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リカードウ外国貿易論をめぐる若干の諸問題

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リカードウ外国貿易論をめぐる若干の諸問題

その他のタイトル Ricardo's Theory of International Trade

著者 吉信 粛

雑誌名 關西大學商學論集

22

3‑4

ページ 402‑428

発行年 1977‑10‑25

URL http://hdl.handle.net/10112/00021010

(2)

224(402) 

リカードウ外国貿易論をめぐる 若干の諸問題

は じ め に

リカードウ外国貿易論は,国際経済論,世界経済論を志す研究者にとって 一度はこれを何らかの形で問題にせざるをえない関門のように見える。それ は,比較生産費説の名において,マルクス経済学の立場からも,近代経済学 の立場からも,そこから貿易理論を発展させるべき共通の出発点として取扱 われてきた。かくして,それに関する研究論文は,すでにかなりの量に達し ているといってよかろう。

にもかかわらず,ここに新たな一本を加えようとするのは,スラッファに よる新全集の完結とそれにもとづくリカードウ研究の新たな進展があったの にもかかわらず,相対的に外国貿易論の分野での研究は手薄であり,学史研 究者とこの専門分野研究者との間にあるギャップもしくは問題意識のずれを 克服する必要があるのではないかと思われたからである。また従来の研究に はすでに定説化してしまったかのような誤謬もみられるので,これを正しい 軌道の上に置くという仕事も新全集を土台とした研究には必要とされるであ

(3)

リカードウ外国貿易論をめぐる若干の諸問題(吉信) (403)225  ろう。

もちろん外国貿易論の分野でも問題は多岐にわたっており,とてもその全 てについて論ずることはできない。問題はいくつかの点に限定されなければ ならないが,それは現在の理論的課題の中で,マルクス経済学における外国 貿易理論をどう発展させるかという問題との関連において,取上げられるで あろう。本論文の予定は,次の通りである。

7章「外国貿易について」の位置づけ(木稿)

I[  7章とリカードウのそれまでの著作・手紙にあらわれた外国貿易理 論との関係

ll[  7章の理論構造

lV  マルサスとリカードゥにおける国際価値への接近

前提および結果としての外国貿易とリカードウ

"  

むすび

7章 「 外 国 貿 易 に つ い て 」 の 位 置 づ け(1) 

スラッファの新解釈をめぐって

リカードウの『経済学および課税の原理』において,「外国貿易について」

なる章がいかなる位置を占めるかという問題は, 『原理』全体の体系として の構成を問うことに通ずる問題である。『原理』の構成については,すでに

(2) 

多くの論者によって取上げられ,さまざまな解釈が試みられてきた。 K. (1) ここでは慣例に従って, リカードウ「経済学および課税の原理」第2 (1819

年)以後の章分けによって第7章としたが,初版 (1817年)では周知の重章問 題もあって,第6章に位置している。なお,これから後のリカードウの著作か らの引用は,すべて PieroSraffa ed.,  The Works a̲nd Correspondence of  David Ricardo,  Cambridge,  195173.  日本語版, 「デイヴィド・リカード

ゥ全集」,雄松堂書店によるものとし, 巻および頁数(原書のもので,日本語 版は下欄に括弧に入れて記入されている)は, I, p.lというように略記する。

(2) p.スラッファによる「リカードウ全集」第1巻の編者序文に指摘されている (I,  p.xxii)。また,真実一男「リカードウ経済学入門」,新評論, 1975 62頁,研究を進めるための文献案内3も有用である。

(4)

226(404)  リカードウ外国貿易論をめぐる若千の諸問題(吉信)

ルクスもそのうちのもっとも注目すべき一人であるが,最近においてほぼ定 説的地位をかちえているのは,全集絹者スラッファの見解である。そこでわ れわれは,議論の出発点としてスラッファの見解を検討することから始めよ

スラッファによれば,全体としての『原理』の排列におけるはっきりした 欠陥はしばしばリカードウの批判者たちによって言及されたのであるが,こ の排列はリカードウがその著作を書きすすめていったその様式に直接由来す るものであった。『原理』の諸章は,大まかにいって三群, すなわち, 経 済 (thePolitical Economy),課税および最後の論駁的諸章に分たれるので あって,このそれぞれがその論評を求めるために, 3回にわたってリカード ウによって J.ミルの手許に送られたのであった。そして,スラッファは次 のように指摘する。 「この排列は,もしもこの分割が別々の題目を付すなと とによって明白にされていたならば,批判を受けることがより少なかったで あろう」 (I,p. xxiii)

