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九品の制をめぐる諸問題

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(1)

九品の制をめぐる諸問題

     序

 現在の学界においては︑魏晋時代以降の選挙制に関連して用いら

れた九品という語が︑何を意味するかについての︑一定した見解が

あるとはいい難い︒例えば︑九品の語が最も早く用いられたものと

して魏志︵22︶陳群伝に︑ ﹁制九品官人之法群雲建也︒﹂という記

事があるが︑実はこの記事の読み方︑解釈︑共に学者によって大き

な相違があるように思われる︒従って︑魏晋時代の政治理解の為に

は︑是非ともこの九品という語についての諸説の整理を試みる必要

があると考える︒

 先ず︑この調査の為の手掛りとして︑陳承伝と同様に︑魏代にお

ける最も早い時期の︑九品についての記事︑即ち︑魏志︵23︶学林

伝斐注漸悟略にみる︑ ﹁先導国家始制九晶︒各使諸郡選置中正︒差

叙自公卿以下至情筆才功徳喋々所任︒﹂というものを利用したい︒

この記事も実は可なり問題のある記事であるが︑先ず︑この記事の

解釈についてどのような見解があるかを述べてみよう︒

第一 宮 崎 氏 説

 宮崎市定氏はその著﹁九晶官人法の研究﹂の中で︑この記事を︑

﹁是より先︑国家始めて九品を置く︒各諸郡をして中正を竜脳せし

め︑公卿より以下郎吏に至るまで︑功徳才行の糾うる所を差叙せし

む﹂︵同上書噂一9︶とよみ︑それについて︑ ﹁ここに公卿より以下郎吏に至 るまでと︑現任官の審査を中正の任務とした点を注意すべきである︒これが中正の最初の目的であり︑また九品官人法の硯いであったのである︒﹂︵同上書℃一2︶と説明されている︒ 宮崎氏によれば︑ω魏朝が九品を制し︑ω︵空聾が︶洋帆をして中正を選ばしめ︑㈹その中正をして公卿から郎吏にいたる︑現任官の審査をさせた︑ωこの現任官の審査が中正設置の目的であった︑ということになる︒ この説と全く同じではないが︑これに連るものに︑岡崎博士︑宮川博士及び筆者の説がある︒岡崎博士は﹁九品中正考﹂︵翻瀞縢認㎎︶において︑ ﹁故にその︵中正の︶差叙した所の品状なるものが果して台閣が官を採用する唯︼の標準であったとは信じ難いのである﹂とされているのによれば︑氏は中正が公卿より郎吏に至る人々の晶状を差叙したとされているわけであり︑宮川博士は別に詳論はされないが︑早引の記事を︑殆ど宮崎博士と同様に読まれている(「

・ウ制度の研究﹂宮川氏著﹁六軌⁝史研究に政治・社A黙管棚所収︶ことによって︑氏の考は察せられる︒更に筆

︑者も亦宮崎博士の読み方に従うが︑ただ宮崎博士は︑現任宮の内容として︑後漢官僚を主とし︑魏国官僚をも加えて考えられているが

(「纒i官人法の研究﹂殉δO︶︑筆者は逆に︑魏国官僚を主とし︑後再現任官を加えた

ものと考えた点︵魏﹁三脚暢の中正制と門閥到会﹂艮大定詰第八樹︶︶が異っている︒

 ところで︑これらに対して批判を加えられたのは越智重明氏であ

る︒

(2)

  長崎大学教育学部社会科学論叢 第一八号

第二 越 智 氏 説

 越智氏はこの記事について︑ ﹁これは諸郡の太守にそれぞれの郡出身で中正の任にたえるものを予め撰ばせ︑それを中央から改めて

転籍したが︑その対象となったのが公卿以下郎までの宮人になって

いるものであったのを物語っている︒﹂︵﹁九ロm銭入法の制定について﹂︵東洋学郭46の2︶P58︶と述べ

られており︑この解釈の正しいことの支えとして︑通典︵14︶選挙

典歴代制︑中の項の割注に︑ ﹁按九品之制︒初因後玉虫安中︑天下

興兵︑衣冠士族多離本土︒欲徴源流︑遽難首桶︒諸氏革命︑州郡県

倶置大小中正︒各以本処人任︒諸府公卿及台座素図有徳充才盛者

為之︒区別所管人物︑定為九等︒﹂とあるものを引用されている

(同

纔̲文︑註23参照︶︒従って︑氏によれば︑ω中央︵政府︶が九品を制し︑ω

中央︵政府︶が諸郡太守に中正を予め撰ばしめ︑㈹それを中央︵政

府︶は改めて差叙1この場合通典によって︑任官の意を含むとすべ

きである一したが︑その郡中正任用の範囲は公卿から郎に至るまで

の官人であったということになろう︒

 さて︑第一説と第二説とを比較してみると︑ωの中正設置の目的

は一応省いて考えると︑㈲の点が極めて大きく異っている︒即ち︑

第一説では︑中正が公卿以下郎吏に至る官人を差叙したといい︑第

二説では公卿から郎に至る人々の中から中正を差叙したという︒こ

のような見解の相違は︑実は差叙の意味をどうとるかにかかってい

ること︑後に詳述するところであるが︑いまはまず︑両説を検討

する為に︑前述の記事について︑更に詳細な調査を試みておきた

い︒ さて︑前引墨皆伝注引魏略の記事の中︑ ﹁国家歯糞九品﹂という

ことから始めよう︒この場合問題となるのは︑ω国家とは一体何を

さすのか︑回九品とはどういうものか︑ということであろう︒

ω 国家とは一体何をさすかについて考える為に︑二︑三の例を引

用してみよう︒

 ω 魏志︵8︶公孫度伝静注引魏略

  魏略日︒国家知淵両端︒而恐遼東吏民為淵所掌︒故公文下県

 東︒因赦命日︒告遼東論詰将校吏民︒逆賊孫権遭遇乱階︒因其先

 人劫略州郡︒遂成襲撃︒

 ω 魏志︵9︶夏侯尚伝玄の条流注引魏略

  後中書令欠︒大将軍諮問朝臣︒誰可補者︒或指向︵李︶豊︒豊

 難知此非顕選︒而自以連管国家︒思附至尊︒因伏不辞︒

 ㈲ 書志︵21︶衛凱伝斐墨引崩書

  太祖使萄或問観︒凱以為︑西方諸将︒皆竪未屈起︒無考天下

 意︒筍安楽目前而已︒今国家厚加爵号︒得其所志︒非有大鷲︒不

 審議変也︒宜為後図︒

 ω 呉志︵9︶魯皆伝

  因責数︵関︶羽日︒国家区区︑本以土地借諸家者︒吉家軍営︒

 遠来無以為資也︒今已得益州︒既払奉還馬飼︒但求三郡︒又不従

 命︒語群究寛︒坐有一人日︒蝿叩地者惟徳所在耳︒何常之有︒

 ︵魯︶粛励声呵之︒辞色甚切︒羽黒刀起言振︒此自国家事︒是人

 何知︒目使之去︒

 ㈲ 疑点︵9︶呂蒙伝

  蒙又密陳計策日︒今征蒼蒼南部︒播璋住白帝︒蒋首将游兵万

 人︒循江上下︒応敵所在︒蒙為国家︒前芸喪陽如此︒何憂於︵曹︶

 操︒禽鳥於︵関︶羽︒ ︵孫︶権深納其策︒

 ⑥ 魏志︵/5︶張既伝斐注引魏略

  ︵游︶楚為人慷慨︒⁝⁝黒和中諸葛紫黒鷺流︒吏民騒動︒⁝⁝

 召会吏民︒謂之日︒太守無恩徳︒今蜀兵至︒諸多吏民皆已応之︒

 此亦諸卿富貴之秋也︒太守忍者国家守郡︒義在必死︒⁝⁝今東二

 郡己去︒必将憲来︒但可堅守︒我国家救到︒憲必去︒是為一郡守

(3)

