1397年のドヴィナ行政法をめぐる諸問題(承前)
著者 石戸谷 重郎
雑誌名 奈良教育大学紀要. 人文・社会科学
巻 15
号 1
ページ 31‑46
発行年 1967‑02‑28
その他のタイトル ПРОБЛЕМЫ О ДВИНСКОЙ УСТА
ВНОЙ ГРАМОТЕ 1397 ГОДА(II)
URL http://hdl.handle.net/10105/3341
1397年のドヴィナ行政法をめぐる諸問題(承前)
石 戸 谷 重 郎 (歴史学教室)
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3 恵与状としてのドヴィナ行政法
ドヴィナ行政法は、その成立の事情において、モスクワ侯国が服属させたばかりのドヴィナ地 方に対して、現地ドヴィナ人、とくに貴族を掌提せねばならないという状況で発布されたもので ある。同法がその「前文」において、ドヴィナの貴族が大侯の代官に任ぜられる可能性あるかの どとき口ぶりをもらしているのは、このことと関係がある。しかし、ドヴィナ行政法が行政法で ある限り、行政と裁判が密着していた当時、裁判と罰金・諸税の徴取がむしろ行政の中枢をなし ていた当時にあって、ドヴィナ行政法が裁判法的な性格をもたざるを得なかったのは当然であ る。前節に検討した同法第1‑第11の諸条項は、裁判についての規定であって、ときに貴族にと くに有利な条項があっても、それはドヴィナ貴族を特別に意識しての条項でなく、 14‑15世紀ロ シアに共通的なものであることを知らされた。したがって、ドヴィナ行政法に裁判法としての性 格規定を与えようとしたチホミロフの見解にも、それだけの理由があるのである。それにもかか わらず、われわれがチホミロフ所説を支持できないのは、ドヴィナ行政法に恵与状的な性格が濃 厚に認められるからであるO それは、まず、同法がその前文に「恵与せり」といい、その政文に
「違反するときは一大侯よりの処罰あるべし」といっているからで、少なくともこのスタイル は、普通一般の「恵与状」に共通の慣用句であって、(Hi)ドヴィナ行政法成立時点よりも前の恵 与状にして現存するもの、その数が少ないとはいえ、チェレープニンが強調しているように、(112)
ドヴィナ行政法制定にあたって「恵与状」そのものが参照されたことは疑を容れないように思 われる。そして、同法成立の背景をドヴィナをめぐるノヴゴロドニモスクワの争いの歴史のなか で想起しても、同法が恵与状的な性格をもつことは充分に予想されるのである。本節では、ドヴ ィナ行政法諸条項のなかで、恵与状を参照して規定されたと思われ、もしくは恵与状的性格が強 いと考えられる第12‑第16条を、一般の恵与状との比較において検討したい。
第12‑第16条は、二つのグループに分け得る。第14・15・16の三箇条がドヴィナ商人に特権を 認めているのに対し、第12・13条はドヴィナ人一般に関するもので、大侯の「執行官」のドヴィ
ナ立入りを禁じ、また裁判を行なうのは代官であると明示し、ドヴィナ人が大侯に直訴すること を認めている。
まず、第12条を読み直してみると、 (1)大侯の執行官がドヴィナに入らない、 (2)大侯の代官が裁
きを行なう、この二つは14‑15世紀ロシアの一般的制度からすると、矛盾しているように思われ
る。われわれがこれを矛盾とする理由を説明しよう。執行官は裁判権および警察権の執行におい
て最先端に立ち、民衆と最も接触の多い職務である。(113)大侯をはじめとする諸侯は勿論、大司
教・修道院長、代官・郷司など、直接に、もしくは委任された形で裁判・警察権をもつ者は、何
れも配下に執行官をもっていた。いま、ドヴィナ行政法第12条は、 「大侯の執行官」といってい
るので、そのドヴィナ立入りを禁じていることは、ジ‑ミンが「大侯の役人が領主の所領に立ち 入ることについての恵与状の慣習的な禁止」と見ているように、(114)ドヴィナを大侯裁判権の直 接支配から解放していることを意味する。
われわれは恵与状においてこの種の内容を稀でなく指摘できる。
例えば、
(イ 1463‑1469年O スパソ‑ヤロスラフスキー修道院に対する恵与状(115) I・‑余、ダニ‑ル侯
° o o o o . .・ . #
は、それらのリュ‑ジーを裁判しない、かれらに執行官を与えず、余の郷司とそのドヴォチ
° ° ° ° ° ° °
クは立ち入らず、執行官を与えない。 ‑」 (圏点は引用者による、以下史料(ツ)まで同じ) (ロ1478年。スパソ‑ヤロスラーフスキー修道院に対する恵与状(116) 「・.・われらの(引用者註、
o o o o
リャロフ侯イワン)郷司は、管長の製塩者とかれらのリュ‑ジーを何事においても裁判しな
o ・ 詛 ・ ・ ・ ・ ・ ・ o o o o
い、執行官を与えない。しかるに、管長または〔かれが〕命ずる者がかれらを裁判する。 ‑」
(イ)では、侯も、侯の「郷司」 (BOJIOCTeJIb)もともに「執行官を与えない」、 (ロ)では侯の郷司が
「執行官を与えない」という、外面的なちがいがあるが、何れの場合でも修道院に裁判権を認め ていることに結びついているoドヴィナ行政法寛12条にいう「大侯の執行官はドヴィナ地方に入 らない」とは、大侯が当地方を直接的な裁判権下におかないことであり、かつそれがドヴィナ人 に対する恵与・恩恵として言われていることが認められよう。