ス ラ ッ フ ァ の 『 原 理 』 の 構 成ないし排列に関する積極的かつ卓抜な貢献 は,はじめの二つの群のおのおののなかでの章の順序が, リカードウの経済 学研究に機緑を与えたアダム・スミスの『国富論』のなかでそれぞれの論題 がとり扱われているその順序にびったり一致しているということを,大胆に 示した点にある。唯一の重要な差異は地代にたいして与えられた位置にあっ た が , そ れ は 資 本 家 と 労働者への分配の問題を簡単化するためのものであ

(4) 

り,その点を考慮しつつスラッファは,次のような両者の対照表を作ってい (I,pp. xxiv‑v)

(3) 前注の序文三「排列と細別」 (I,pp. xxiixxx)参照。われわれはスラッファ の見解のうちとくに外国貿易論に関連したものに焦点をしぽって取り上げる。

(4) このスラッファによる解釈に対して,中村広治教授から異議がでている。それ によれば, リカードウの価値論は固有の「価値論」に直続する「地代論」にお よんではじめて完結すると考えられている。同氏「リカァドォ体系」, ミネル ヴァ書房, 1975 18695頁参照。ここでは,この問題についてとくに立入ら ない。

(5)

リカードウ外国貿易論をめぐる若千の諸問題(吉信) (405)227 

アダム・スミス,第1 リカードウ,初版

5 諸商品の実質価格と名目価格に

1章 価 値 に つ い て ついて

6章 諸 商 品 の 価 格 の 構 成 部 分 に つ い

2 山について の地代について 7章 諸 商 品 の 自 然 価 格 と 市 場 価 格 に

4 自然価格と市場価格について ついて

8章 労 働 の 賃 銀 に つ い て 5章 賃 銀 に つ い て 9章 資 本 の 利 潤 に つ い て 5* 章 利 潤 に つ い て 第10章 労働ると銀資本の異なった用途(1にお

け 賃 と 利 潤 に つ い て )  11章 土 地 の 地 代 に つ い て

6章 外 国 貿 易 に つ い て

(1)  これは, リカードウによって, 「価値について」の章のなかで,後にこの章の 2節を構成することになった五つのパラグラフで,とり扱われている。

アダム・スミス,第5絹第2章第2 リカードウ,初版 租税について 7章 租 税 に つ い て

8章 原 生 産 物 に た い す る 租 税 1 賃土料地にたいする租税

の地代にたい る租税 8*章地代にたいする租税 地代比にでは租な税, 土地の生産物

に 例 す る 190 租ー税 11章 金 に た い す る 租 税 家賃にたいする租税 12章 家 屋 に た い す る 租 税 2 す,途 から生ずる 13章 利 潤 に た い す る 租 税

の利潤にた い る

3項 労 働 の 賃 銀 に た い す る 租 税 14章 賃 銀 に た い す る 租 税 4 あら税ゆする異租税なった種類の収入に

人た頭

消費財にたいする租税 15 原生物以外の商品にたいする租 16章 救 貧 税

(6)

228(406)  リカードウ外国貿易論をめぐる若千の諸問題(吉信)

最後の第三群についていえば,それはアダム・スミスその他のいろいろな 学説を諭評する諸章から成り, 「付録」あるいは互いにほとんど関連のない 一連の批判的補説を構成するものと考えられている。

群をさらに小分けし,章と節に排列するようになったのは,新しく発見さ れたリカードゥ=ミル往復書簡にもとづいてスラッファが論証するところに よると,執筆を完了した後に始まり,最終的には印刷が終った後になっての ことであった。周知の初版における重章問題はこのようにして生じたのであ り,スラッファはこの頴末をあますところなく明らかにしている。われわれ はこれについては,深く立ち入る必要はない。

さて,問題は「外国貿易について」の位置であるが,スラッファはそれに 照応する『国富論』編別構成欄に関しては空欄のままに残している。本文に おいても,とくにそれについての説明は存在しない。ただ明らかなのは,そ れが第一群,すなわち「経済学」に属し,しかも最後に位置しているという ことである。だからといって,「外国貿易について」が「利潤について」に

(5) 

広い意味で包含されると,積極的に主張しているようにも思われない。もし そうだとすれば, 「課税」リカードゥ第9 第10章欄のような書きかたも 可能だったのではなかろうか。この辺のところは,スラッファも必ずしもは、

っきりさせていないのであって,問題を残していると思われる。もっとも,

はっきりさせなかったところに,問題の複雑さを認めた彼の着実さがあるの かもしれない。

リカードウが第二群までを『国富論』の叙述の順序に従ったとすれば,

「外国貿易について」も同様であろう。 ただ『国富論』のどの部分がそれに 照応するのかが,この場合明らかにされなければならない。そこでわれわれ

(6) 

は,『国富論』の中から外国貿易に関する理論的叙述の代表的な箇所を抽出 (5) 中村広治教授は,第6章(初版) 「外国貿易について」を第5*章(初版) 潤について」の補遣・補足の章として広義の「利潤論」に一括し,スラッファ の表を書き変えて説明している(同書, 200頁参照)。

(6)  スミス「国富論」に含まれる外国貿易論の包括的検討は,近代理論の立場から ではあるが,次の論文に詳しい。 ArthurI.  Bloomfield,  Adam Sithand  the Theory of International Trade,  in Andrew S.  Skinner and Thomas  Wilson ed.,  Essays on Adam Smith,  Oxford,  1975,  pp. 45381. 