 義︒人人獲爵寵也︒若官救不到︒蜀攻日急爾︒蕊取太守以降︒未

 為晩也︒

 さて︑これらの史料についてみるに︑ωの公孫淵についての記事

は︑公孫度肝本文の︑ ﹁明帝即位︒拝淵揚烈将軍︑遼東太守︒淵遣

使南通孫権︒往来賂遺︒﹂とあるものに対する注の一部である︒従って︑ここの国家は天子の意にとるべく︑直接的には正比を指すも

のというべきであろう︒

 次の㈲夏侯玄伝の注は︑その伝の本文︑ ﹁大将軍徴聞其謀︒請豊

相見︒豊不知而往︒即殺之︒﹂というものに対するものであるが︑

実は本文には︑その前に︑ ﹁中書令三豊三宿為大将軍司馬三王所親

王︒然私心在玄︒遂結皇后父光禄大夫張紺︒欲以下輔政︒豊三内握

権柄︒子尚公主︒﹂とみえているので︑ここにいう国家とは︑王室

とか天子とかの如き意にとるべきであろう︒

 次の記事は衛槻伝にみるものであるが︑外面的には服従していて

も︑まだまだ信用しかねる関西の諸将に対する態度を︑曹操が荷藪

にたずねたものである︒時に鍾懸が司隷校尉とあるから︵性悪21衛凱伝襲注引魏書︶

建安五年頃のこと︵魏志13鍾翻伝︶︑即ち魏公国建国のかなり前のことであ

る︒従って︑ここの国家は後漢王朝ととるべきであろうか︒

 次の剛志魯粛伝の記事を見るに︑これは職権が劉備を助けて益州

を得させた後の︑荊州の地の所属をめぐっての話である︒この国家

を理解する為に︑同坐風諭にひく下書を引用してみよう︒即ち︑

﹁粛日不然︒始与予州観於三蔵︒予州退避︒不当一校︒計冥慮極︒

志勢催弱︒図欲遠蜜望不及︒此主上於慾予州週評無様適所︒不愛土

−地︒云々︒﹂とあるが︑ここに予州というのは劉備のことである︒

すると︑魯粛伝の荒家というのはこの予州即ち劉備にあたり︑土地

をかしたという国家は︑主上即ち孫権をさしているというべきであ

ろう︒即ち︑国家は主上︑天子の意とすべきである︒

  九品の制をめぐる諸問題︵矢野︶  次の呂蒙伝の記事についてみるに︑これは呂蒙の孫権に対する献策の中の国家であるから︑呉の国︑或は陛下︑何れともとれる用法と思われる︒ 最後の張既伝識量略にみる国家は︑ ﹁我国家救到︒憲必去︒⁝⁝若感心不到︒蜀攻日急坂︒﹂というところによれば︑国家目官と考えられる︒では官とは何かということになるが︑この場合は天子の意であろうか︒例えば宋書︵94︶戴法興伝に︑ ﹁廃帝年己台長︒凶志転成︒欲有所為︒法興毎回禁制︒毎謂帝日︒官所為毛頭︒欲野営陽耶︒帝意稽不能平︒⁝⁝︵華︶乞児因此告帝日︒外間云宮中有両天子︒官是一入︒戴法興是一人︒官在深宮中︒人物不相接︒云々︒﹂とあるところによれば︑官は正に天子を指している︒この意に従えば︑上述の国家の救は︑天子の救援という如き意味ととれよう︒ 以上の如く︑当時の国家の用法には︑大別して︑第一には国家或は政府を指す場合と︑第二には︑天子或は王室という如き意に用いられる場合との二つがあったことになる︒では︑ ﹁先時国家始制九品﹂という時の国家は︑果して何れであろうか︒いうまでもなく︑これは九晶が始めて制せられた時の記事である︒ところがそれと全く同じ内容についての記述があった︒それは勿論︑魏志︵22︶陳群伝の九品制定についての記事である︒従って︑常林伝襲注引創見の記事と︑この陳群伝の記事を比較検討すれば︑この疑問はとけるかも知れない︒いま︑魏志陳群伝の関係するところを引用するに︑ ﹁文混在東宮︒深玉器焉︒待以交友之礼︒⁝⁝霜雪王位︒封群昌    ゾテ シ  ト  セソム ヲ ニスルノ ヲ  ハ     ツル武並侯︒徒心尚書︒制九品︒官 人皆法︒群所建也︒﹂

      ニ ニ レ  

とみえている︒この記事をこうよむのが正しいか否かについては後

にふれるが︑筆者はこのように読むべきだと思っている︒

 さて︑このように読んだ場合︑文金の命によって︑陳群は九品を

      三

(4)

  長崎大学教育学部社会科学論叢 第一八号

制せしめられたということになろう︒ところがこれと同様のこと

を︑前引常林伝引魏略では︑ ﹁国家始めて九品を制す﹂としてい

る︒すると︑九品を制した国家というのは︑天子を指しているので

あって︑直接には四竃を指すと考えてよいのではあるまいか︒即ち

この記録は︑﹁先に文帝が始めて九品を制したが︑云々︑﹂という

ふうに考うべきであろう︒

 @︑では次に︑ここにみる九品とは何を指すものであろうか︒一

般に九晶には︑中正制における九品と︑官階における九品とがあっ

たこと︑周知の事柄である︒いま︑九品に関する諸説をみるに︑ほ

ぼ次の如くであろう︒

D岡崎博士説︵﹁九品巾正考﹂︵南北姐における社会経済制度︶所収︶ 氏によれば︑ ﹁魏時代に既に官品の等差のあったこと丈は確かで

あるが︑さればとて果して魏の全盛期即武︑文︑明の三代間に成法

となったか否かは疑問であって︑余はむしろ人物を九等に次第する

法先づ存し︑それが次第に拡張せられて官階にまでも応用せらるる

に至ったのではなかろうかと思う︒﹂︵同上書男NOOlNO一︶とされ︑この人物を

九等に次第する法というのは︑﹁故に九等法は書誌の説によりて班固

の甑別法を採用し︑陳群が之によりて法をたてたものであると解す

る︒⁝⁝山勘人物を品題する習慣が︑やがて九品を以て人物を甑卸

する法に進展するという王氏の考へ方は︑余輩は正当な判断である

ことを承認するものである︒﹂︵同上寺男NO一一NON︶といわれるところで明かな

如く︑軍手集︵激難の条︶の意見に従って︑人物を九等に分つ九品官

人法が発生したものであろうとされるのである︒従って︑岡崎先生

の説は︑所謂郷品の九品先ず存して︑官階の九品があとから成立し

たと見るものであろう︒

D宮川博士説︵﹁中正制度の研究﹂︵六朝史究研・政治︑新会篇︶所収︶ 宮川氏によれば︑ ﹁要するに︑余は魏において中正の九品と官階

の九品とは並行するものであるが︑一々対応するのでなく︑相互に

因果関係なく︑その精神においても︑前者は中人を基準にし︑上下

に分つ批判的分類なるに対し︑後者は官僚組織のピラミッド的整頓

に必要かつ充分な範囲を設ける便宜に発しているという点で異るも

のがあると考える﹂︵同上書娼鴎黒︶として︑岡崎氏の説を批判して︑九品には中正の九品と官階の九品とが存在するが︑中正の九品と官階の九

品とは︑同じく九品と称し︑同時に存在しながらも︑全く次元の違

ったもので︑何等関係のないものであるとされ︑一方︑陳群伝の九

品は︑中正制の九品︑所謂郷品九品とされている︒︵同上書HサQ◎N㎝−Nロ刈︶

恥宮崎博士説︵﹁九島官人法の研究﹂︶︵ 宮崎博士は︑ ﹁併しながら醗って思うに︑普通に今日︑九品中正

制度と呼ばれるものは︑前述の如く︑本来は九品官人法と呼ばれて

いた︒これは文字通り︑九品によって人を官に登用する方法であ

る︒だから中正の下す郷品の九品も︑もちろんこの中に重要な比重

を占めることには間違いない︒と同時に鶏眼の九品もまた人事を進

退する上に重大な役割をもっている︒この官晶の九品が︑九品官人

法に無関係であったとは考えられない︒寧ろ九品官人法の九品と

は︑郷品の九品詞官品の九品とを含み︑両者が同時に成立したと見

るべきではないか︒そうすれば九品官制の開始が何故史上に見えな

いかという疑問も一挙に解決される︒私は更に進んで︑官職に九品

があることを前提として︑これに相応ずるよう中正の郷品が九品と

いう形をとったものと解釈したい︒﹂︵同ヒ苦団O訓一8︶とされている︒博士

は︑岡崎先生︑宮川博士の説を批判して︑右のように自説を展開さ

(5)