ところが、問題はそのあとにある。恵与状一般では、裁判インムニチ‑トを認めるとき、大侯 もしくは侯が、自分の代官の立入り禁止を宣するのが普通である。それに反して、ドヴィナ行政 法第12条では、逆に大侯の代官が裁判を行う、と指示しているのである。恵与状の場合には、上 描(イ)に見られるように、侯の郷司が立ち入らない、侯が執行官を派遣しない、は平行的な意味を もっている。あえて執行官のことにふれず、 「余の郷司は立ち入らない」という恵与状は多い。
郷司はその職能において代官と大差ないものである。念のため、代官をもあげている恵与状の若 干をあげよう。
H 1415年。大俣ワシリ‑l世のトロイッキ‑修道院の某所債についての恵与状(117) 「‑余の
° ° °
ペレヤスラグリの代官、キセムスキーの郷司、ならびにかれらのチウンは、そのリュ‑ジーとそ
° Ⅰ t t ° ° L
こに来住する〔リュ‑ジー〕に、何事にあれ、自己の配下(且bodhh)を派遣しない、かれらを裁
o ° ° ° o o o o o o o o
判しない。しかるに、修道院長ニコンが、またかれが命じた者が、かれらを裁判する。 ‑」
(ニ1415‑1425年。大侯ワシ‑リ‑l世のトロイッキ‑修道の某所領についての恵与状(118) 「‑
余のペレヤスラグリの代官、ウソ‑
落に(b ^epeBeHKy)、何事にあれ、
0 1つ
r^B闇些
スキーの郷司、ならびにかれらのチウンは、その小部
0 0 0
己の配下を派遣しない、それらのリュ‑ジーを裁判し
0 1コ o o o o
ないO修道院長が命ずるその者が、かれらを差配し(BeAaeT)裁判する。 ‑」
回1424年1月30日っ 大侯ワシーリー1健の領主イワン・カフトゥイレフの某所領についての
° °
恵与状」119) 「・・・しかるに、余のコストローマの代官、およびかれらのチウンは、 ・・.それらの来往
° ° ° ° ° °
するリュ‑ジューに何ごとにあれ立ち入らない(He BCbMafOT)。ドヴォチクは、殺人罪以外は罰
o o o o o o o く3 O O
金を取らない。イワン自らが‑裁判する。」
すなわち、賦与されている裁判権が完全、もしくは条件づき、というちがいが見られるにせ
よ、代官以下、侯の役人が「裁判しない」としている点は全く同じであるO ワシ‑リー1世の
父、大侯ドミートリー‑ドンスコイの恵与状に、 「余の貴族は、掠奪と盗みについて、かれらを
裁判しない」と記されているものがあるが、 (120〕代官をその身分によって示しているにすぎな
い。要するに、一般の恵与状では、代官または郷司が裁判しないということが、裁判インムニテ
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‑トの共通的特色なのであって、ドヴィナ行政法が、一方で大侯の執行官立入りを禁じ、他方で 代官の裁判を特記しているのは、恵与状によって考えるとき、まさに矛盾しているといわねばな らないO大侯の執行官を、大侯裁判権に直接につながるものと考えねばならないと同様に、代官 もまた大侯直属の大侯権力代弁者なのである。第12条についてわれわれがいだく疑問は、チェレ
〜プニンによってもジーミンによっても、まともに取り上げられていないが、ジ‑ミンの第12条 についての解釈は、一つの手かかりを与えてくれそうである。
ジーミンは、同条が形の上ではドヴィナ人を満足させていること、および現実にはドヴィナ人 を晴着していること、この2点を述べている。(121)前者において、われわれはかれと見解をひと しくし、後者についてはその根拠に異論がある.ジーミンが、ドヴィナ人を満足させている、と いっているのは、大侯執行官の立入り禁止のみならず、代官裁判権をふくめてのことである。つ まり、ジーミンは単刀直入に表現していないが、ここにいう代官とは、ドヴィナの貴族のことで あり、さきに指摘した「前文」にいうドヴィナ貴族が代官に任命される可能性の実現される場合 と解きねばならない。でなければ、第12条の後半は、まさにモスクワ国家の中央集権化政策の宣 言に他ならず、一方では同条前半と矛盾し、他方ではドヴィナ人の不満をよびおこすだけに終る であろう。 「代官が裁きを行う」は、ドヴィナ人の貴族が代官になる、ということを前提にして のみ矛盾なしに解釈されるのであって、この点でジーミンが同条をドヴィナ人を満足させた、と 見ているのは当っていると思うG ただし、ジーミンはつづけて、それがドヴィナ人を臓著してい
ることにふれ、現実にモスクワの貴族‑勤務侯たるロストフ侯フョードルが任命されているが故 に、晴着である、と述べている。さきに、ドヴィナ行政法成立の時点について考察したように、
ロストフ侯フョードルの代官任命前に同法は発布されているのであって(チェレ‑プこン説をわ れわれは支持する)、あえてドヴィナ人に対する晴着をいうとすれば、同法の成立‑発布の時で はなくて、むしろフョードルの代官任命のときにであるO でなければ、同第12条はジーミンのい うように、けっしてドヴィナ人、とくにその貴族を満足させ得た、とは解釈できないのである。
要するに、ドヴィナ行政法第12条には、一般の恵与状とは逆に、代官に裁判させる、という条項 によってドヴィナ人を満足させている特殊ドヴィナ的な要素が、同法成立の事情とからんで、含 まれているのである。
ドヴィナ行政法第13集も、仔細に検討すると、問題が出てくる。ドヴィナ住民に対して大侯へ の直訴権を認めている点では明確であるが、そのドヴィナ住民によって訴えられるのが、代官そ のものであるか(この場合には、代官の怒意専断の制約に重点ありと解す)、もしくは大侯領住 民であるか(この場合には、大侯‑の直訴梅そのものに重点ありと見る)、この点がやや不明瞭 である。いま、このような疑問をいだくのは、次のような恵与状の例があるからである。