(7)

リカードウ外国貿易論をめぐる若干の諸問題(吉信)

してみることにしたい。

(407)229 

編別と参照頁* 理論内容

1編第9章資財の利潤について, I, p. 95  外国貿易と利潤率 2編第5章 資352のさまざまの用途についてI, p.  外国貿易の必然性 3編第1 9裕の自然的進歩について. I,pp.357 外国貿易への資本投下 3編第4章 都改会良の商貢業献はどのようにpp.3867かの

したか, I, 外国貿易の文明化作用 4編第1章 商原業理の休系,すなわち413主義休系の

について, I,p.  貿)( 4編第2 419内でに生対産すし諸う制る財限貨にの諸外国からの ついて, I,p.  資本の国際的移動の困難性

同上, I, pp.4224  絶対生産費説 4編第7章植民地について, II, P.釘 植民地貿易と利潤率

*Adam Smith,  An Inquiry  into  the  Nature  and Causes  of Wealthof  Nations,  ed. ・ by Edwin Cannan,  London, 1950. 大内兵衛•松川七郎訳「諸国 民の富」,(一)〜(五),岩波文庫,の原書頁数を示し,巻はI,IIと略す。以下の本文に おいても同様。

み ら れ る よ う に , ス ミ ス は 『 国 富 論 』 の 第1編 か ら 第4編 ま で の 各 編 に お い て 外 国 貿 易 の 理 論 的 諸 問 題 を 取 扱 っ て い る が , 固 有 の 外 国 貿 易 論 に 相 当 す る も の は , 第4編 「 経 済 学 の 諸 休 系 に つ い て 」 に お い て 検 討 さ れ て い る と み

(7) 

な す こ と が で き る の で あ っ て , そ れ ま で は ブ ル ジ ョ ア 社 会 の 内 的 編 成 や そ の (7) 内田義彦教授は,第4編での分析対象を次のように性格づけている。 「••••••第 4編でスミスが分析しようとするのは,このように封建的基盤の上に,顛倒し た市場構造をもって発達し,国際的対立のなかで危機をかもしつつあるところ のヨーロッパの硯状である。ここでは第 3編においてのように,各国はもはや 孤立的に比較のうちに示されるのではない。それは国家の富と力の増大をスロ

ーガンにしてマキャベリズムをいかんなく発揮する政治家(ないしは_スミ スの言葉を用られば_「政治屋てう狡猾老徐な動物」)にひきいられて国際 的な対立と闘争裡においてあいまみえる諸国家=列強として,弱肉強食のすが たそのまま歴史の舞台にいちどきにあらわれる」 (同氏「経済学の生誕」, 来社, 1953 146頁)。なお,次の論文にも「国富論」体系の性格が論じられ ている。田添京二「18世紀末における経済学の体系化とスコットランド」,商 学論集(福島大学), Vol.41,  No. 5,  19738月。羽島卓也「「国富論」の理

(8)

230(408)  リカードウ外国貿易論をめぐる若干の諸問題(吉信)

比較発展史的考察が中心的課題をなしていると考えられるのである。

ところで, リカードウが「外国貿易について」において直接スミスにふれ ているのは,ただ1箇所 p.129の注だけである。すなわち,『国富論』第1 編 第 9章の外国貿易と利潤率に関するスミスの見解が参照されている。この

ことからすれば,「外国貿易について」の章が「利潤について」の章の直接 的継続であり,それと不可分の関係にあることは明らかである。事実リカー ドゥは,後章「植民地貿易について」の中で,次のように述べているのであ

. . . . .  

