚としての経歴を辿っていき,
上奏文の史料を中心として,より深く林則徐の実像に迫りたいと考える。
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(7)
中山大学歴史系中国近代現代史教研組、研究室編『林則徐集』奏稿上(中華書局,
1965年)
註(1)前掲『林則徐集』ll〜12頁より引用。
註(2)前掲『林則徐集』に同じ。
註(2)前掲『林則徐集』に同じ。
註(1)前掲『林則徐集』13〜14頁より引用。
註(5)前掲『林則徐集』に同じ。
井上裕正『林則徐』(白帝社1994年)
謝辞
本稿は、筆者が2005年4月から兵庫教育大学大学院学校教育研究科修士課程に在学し,
書き上げた学位論文である。本研究を着手するにあたり,テーマの設定から執筆,成稿に 至るまで,親身になってご指導していただいた,兵庫教育大学教授松田吉郎先生に心より 感謝申し上げます。
研究の内容,方法等について親切かつ丁寧なご指導をいただいただけでなく,先生の人 柄に接したことにより,勉学のみならず,より多くのことを学ばせていただきました。
また,社会系コースの先生方,とりわけ中間発表などにおいて貴重なご助言,ご指導を いただき,更に審査にあたっていただいた河村昭一教授・原田誠司助教授に深く感謝申し 上げます。
ならびに,兵庫教育大学付属図書館,松田研究室には貴重資料を借用するにあたり,格 別のご配慮を賜ったことも,学恩に謝するものであります。
最後に,この2年間,兵庫教育大学大学院にて学ぶにあたって,快い援助を与えてくれ た両親ならびに家族に感謝いたします。