ト1471年12月6日の日付をもつアンドレイ侯のヰリーロ修道院に対する恵与状(122)同修道 院領民に、 「強奪、掠奪、盗みまたは何か他の不法の事によって不法を加えるとき」、加害 者に「出頭目通達状」 (cpoHHaa)によって大侯裁判を受けさせることを、修道院に「恵与」
° ° ° ° ° °
しているo その加害者を、この文書は「余のリュ‑ジーの誰か」、 「余、アンドレイ‑ワシー リエヴィチ侯の世襲領の誰か」といっている. AC9日.第2巻の刊行者は、その意味を「侯 の裁判権下にある住民」が、修道院領民に対して不法を働くとき、と解している。
同1455年11月5日に、ベロゼール侯ミ‑イルが同じキリ‑ロ修道院に与えた恵与状(123)修
° ° °
道院領民が「余のリュージー」すなわち侯のり.1‑ジ‑から、不法を受けたときについて、
ベロゼ‑ル一般に指示されていた年一度の出頭目「ズボールの日」を、 「延期」すなわち変
吏して、 「修道院長が欲する日」を「書きそして指定する」特権を認めている。この場合 も、侯領の住民一般との対立・紛争についてである、と解すべきであろう。
(?) 1490年7月のイワン3世によるウスペンスキー教会に対する恵与状(124)ここでは、まさ に「代官の用人またはチウン」と教会人との問に「事件」がおこるときを扱っている。 「ウ ストレテ‑ニ工の日」を大侯への直訴のための出頭E]に指定しているが、それは教会人のみ の特典ではなく、役人側にも全く同じことを認めている。この恵与状が恵与状たる所以は、
むしろその前にしるされている殺人罪・掠奪現行犯を除く裁判権が同教会に賦与されている 点が中心であると解される。
このように、恵与状が大侯への直訴権を認めている事例はけっして少なくないが、侯の代官の 不法を訴えるよりは、侯鎖民の不法を訴えることについてであり、ときに代官を訴えるにして も、それは上例(チ)が示すように、修道院領民のみの一方的な特典としてではないのである。チェ レ‑プニンは、ドヴィナ行政法第13条に相応する恵与状として、上例(へ)をあげているが、(125)大 侯への直訴において共通点があっても、ドヴィナ行政法が代官を大侯に訴え得るものとすれば、
両者のもつ特典の意味は、かなりちがってくるのである。
では、ドヴィナ行政法第13条は、さきに提起した二つの場合のうち、何れがとらるべきであろ うか。条文の後半に重きをおいて読めば代官を訴えることではないようにも思われるが、冒頭の
° ° ° ° °
「誰かが不法に罰金を取る」に注目するとき、やはり、代官との争いと解さるべきであろう。さ らには、ベロゼ‑ル行政法には、このドヴィナ行政法第13条に応ずる条項が、しかも疑問を起こ させない用語法で規定されている,すなわち、
° °
「誰かベロゼール都市民に、スタンの、および郷の住民に対して、代官、郷司、チウン、ドゥ
▼ ° ° ° ° ° ° ° ° ° ▼
ォチクより不法あるとき、かれらは自ら代官、郷司、およびその用人に対し出頭日を指定す る。」(126)
とある。したがって、ドヴィナ行政法も代官の専横を封ずる手段として、またドヴィナ人一般の 権利をまもる目的で第13条を挿入した、と見ることができよう。それは第12条に代官に裁判権あ りと宣言していることに応じて住民一般を念頭においての規定である。ただ、このようなことを 明記している恵与状は、寡聞の限りでは、史料的に確認できないO チェレ‑プニンが、ベロゼー ル法の考察に際して、その上掲の条項にふれて相応する恵与状として引用しているのは上例回の 史料であって、修道院領民が自ら出頭日をきめ得ることに重点をおいての引用である。修道院領 民が代官を訴え得ることについては、チュレープニンも特別な言及をしていない。
ドヴィナ行政法の最後のグループ、第14‑16条は、 「ドヴィナの商人」 (rOCTb 」BHHCTくhh)に 対して文字通り特典を賦与しているものである。第14条は、ドヴィナ商人がドヴィナから出るに 際して荷船および荷車(B03、実際にはそり(127)についてウスチュグおよびウォログダで税を取ら れる。しかし、代官は「それ以上は何も取らない」。また両市の代官は「かれらをとどめず」通 行を保証する B.H.ベルナードスキ‑が考察しているように(128)、ドヴィナとノヴゴロドとの交 通路は、ノヴゴロド人にとってはモスクワ領を通らず、エムツァ河経由が主であった。 (さきの 1398年戦争のときのノヴゴロド人のドヴィナ遠征を想起されたい0)いま、ドヴィナ行政法第14条 が、ドヴィナからモスクワ侯国中心部に通ずる要地二つをあげて、そこの通過を安全にしている
ことは、モスクワ侯国がドヴィナ商人をノヴゴロドから離し、モスクワに惹こうとする意図のあ
らわれであり、またドヴィナ商人のかねてよりの希望の実現とも見得るであろう。ドヴィナ商人
1397年のドヴィナ行政法をめぐる諸問題(承前) (石戸谷)
35ほ、安全な通行を保証されたばかりでなく、旅行先において、裁判の問題でも特権を与えられて いる。すなわち、第15集は、かれらがウスチュグ、ウォログダ、コストローマ(ヴォルガ上流の 都市)で罪を犯しても、それらの都市の代官によって裁判されず、盗みの現行犯については大侯 裁判を受け、誰かがドヴィナ商人を訴えるときでも、いわゆる「共同裁判」によらないで、犯行 の現地でなくドヴィナでドヴィナの代官によって裁判されるのである。しかし、ドヴィナ商人に とっての最大の特典は、第16集の規定であろう。第14条に規定される税は別として、ワシーリー 1健の「大侯領」すなわちモスクワ侯国のどこででも、商業税以下「いかなる税」からも解放さ れているのである。ジーミンではないが、 「果して実際に通用されたか」と問わざるを得ないよ