る。「私がすでに利潤の問題について述べたところから, 一つの外国貿易か ら他のそれへの,あるいは国内商業から外国貿易へのいかなる変化も,私の 意見によれば,利潤率に影響をおよぽしえないものである,ということがわ かるであろう」 (I.p. 345一傍点筆者一)。ここにいう「利潤の問題について 述べたところ」というのは, スラッファが注記しているように, 「外国貿易 について」の章に入る p.133の叙述を指しているのである。 リカードウは

「植民地貿易について」を書いていた時には,まだ「利潤について」•と「外 国貿易について」とを別章に分割せず,後者を前者に一括して取扱っていた のであろう。それを後に分割したのにもかかわらず,「植民地貿易について」

の中での言及は訂正されずに残ったものと考えられるのであって,こうした

(8) 

例は『原理』に関して他にも見られる。

しかしリカードウは,「外国貿易について」を利潤論として書きすすめて いくうちに,それ独自の問題領域に自然とふみ入れることになったと思われ

論と思想—経済学の生誕ー一」,杉原四郎・鶴田満彦・菱山泉•松浦保編

「古典学派の経済思想」,有斐閣, 1977, 所収。高橋順三郎「外国貿易と

「富」ーー「国富論」第4編第12章を中心として一ー」,立教経済学研究,

30巻第3 197612。 「国富論」は,第1編,第2編において理論を,

そして第3編から第5編において,歴史,現状分析,政策を問題にしていると いうのが一般的理解となっている。 しかし, 「国富論」`がそうだからといっ て,経済学の体系が本質的にそのようなものでなければならないというわけで はけっしてない。また,問題を残すとはいえ, 「国富論」の全体系を通して理 論の上向過程を見出すことができるのではないかと考えられる。

(8)前記スラッファの編者序文 (I,‑p.xxvi)参照。なお,後注 (23)参照。

(9)

リカードウ外国貿易論をめぐる若千の諸問題(吉信) (409)231  る。そこでは直接スミスにふれることはないが,明らかにスミスの叙述を意 識しつつそれをより発展させた議論を展開していると考えられるのである。

われわれは,その明瞭な例として,つぎの二つをあげておきたい。その第1 p.136のリカードウによってつけられた比較的に長い注である。スラッ

ファは,これにさらに「A.スミスの仕立屋と靴屋の例, 『国富論』第4 2章,〔キャナン版〕 vol.I, p. 422参照」と注をつけている。これがさきの 表において,われわれが絶対生産費説としてあげた箇所であることは,いう までもなかろう。スミスの仕立屋と靴屋の例に対して, リカードウは帽子と 靴の製作の例をひいて,いわゆる比較生産費説を展開しているのである。第 2 p.136から137へかけての国際間における資本移動の困難性を論じた 叙述であって,これが次のスミスの必ずしも満足すべきものとはいえない文 章からヒントを得て,その理由に簡単かつ明瞭な表現を与えたものであるこ とは,間遮いないように思われる。すなわち, 「·…••あらゆる個人は,自分 の資本をできるだけかってを知っているところで,したがってまた自分がで きるだけ多くの国内産業を維持するように,使用しようと努力するのである が,ただこの場合,彼は,そうすることによって,資財の通常的な利潤また はそれよりもあまりすくなくない利潤が獲得できるということを常にその条 件にしているのである。

このようにして,利潤が等額かまたはほぼ等額であれば,あらゆる卸売商 人は,当然,消費物の外国貿易よりも国内商業を選好し,仲継貿易よりも消 費物の外国貿易を選好する。国内商業においては,消費物の外国貿易におい てしばしばそうであるように,かれの資本がそれほどながく彼の視界を去っ ているということはけっしてない。彼は自分が信任する人々の性格や状態を 比較的よく知ることができるし,また,もしたまたまだまされるようなこと があっても,その救済をもとめるべき自分の国の諸法律を比較的よく知って いる。仲継貿易においては,この商人の資本はいわぱ二つの外国の間に分割 されており,そのどの部分も必ず自国にもたらされる,つまり,自分自身の 直接の監督や支配のもとにおかれる,というわけでは全然ない。……彼(資

(10)

2(410) リカードウ外国貿易論をめぐる若千の諸問題(吉信)

本の一部分が外国にある商人一筆者)は,自分の資本から非常に遠くひきは なされていることに不安を感じている……」 (I.pp. 419‑20.)。ここには,

リカードウの表現に示される「資本の所有者の直接的管理」,「想像上ないし 実際上の不安」,「彼の生産しまた親戚たちのいる国」,「異国の政府と新しい 法律」といった言葉の原形が存在する。

「外国貿易について」には,なお残された一国の技術の変化にともなう貴

(9) 

金属の再配分にかんする議論が続くのであるが,以上にみてきたことからだ けでも,それが独自の問題領域を有するものであり,スミスの『国富論』第 4編をも含めた叙述の順序に照応する形をとっていることが結論しうるので はないかと思われる。それはまさに, 『国富論』第

. . . .

5

.

編に当る課税論の直前

. . .  