れ︑官階の九品と郷品の九品は同時に成立したものとし︑両者の間

には密接な相関々係ありとされている︒

 ところが以上の人々と全く異った見解を示し︑従来の諸説を批判

されたのは越智重明氏である︒

の越智氏説︵翻継のの鯉に・い・︑﹂︶︵ 越智氏の説をまとめてみれば︑次の如きことになるであろう︒ ﹁

現在一般に九品官人法とか︑九品中正などと称される選挙法は︑当

時は九品とのみ呼ばれていたのであるが︑これは後漢選挙法に対す

る新選挙法で︑魏朝以降にみる宇品九品なり︑四品九品なりの九品

と混同すべきではない︒しかし︑九品︵の制︶といわれること自身

は︑この選挙制度の骨格が︑九品に分けられた盛挙と︑同じく九等

に分けられた郷品とのからみあいにあるに基くとされよう︒﹂と︒

 以上が九品に関する諸説であるが︑これらを整理すると次の二つ

の点が問題として浮び上ってくる︒即ち︑

 第一には︑一般に用いられている﹁九品﹂とは︑定説がないかの

如くであるが︑如何に考えたらよいのであろうか︒

 第二には︑それらの﹁九品﹂と全く無関係ではないにしても︑全

く別物としての︑選挙制度としての﹁九品﹂なるものが︑果して存

在していたのかどうか︑という点である︒

 さて︑これらについて考える手掛りとして︑前引陳群伝の︑ ﹁制

九品官人之法堂所建也﹂を利用したい︒というのは︑この九品は前

節常忌引魏略における九品と同様︑もっともはじめに現われた九品

であり︑而も九晶という言葉が魏の初以降たえず用いられているこ

とからみて︑かりに︑時に九品という言葉の内容に多少の変化はあったかも知れぬとしても︑その基本的な意味は︑陳直伝の九品に含

まれていると考えられるからである︒

  九品の制をめぐる諸問題︵矢野︶  こう考えて︑いま一度魏志陳群伝の記事を引用するに︑ ﹁文事在東官︒深敬器焉︒待以交友之礼︒⁝⁝及即王位︒封群昌武亭侯︒徒世尚書︒制九品︒官人無法︒群所建也︒﹂とみえる︒この記事をこ     二  一  レ        レういう風によむのは︑必ずしも従来行われていたわけではない︒即ち︑現在﹁九品官人之法﹂という表現がこの時代以降の選挙制を示すものとして用いられていることで明かな如く︑ 一般的には︑

﹁制九品官人之法︒群所建也︒﹂と読まれてきたとしてよい  ニ      レ

(宮

阡試m著﹁九島官人法の研究﹂︑P93参昭︶︒しかし︑これを︑上記のように区切って読むことも

できると主張したのは筆者であった︵﹁魏背中正制の性格についての一考察﹂︵史学雑誌72の2︶︶︒その後越

智氏も九品で区切って読まれると燈心に︑氏はこの九品に関して︑九

品は新しい選挙制の名称であり︑ ﹁官人之法﹂は選挙制度といった

意味の一般的表現で︑﹁宮才用人﹂の略であろう︑従って︑﹁官人

之法︑群所建也﹂は︑ ﹁新しい選挙制度は陳群がたてたのだ﹂との

意にとるべきである︑という如き新しい意見を提出されたのであっ

た︵越智氏﹁九品官入法の制定について﹂︵重洋学報46の2︶参昭︶︒

 では︑ ﹁九晶官人之法﹂とつづけてよむか︑ ﹁制九品﹂と﹁官人

之法﹂をわけてよむか︑何れが正しいものであろうか︒越智氏はこ

の点について︑次の如く指摘される︒九品という用法は底土以降数

多く見られるが︑ ﹁九品官人法﹂とか︑ ﹁九品中正﹂とかいう表現

は︑通典︵14︶選挙典の︑﹁延康元年吏部尚書陳群以︒天朝選用︑

不尽人才︒乃立九品官人之法︒﹂にみるものと︑資治七三︵%︶魏

黄初元年の条の胡注に︑ ﹁九品中正︑自是始︒﹂とあるものとが初

見であろうと︵同上論文︒︶︒たしかに氏の指摘の如く︑古い用法には九品

というものしか見えず︑ ﹁九品官人法﹂とか﹁九品中正﹂とかいう

用法は通馬︑胡注がそれぞれの初見であろう︒すると︑最も早い陳

群伝の読み方は︑当然九品と官人忍法とを区切ってよむのが正しい

読み方であると思われる︒

      五

(6)