うな特権である(129)
あらまし以上のように規定されているドヴィナ商人の地位をベロゼール行政法の場合と比較し てみようC そこでは、まずモスクワ「地方」 (3eMJifl)、トヴェリ地方、ノヴゴロド地方などから ベロゼ‑ルに往来する商人に対する税を細く規定したのち、これらの商人はベゼ‑ル市とウグラ 郷とで商売し得る、ただし「湖の向うに」赴いて商売はできないという制約を設け、 「しかる に、ベロゼ‑ル都市民は、旧によって(no crapHHe)湖の向うに商売に行く」として、この制約 からベロゼール人を解放しているにすぎない(130)ベロゼ‑ル商人がベロゼールから外に出て商 業に従事するときの裁判上の、および免税についての特典については何も規定していない。その 成立事情とモスクワ侯国に対する関係がドヴィナの場合と異なっているとはいえ、(131)このベロ ゼール行政法に比べれば、ドヴィナ行政法のドヴィナ商人に対する優遇策は、まことに眼をみは らせるものがある。しかし、このような事例が、ロシアの恵与状に、たとえ稀ではあっても絶無 でないことを見落してはならない。
「商人」 (rocTb、ゴースチ)は、普通の「商い人」 (Kyneu、クペ‑ツ)とちがって、異なっ た地方間、または外国との問の交易に従事する者を指さす13‑15世紀ロシアの諸侯間条約は、
しばしば、この商人について協定し、 「境界なしに」 (6e3 py6e>Ka)、あるいは「境界なしに、
そして不安なしに(6e3naKocTH)」通行させIz,ことをいっている。しかし、これはドヴィナ行政 法のように免税での商業を認めあっているのではなく、例えば「旧によって商業税を保ち、税を 取る」(MbiTa AepXaTH H nOIUJIH‑ibi HMaTH no ctapOH noiiuime) (132)ことを約したにすぎないO ときに、条約が「商業なしに(6e3 ToproBJiii)行く者からは税を取らない」 (133)と添え書きして いるのも、要するに商人は諸侯国問に通行が許されても、それだけのことで、条約は免税を協定 しているのではない。いま、ドヴィナ行政法におけるドヴィナ商人の特典は、しかし、この諸侯 間の条約をひき合いに出すだけでは不充分である。というのは、ドヴィナがモスクワ侯国の支配 下に入った時点に成立した同法は、すでにドヴィナ商人を他侯国の、この場合にはノヴゴロド共 和国の商人として扱わないのは当然だからである。問題は、同一侯国内で、その国の商人がどの 程度に免税特典を受けていたかである。
そこで、恵与状に眼を向けてみると、ロシアでも「免税恵与状」 (134) (TapxaHHa兄>KajiOBaHHa兄 rpaMOTa)なるものが、多数あり、また裁判インムニテ‑トと合せ許されているものが枚挙にい
とまなく多い。しかし、その免税とは、聖俗領主の所領内部に関することであって、所領外部と
の関係を示しているのではなく、恵与者‑侯または大侯の領域全体(つまり侯国全域)にわたっ
ての免税を意味するでもない。その意味で、 「余のすべての仕襲領地、大侯領において‑その他
いかなる税も支払う必要がない」という特典をワシ‑D‑1世から得ているドヴィナ商人の地位
が注目されるのであるo チェレ‑プニンは、ドヴィナ行政法第15・第16条について、それが恵与
状のあるものに照合できるとして、ミパイル侯のそれを引用している(135)〔下例の佃〕。しかし、
そのような照合は、けっして多数の恵与状に兄いだすことができないのであって、われわれが現 状のわが国で直接読み得る限りの恵与状について検出した範囲内では、むしろ少数であり、しか も、ドヴィナ商人に対するどとき特典を得ているのは、いっそう稀である。それらの恵与状のひ とつひとつは、何れも充分に検討考察さるべき内容をもっているのであるが、さしあたって、商 品目の制限、量(荷船の数など)の制限、商業活動の許される範囲、免税の限度、裁判上の特典 などに重点をおいて、その要点を摘記してみよう。
回1448‑1470年。ベレヤエペロゼ‑ル侯ミ‑イルのキリーロ修道院に対する恵与状(136)
しI D ' . I
「・・・かれらの修道僧、または商人(KynHHHa)または奉公人が、 ‑イ可か修道院の商品(TOBap)
▼ ° ° °
をもって、冬は荷車で、しかるに夏は大船(naB03Ka)または四輪荷馬車(Tejieca)で、ど
t ° ° ° t ° ° ° ° ° ° ° ° ° ° ° ° ° ° ° ° ° °
こへ商売にいっても、余のすべての世襲領地において、ベレヤおよびベロゼ‑ルの⊂仕襲領 地〕において、かれらは商品税、 そLrl 他いかなる税も不要である。しかるに、かれらから
o o o o o o o o o o o o o
何か盗品現物(ncwiHHHoe)を取り返えそうとするとき、余の代官、郷司およびチウンは、か
O n O O O o O O o o o o o o
れらを裁判しない、 ・‑余、ミノ、イル‑アンドレ‑ヴィチ侯が自ら取調べる。‑・」
図1363‑1374年.モスクワ大侯ドミートリーのノヴォトルジョークよりの移住民エ に対する恵与状。(137) 「‑・いかなる税も不要であるO しかるに余に年5クニーツ ア
ク ・ ロ フ , l i ブ B S ウ の
‑クを支払う.」
(ル 1368‑1389年O モスクワの大侯ドミ‑トリーのトルジョーク住民ミクラとその子らに対す