に位置しなければならなかったのである。大ざっばにいえば,「プルジョア 社会の内的編成」→「外国貿易」→「国家」が,スミスとリカードツに共遥

(10) 

する叙述の順序であった。

だがわれわれは,この順序がもつ意義においてスミスとリカードウの間に 大きな相遣のあることに注意しなければならない。資本主義のマニュファク

(9) この部分に属する議論は,より多くをマルサスとの論争を通じて獲得したもの と思われる。

(10) このような叙述の順序が経済学の発展においていかなる意義を有するかについ ては,周知のマルクスの文章を念頭においている。すなわち, 1の道は,

経済学がその成立にさいして歴史的にたどってきた道である。たとえば17世紀 の経済学者たちは,いつでも,生きている全体から,すなわち人口,国民,国 家,いくつかの国家,等々から始めている。しかし,彼らは,いつでも分析に よっていくつかの規定的な抽象的な一般的な関係,たとえば分業や貨幣や価値 などを見つけだすことに終っている。これらの個々の契機が多かれ少なかれ固 定され抽象されると,労働や分業や欲望や交換価値のような簡単なものから国 家や諸国民間の交換や世界市場にまでのぽってゆく経済学の諸体系が始まっ た。このあとのほうのやり方が,明らかに,科学的に正しい方法である」 ルクス「経済学批判への序説」,大内兵衛•細川嘉六監訳「マルクス=エンゲ ルス全集」,第13巻,大月書店, 1964年,所収, 632 C原〕頁)。なお,これか ら後のマルクス,エンゲルスからの引用は,とくにことわらないかぎり,この

「全集」によるものとし,頁数はもととなったドイツ語版の C原〕頁を示す。

(11)

リカードウ外国貿易論をめぐる若千の諸問題(吉信) (411)233  チュア時代に生きたスミスにとって,この順序はそれなりに必然的なもので あった。諸国家間の分業は形式的にはたしかに存在していたにせよ,内容的 には国内の地域的分業の世界的拡大としての性格にとどまっていたのであ

(11) 

り,したがってまた外国貿易を貫ぬく法則も国内商業のそれをこえるもので はなかった。そして,なお自然的条件に左右されることの多い特産物貿易が 支配的であり,そこにはいわゆる絶対生産費説が適用されえたのであった。

そのうえ,現実の激化する世界市場戦での勝敗は,独占や保護制度とならん

(12) 

で,しばしば軍事力すなわち海戦によって決せられた。 『国富論』第 5 は,こうした弱肉強食の諸国家間の闘争を前提としている。その第1章第1 節は「防衛費について」であり, 周知の次の言葉をもって始まっている。

「主権者の第1の義務, すなわちその社会を他の独立の諸社会の暴力や侵略 から保護するという義務は,軍事力によってのみはたしうる」 (II, p.186) そしてこの軍事力による国防こそは,スミスにとって富裕よりはるかに重要

(13) 

性をもつものであった。かくして,スミスの「国家」は,その社会と他の諸 社会との関係,「生産の国際的関係」を「内的編成」と同列におきつつ前提す

ることによって展開されていくのである。

スミスにとって一定の根拠をもち必然であったものが,そのまま機械制大 工業の時代の経済学者リカードウに当てはまるわけではない。マルクスが指 摘するように, 「リカードウは, 資本主義生産という眼前の事実から出発す る」(マルクス『剰余価値学説史』, 『全集』, 第26巻第2分冊, 408 C 頁)のであるが,もちろん,その資本主義生産は「大工業生産と自由競争の 社会」(マルクス『経済学批判』,『全集』,第13 46C原〕頁)におけるそ れである。そこでの国際分業は, 1国内部での社会的分業とは, 資本主義

「国家」ー一たんなる「民族国家」ではない—を媒介とすることによって (11) 吉信粛「資本主義と国際分業」,小野一一郎・行沢健三・吉信粛絹「世界経済

と帝国主義」,有斐閣, 1973年,所収, 379頁参照。

(12)  マルクス・エンゲルス「ドイツ・イデオロギー」, 「全集」, 3 56‑8 

〔原〕頁参照。

(13)  I. p.186参照。

(12)

234(412)  リカードウ外国貿易論をめぐる若千の諸問題(吉信)

区別されなければならないばかりでなく,マニュファクチュア時代に特徴的 であった地域的分業のたんなる世界的拡大でももはやなくして,機械制大工

(14) 

業の作りだした言葉の厳密な意味での国際分業となっている。われわれが資 本主義の結果としての外国貿易という場合,こうした国際分業のもとでの外 国貿易を指していうのである。それは各国の特産物貿易をのりこえて,工業 国と農業国との間の,したがって工業製品と原料・農産物との国際交換であ り,この場合価値法則はその適用に当って修正されざるをえないのである。

