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ドキュメント内 林則徐の黄河・運河治水事業について (ページ 72-77)

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  、       【図21】江蘇省

諄其膿『中國歴史地圃集』第8冊,中国地囹出版社(1987年)を参考に著者が作成した。

【註】

(1)按察使とは,明に提刑按察使司を建て,按察使を以て1省内の司法長官となす(『清   會典事例』吏部,官制,各省按察使司)。林則徐は,道光3(1823)年1月に江蘇按   察使に任命された。

(2)布政使署理とは,官名。明,置く。布政司の長官。全省の民政及び財政を掌る。清   末,総督巡撫に直属す(『清國行政法』汎論,布政使,職権)。署理とは,官吏の死   亡,免官,出差等の理由により,其の官職に敏亡を生じた時,他の官吏に其の事務   を兼掌させることをいう。代理の官吏(『清國行政法』汎論,官吏法,文官任務,署   理)。林則徐は,道光3(1823)年12月に江蘇布政使署理に任命された。.

(3)両准塩政署理とは,江蘇省准南と潅北の塩政を掌った長官。両准に塩政一人を置き   地方塩務を統轄させた。両准塩政は両江総督が兼ねた(『清會典事例』吏部,官制)。

  林則徐は,道光6(1826)年6月に両潅塩政署理に任命された。

(4)江寧布政使とは,江蘇省の民政及び財政を掌る長官である(『讃史方輿紀要』江南)。

  林則徐は,道光7(1827)年5月,.道光11(1831)7月に江寧布政使に任命された。

(5)湖北布政使とは,湖北は江蘇省の長江中部に位置し,民政及び財政を掌る長官であ   る(『讃史方輿紀要』歴代州域形勢,宋)。林則徐は,道光10(1830)年6月に湖北   布政使に任命された。