O O Q C O ° 0 ° o o o o o o o o o o o
る恵与状(138〕 (テクスト欠損はなはだし)0 「・‑1余の代官はかれのリュ‑ジーを裁判しない。
° ° t ° ° ° ° ° ° °
‑‑イ可を買っても売ってもー〔諸税列挙〕・・・いかなる税も不要である。‑・」
(ヲ 1455年3月12日o ベレヤ‑ベロゼ‑ル侯ミ‑イル‑アンドレ‑ヴィチの領主アファナシ‑
‑プヌコフとその子らに対する恵与状(139) 「.・・余の漁猟官(pblSHHK)は、アファナ〜シ ーの'J*‑ジーに対し、いかなる漁業の税も取らないO しかるに、アファナ‑シ‑とかれの 子ら、およびかれらのリュ‑ジーは、ベロゼールにおいて都市で商人と乾燥小魚(cym)お
° ° ° ° ▼ ° ° ° ° °
よび魚類を自由に商人と商売する、かれらにザポベ‑ド(HO)はない(3anoBeAH HeT)c‑」
(ワ 1448‑1454年.ノヴゴロド民会のトロイツ‑セルギエフ修道院に対する恵与状(141) 「・‑
その修道院よりドヴィナに、冬は荷車で、夏は11隻の船で、スクレ‑ツまたはミリャ‑ネ右 派達するとき、ドヴィナのホルモゴールの市政長官またはウォログダの市政長官‑は、セル
t ° ヽ t ° ° ° t ° ° ° °
ギエフ修道院のそれらの船から滞在税・・・いかなる税も取らない.何をどこで売っても買って も、ウォログダまたはドヴィナで、コルモゴールおよびノノクスで、われらの市政長官とそ の執行者(nplイKa3HHK)は、かれらに商品展示を求めない(He只BJIHTH HM,ち)、彼らの隊を、
o o O O O O O O O O O
水先案内人を、整備員を、盗品現物でも裁判しない。 ‑・しかるに、汝らドヴィナの貴族、ジ
° ° ° ° ° ▼ ° ° ° ° ヽ
ーチ〜‑リュ‑ジーおよび商い人たちよ、セルギエフ修道院の商人を保護せよ(SopOHHTe KynHHHy)。大ノヴゴロドがいかなる側と不和になっても、汝らは修道院の商人とそのリュ
ージーを、己れの者のように見守れ(6皿O^HTe)c‑」
匝1475‑1476年O ウグリーツ侯アンドレイのポクローフスキー修道院の某所鎖についての恵 与状(142) 「・・.それらの新設部落民のもとに(y Tex cjio60>KaH)、他の都市より誰かが家の 前の広場に商業のため立ちどまるとき(CTaHyT rocTH Ha noABOpbe)、代官、チウン、お
よびすべての徴税人(nOuIJIHHHHK)に〔商品展示のため〕現われない(He H3JIHK3TCH)、
教会税の他はいかな る税も与えない。‑」
1397年のドグィナ行政法をめぐる諸問題(承前) (石戸谷) 37
(ヨ1430‑1440年。ヤロスラヴリ侯フョードルのトルグスキー修道院の某所領についての恵与
t ° t t t t t t t t °
状(143)。 「・・・しかるに、何を買っても何を売っても、余の税関吏は商品展示を求めない(He
HBJIH氾T)。‑ 」
(タ1435‑1447年。ベレヤ‑ベロゼ‑ル侯ミ‑イルのフユラボント修道院に対する恵与状(144)
'} : + e e I I e e e I I A O I e A I e O
「・・・都市でベロゼ‑ルで、湖の向うで商人と乾燥小魚および魚類を買いそして売る。しこう して、余の全世襲領地において、ベロゼールで、プルチイシチェで、シェクスナで、かれの
r.し"'・!‑,j.' ‑ ・J・∴二 ‑.I‑‑.、 侯のための漁業労働(HOHb IくHJDKa)もない。"‑」
(レ′ 1448‑1470年O ベレヤ‑ベロゼ‑ル侯ミパイルのキリーロ修道院の某所領についての恵与
・ ・ ・ * ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
状(145) 「∴・しかるに、それらの修道領民は湖上で魚を捕る、しかるに湖の向うで魚を買う、 ゴ‑スチ しこうして都市で商人と魚を商売する。しかるに、余の国庫に(BKa3けy)ズボ‑ルの日に オブロークとして10ベールずつ納める0‑」
(ソ 1461‑1466年Oトヴェリの大侯ミパイル‑ボリソーヴィチのトロイツ‑セルギエフ修道院
° ° ° ° ° ° ° ° ° ° °
に対する恵与状(146) 「.・・〔修道院が〕己れの商人(KynHHHa)を、余の仕襲領地を横切って、
ノヴゴロドへ、またはノヴゴロドから、夏は小船をひきいた大船で、冬は百台の荷車で派遣 するとき、汝ら、余の商品税吏、税関吏‑は、修道院の商人に対し、商品税も、 ・‑商品展示 税(aBJieiTOe)も、その他いかなる税も取らない。しかるに、かれらを意のままに(月06po‑
BOJIHO)通すように0‑」
回1462‑1466年。モスクワの大侯イワン3世のトロイツ‑セルギエフ修道院に対する恵与 状(147) 「‑かれらの修道院の船(cyflbJ)が商用で行くこと、しかるに2隻の大船(naB03Ka)
が修道院に塩を求めて(no coji)ウグラ河を行き、 2隻の大船が魚類を求めてベロゼ‑ル湖 上を行くことについて、かれらに恵与せり:それらの大船が商品を積んで、また塩および魚
° ° e ° ° ° ° ° ° ° ° ° °
を求めて商用で行くとき、それらの4隻の大船がいかなる商品を積んでいても、 ・‑かれらは ° ° ° ° ° ° ° ° °
それらの大船から、余の全健襲領地において、大侯領において、すべての余の都市と郷にお いて、 ‑その他いかなる 税も、教会税の他は、・払う必要がない。また、かれらの修道院の商 人から、かれらの傭人(H8HMHT)からいかなる税も不要である。 また、魚類を求めてシ ェクスナ河に‑船を派遣するとき、同様に余の全健襲領地においてその船からいかなる税も