  長崎大学教育学部社会科学論叢 第一八号

 しかし一方︑古典の記事は︑一般に今日理解されているように︑

﹁陳群が九品官人之法をたてた﹂と解してよいものであろうか︒と

いうのは︑筆者はこのような︑今日の一般的解釈に疑問を感ずるか

らである︒いま︑通典︵/4︶選挙典の︑魏の選挙法についての記事

の原注をみるに︑ ﹁南朝至於梁陳︒北朝至於周陪︒選挙話法︒錐互

相損益︒而九品及中正︒詠唱皇中津罷︒討其根本︒陳寿魏志言下太

略︒故詳弁廿里︒﹂とみえるが︑これによれば杜佑は︑九品と中臣

とは魏朝より南︑北朝に及ぶ選挙法の根本をなすものではあったが

しかし︑両者はそれぞれ別の制度であったと考えているとしなけれ

ばなるまい︒このように︑両者を分つ考え方が正しいと思われるこ

とは︑次の如き例からも察せられる︒例えば晋書︵36︶衛雍伝に︑

 ﹁如此則同郷郷伍︒皆為邑里︒郡県之宰︒即以助長︒尽除中正︑

九品之制︒使挙善進才︑各由郷論︒⁝⁝今除九品︒則宜準古制︑使

朝臣共相翠黛︒﹂とある場合は︑正に﹁中正︑九品﹂の制とよむべ

きであろうし︑又︑晋書︵45︶劉善導に︑﹂

 ﹁無上疏日︒・:⁝今立中正︒定九品︒﹂とか︑ ﹁愚臣以為︒宜罷

中正︑除九品︑棄魏氏之弊法︑立一代能美制︒﹂というものも︑或

は又︑ ﹁墨型中正︑九品︒上々古賢︒皆所不為︒﹂というものも︑

共に何れも中正と九晶とを分って考えていること明白であろう︒即

ち︑早く出初においてすら︑九品と中正は密接な関係にあるとはい

え︑一応別の制度であるとせられていたわけで︑古典原注が九品と

中正とを分ったのは︑これら霊代にみる理解の仕方を受けついだも

のと考えられる︒

 とすると︑通典も亦九品を一つの制度と考えていたわけであり︑

通塗が﹁九品官人之法﹂と記しているからといって︑それを一本化

した称呼として受け取るのは寧ろ早合点であって︑杜佑は︑ ﹁九品

︵及︶官人憲法﹂と記したと理解すべきであろう︒従って︑通典       六

︵14︶の前引記事は︑ ﹁延康元年吏部尚書陳群は⁝⁝九品の法及び

官人の法をたてた﹂と解すべきであろう︒こう考えてくると︑先引

胡注と難も︑必ずしも﹁九品中正﹂と一本化して読まねばならね理

由はなく︑むしろ︑ ﹁九品及中正﹂と解すべきであろう︒

 以上のように考えると︑通典も胡注も共に九品を独立した制とし

て考えていたとしてよく︑現在考えられている如き︑ ﹁九品官人之

法﹂とか︑ ﹁九品中正﹂とかいう一本化した理解の仕方は︑杜佑

や胡三省の与り知らぬところであったといえる︒こう考えると︑

陳群言のよみ方は︑ ﹁制九品︒官人之法︑馬所建也︒﹂と読むべ

きであり︑古来そうとしかよまれてこなかったといえるようであ

る︒ では︑ ﹁九品目とは一体何かということになるが︑これについて

筆者は︑宮崎先生の忌引卓論に導かれながら嘗て次のような意見を

出したことがある︒即ち︑ ﹁魏早岐正制の性格についての一考察﹂

︵史夢雑誌72.の2︶なる小論において︑先ず陳群伝の読み方について︑二つの

読み方が可能であるとし︑第一には︑ ﹁官人を九品にするの法を制

した﹂︑第二には︑ ﹁九品を制した︒人を官につける法は陳群がた

てたのだ﹂とした︵司L論文勺NO︶︒けれども︑ ﹁第一︑第二何れの読み方

に従うも︑魏は先ず九晶官制をこの時制定し︑これを現官僚に適用

し︑その終了後︑更にその九品官制が任官希望者に郷品としてあて

はめられたという考え方は動かないであろう︒従って︑需品が官等

と或る種の対応をなすものとして決定されたと考えることも差支え

あるまい︒﹂︵同卜論文℃︒︒O︶とつけ加えた︒即ち︑筆者がこの小論で考えた

ところは︑ωこの時文帝︵時の文王︶によって九品官制が設けられ

た︒この時の九品は官品の九品であって︑直ちに郷品の九品ではな

い︒②更に︑九品官制制定と共に︑陳群によって任官の具体的方法

即ち中正制が設けられた︒中正は最初官倉九晶を︑その後は品に対

(7)

応ずるものとしての郷品九品を任官希望者に与えた︑ということで

あろう︒陳群伝の九晶が官爵九品であることについては︑堀敏︸氏

も賛意を表していられる︵堀氏﹁九品中正制度の成立をめぐって1三章の貴族袴会にかんする一考察1﹂︵萸洋文化研究所紀要45︑分冊︶︶︒

 ところで︑この筆者の見解も亦︑上述の越智氏の見解とは大きく

喰い違っている︒いまその相違点をはっきりさせる為に整理してみ

ると︑筆者の見解は︑

 第一︑陳群雄︵並びにそれと同内容の記事︶に関する限り︑九品

は官品九品と考えられ︑その後の九品は殆ど郷品九品であろう︒

 第二︑九品と官人之法は別ものであり︑官人三法とは具体的には

中正制をさす︑となり︑越智氏の見解の要点は︑

 第一︑九品とは新しい選挙制をさすもので︑官品九品︑郷品九品

と混同すべきではない︑

 第二︑官人三法とは選挙制度といった意味の一般的表現であり︑

陳群雨においても同様である︑というふうになるであろう︒

 以上︑魏略の︑ ﹁先時国家自制九品﹂について検討してきたが︑

この﹁九品﹂をどう考えるかについての問題の所在は明かとなっ

た︒従って︑直ちにこの聞題の解決にはいるべきであるが︑その前

に常林目引魏略の後半をどう考えるかという問題があるので︑それ

から考えてみる必要がある︒

     口

 常林伝引魏略の後半は︑ ﹁各使諸郡再築中正︒差毛自公卿以下至

郎吏功徳材行所任︒﹂であり︑これをどう読むかということにな

る︒その読み方については︑宮崎先生と越智氏との間に︑大きな相

違のあることは既に述べた︒この記事は恐らく何れとも読める記事

で︑何れが是とも︑或は非とも︑直ちにはいい難いが︑ただ両者の

是非を解決する鍵ば︑ ﹁差叙﹂という語をどう解するかにあるよう

  九品の制をめぐる諸問題︵矢野︶ である︒即ち︑宮崎先生が考えられるように︑中正が差叙する︑中正が現任官の審査をしたと見るか︑それとも越智氏のように︑中央政府が中正を差叙した︑任命したとするか︑何れが是かという場合︑玉野の意味を明かにするのが最も適切な解明の手段であろう︒ さて︑差には色々の意味があるが︑一般的用法は︑差等とか︑等級とか︑区別するなどであろう︒その他に︑えらぶという意味もある︒次に叙には︑ここに関連ありと思われる用法には︑順序づける︑次第するというもの︑位階︑官職を授けるというもの︑のべるというものの︑三つの区別があるようである︒︵戯︐上語の意味については康熈字典による︒︶従って︑差叙という場合︑一般的には︑等級づけて官につける︑区別し順序づける︑等級づけてのべるなどという用法になるであろう︒ただ︑差をえらぶという意にとれば︑えらび官につける︑えらび次第する︑えらびのべるという如くもなるであろう︒ これを宮崎先生の見解に従って考えれば︑ ﹁︵中正は︶公卿以下郎吏に至る現任官の功徳材行を判定して︑その程度に従って︑等級づけてのべた︵審査した︶︒﹂ということになろう︒又越智氏の見解に従えば︑ ﹁︵中央政府は︶公卿以下郎にいたる官人のうち︑功徳自行のふさわしいものを︑︵中正に︶えらび官につけた︒﹂ということになろう︒越智氏の如く考える場合︑自叙を︑区別し順序づけるとか︑等級づけて官につける︑等級づけてのべるという如き意味にはとれないのである︒何故なら最初おかれたのはすべて郡中正であって︑上下の別︑差等はなかった筈だからである︒従って︑越智氏の考を貫く為には︑差叙をえらび官につけるという用法としてのみ考えねばなちぬということになろう︒ 越智氏が︑差油をこのように︑えらび官につけると考えられることについては︑既に越智説を引用した時︑氏が自説を支えるものとして︑通典︵/4︶の割注を引用せられたことを指摘したが︑この割

      七

(8)

