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1937年のドヴィナ行政法をめぐる諸問題

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1937年のドヴィナ行政法をめぐる諸問題

著者 石戸谷 重郎

雑誌名 奈良学芸大学紀要. 人文・社会科学

巻 14

ページ 31‑54

発行年 1966‑02‑28

その他のタイトル ПРОБЛЕМЫ О ДВИНСКОЙ УСТА

ВНОЙ ГРАМОТЕ 1397 ГОДА (I)

URL http://hdl.handle.net/10105/3339

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31

1397年のドヴィナ行政法をめぐる諸問題

石 戸 谷   重  郎 (歴史学教室)

ま  え  が  き

「ドヴィナ」 (AfiHua)または「ドヴィナ地方」 (j],BHHCJくaH 3eMJia)というのは、ロシア 東北部の辺境、白海に臨む北ドヴィナ河流域一帯の地てあって(I) 、ロシアの年代記には、 「ザ‑

ヴォロク」 (3a Bojiokom)または「ザヴォロ‑チエ」 OaBOJiOHbe)なる名でも呼ばれてい る(2)キエフ国家とモスクワ中央集権国家との中間期にあたるいわゆる「分裂時代」 (およそ13

‑15世紀)には、ノヴゴロド共和国の広大な頚城の一部を形成していたO このドヴィナ地方に対 して、ノヴゴロドの民会でなくて、モスクワ侯国のワシーリー1世(在位1398‑1425年)が発布 したのが、すなわち「ドヴィナ行政法」である。モスクワ侯がノヴゴロド韻なるドヴィナ地方に 法を与えた、ということ自体が、一つの間塩としてわれわれの関心を惹くのであるが、この法の

内容もまた現存最古の「行政法」に属するものとして、あるいは一般に法史料が少ない分裂時代 の法記念碑として、検討に価するものをもっているのである。

「行政法」というのは、 「ウスターフナヤ‑ゲラ‑モク」 (ycTaBHaa rpaMOTa)に対するわ れわれの訳語であるが、この語はドヴィナ行政法そのもののなかに明記されているのではない。

その前文において「余の代官は、この余の、大侯のゲラ‑モク(3)によって歩むものとす」 、また 政文に「この余のゲラ‑モタに背いて(Hepe3)」不法をなし、 「このゲラ‑モクによって歩むこ とができないとき、余,大侯より処罰あるべし」とあるのみである。それならばロシア・ソビェ

ト史学がこの法に対してZtBHHCKan ycTaBHa月rpaMOTaという呼称を一般に与えているのは、

「行政法」を学術用語としてつくり出したのかというと、けっしてそうではない。われわれは16‑1 17世紀ロシアの史料のなかに「行政法」なる用語が歴史的術語として使われているのを確認で

きる.しかも、その一つであるイワン4世の「恵与状」(4) (ジャ‑ロワンナヤ‑グラーモタ、

>Ka;ioBaflHa月rpaMOTa)には、殺人罪についての代官・郷司らによる罰金徴取について、 「郷の 行政法によってかれは罰金を取る、しかるに、行政法がないとき、殺人に対する罰金を法典によ って取る」と示されている(5)っまり、 「郷の行政法」 (ycTaBHan rpaMOTa BOJiocTHan)と

「法典」 (CyAe6HHK)とが対立させられているO後者はいうまでもなくイワン4恒の1550年法 典であり、郷の行政法というのは、その郷に関する限り、法典に準拠しなくてもよい特別な規定 であったことが、推定されるのである。したがってまた、行政法には多分に恵与状的な性格が 含まれていることも類推される。事実、ドヴィナ行政法は、その前文において、大侯ワシ‑リー 1位がドヴィナの貴族や住民に「恵与せり」 (no〉KaJIOBaji)といっているのみならず、その内 容において恵与状に近いものがあり、かつその用語法においてこれと共通のものをもつ条項もあ るO この行政法のテクスト刊行の最も新しいAC3日第3巻は、この法に対して「恵与行政法」

(>KajTOBaHHafl ycTaBHaa rpaMOTa)という呼称を与えている(6)

(3)

ところで、ソビェト学界で「ウスタ‑フナヤ‑ゲラ‑モク」と呼称しているグラーモクにいか なる邦訳語を与えるべきかは、簡単にはきめられない。上掲AC三)H第3巻は、 14‑16世紀にわ たっての合計八つの文書にこの呼称を冠している(7)。

ところがそれらの内容は、必ずしも共通の要素にみたきれているわけではない。例えば、 1391 年に大司教キプ))アンがコンスタンチン修道院に「与えた」 (舶Jl)グラーモタ(8)は、同修道院 が積民に課する貢租・労役がその中Jhであり、ドヴィナ行政法とはその体裁・内容ともに大きな へだたりがある。これらを一括してソビェト史学が「ウスタ‑フナヤ‑ゲラ‑モク」としている 根拠は充分に明白ではない。この不明瞭さは、チホミロフの著「ソ同盟史料学」にも認められ る.かれはウスターフナヤ‑ゲラ‑モクのいわば定義ともいうべきものを示してそこには「住民