二V.'蝣'蝣 蝣I
商業について、大小の差はあれ、何らかの特典を認めている以上11通の恵与状のうち、五つは ドヴィナ行政法の商人特権よりははるかに規模が小さい。例えば、 (ヲ)は領主に漁業権を認めたこ とに関連して、魚類を商人と取引きすることを許しているにすぎず、しかも「湖の向うで」の商 業は許可されていないっ(カ)(ヨ)(レ)は、特定地域の住民という限られた範囲での商業活動で、 (刀)で
は、村民が他都市から来る商人と取引きできるという消極的なものであり、 (レ)は、湖の向うで魚 を買うことも許可されており、都市に赴いて商人と取引きできるという点では、やや範囲が広め られている。桝は漁業権に関しては、この修道院が「全惟襲領地」での漁獲を認められていて も、商業については特定品目‑魚類があげられているにすぎない。残り六つの恵与状は、ドヴィ ナ行政法におけるドヴィナ商人の特権と比較するとき、二つのグループに分ち得る。すなわち、
(メ)(ル)は同じ世俗商人に対するものとして、また回(ワ)(ソ)(ツ)の四つはその規模と内容がかなり似通っ
ているものとして、われわれの関心をひく。 (ル)では、その住民‑商人が代官裁判権から解放され
ていること、取引品目の制限を受けていないことが、免税特典とともに確認されるが、モスクワ
侯国全域にわたっての活動が保証されたのかどうかは、テクスト欠損のために断定できない。ト
ルジョークは、ノヴゴロド領に属する交通・経済の要地で、モスクワ侯国が14‑15世紀にわたっ てときに武力をもって占領したことがあるほど、垂凝おくあたわざるの地であった。その土地の 商人にモスクワ大侯が特典を賦与しているのは、これによって自己の陣営に誘引しようとするも のであった。同様なことが、回では、トルジョーク商人を特典によってモスクワ軸内の商業中心 地の一つ、コストローマに移住させる、という方法で実現されている。この場合には、諸税は免 除されても、オブローク支払いの義務が負わされている。この恵与状は簡略な内容で、全モスク ワ侯Bgにわたってのことかどうかは言及されていない。世俗商人に対するこれら二つの恵与状 は、ドヴィナ行政法発布者たるワシーリー1也の父ドミートリー大侯によって出されているこ と、つまりドヴィナ行政法に先行した商業特典としても注目に価する。ドヴィナ商人には、行政 法発布の段階で許される範囲の最大の特典が認められ、既述のような内容が盛り込まれたものと 見られるのであろう。ドヴィナ商人の特典の範囲の広さは、上例榊ル)をはるかに越えるものであ って、その点ではむしろ佃(nソ相四つの修道院に対する特典賦与に近い。修道院で商業に従事す る者は、 「ゴースチ」とも「クペ‑ツ」とも呼ばれず、 「クプチ‑ナ」なる特有の名で呼ばれて いるが、かれらは「全世襲領地」もしくはドヴィナ全域にわたって免税され、ときに船や車(そり) の台数の指示があっても、取引品目を限定されることはない。いうまでもなく、すべての修道院 がこの種の特典を享受したのではなくて、いま注目している四つの恵与状のうち、三つまでがト ロイツ‑セルギエフ修道院に対し、しかも年代をほぼひとしくする時点において与えられたもの である,,思うに、同修道院の聖俗両界における力の然らしめるところであったことのほかに、ノ ヴゴロド、トヴェリ、モスクワ三国の複雑な政治的関係もまた、無言の作用をなしたことを否定で きないであろう。およそ恵与状なるものが、一方的に恵与者によって与えられるものでなくて、
交渉と譲歩の上に成立することについては、チェレープニンがいみじくも指摘している(148)。ド
ヽ ° ° ヽ ° ° t t ° ° ° ° ° ° ° °
ヴィナ行政法、とくに商人特典に関する第14‑16条も、多分に政治的配慮をもってなされた(149) 、 と見得るのみならず、ドヴィナ商人の側からの何らかの働きかけがあったのではなかろうか。
以上、ドヴィナ行政法に規定されている「ドヴィナの商人」に関する三つの条項を、恵与状の なかで商業・商人について何らかの特権を賦与しているものと比較・検討してみたO その結果とし て、巨大修道院の商業経営を別とすれば、ドヴィナ商人に認められた特権は、 14‑15倍紀ロシア
° ° ° ° ° °
においては、最上級の特権であることが確かめられた。そして、とくに立ちどまって詳しく考察す
るいとまはなかったが、チュレ‑プニンが、ドヴィナ行政法第15・第16の両条に照合されるとし
て、引用しているただ一つの恵与状、上掲伸が、われわれの検出した諸恵与状(商業・商人につ
いての)のなかで商人が裁判を受ける場合の特典にもふれている点で、チュレープニンの引用が
妥当であることを知ったのである。しかし、上掲い))、すなわちキリ‑ロ修道院がベレヤ‑ベロゼ
ール侯ミパイルより与えられた特典が、普通一般のものでないことを、われわれは銘記すべきで
あろう。しかも、この恵与状が、ドヴィナ行政法発布の14世紀末のものでなく、トロイツ‑セル
ギエフ修道院の上掲の恵与状と同様に15世紀中葉ないし後半のものであることを思うとき、ドヴ
ィナ商人に対してモスクワ侯国が最上級の特典を与えるに際し、修道院商人の特典にしてその先
例になるものがすでにあったかどうかも疑われてくるのであって、もしそれがなかったとすれ
ば、ドヴィナ行政法発布の時点におけるモスクワ侯国のドヴィナ政策に対する態度が、それだけ
いっそう政治的な決意に固められていたことを示すことになろう.