  長崎大学教育学部社会科.学論叢 第一八号

注のいうところに従ってこの差置を考えれば︑﹁中央からの任命﹂

の意を含むとすべきであろう︒それは同じく通曲ハ︵32︶総論州佐の

条に︑﹁魏司空陳群以︒天台選用不尽人才︒能州之才優有下竪者︒

除為中正︒自抜人才︒鐙定九品︒﹂とあるものも︑割注のいうとこ

ろと同様であるかにみえる︒

 特に割注の中の︑ ﹁諸費公卿及落省豊門徳充才盛者為之﹂とある

のは︑食出離塁伝嚢注引魏略の︑ ﹁差叙自公卿⁝⁝心任﹂をいいか

えたもので︑氏の上述の見解と一致するものであるとされている︒

(越

「て﹂︵東洋学報46の2︶︶ さて︑たしかに越智氏のいわれる如く︑通学割注の﹁諸府公卿﹂

以下は︑魏略の﹁差叙自公卿﹂以下を参考にして書かれたものの如

くである︒しかし︑通典のこの割注は−今田の総論三佐の記事も大

体同様と思われるが︑一その書法によって察せられる如く︑中正制

についての綜括的な記述なのであって︑そのことはこの割注の中

に︑既にみた如く︑ ﹁九品及中正︒至開皇二方罷︒討其根本︒陳寿

魏志言之太略︒故詳言論告︒﹂という記述が見えるところでも明か

であろう︒従って︑ここに見るところは︑杜佑の申正制に関する理

解をまとめて述べたものにすぎず︑必ずしも︑ ﹁差叙公卿﹂以下を

意識して︑そのまま﹁諸府公卿﹂以下に書き直したものとは︑直ち

にはいえないであろう︒例えば︑常林伝引魏々にみる記事は︑単に

魏の最初の郡中正についての記事にすぎないのに︑通典割注にいう

ところは︑州郡︵県︶中正についての記事であり︑更に︑中正の任

務についての記述まで備っている︒ということは︑この両記事は︑

間接的には関係のあることは否めないにしても︑直接的な関係あり

とは考え難いということになろう︒従ってこの通雲︵14︶の割注を

以て越智氏の見解を支える重要なポイントと見るわけにはいかぬの

ではなかろうか︒       八 これに対し︑宮崎先生の差叙についての見解を支えるものとして鴬笛︵23︶常林伝斐注引高略に︑﹁薦蜴郡移︵王︶嘉吉中正︒嘉叙

︵吉︶茂︒難在引縄而状書下︒云︑徳優能少︒﹂というとUろの叙

がある︒この叙は︑青青郡中正王嘉が吉茂を叙して上第と判定した

が状は甚だわるかったという時の叙である︒従って︑これは中正制

における叙であるから︑差置の叙と同じ意味に用いられているとし

てよいであろう︒ところがこの叙は明らかに人物を品評しているわ

けで︑宮崎先生が﹁審査する﹂とされるのと同意と考えてよいであ

ろう︒更に︑同じ常林伝所引魏略に︑ ﹁時苗⁝⁝還為太官令︒領其

郡中正︒至心人才︒不能寛︒﹂ともみえる︒これも郡中正による叙

であるが︑ ﹁叙人才﹂とみえる以上︑人才を品評する︑判定するの

意にとるべきであろう︒このように︑誌代中正に関しての叙がすべ

て品評するの意にとれることは︑宮崎先生の﹁差叙﹂についての考

え方を支えるものというべきであろう︒堀敏一氏も︑ ﹁九品中正制

度の成立をめぐって﹂︵﹁東洋文化研究所紀要﹂第45分冊︶の中で︑差叙は︑ 等差をつけて

評価するの意であろうとして宮崎説に賛成されている︒

 以上︑差置の意味を中心として︑宮崎︑越智両氏の説を考えたが

越智氏の説は成立し難いこと︑その見解の支柱とされた通典︵14︶

の割注の意見も︑直接的に越智氏の見解を支えるものではないこと

を指摘した︒けれども︑誤解がないように一言しておけば︑筆者は

古典のこの割注の内容が誤っているとしているわけではない︒とい

うのは︑中正には諸府公卿から言三郎吏に及ぶまでが任命せられた

かと思われることは︑魏晋時代において然りであったこと既に筆者

が指摘しているところである︵﹁魏背南朝の中正制と門閥軒A瓜﹂︵長大史学第八輯︶︶︒ただこの割注の内容を以て︑差叙を︑えらび官につけるの意を解する支えとするこ

とは誤りであると主張しているにすぎない︒

 以上︑魏志︵23︶常林伝襲注引魏略の︑ ﹁先時国家云々﹂の記事

(9)

の︑ いわば語句的解釈を中心に考えてきた︒ その結果︑ あの記録

は︑﹁先に文亀︵堅塁︶は始めて九品々制定した︒そして諸郡に中

正を選ばせ︑︵それら中正は︶上は公卿から︑下は農園に至るまで︑

功徳興行の任うるところを判定し︑それに従って︑等級づけ評価し

た﹂という如きことになるのであろうか︒    ⇔

 議論を次に進めることとしよう︒即ち︑晶群伝の︑ ﹁制九品︒官

人之法︑群所建也﹂をどう考えるかということである︒筆者と越智

氏との見解の相違は既に指摘した如くであるが︑いま︑その対立点

の第二点から考えてみよう︒

 さて︑越智氏の見解に従って陳群伝の記事を解すれば︑﹁︵文王︶

は王位につくに及び︑ ︵陳︶群を昌武亭侯に封じ︑映して尚書とな

し︑ ︵群をして︶新しい選挙制度たる九品を制せしめた︒この選挙

制度は陳群がたてたものである﹂ということになろう︒こう解した

場合︑この記事には新しい選挙制度は霊告がたてたのだということ

を︑二回くり返しているということになる︒このような表現は極め

て不自然であり︑且つ︑あとの﹁この選挙制度は云々﹂の記事は蛇

足であることに気がつく︒従って︑この﹁官人之法︑群所建也﹂と

いうものは︑一応前半とは切り離して︑ ﹁︵九品の制は庸王の下命

によって陳群がつくったのだけれど︶︑一方﹁官人之法﹂の方は陳

群の手によってのみ作られたのだ﹂という風に︑この記事は︑陳群

の功績を強調したものと考えるほうが自然ではあるまいか︒このこ

とは︑先に︑九品と官人之法︑九品と中正とは︑それぞれ別の制度

であるとした考えにも通ずるものである︒

 若しそう解しうるとすれば︑官人之法とは人を官にするの法であ

ろうから︑九品︵の制︶の具体化の為の方策と考えねばならぬ︒こ

のことについて既に筆者は︑ ﹁その時︑九品官制の実際運用につい

  九品の制をめぐる諸問題︵矢野︶ ての具体策−即ち中正設置を考えたのが陳群であったであろう︒﹂(「

ー晋南朝の中正制と門閥社会﹂ ︵長大史学第八輯︶︶と考えておいた︒ただ﹁人を官にするの法﹂とい

うのは︑人物推挙権をもつ中正のみではなく︑任免権を握る善部に

も関することであろうから︑単に﹁中正設置を考えた﹂ と限定せ

ず︑中正設置を最も大きな内容としながらも︑更に尚書官制の整備

をも含めて考えてよいのかも知れない︒何れにしても︑ ﹁人を宮に

するの法﹂は︑ ﹁九品︵の制︶の具体化の為の方策であり︑その中

心が中正制であったことは間違いあるまい︒前述した如く︑胡三省

が︑この﹁九品︑官人三法﹂を︑ ﹁九品︑中正﹂と解したことの背

景には︑彼が官人之法を中正制と理解したということがあったとせ

ねばなるまい︒

 では︑次に第一の点即ち九品目は何かということになろう︒その

解明には︑いま一度︑ ﹁九品﹂という語句の用法について検討して

みる必要があるように思われる︒先ず︑初期の九品について︑次に

その後の九品について考えてみよう︒

 1 魏朝初期の九品目

 先ず︑九品を含む記録は次の如くである︒ω魏志︵22︶陳群伝︒

上帝⁝⁝及即王位︒古畳昌武下緒︒潮脚尚書︒制九晶︒官人之法︑

群書建也︒

ω昏怠︵23︶常古伝斐早引魏略︒計時国家始制九品︒難解諸郡選置

中正︑差叙自公卿以下至干郎吏功徳材行所任

㈲魏志︵23︶書林伝斐差引計略︒時言⁝⁝還為太比論︒領其郡中正

定歌話︒至於叙人才︒不能寛︒・⁝:為罪数歳︒不猟而治︒⁝⁝年七

十余︒以正始中病亡也︒

 これらの中︑ω及②は官人之法創設の時のものであるから︑ここ

にみる九品は最も早いものである︒㈲についてみるに︑時苗は正始

(Dn8・414A22︶中に病死したのであるから︑州中正の設置せられたと思わ

      九

(10)