リカードウがいわゆる比較生産費説の名において説明し,そして合理化しよ うとした国際分業と外国貿易は,以上のような内容をもつものであった。

したがって, リカードウが眼前の事実として対象にとりあげた「外国貿易 について」は,スミスの叙述の順序に本来従いえないものを必然的に含んで いる。それは,マルクスが「経済学批判」プランにおいて示した「プルジョ ア社会の内的編成」ー→「国家」ー→「外国貿易」の順序であることを必要 としていたと考えられるのである。もっとも,プラン最後の範疇「世界市場

(と恐慌)」は, リカードウ体系からはずり落ちていたのであるが。ここでリ・

ヵーードウの国家論あるいは財政論に一言ふれておけば,スミスにおいてみら れたような経費論は完全に脱落しており,租税の必然性は与えられないまま に,租税は自明のものとして登場し,地代,利潤,賃銀の三階級三分配分が

(15) 

課税によっていかなる影響をこうむるかが論ぜられるのでる。

われわれがスラーッファの見解に対してもつ疑問とそれに対する補足的意見 は,以上のとおりであるが,次に第7章「外国貿易について」の位置づけに

(14) 吉信粛,前掲論文., 39頁参照。

(15) 財政論におけるスミスとリカードゥの相遮, その問題点については, 島恭彦

「財政学概論」,岩波書店, 1963年,参照。なお, スミスの場合,対外的対立 関係が重視されて軍事力は直接国防に結ぴつけられているが,マルクスの経済 学批判体系プランでは,むしろ階級的対立関係に重点が移行し,軍事力は警察 の武装力と相まって,階級的弾圧に力点がかけられているように思われる。こ れはやはり,資本主義の自由競争の時代という発展段階の相遮によるものであ ろう。

(13)

リカードウ外国貿易論をめぐる若干の諸問題(吉信)

関するいくつかの支配的見解を検討することにしたい。

いくつかの支配的見解

(413)235 

まず最初にもっとも注目すべきものとして, マルクスの見解から始めよ う。マルクスはリカードウの研究方法の歴史的な正当性とその欠陥を,スミ スのそれとの対比において甲らかにしている。スミスが一面では経済学的諸 範疇の内的関連,いわばプルジョア的経済体制の生理学を追求しつつ,他面 では競争の諸現象のうちに外観的に与えられているとおりの関連を叙述し,

何の矛盾もないかのように併置しているのに対して, リカードウは「商品の 価値の大きさは労働時間によって規定されるということから出発し,

. . . . .  

次い で,その他の経済的な諸関係や諸範疇がこの価値の規定に矛盾するかどう か,または,それらがこの価値の規定をどの程度修正するか,を研究する」

(マルクス,前掲書,『全集』,第26巻 第2分冊, 161C原〕頁)のである。マ

}レクスは,ここにリカードウの方法の歴史的正当性とその科学的な必然性を

. . .  

見出しているのであるが,また同時に「必要な諸中間項を飛び越えて直接的 な仕方で経済学的諸範疇の相互の整合を証明しようとする」(同書, 162 

〔原〕頁)ことから生ずるその不十分性をするどく指摘する。

マルクスは以上の見地からリカードゥの『原理』の構成問題を取上げ,

「非常に奇妙で必然的にまちがった構成」と特徴づけ, 次のように述べてし、

る。「リカードウの理論は, もっぱらその著書のはじめの 6章のなかに含ま

(16) 

れている。私がその著書の構成に欠陥があるというのは,この部分に関して である。他の部分は,適用や解説や付論から成っており(貨幣に関する章を 除いて),それらは当然ごちゃまぜになっており,体系的になっていると主 張はできない」(同書, 164C原〕頁)。 したがって, 当面の問題である第7 章「外国貿易について」は,「租税に関する諸章と同じように, 以前に提起 された諸原理の単なる適用にすぎない」(同書, 164C原〕頁)のである。マ ルクスは別の箇所では,より明瞭に,「リカードウにあっては, この外国貿

(16)  マルクスはその2頁後ではさらに局限して「リカードウの著書の全体は,その はじめの二つの章のなかに含まれている」とさえ,述べている。

(14)

236(414)  リカードウ外国貿易論をめぐる若千の諸問題(吉信)

易論は,ただ,彼の価値論を論証することに,または,それが彼の価値論に 矛盾していないことを示すことに, 関心があるだけである」 (同書, 『全 集』,第26巻第3分冊, 249〔原〕頁)とも述べている。