・ ・ ・ ・

の貢税負担(nOBHHHOCTb)およびかれらが支払うべき税(noiiMHHa)が規定されている」 (9)(圏 点、引用者)とし、その最古の現存史料として上記1391年の大司教キプリアンのゲラ‑モクをあ げている。チホミロフは、 16‑17世紀のウスターフナヤ‑ゲラ‑モタを念頭において「教会権力 のみならず、皇帝によっても」(10)出された、とも述べている。ところが、そのチホミロフは、ワ シー')‑1世がドヴィナの貴族らに「恵与した」ゲラ‑モク、すなわちわれわれのいう「ドヴィ ナ行政法」を同書の別の個所で取り上げて、 「ウスターフナヤ‑グラーモク」とよんでいるのみ ならずこれを「裁判規定もしくは裁判法の性格を有する」(圏点、引用者)ものと性格づけている(H)。

1391年の大司教キプリアンのゲラ‑モクおよび1397年の大侯ワシ‑リー1世のグラーモクについ てのチホミロフの性格づけは、後者のそれをそのまま容認できないにしても、原則的には正しい と思う.問題は、このように相互に異なる性質のゲラ‑モクを「ウスターフナヤ‑ダラーモク」

として一括し得るかどうかにある。この点についてのソビェト学界の明確な解答を、寡聞の限り では、知らないのである。

いま、ドヴィナにあてられた1397年のゲラ‑モタを中心に考えると、いうところのZfBHHCKa汀 ycTaBHa只rpaMOTaを、ロシア・ソビェト以外の学界では、 "The Charter of Dvina Land"

(G.ベルナ‑ドスキー^1 (12)、 "Die Gerichtsurkunde von Dvinsk" (ゲ‑ツノ(13)などとおきか え、わが国では田中陽児氏は「ドヴィナ行政管理状」と訳出し(14)、筆者も旧稿において、ときに

「ドヴィナ法」 、ときに「ドヴィナ地方に与えた行政法規」と呼んでこのダラーモクに言及する ところがあった(15)。いま、あえて「行政法」の訳語を用いようとするのは、たんに「ドヴィナ 法」とすれば、ソビェト学界にいう「ウスターフナヤ」を無視することになるだけでなく、同法

は、 「代官」が「歩む」ための基準を示す、ということをその前文に明らかにしているからである。

「歩む」 (ⅩoAht)とは、この場合は「統治する」 「治める」の意にほぼひとしい。 1391年の大 司教キプリアンのグラーモクは、これと異なってその終りの部分で「修道院長と修道院の農民に」

(HFMeHV H XpHCTHaHaM MOHaCTblDCKHM)キプリアンが「このゲラ‑モタによって歩め」と述 べたことが記されている(16)。すなわち、かの年代記1016年の条に、ルースカヤ‑プラヴ‑ダをヤ ロスラフ賢侯がノヴゴロド人に与えたという記事のなかで、 「このグラーモクによって歩め」と 賢侯がいったと伝えられているのと同様に(17)、直接の行政官のみならず、住民一般もふくめて「

歩む」べき規準を示したものである。大侯ワシ‑リ‑l世のドヴィナに対するグラーモタは、貴 族以下の住民に「恵与した」ものであり、内容もそれにふさわしいものをも(上記チホミロフの

いう裁判法的性格のほかに)含めているが、直接的には大侯の行政官たる代官に対する指針とい う形をとっている。そして、さきにあげたAC≡)H第3巻所収の、いわゆる「ウスターフナヤ‑ダ ラーモタ」のなかには、漁民に恵与したダラーモタについて「何びとがわれらの郷司たるとも、

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1397年のドヴィナ行政法をめぐる諸問題 (石戸谷)

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かれはかれらのもとにおいて、このわれらのゲラ‑モクによって歩むべし」 (1506年、大侯ワシー y‑2世のゲラ‑モタ(18)、海狸猟師に恵与したゲラ‑モクについて「伺びとが余の漁猟官たる とも、かれはかれらのもとにおいてこの余のゲラ二モクによって歩むべし」 (1509年、侯ユリーー

‑イワノヴィチのグラ‑モク(19)といわれているものがある。特定地域の特定の住民、漁民もし くは海狸猟師に恵与されたとはいえ、裁判の手続きや税にふれているところ多く、その点でもド ヴィナのゲラ‑モタと似ている。とくに注目されるのは、ドヴィナの場合と同じく、広い地域の 住民に「恵与した」といわれているいわゆる「ベロゼ‑ルスカヤ‑ウスターフナヤ‑グラーモ