  長崎大学教育学部社会科学論叢 第一八号

れる嘉平初年︵D4 ヨA2︶よりも古い時代︑即ち郡中正時代のことであ

ること明かであろう︒

 さて︑ここで注意しておくべきは︑州中正設置以前においては︑

所謂郷品はつけられなかったという説のあることである︒例えば越

智氏によれば︑ ﹁かくて︑州大中正の送出現時郷品の制がその一環

として出現したとすべく︑州大中正の制出現時以前郷晶の制の存在

はこれを想定しがたい︑ということになろう︒﹂︵麗摺粉諸講中鉦粥醐榔

鋼剛︶とされている︒しかし︑これは納得し難い意見で︑例えば︑魏

志︵2/︶傅半畳によれば︑ ﹁時散騎景雲劉三士考課法︒⁝⁝蝦三戸

論日︒⁝⁝方今九州之民︑愛及京城︒未有六郷之挙︒其者才之職︒

専任吏部︒案品︑状則実母未必当︒任薄紫則徳行未為叙︒如此則殿

最学課︒未尽人才︒⁝⁝正始︵DO841﹂博A22︶弾除尚書郎︒﹂とあるが︑同

志同巻劉都伝に︑彼が考課法をつくったのは︑ ﹁窯初︵D79.り0−3A22︶中肉

著作都官考課﹂とある如く景初中のことであるから︑傅蝦が劉勧の

考課法を論難したのは︑景初末年のζとと考えてよかろう︒少くと

もこれらの事件は明帝末年のことであったとしてよい︒ところでこのころは︑いうまでもなく州中正はいまだ設けられていなかったこ

と諸学者の一致するところである︒然るに︑ この時において︑既

に︑﹁案品︑状則実才未必当︒﹂といわれているが︑これは宛も晋

書︵45︶劉毅伝に︑愚書が中正制の欠陥を指摘して︑ ﹁凡所以立

品︑設状者︒求人才︑以理物也︒⁝⁝以品取人︒或非才能之所長︑

早期取人︒則為本品所限︒﹂といっている場合の品︑状と︑全く変

るところはないであろう︒即ち︑品と状とが︑実際任用を掌る吏部の任務と︑どのように関係するかを論じているわけである︒とす

れば︑劉言伝の品状が明かに中正制における品︑状である如く︑傅

蝦伝の品状も︑州中正出現以前の中正制における︑品と状との存在

を示すものといってよいであろう︒このように考えて前引㈹の画聖       一〇についての記事をみるに︑﹁時苗為太々令︒領其郡中正︒定書晶︒至於叙人才︒不能寛︒﹂というところの記事は︑明かに郡中正として定めるところの九品︑即ち郷品九品をさすと解しても︑おかしいとはいえないであろうし︑﹁叙人才﹂というのは︑状のことを指していると解してよいであろう︒         更に︑晋書︵0︶無季龍興業に︑ ﹁魏始建九品之制︒三年一清定       つ之︒難週録弘美︒亦繕紳之明鏡︒従前以来︒遵用無二︒﹂とあるのは︑嘗てふれた如く︑︵拙稿﹁状の研究﹂︵史学雑誌76の2︶︶魏の初期中正制において早熟が三年に一度改定されたことを意味するとすれば︑郡中正時代に既に郷品が存在していたことを物語るものとしてよかろう︒ 若し以上の推論に大過なしとすれば︑所謂郷地なるものは郡中正時代にも存在したものであって︑決して州中正出現と共に設けられたものではないといえよう︒ さて︑上述のように︑時苗の定めた九品は一応下品であろうと考えたが︑では︑ω︑②の記事における九品はどうであろうか︒これについては︑既に宮晶九品と考うべきであろうとの筆者の考を述べておいた︒現在のところ︑これを訂正すべき理由はないと考えている︒従って以上の三記事から︑魏初にみる九品については︑はじめ文王によって制定せられた九品は官品九品であったが︑それ以外は郡中正の定める郷品九品であったろう︑と考えてよいのではなかろうか︒ ただ︑㈲の時習の定めた九品は︑或は官品九品ではなかったかとの疑問は残るようである︒というのは︑時苗が正始︵DO8 る  コA2 2︶中︑七十余才で死んだ事を考えれば︑文意が陳群に九品を制せしめた延康元年︵D20.2へ︶は︑恐らくは六欲が四十数歳から五十歳前後の頃のことであるから︑延康元年に太官令として郡中正を領したということもあり得たと思われるからである︒若しそうだとすれば︑この九品は

(11)

官品であって無品ではなかったことになり︑これを郡中正時代に郷

品のあった証拠とはなし⁝難いということになる︒しかし︑同じ常林

伝襲畔引の魏略に︑吉茂に関して︑ ﹁︵郡中正王︶拳固茂︒錐以上

第︒譲状無下︒云︑徳優能少︒﹂というところを︑時苗について

の︑ ﹁定九品︒至於叙人才︒不能寛︒﹂とあるものと比較すれば︑

上第は九品の中のある者をさし︑状は人才を叙するものであること

が察せられる︒従って︑この時苗のきめた九品を︑単品とみょうが

軍鶏とみょうが︑そういうことにかかわりなく︑任官前にある種の

品と状とが与えられたと考えてよいことになろう︒即ち︑魏朝にお

いては︑任官前には必ず侮る種の品と状とが与えられたということ

になれば︑最初の官晶としての九晶決定後の郡中正時代において︑

劇画が存在したことは明かであるといわねばなるまい︒

 ∬ 魏朝中期の九品

 ところが魏代中期となると︑ 次に引用する如き﹁九晶﹂がみえ

る︒これは郡中正の定める郷民と解してよいのであろうか︒いまそ

れらを引用すると︑

ω 太平御覧︵562︶中正の条引

 蜜語要職九品︑心置大中正議日︒案九品之状︒諸中正既未能料究       人才︒以為︑虫除九州︑制置大中正︒

㈲ 太平御覧︵562︶中正の尊影︑

 曹義集九品議日︒伏見明論︒欲除虫晶︑星置州中正︒欲検虚実︒

一州闊遠︒糞便相識︒訪不得知会︒復心悸本郡先達耳︒此為雲州中正︑整理決於郡人︒

 というものがある︒これらは斉王芳時代の記事であろうといわれ

ている︵薙賄嚇謎︒﹁九.m官人法の研︶︒ところが︑この記事の読み方には︑大

きな意見の対立がある︒宮崎博士によれば︑﹁九品を叙し州に大中

正を置くの議﹂︵同卜書団30︶とか︑﹁伏して明車をみるに︑九品を叙して

  九品の制をめぐる諸問題︵矢野︶ 中正を置き︑以て虚実を検せんと欲すと︒﹂︵同上苔℃一望︶とよまれている︵宮川博士も同じ︒ ﹁中正制度の研究﹂︵六朝史研究・政治・社会篇所収参照︶︶︒これに対して越智重明氏は︑前者について︑ ﹁旧来の郡中正を中心とする九品という選挙制度を除いて︑新たに州大中正を中心とする選挙制度を設ける﹂︵越智氏︑﹁州大中正の制に関する諸問題﹂︵史淵94輯︶︶

の意とされている︒

 この場合︑除の意味を︑救任すると解するか︑のぞくと解するか

は︑極めて大きな相違といわねばなるまい︒では︑これは一体どう

読むべきであろうか︑又︑この九品は果して選挙制度と考えてよい

ものかどうか︑について考えてみよう︒なぜなら︑州大中正中心の

選挙制度も︑相変らず九品と呼ばれていると考えられるとすると︑

越智氏の考は︑ ﹁︵郡中正中心の︶九品の制を省いて︵州中正中心

の︶九品の制を設ける﹂という一見矛盾した表現ともいえるからで

ある︒ ところが実は︑この二つの記事を理解する上に大いに参考になる

かと思われる記事が︑西晋の初頭にみえる︒それは次のような記事

である︒ω 晋書︵36︶衛雍伝

 雍以︑生立九品︒是権時之制︒非経通之道︒宜復古郷挙里選︒与

太尉亮等上疏日︒⁝⁝自菰以降︒此法陵遠︒魏氏承顛覆通運︒起喪

乱之後︒人士流移︒考詳無地︒故立九品之制︒粗具︸時選用之本

耳︒其始造也︒郷邑清議︒不拘爵位︒⁝⁝如此則同郷隣伍︒皆為邑

里︒郡県之宰︒即瓢箪長︒燈心中正︑九品之制︒出挙善進才︑各由

郷論︒⁝⁝今除九品則宜準古制︑使朝臣共相挙任︒⁝⁝武運善之︒

歩卒不能改︒

㈲ 晋書︵45︶劉毅伝

 毅以為︑魏立九品︒権時之制︒未見得人︒而有八損︒首上寧日︒

臣聞︒立政者以官才為本︒⁝⁝今立中正︒定九品︒高下任意︒栄辱

      =

(12)