1397年のドヴィナ行政法をめぐる諸問題(承前) (石戸谷) 39
3 の註
011)裁判法もしくは法典・法令の類は、その発布の由来を前文または本文中に述べるとき、あるいは政文 などを付するとき、ドヴィナ行政法のようなスタイルをとっていない。若干の例を示せば、ルースカヤ‑プ ラ‑ヴダでは「ヤロスラフの子らのプラーゲダ」, 「ヤロスラフの子らの改訂プラ‑ヴダ」 「モノマフの法 令」は、何れも「制定されたプラーゲダ」 (npaB月a ycTaHOBJieHa) 「制定した」 (ycTaHOBHiua, ycTaBMH) といっており、ドヴィナ行政法とばば時代をひとしくする「ノヴゴロド裁判法」や「ブスコフ裁判法」で は、 「民会において決定せり(noKOHHania)」とか、 「アレクサンドル侯のグラーモク、コンスタンチン侯の グラーモタおよびブスコフの全ての旧習より、民会において抜琴さる(BbinHcaHa)」とあるのみ。ややくだ って、モスクワ国家法典でも「制定せり」 (yjIOKHJl)と前文にいい、 16‑17世紀の法令では「決定せり」
(npHroBopHjm)が多いO 「恵与せり」とは、けっしていわれていない.地方、これらは、明確な政文をも っていないo イワン4世1550年法典に「‑今後は、この法典によって裁判ずる‑」 (第97条) 、 「‑新しい 事がおこり、この法典に記されていなくて・・.決定されるときは、その事をこの法典に書き加える」 (第98条) などとあるぐらいもので、 「違反するときほ‑・大侯より処罰あるへし」とは、けっして明記されていない。
ところが恵与状の場合、 12世紀におけるその原初的形態は別として(rBHn. Nb81,J¥682など)、 14‑15世紀 のそれは、圧倒的大部分が、はじめには「恵与せり」 、末尾には「違反するとき、大侯(または侯)より処 罰あるべし」と慣用句的に記している。いわゆる「行政法」一般がまた、これをもっていること、さきに言
及した通りである。
q咽 チェレ‑プ二ンほ、ドヴィナ行政法と恵与状との「近似性(cxoACTBO)に、研究史は注目しなかっ た」 「恵与状は、 1397年にドヴィナ行政法の作成をこ際し、資料として利用された」と述べている(Jl.B.
MeperlHオH, Apx珂Bbl XIV‑XV BB. 1.1 CTp.403)。これは正しい。ただし、つづけて、 「モスクワ政府が ベロゼ‑ル諸侯の恵与状を利用したのは興味深い」といっているのは、その事実に立証性が乏しく疑問がも たれるし、なかんずくこれに註して具体例としてベロゼ‑ルの侯、アンドレィ‑ドミトリェ‑ヴィチおよ びミパイル‑アンドレーヴィチの恵与状をあげているのは問題であろう。というのは、前者は、ドヴィナ行 政法発布者、ワシーリー1世の弟で、 10才年下であり(1381年生れ) 、後者はその子であって、かれらの恵 与状を、 1397年にワシ‑.)‑1世が利用し得る筈がないからである1389年の大侯ドミートリの遺言状 czmr.Mi2)は、幼少のアンドレイに、ベロゼ‑ルを譲与しているD このドミートリー大侯の恵与状の若 干は現存しており、またワシーリー1世にも1397年前後の恵与状が今日にのこされていて、 1397年以前にモ スクワ侯国で恵与状が出されていたことは、明瞭であって(本稿にも一部引用) 、そういう恵与状こそドヴ ィナ行政法作成に利用され、参照されたのである。少なくとも,ワシーリー1世は、甥にあたるミパイル侯 の恵与状を1397年にドヴィナ行政法制定の際利用した、というチェレ‑プニンの発言は、不用意といわねば
ならない0
81寄 「執行官」については、前掲拙稿「イワン3世の1497年法典」とくに、その註15を参照。ドヴィナ行 政法では、代官の執行官を「ドヴォリャン」と呼んでいるのが特徴である。これは、ノヴゴロドと諸侯との 13世紀後半の条約(rBHn.WbN81,2,3)にもほぼ同様な意味で使われている。チェレ‑プ二ンほ、 15世紀ド ヴィナの裁判文書にあることを指摘して、 「ドヴォT)ヤン」をドゲイナ的な執行官とし、これがモスクワ大侯 発布のドヴィナ行政法に見出いだされるのは、同法がドグィナの慣習を尊重したからである、と説いている (JI.B. HepenHHH. ApxHBbi XIV‑XVbb h.I. CTp. 403・およびKOMMeHT.212)。
UPn.H. cxp.196.
019 AC≡JH.HX.A&194.またAC:9H.ffl.A6200は、これにほとんど同じである。
aw ac∋H.S.Ns207. fll巧AC9H.BI.M30.咽AC:5H.ffl.A631.なお、 AC≡jh.hi.;嶋34.35も同じタイプ である(MAC∋H.m..N‑239.
q2鴫 AC三)H. I.Ml.これはトロイツ‑セルギェ修道院の全所優に対して,すなわち「セルゲイの所領が
いかなる都市にあっても」という条件で、免税とし、かつ、裁判権を認めているものである0 02unpn.H.
CTp.196. 0増AC3H. II.沌197. 0邸AC∋H. H.M166.脚AC:刑.描.A&282.
0碗JI.B.HepermHH, ApXHBbI XIV‑XV BB.H. I. CTp.404. ベロゼ‑ル行政法第23条。なおチェレ ープニンほ、ベロゼールのこの特権が、 1488年(同法発布の年)よりも前の慣習によったとして、前掲恵与
状ト)をあげている (JI.B. HepenHHH, ApxHBU XIV‑XV bb. m.II. CTp. 33‑34)。
028 大部分の恵与状は《803》なる語を用いている.いちおう,荷車」と訳出しておいたが、冬は勿論「そり」
である. 1舶7年のいわゆる「ベロゼ‑ル関税法」 (npn.m.cTp. 175‑m.c第5条、第14条には「そり」
CcaHb)なる術語を用い、また1605年の恵与状に、冬はそり40台、夏は四輪荷馬車(TeJieea)50台、という例 もある(A*3X.M.JSTo47.)
B.H.BepHa^cK班H, YKa3. COHHeHHC CTp.72,‑73.ノヴゴロドとヴィナとの連絡は、ウォルホフ 河、ラドガ潮、スヴィリ河、オネガ湖、ウオドラ河から低い「ウォロク」をこえてオネガ河に出、さらにま た「ウォロク」をこえて、ワガ河またほエムツァ河に達するものであった。 16世紀、すなわち、ノヴゴロド もドヴィナもモスクワ侯国債に入れられた後でも、ウオドラ河経由の途が利用されていたことは、当時の土 地台帳にも記されている.
¢碗 ドグィナ行政法が、少なくともドグィナ代官の裁判や裁判税徴取について、実施されたことは、本稿 第1節1397‑1398年戦争考察でふれた通りである。
83ゆ ペロゼ‑ル行政法第7条、第8条。両条は、さらにべロゼール関税法第16、第17条に、明白に受けつ がれている(npn.m. cTp.175‑178. ctp.225‑226.)