タ」蝣20) (Beji03epcKafl ycxaBHaa rpaMOTa)が、その前文において、 「何びとがかれらのもとに 代官たるとも、かれらはこのわれらのグラーモタによって歩むべし」と、その目的を明らかにし ていることであるo これら四つのゲラ‑モクは、代官、郷司、漁猟官などその職務と地位に異同 ありとはいえ、ともに大侯もしくは侯の部下が現地住民を治めるその規準を示している。そうい う意味で「ウスターフナヤ・ゲラ‑モタ」を「規則状」とするよりは、 「行政法」という邦語の 万が妥当のように思われる。行政と裁判とが密着していた当時、税と罰金の徴収が代官らの重要 な仕事であったことを想起すれば、そこに裁判についての指針がもり込まれたのは当然であり、

そのことだけにとらわれて全体を「スードナヤ・グラーモク」すなわち「裁判法」と規定するの は勿論妥当でない。

およそ以上のような理由によって、われわれは、以下にソビェト史学のいう且BHHCKaH yCTaB‑

Han rpaMOTa を「ドヴィナ行政法」とよび、これといろいろな点で比較さるべき上記「ベロー ゼルスカヤ‑ウスターフナヤ‑ゲラ‑モタ」を「ベロゼ‑ル行政法」と称することにする。これ

らの行政法が、直接には代官に対する指針の書であるにしても、それが同時にあるいは住民を拘 束し、あるいは住民に何らかの特権を認めることあるにしても、むしろ当然であろう。

さて、ドヴィナ行政法が幸にして今日にその内容を伝えているのは、 15世紀70年代にモスクワ 侯国で文書集が作られ、その一つとして同法も筆写きれたからである。この文書集は、全部で 55葉より成り、現在はレニングラードの「サルトゥイコフ‑シテェドリン名称国立公共図書館」

(ITIE)に0‑IV‑14の記号を付せられて保管されている。この文書集の特色とするところは、ノ ヴゴロドに関係ある文書が集められている、ということで、かの「ノヴゴロド裁判法」 (Hobfo‑

poACKan cyAHan rpaMOTa)をはじめ、モスクワ侯の対ノグゴロド条約、ポーランド王兼リト ワ大侯カジミール4世とノヴゴロドの条約など、数々の史料的価値の高い文書を含んでいるォ!) それらにまじって、 14世紀から15世紀60年代にわたるドヴィナ地方関係の文書若干が収められて いるのも、この地方が元来ノヴゴロド領であったからにはかならない。このような文書集が15・

世紀70年代に作成されたことについてチェレ‑プニンは、イワン3世が対ノヴゴロド政策の根拠 に役立てるた糾こつくらせた、という興味ある考察をしている(2?)ドヴィナ問題がノヴゴロド共 和国崩壊の瞬間に、モスクワ‑ノヴゴロド関係の一つの焦点としてクローズアップされたこと

は、 1471年3月25日付の文書の写しに以前にモスクワの大侯に所属していた「ドヴィナの諸郷」

(BOJIOCTH ZtBHHCKHe)が列挙されていたり、遠く13世紀末もしくは14世紀初頭のアンドレイ大 侯のドヴィナについての指示書が筆写きれてこの文書集に入っていることからも推察される。ド ヴィナ行政法もまた、このような背景のもとにモスクワ大侯の「文書局」 (Jiapb)保管の原本 によって写されて、この文書に入れられたもの、と解される。

ドグィナ行政法が、はじめて公刊きれたのは、カラムジンの「ロシア帝国史」においてである′23)。

(5)

しかし、カラムジンがテクストに利用したのは、上記rnB. 0‑iv‑14の写本そのものではなく て、ムーシン‑プーシキンの収録史料集で、これがrnBの写本を正確に読みかつ写し取ってい なかったために、カラムジンのドヴィナ行政法公刊もおのずから不完全なものにおわったのであ る(24)。rHBの写本から直接に公刊した最初のものは AA9 第1巻(1836年) No 13.である。

当時ルースカヤ‑プラ‑ヴダの研究をすすめていたドイツ入学者トビェンは、古代ロシアの法を 公刊し、そこにドヴィナ行政法をも収録した(1846年)く25)。ドヴィナ行政法刊行史におけるトビ エンの功績は、テクストそのものにはほどこされていない条項区分をあえて試みたことであって、

それは若干の修正のみをもって、かのウラジミ‑ルスキ‑‑ブダノフの「ロシア法史選集」に受 けつがれている。本稿もドヴィナ行政法を引用するときは、このウ・ ‑ブダノフの区分によるソ ビェト学界通用のものをとる0 20世紀に入ってからも、ヤコブレフ、ノソ‑7、あるいはコ‑テン