  長崎大学教育学部社会科学論叢 第一八号

無手︒操人主之威福︒奪天朝之権勢︒⁝⁝天下詔謳︒謹話品︑位︒

不聞権譲︒霧詩聖朝恥之︒夫名状以当単為清︒品都門得実年平︒⁝

⁝今一国之青函者千数︒或流説異邦︒霜取給馬方︒⁝⁝上中正知与

不知其当品状︒習習於台府︒納曽於流言︒⁝⁝凡所以立品設状者︒

求人才︑以被物也︒⁝⁝今品不学才能之所宜︒而以九等為例︒需品

取人︑或非才能之所長︒以状取人︒則為本馬所限︒若状得其実︒猶

品状相妨︒⁝⁝況今期晶︑所疎則削議長︒所親則飾其短︒⁝⁝前九

品詔書︒善悪罫書︒以為褒財︒当時天下少有所忌︒今之九品︒所下

記彰其罪︒掌上不列長島︒⁝⁝難職名中正︒実為姦府︒威名九品︒

而黒八損︒⁝⁝愚臣以為︒興言中正︑除九品︒棄魏氏之弊政︒立一

代言美制︒講書︒優詔答之︒後干空衛雍等共表︒宜省九品︒復古郷

議里選︒帝寛不施行︒﹂

 この有名な記事についての解説は︑宮川博士の﹁六朝史研究︑政

治社会篇﹂や︑宮崎博士の﹁九品官人法の研究﹂につまびらかであ

るので︑ここで蛇足を加える必要はない︒これらによれば︑魏の時

設けられ︑そのまま引きつがれた九品の制が︑西晋初頭において既

に大きな欠陥を示し︑武帝もそれを認めざるを得ない状態にあった

ことが明かである︒従って︑この皆伝にみえる︑﹁除中正︑九品之

制﹂ ﹁除九品﹂とか︑ ﹁罷中正︑除九品﹂とか︑ ﹁省九品﹂とかい

う時の﹁除﹂や﹁省﹂は︑何れも弊法としての九品の制を︑ のぞ

く︑はぶくという意に読むのが妥当であろう︒

 さて︑この両記事に指摘しているところを要約すると︑ω魏は権

時之制としての九品をたてた︒ωそれは今日︵西寺初頭︶にも引き

つがれ︑ ︵州郡︶中正の定むるところである︒㈲しかし︑それは人

才をあげるに充分な方法ではない︒ωよろしく︑中正及び九品を省

くべきである︑ということになろう︒

 一方︑孫引宣帝除九品議と曹義の九品議についてみるに︑ω九品 =一

というのは︑魏朝初期の郡中正時代の九品であること︑ω九品の実

態によれば︑郡中正は人才をきわめ得ないといえる︒㈲州中正をお

いても一州は広いから︑州中正のみで人才を究めることは困難であ

ろう︑というような内容であろう︒ここで︑西晋初頭の議論と︑こ

の宣帝︑曹義の議論とを対比してみると︑両者の主張は極めて類似

していることに気がつくであろう︒

 先ず︑この前朝初期の記事にいう九品と︑魏代記事にみる九品と

は︑同じものがあることが注目される︒何故なら︑衛雍伝や劉認可

の九晶は︑魏朝の初︑九品の制が権時の制としてたてられてから︑

引きつづいているものとして︑即ち︑魏から西晋初頭まで変化のな

いものとして考えられている︒一方選評帝や曹義の議論にみえる九

品は︑明かに︑州中正設置前の九品︑即ち︑郡中正時代の九品をさ

している︒従って︑これら両者の論じている九品は︑実は同じもの

として考えられているとしてよかろう︑ということになろう︒その

ことは前挿群書石季龍載記に﹁魏始建部晶管制︒三年一清定之︒⁝

⁝従爾以来︒遵用無改︒﹂としていることからも伺われる︒

 次に︑魏代の ︵郡︶中正︑西部の ︵州郡︶中正の関係する九界は︑何れも人才を挙げるに充分な方法ではないという指摘が共通し

ている︒ こうみると︑魏朝初めに設けられた郡中正のみによる九品の制

は︑その後州中正が置かれたにもかかわらず︑何等本質的な変革な

く︑西晋初頭までつずき︑その欠点も同様なものとして魏及び西晋

初の人々に考えられていたということになる︒ところが︑西晋初頭

では︑そのような中正及び九品はよろしく省くべしと主張されてい

る︑とすれば︑同じような状況下にあった魏代において︑同様な︑

中正及び九品を省くべしという議論が起ったとしても不思議ではあ

るまい︒即ち︑晋宣帝の除九品議にいうところは︑ ﹁九品を除き︑

(13)

︵郡中正をやめ︑︶州大中正をおくべきである﹂という︑改革意見

であったとすべきであろう︒筆者は以上の如く︑この場合の﹁除﹂

は︑越智氏の見解に従って︑のぞくと読んでおき度い︒

 さて︑魏の郡中正時代の九品と︑西晋初の州郡中正時代の九品と

が同じものであるとすると︑第一には︑魏代における︑九品を除

き︑州中正をおくべしとの宣帝の意見にもかかわらず︑魏代におい

て九品の制における大きな変革︑或は九品除去という如きことは起

らなかったということになろう︒第二には︑西語の九品が︑中正に

よって上下されていることからみて︑魏の九品も︑郡中正が人才を

究め得ないとする︑その人物評価としての九品である︑としてよい

のではないかと考えられる︒

 先ず第一の点についてみるに︑次の如く考えられるのではなかろ

うか︒即ち︑宣帝はそれまでの九品を廃し︑州中正を設けようとい

う改革案を出し︑曹爽一派の反対にあって一旦はひっこめたが︑嘉

平初年のクーデター後︑州中正を設けたであろう︒ところがその

時︑州中正は設けられたものの︑九品の改革とか廃止はなく︑州中

正と九品とは併置された︑というよりも︑西晋初頭でもなお翁面と

呼ばれ︑それは魏初以来の九品のつづいているものとして理解され

ていることからみて︑実は︑州中正は寧ろ九品︵の制︶の中に包み

込まれた︑と考えられねばならぬのではないか︒ということは︑宣

帝によって︑︵郡中正と︶九品を除き︑州中正をおくべしと提議され

たことはあったにしても︑それまでの九品︵の制︶と︑新しく設けら

れた州中正とは︑本質的には何等矛盾対立する如きものではなかっ

たということであろう︒そのことは︑越智重明氏が﹁清議と郷論﹂

(東

m学級48の一︶なる論文において︑西晋時代の郡国中正について︑ ﹁当時

郡国の中正がその郡国を直接的な管轄地とすると同時に︑州大中正

の補佐官乃至次官的性格﹂をもっているとされる︑その郡国中正の

  九品の制をめぐる諸問題︵矢野︶ 機能と中正制内の地位によって︑明かに裏書きされるといえよう︒ 次に第二の点について考えるに︑前述宣命の議と曹義の意見によると︑両者が共通に問題としているのは︑人物調査が中正によってよく行われうるか否かという点である︒並置は︑郡中正では人才を究め得ないから︑ 九品をはぶいて州中正をおくべしといい︑ 曹義は︑そうなった場合︑州中正のみでは調査不可能で︑結局は郡の先達にきくの外はない︑ ︵それならば無理に九品をはぶく必要はなかろう︶というものであろう︒即ち︑宣帝の意見によると︑ ﹁郡中正は人才をきわめ得ないから︑九品を除け﹂ということであるから︑九品とは︑人才を究めようとする場合の手段︑或は人才をきわめようとする結果としてでてきたものを指すとしてよいようである︒従って︑その九品を除けという場合は︑人才をきわめる為の具体的働きをする郡中正を除くことを含んでいると見るべきであり︑一方曹義の意見によれば︑州中正が置かれた場合︑それを助けるものとして郡の先達しかなく︑郡中正は考えられていない如くである︒ これらのことは︑州中正が置かれた場合は︑九品が除かるべきであったと共に︑郡中正も廃止さるべきであったことを意味するといえよう︒先引のように︑越智氏が宣帝の議を解して︑ ﹁旧来の郡中正を中心とする九品という選挙制度を除いて︑新たに州大中正を中心とする選挙制度を設ける﹂とされているのも︑九品を除くの中には︑郡中正を除くも含まれていると主張されているわけであろう︒このように︑九人制除くの中には︑郡中正を除くを含んでいると解すると︑宣帝の意見は︑ ﹁郡中正は今や人才を究め得ないこと明かであるから︑ ︵郡中正と︑それによる︶九品の制を除き︑かわりに州に大中正をおいて人才をきわめるようにすべきである﹂ということになり︑これに対して曹義の意見は︑ ﹁︵郡中正と︶九品の制を除き︑州大中正の制を設けても人才は究め難いから︑結局は郡の先       一三