われわれはマルクスの以上の見解が理論的,方法論的見地よりなされてい ることに注意しなければならない。マルクスは第6章までを「プルジョア社 会の内的編成」としての理論と把えた上で,租税に関する諸章や「外国貿易 について」をそれ以前に提起された諸原理の適用,しかも「さまざま外から もちこんだ材料にたいする同じ原理の単調で形式的な適用」 (同書, 『全 集』,第26巻第2分冊, 163〔原〕頁) と把握しているように考えられる。

「外国貿易について」は分析対象としてより高次元な問題領域であるのにも かかわらず,そのようにリカードウによって意識的に取扱われていない,論 理の発展としてそうなっていない,したがって価値法則が価値法則として最 初のままでここで問題とされることから生ずる二重の誤り,すなわち一方に おける価値量不変の命題,他方における国際間での価値法則放棄の命題とい った一連の帰結が鮮かに思いうかぺられているのである。われわれは,こう したマルクスの「外国貿易について」の把え方と位置づけを,先に展開した スラッファの見解を土台とする考え方と,何らかの意味でくい遮うものとは 考えることはできない。むしろ,相互に補充しあう性質のものといった方が 適切なのではないかと思うのである。

次に,われわれは同じく位置づけにかんする見解をクイプに分けて検討す ることにしよう。まず第1に「外国貿易について」をリカードゥ経済学の中 心的課題であったとする分配論の見地から位置づける見解である。この見解 は戦前におけるリカードゥ研究の第1人者J.H.ホランダーによって代表さ れている。彼は,次のように述べている。 「分配論ーその直接の関係は,外 国の穀物の輸入は利潤を引上げ地代を引下げることを意味するということに あったーは,全く自然に,かかる輸入が行なわれたりまたは行なわれなかっ たりする諸原則についての議論に進んだであろう。それ故に,価値,地代,

賃銀,および利潤に関する諸章に代表されるような『経済学の諸原理』とそ

(15)

リカードウ外国貿易論をめぐる若干の諸問題(吉信) (415)237  れに引続く「課税」に関する諸章との間に有名な「外国貿易について」の章 を見出しても驚くにあたらないのである」 (J.H. Hollander, David Rz"cardo  A Centenary Estmate.  1910.山下英夫訳『リカードゥ研究』, 有斐閣,

(17) 

1941 117頁)。わが国では戦後の研究において,淡路憲治教授の見解が同 様なクイプに属するといってよかろう。教授は, リカードゥ貿易論における 統一原理を分配論に求めておられる。これらの見解は,外国貿易と課税が三 階級三分配分にいかなる影響を与えるかという観点を重視するものである。

しかし,分配論としての性格がなぜ外国貿易論を課税論より先行せしめたか の理由は,利潤論との直接的つながりという点を除けば必ずしも明かではな いように思われる。

第 2のクイプは,利潤論もしくはその一環として位置づける見解である。

この見解が戦後の新全集におけるスラッファの研究に直接もとづいているこ とはいうまでもない。わが国における最近の二人の休系的なリカードゥ研究 書の著者,真実一男教授および中村広治教授はいずれもこの見解をとってい

(18) 

る。真実教授によれば次のようである。 「第7章はもともと投下労働価値論 の適用範囲を一国内にかぎり,外国貿易品には比較生産費が妥当するという 比較生産費論をのべた章として有名であるが,しかも第7章の本来のネライ は外国貿易が利潤に影響しうるかいなかの考究におかれ,より特殊的には外・

国貿易ないし販路が利潤に影響しうるというマルサス流の譲渡利潤論を拒否 せんとする点におかれていたのであった。だとすれば第 7章を広義の利潤論 に含めることは正当であるのみならず,「最初の6章」をもってリカードの経 済学原理とみなす慣行が強いだけに必要でもあるということになろう」 氏,前掲書, 59。 中村教授も外国貿易論が利潤論の一環をなすとともに

(17)  淡路憲治「リカァドォの貿易理論~ 山大学紀要・経済学論集,第11 195612月参照。

(18)  後述するところとも関連するが,国際経済論研究者の一人として「原理」第7 章と先行6章との関連を真正面から取り扱った渋谷将教授もこの見解をとって いる。同氏「リカードウの外国貿易論について」, 帝京経済学研究, 第3巻第

1号,昭和43年12月参照。

(16)

238(416)  リカードウ外国貿易論をめぐる若干の諸問題(吉信)

(19) 

リカードウの PoliticalEconomyを完結させる位置にあるとしている。そ して,すでに注(5)で指摘したように,われわれも掲げたスラッファの対照表 を一歩進めて,外国貿易論を広義の利潤論に一括し,スミスの『国富論』第

1編 第9章「資本の利潤について」に照応させている。

このタイプの見解に対するわれわれの意見は,すでに述べたところからも 明らかであろうから,ここでくり返す必要はない。また,第7章の構造,理 論内容については,後述するところにゆずりたい。