川 本稿註20参照 Wmr. CTp.27,63,162,164,31王. ¢圃11月r.Afe!5.1396年ごろのモスクワ大侯ワシ‑
リー1世とドヴェ.)大侯ミパイルとの条約。紬免税の恵与状、つまり「タルハンナヤ‑グラーモタ」につい ては、前掲田中、米川「ロシア史の時代区上(上)」 50頁、 190頁参照。
OS JI.B.MepenHHH‥ ApxHBU XIV‑XV BB. H. I. CTp.405.瑚AC:)H.n..Nol33.チェレ‑プこン ほ、この史料をH.H./IeCoJibCKH点, H3 aKTOB H rpaMOT IくFIp即Jio‑Be^03epciCoro McmacTbrpsC《BecT‑
hhk apxecw‑OI‑HH H HCTODHH》, CH6. ApxecuiorHnecKHM hhcthtyt0m, Bbin.XIII. Cn6.1900.) CTp.
176.沌161.によって引用している.さきに、ドヴィナ行政法の現存古写本にふれて述べたと同様に、チェレ
‑プニンのこの著作以後の史料刊行をこよって、われわれはかれの利用した恵与状、利用されていない恵与状 を多く読み得る。本稿には、チェレ‑プニンの旧刊本による引用の恵与状が、新刊本のどこで読み得るか を、いちいち証記することは省略した。
03乃 AC3H.HI.沌238.
8籾 AC:)H.m.Ns178.この恵与状については、註欄のそれとともにチェレープニンが、ドヴィナ行政法 とは別に恵与状の史的考察の章で言及している(JI.B.MepenHHH, Apx舶u XIV‑XVBB. H. H. CTp.117
‑118.)。
AC:)H.n.M&164. i鯛「ザポベ‑ド」は、本来「禁止」の意であるが、ここでは「罰金」の意味にと られる、諸侯間の条約は密貿易に対して「ザポべ‑ド」の額を具体的に示している(例えば/mr.M,i5.
CTp.42.)。なお、ソロビェヨフの商業に関する諸税および密貿易についての説明参照‑ C.M.CojioBbeB, yKa3. COHHeH打e. CTp.493.帥AC9H. I.A6220, TBHn.JVb95, nPn・打. 196‑197.細AC三5H.K.M77.
04識 AC≡*H.B.沌220. ¢44)AC:)H.n.Ns318.咽AC三3H.n.沌136.咽AC3H. I.Ns297. 84カAC3H. I.
沌318.
0個JI.B.MepenHHH, ApxHBH XIV‑XVbb. h.H. CTp. 118‑132. (W功われわは大侯ワシーリ‑ 1世の
ドヴィナ合併に経済的な動機あることを否定しているのではない。積極的なドヴィナ商人に対する優遇策
が、まずドヴィナにモスクワ侯国の支配権を確立するためにとられたことをいっているのである。それは純
経済政策的なものではなくて、もっとさしせまった政治的課題のためになされた、と考えるべきであろう。
1397年のドヴィナ行政法をめぐる諸問題(承前) (石戸谷) 41
む す び 以上の考察の帰結をとりまとめて示しておこう。
(1)ドヴィナ行政法は、本来ノヴゴロド共和国領であるドヴィナ地方に対して、モスクワ侯国 の支配権が一時的に及んだ時点において、モスクワ大侯ワシ‑リー1世によって発布されたもの である。 1世の大侯在位期間(1389‑1425年)のうち、ドヴィナ行政法発布の時点としては、同 行政法のテクストにもロシア諸年代記にもそれが明記されていないにかかわらず、 1397年を設定 するのが最も合理的である。
(2)ドヴィナ行政法は、分裂時代ロシアの、とくに14世紀末の裁判法一般(その記念碑にして 今日に伝えられるものはまことに少ない)を反映させている。しかし、この行政法を裁判法とし てのみ見ることは誤りであって、同時に恵与状的性格をもつよくもっている。
(3)ドヴィナ行政法の裁判法的性格は、その第1‑第11の諸条項によく示されているが、そこ には二つの要素の混交が認められる。その一つは、キエフ国家のルースカヤ‑プラ‑ヴダの系列 においてこれを継承している要素、もう一つは、後のモスクワ国家法典に対して源流的起点的と さるべき要素である。とくに後者については、ドヴィナ行政法以前にさかのぼることは現存史料 ではきわめて困難である。上の二つの要素の混清という点から見ても、ドヴィナ行政法は分裂時 代ロシアの典型的立法記念碑に属する。
(4)恵与状としてのドヴィナ行政法は、その第12‑第16条に明白に認められるO行政法一般に 兄いだされるこの種の性格は、ドヴィナ行政法ではとくにドヴィナ商人に対する最上級の特典賦 与という形で条文化されている。その特典の範囲と程度は、恵与状そのものにおいてさえ稀なも
ので、わずかに修道院の商業活動に対するそれが比肩されるにとどまる。
(5)モスクワ侯国による一時的なドヴィナ支配の成功にはドヴィナ貴族の協力が見おとさるべ きでない。しかし、モスクワが終局的な協力者として手なずけようとしたのほ、貴族よりはむし ろ商人であったことを、ドヴィナ行政法のドヴィナ商人優遇の条項が物語っている。その意味 で、同行政法発布の翌年にはすでにモスクワ侯国がドヴィナ支配を断念せざるを得なくなったと はいえ、中央集権国家として発展するモスクワ侯国の政策の原型がドヴィナ行政法に看取されね ばならない。
*本稿の要旨は、昭和40年度京都大学史学研究会大会に口頭発表されている。
(昭和40年8月25日脱稿、昭和41年9月24日補正)
補註、本稿引用の刊行史料集の暗記一覧
RUT.‑ JlyxoBHue h AoroBopHue rpaMOTu BenuKux h y,ノjejlbHUX KHH3e丘ⅩIV‑XV bb. (14‑15