(14)

  長崎大学教育学部社会科学論叢 第八号

機にたよる外はない︒ ︵それならば九品︑郡中正を除く必要はなか

ろう︒︶﹂ということになろう︒従って︑宣帝の除九品議や辞義の

九品議にいう九品とは︑郡中正による九品︑即ち器品九品をさすと

すべきであろう︒

 以上︑魏初の九品︑魏中期の九品について考えた結果︑賢路最初

の明王によって創設された九品は宮窪九品であり︑それ以降の九十

は︑中正による九品︑郷民九品であったとしてよさそうである︒従

って︑西晋初頭に﹁九品町制﹂︵例えば芳書36衛璃伝︶として表現されているもの

は︑ ﹁︵中正によって与えられる︶郷品九品の制﹂と解すべきであ

ろう︒    結 語

 さて先に指摘した如く︑ ﹁州中正は︵郡中正による︶九品︵の制︶

に包み込まれた﹂とするならば︑魏の郡中正時代の九品の制︑即ち︑

﹁郡中正によって比島九品を与える﹂という選挙制における基本線

は︑郡中正︑及び九品を除き︑その代りに設けたいと宣帝が考え︑

その通りに州大中正が設けられた後も︑ずっと貫かれたということ

にならざるを得ない︒これは︑宣帝の三九町議にみる考え方とは全

く相反するわけで︑実際には︑宣帝の意見は貫徹されることなく︑

嘉平初年の州大中正設置にあたっては︑何等の急激な変革も行われ

なかったということになろう︒では一体それは何故であろうか︒

 先ずはじめに考えられることは︑郡中正︑九品の制は︑宣帝がそ

の廃止を考えた頃には︑既に設置以後︑三十年近くを経ていて︑い

ま更︑全面的改廃は不可能に近かったのではなかろうか︒例えば︑

夏曇霞が正始の初年頃︑太傅司馬宣王に時事についての意見を上っ

たものにも︑ ﹁自郷郡中正︑品度悪才之来︒有年載ム矢︒緬緬紛紛︒

未聞整斉︒﹂︵魏志9夏侯玄伝︶といっている如く︑当時の郡中正は可なり恣意

的な人物評を下した例︵魏志23常林伝注脚魏略︑江嘉︑蹟苗に関する記輿参照︶もあったらしいが︑        一四しかし夏侯玄もいう如く︑兎にも角にも郡中正の官才を品度する仕事はほぼ三十年つづけられてきているわけである︒とすれば︑その制の根本的変革はそれほど容易にはいかなかったであろう︒ 抑も司馬氏の州中正設置の意図は︑その勢力の強化の為にこの制を利用することにあったようである︒︵些事法の研究︶即ち︑ 州大中正設置によって中央集権を意図したのであろう︒その為には︑郡の輿論代表としての郡中正︑郡中正による九型の制を除去すべきだと考えたのであろうが︑魏初以来三十年︑最早貴族化しつつあった地方出身豪族達との妥協の為には彼等のよって立つ郡中正を黙認する必要があったであろうと思われる︒その結果︑州︑郡中正制という︑二重構成の人物評価制度が生まれることになったのではなかろうか︒ この妥協を当時の政情に即して考えてみれば︑当時の司馬氏の勢力は必ずしも安定した状態にあったわけではない︒このことは︑第

一には︑例えばこの州大中正設置をめぐる問題の起ったころ︑司馬

君王はクーデターを起して寝番一派を族甘したが︑それは嘉平元年

正月のことであった︒ところが翌二年正月には︑ ﹁帝︵宣誓︶逓送

不任朝請︒毎有大事︒天子親幸第以比量焉︒﹂︵晋寄1宣帝紀︶といわれる如

く︑久しく病にかかっていたといわれ︑翌三年八月には京師で死ん

でいる︵同ヒ︶︒嘉平二年正月に既に久しく病にあったということな

ら︑クーデター間もなく病にかかったと推定できぬこともない︒州

大中正設置は勿論クーデターの後であるから︑もし郡中正︑九品が

絶対に廃止さるべきものであったのなら兎も角︑そうでなければ︑

このような司馬勢力の不安定の時期に大きな変革が行われたとは考

えられない︒恐らくこのような事情もあって︑郡中正︑九品の制も

存続しつつ︑州大中正を加えるという形での改革︑妥協が行われた

と見る可能性は十分あり得よう︒

(15)

 更に第二には︑曹爽勢力の一掃後と難も︑司馬氏の対立勢力が全

くなくなったわけではない︒例えば︑王乳︑諸葛誕︑恥丘倹︑文欽

の如き諸将︑三豊︑夏侯玄︑張輔の如き中央官僚は︑司馬氏と抗争

して︑次々と族諌を加えられたが︑司馬氏が完全に実権を握ったの

は︑漸く甘露三年︵D8.﹁OA2︶︑即ち︑州大中正設置からほぼ十年後のこと

であったといわれる︵宮川陣士︑﹁六朝史研究︑政治︑挫会篇﹂第二章禅譲によるモ朝革命の研究の条参照︶︒而も曹爽一派に

族諌を加えて以来︑これら対立勢力には殆ど族謙を加えているので

(程

循氏﹁九朝律考﹂夷三族の条参照︶︑そのことは︑それら諸勢力を徹底的に壊滅せねば

司馬氏勢力の確立ができ難いという面があったことを思わせる︒

 このように考えてみると︑当時の司馬氏にとって︑郡中正︑九品

の制を除くことを強行するよりも︑それはそのままとしながら︑そ

の上に州大中正を設け︑その州大中正を司馬氏を中心として運営す

るという︑ 一種の妥協が行われたものと推察せざるを得ないのであ

る︒ 筆者は一応以上のように考えてはみたが︑しかし︑司馬宣王は何

故にあのような九品を除くの議︑誰からでも直ちに反撃をくいそう

な隙だらけの案を提出したのであろうか︑との疑問は除き難いもの

がある︒曹義の反簸をまつまでもなく︑あのような反撃をくうこと

は明かであった筈である︒すると︑あの意見が提出された真意は︑

蛍−に︑郡中正︑九晶をどうするかというのではなく︑裏にかくされ

たものがあったのではないかと考えざるを得ない︒そう考えるとこ

の提案は︑寧ろ曹爽勢力を早く挑発して︑司馬氏勢力と衝突せしめ

ようとする謀略の一つであったのかも知れない︒勿論これは単なる

憶測ではあるが︑あの提案の本当の意味は恐らくはこの辺にあった

のではなかろうか︒晋書︵2︶景帝紀に︑ ﹁宣帝之将諌曹爽︒深謀

秘策︒独与︵景︶帝潜図︒⁝⁝初︵景︶帝陰養死士三千︒散在人間︒

至是一朝而集︒衆莫知所出也︒﹂とあるのをみれば︑単なる憶測と

  九品の制をめぐる諸問題︵矢野︶ もいい切れないものがあるのではなかろうか︵越智重明氏﹁魏丁目伐の州大中止の制﹂︵東洋史蝉船輯︶第一節参照︶

︵本論文は昭和四十三年度文部省科学研究費による︑

行政制度の史的研究﹂の分担報告の一部である︶ ﹁東アジアにおける

一五

参照

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