次に,第3のタイプは,資本蓄積論の具体化として外国貿易論を位置づけ

(20) 

る見解である。吉沢芳樹,堀晋作,入江奨,前田芳人教授らの見解がこれに 属する。吉沢教授によれば,次のようである。「第7章「外国貿易論」は,

リカード蓄積論の具体化として把握すべきものである。……さてこのように (19)同氏前掲書. 197頁参照。

(20)吉沢芳樹「古典派経済学の完成ーー1817年とディヴィッド・リカードー」,

出口勇蔵絹「四訂・経済学史」, ミネルヴァ書房, 1961年(初版, 1952年),所 収。堀晋作「リカード外国貿易論の構造と性格」, 政経論叢, 第5巻第4 1957年3月。入江奨「リカァドゥの価値論に廃する覚書一「原論」第7章を 中心として一ー」,松山商大論集,第12巻第4 19621月。前田芳人「リ カードゥ貿易論の一視角—リカードウの発展的社会像と貿易論一」, 経済 学 雑 誌 第65巻第6 1971年12月参照。これらの見解は, 1820年に発表され たリカードウの論文「公債制度論」中の次の文章によっていっそう鼓舞されて いるようにみえる。 「土地からの原生産物の供給を増加させるのが困難になる につれて,穀物その他の労働者の必需品の価格が騰貴するであろう。そして賃 銀が上昇するであろう。賃銀の実質的上昇は必然的に利潤の実質的低下を伴 う,したがって,一国の土地が最高度の耕作状態になったとき,—すなわ ち,その土地にそれ以上の労働を投入しても,それらの追加的労働者を維持す るのに必要な量の食物を超えるだけのものを収穫できなくなるとき,その国は 資本と人口の両方の増加の限界に達しているのである。

ヨーロッパでもっとも富裕な国ですら,いまだこれほどの発達状況からはは るかに遠い,しかしもしもいずれかの国が,こうした発達状況に達したとして も,そうした国でも外国貿易の助けによって,富と人口とをなお無制限に増大 してゆくことができるであろう, というのは, こうした増加の唯一の障害物 は,食糧およびその他の原生産物の不足とその結果としてのそれらの価値上昇 といった事態だけにすぎないからである」 (IV,  p.179)

(17)

リカードゥ外国貿易論をめぐる若干の諸問題(吉信) (417)239  とらえるべき第 7章のはじめの部分(論点により幾つかのパラグラフ毎にナ ンバーを附しているゴンナー版『原理』でいえば, 46節)は,従来の支配的 研究において殆んど全く看過されていたといってよかろう。事実,従来の研 究の第 7章に対する評価は, リカードがここで近代的外国貿易論の基礎一比 較生産費説にもとづく国際価値論ーをうちたてたというにつきるといっても 言過ぎではなかろう。もちろん,その点に関するかぎり全くその通りであ る。だが国際価値論が展開されたゴンナー版でいえば47節以下だけにしかみ ないで, たとえばゴンナーのように, 第7章(および第25章「植民地貿易 論」)は, 『原理』の最初の部分たる「価値論」の「継続として読まるべき である」としか評価しないのは,蓄積論との連繋における,その政策への適 用としての「外国貿易論」の意義を必ずしも正しく把握していないといわな ければならない」 (同氏,前掲論文, 195‑7頁)。入江教授にあっては,価 値論の第2段階と性格づけた上で蓄積論の適用として第7章を把握されるの であるが,国際価値論視点については,「帝国主義的国際関係の分析のため の基礎理論」 (同氏,前掲論文, 130頁)として,はるかに否定的にみえる。

このクイプの見解はリカードウの「利潤について」の最後の部分に展開さ れている社会の進歩に伴う利潤率の傾向的な低落,それとの関係における資 本蓄積,そしてそこにもちこまれる食糧輸入の問題が,次章すなわち「外国 貿易について」への橋わたしになっていることを重視するものであろう。し たがって,この見解は第 2のタイプのヴァリアントとも考えることができ る。周知のように,マルクスは『資本論』第3巻第3編第14章において,利 澗率の傾向的低落の法則に反対に作用する諸要因の一つとして外国貿易を掲 げ,その二重の役割を指摘するとともに, リカードウの冒した誤りにふれて いる。外国貿易をこの次元で取上げることはもちろん必要であろうが,それ は外国貿易独自の問題を解明するものではない。また,範疇として外国貿易 が論じられる次元になっているわけでもない。したがって,本来説明するべ きものを前提もしくは先取りすることによってしかこの次元では現象の諸関 連を説明することができないのである。われわれは「外国貿易について」も

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