(6)開蹄とは,河南省開封府と蹄徳府をいう(『清史稿』地理志)。

(7)上南磨とは,河南省にある地名と考えられる。詳細は不明である。

(8)商虞とは,河南省蹄徳府にある商丘と虞城をいう(『讃史方輿紀要』河南,蹄徳府)。

(9)通判とは,官名。州の政治を監督する官をいう(『文献通考』職官考)。

(10)沈賜恩とは,詳細は不明だが,道光12年2月の時点では,商虞通判を任されていた。

(11)虞城上汎とは,河南省にある地名と考えられる。詳細は不明である。

(12)楷料とは,高梁(禾本科の1年生草本)の茎で,約3年間用いられる。主に帰に用   う(東亜研究所第二調査委員会第二部会『中國河工辟源』)。

(13〉探とは,積んだ土をいう。又は,単位の値をいう(『一切経音義』12)。

(14)『林則徐集』24〜26頁。

(15)捏飾とは,無いことを有るようにして飾ることをいう(王蘭泉『國朝漢学師承記』)。

(16)廠とは,小屋。物置のことである(諸橋轍次『大漢和辞典』)。

(17)外委とは,清代,定員外に任命した武員をいう(『清國行政法』汎論,武官仕途   種類,行伍)。

(18)兵丁とは,兵役に服する壮丁をいう(『六部成語』兵部)。

(19)韓松茂とは,人名。外委兵丁に任命された。詳細は不明である。

(20)張奇亮とは,人名。外委に任命された。詳細は不明である。

(21)呉相臨とは,人名。外委に任命された。詳細は不明である。

(22)河螢とは,清代,河道総督に属する螢をいう(『清國行政法汎論』官吏法,武官訣,

  螢訣)。

(23)弁兵とは,下級の武官をいう(前掲『大漢和辞典』)。

(24)註(14)『林則徐集』に同じ。

(25)李鳳舞とは,人名。兵丁に任命された。詳細は不明である。

(26)股朝臣とは,人名。兵丁に任命された。詳細は不明である。

(27)知府とは,官名。府の長官。宋代,府に知事を置き,知府の名,此に始まる。明,

  始めて毎府,知府1人と定め,清,之によった(『歴代職官表』知府直隷州知州等官,

  歴代建置)。

(28)銭寳環とは,清,太倉の人。字は伯喩。號は願壽老人。嘉慶の進士。官は江西巡撫   であった(『清史稿』巻23)。

(29)哀乗禮とは,人名。外委に任命された。詳細は不明である。

(30)『清國行政法』第3巻(第5節「治水j第1款「河防」第4項「物料」)(汲古書院,

  1972年)引用。

(31)同知とは,官名。清は,唯府と州とにのみ置き,府同知は同知,州同知は州同を以   て官構とした(『清國行政法汎論』行政匹劃及地方官磨,府磨州縣各衙門)。

(32)曹考とは,山東省曹州府曹縣と河南省衛輝府考城をいう(『讃史方輿紀要』山東,亮   州府,曹縣)。

(33)唯寧とは,河南省蹄徳府碓…州と河南省陳州府准寧をいう(『讃史方輿紀要』江南,准   安府,郵州)。

(34)蘭儀とは,地名。詳細は不明である。

(35)干卿保とは,人名。同知に任命された。詳細は不明である。

(36)票家棲とは,地名。詳細は不明である。

第3節 漕運の状況及び漕船運行の救援業務

漕運とは,江蘇,漸江,安徽,江西,湖北,湖南,山東,河南の8省において徴収され た米豆を,京師(1)に輸送することである(2)。江蘇省は黄河と運河を管轄する省で,漕運 においても重要な省である。『清國行政法』第3巻に,

 運河ハ漕運二便センカ爲メニ開盤セル河道ニシテ(3)

とあるように,漕運運行の便利になるように河川を開墾し河道にすることも重要な職務と なっていた。漕糧(4)を運ぶ漕船は早いところでは10月に出発し,遅くとも翌年の5,月ま でには漕糧の輸送を完了させなければならなかった。(5)

林則徐は,江蘇巡撫として如何なる漕運の事業に取り掛かっていたのか,上奏文を史料 として考察を加えていきたい。

(1)道光12年漕運開始

『林則徐集』38〜39頁には,以下の史料がある。

    「南糧頭進重運漕船全行過濟北上摺」(道光十二年五月初一目)

奏爲頭進重運軍船全行過濟,其首鴛先已挽出臨清間口,現価督飾加緊提催,恭摺奏祈 聖堕事:

 羅照南糧重運首駕入境日期,前経臣恭摺奏報在案。旋査頭進最後之寧太謂船,於 四月二十一日挽入山東黄林荘境,現在關河水勢浮送裕如,行走極爲逓速,巳於四月三 十日將頭進各鴛軍船全敷催過濟城之天井間北上。其首鷺鎭江前船四十六隻,壕報於二 十五日挽出臨清關口。在後各謂亦皆街尾連橋,以次出間。錐聞外衛水夫長,而古淺之 庭,剥船足敷輪轄,計可無虞阻滞。惟二進各鴛未経眼接入境。現將先巳渡黄北來之銅 鉛船隻提上韓荘聞後,擬將湖口大煽暫時酌量加板,以節湖瀦,侯得有二進漕船接績渡 黄之信,再行啓板接濟。臣切督飾道磨相機宣蓄,加緊提催,務使後起重船一律逓行無 阻,以期全漕早達天庚,仰慰震懐。

 所有頭進重運軍船全過濟城,超催出聞各縁由,理合繕摺具奏,伏乞皇上聖堕。

 再,接河南陵州呈報: 萬錦灘黄河於四月十三目陸長水二尺一寸。 即経飛飾各道 督磨加意防護,現已逐漸報消,各工悉擦平穏,合併陳明。謹奏。

道光12(1832)年5月1目の上奏文では,林則徐は道光帝に南糧(6)は第1団から続々 と漕船が連なり,すべて通過し北上したことを上奏している。

第1団の漕船は軍船を連ねて全て通過し,第1団鴛船(7)は臨清閲(8)【図22】の入り口 において緯挽を行ない,林則徐は各道磨を監督命令し緊急に漕運救済を行なわせた。以下 はその第1団の漕船の状況を要約したものである。

 第1団の漕船の最後尾の寧太鴛船(9)が,4月21日に山東省黄林荘(lo)【図22】に入境し た。現在{道光12(1832)年当時}問の河流は穏やかであり,鴛船の行き来は順調であり,

4月30日に最初の各駕船が全て濟城(山東省濟寧州)(11)の閲を北上した。先の鎮江駕船(童2)

46隻は,25日に臨清閑口を出て緯挽した。その後も各駕船は続々と続き,次々と間を出た。

開外に水夫長(13)の陣営があるが,そこは昔から水深の浅い所であり,剥船(14)は十分揃え られ順調に運行しており,漕運の停滞を恐れることは何一つない。第2団はまだ続いては 入境していない。銅鉛船隻が黄北を渡り韓荘聞(15)を北上した後,湖の水量を調節して,第 2団の漕船が続いて黄河を渡ったとの報告を待ち,その後閾板を開き水を供給する。林則徐 は道磨に命令して,緊急に運河への水の供給活動にあたり,漕船の行き来を一律に滞りな く行ない,全ての漕船が1日でも早く到達せよとの皇帝の期待に応えるよう務めて業務に 当ると上奏している。

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ドキュメント内 林則徐の黄河・運河治水事業について (ページ 72-77)