らによる各種の史料刊行に際して、ドヴィナ行政法が見落されることはなかった(26)同法の史料 的重要性への認識は、今次大戦後のソビェト学界における史料刊行にも反映されて、 rBHn (19 49年) 、nPn 第3巻(1955年) 、 「ソ同盟史料選集」 (1960年)などに、くり返すように収録さ れ、ごく最近には既掲AC9日 第3巻(1964年)に、 itie. 0‑iv‑14の古写本に最も忠実な形 で収録刊行されるにいたり、ここにわれわれはドヴィナ行政法の完全な(原本に対してのこと) 刊本を手にすることができたのである(27)

他方で、ドヴィナ行政法の条文解釈や内容の分析も上のテクスト刊行に応じてすすめられてき た。ただし、独立した論文としてではなく、多かれ少かれ、概説的なものの一部としてであるC その多くは、現在のわが国では入手できなくなっているが、戦後のものとして少なくとも次の三 つが必読文献としてあげらるべきであろう。すなわち、第一はアメリカのG.ヴェルナ‑ドスキ ーの英訳HThe Charter of Dvina Land" (既掲)で、ウラジミールスキー‑ブダノフによる 刊本を底本にしており、英訳にわれわれからすれば不充分もしくは誤解を招くところ少なからず と思われる点があるにしても、難解な原文の理解には参考になる(28)第二は、上記npn第3巻 にジ‑ミンが逐条毎に註解をしているものがある。条項によってその註解に精粗の差があり、か つわれわれが疑問としてし一、だくいくつかの問題の提起と解明が見られない、という弱点があるに せよ、逐条毎の註解の深さは、 G.ヴェルナードスキーのそれをはるかに越える。最後に、われ われにとって最も有益なのは、チェレ‑プニンの労作「14‑15坦紀ロシア封建文書、第1巻」

(1948年)であろう。同法についての独立した考察として充分なものとはいえないが、関係史料 の引用と全体的な展望において教えるところ少なくない。

まえがきの註

(1) 「北」ドヴィナ河というのは、ポーランドの「西」ドヴィナ河に対しての名称である。原初年代記のは じめの部分で、例えば有名な「ワリャーグからギリシアへの通」 (nyTb H3 Bapar b FpeK打)にあげられて いる「ドヴィナ河は.・・北に流れてワリャーグ海にそそぐ」 (nCPJI.T. I. H3.3. 2‑oe. 1926. CTp. 7.除村 吉太郎訳ロシア年代記6貢)というのは「西」ドゲィナ河である。本稿でとりあげるドヴィナ地方のふるい歴 史については、 A.H.HacoHOBの"PyccKaa 36mjih" h oopa3OBaH以e TeppHTop糾I ApeBけe‑pyccKoro rocy/iapCTBa. 1951. CTp. 101‑110.参照。州.H.THXOMHpOB, POCCH刃B II CTOJieT肌1962. ivi. K.

,n,BHHCKa兄3evw兄h 6eji03epcKHH Kpa員.は、より後の時代についてであるが、ドヴィナについての認識を 深めるのに役立つ。

(2) 「ヴォロク」 (bojiok)とは、小舟や荷物を曳いて横断できる陸地帯であって、河川が交通に重要な役

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1397年のドゲイナ行政法をめぐる諸問題 (石戸谷)

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割をなしたロシアでは、この「ヴォロク」の意義は大きかったOそれはときにそのまま地名となり、とくに有 名なのは、ヴォルガ上流の「ヴォロクニラ‑ムスキ‑」であるO 「ザ‑ヴォロク」は、 「ヴォロクを超えて」

「ヴォロクのかなたに」の意味で、それが方向よりも地域を指さすとき「サヴォローチェ」なる地名となっ たO 「グォロク」が普通名詞であり、各地にあったとすれば、 「ザ‑ウォロク」 「ザヴォローチェ」も各所に 為り得る筈であるが、普通にそれはドヴィナを指さす。ドヴィナとザヴォローチエとが同語であることについ ては、すでに州.M.BorocjioBCK蛸が3eMCKoe caMoynpaBJieHHe Ha pyccKOM ceBepe b Xil b., t. I.

1909. CTp. 4, IIpHM. I.に指摘しているが、チェレ‑プニン(Jl.B. HepenHHH, PyccK打e (beo^ajibHfaie apxHBH Xff‑XV BeKOB. Haerb. I. M. 1948. CTp. 397. npHM. 183.なお本書は以下にApxHBbI Xff

‑IV BB. H. Iと略記する)をはじめ、ソビェト史学に容認されている(npn.i.cTp. 149.ザ‑ヴォロクを ドヴィナとしている、あるいはソビェト刊行の各種歴史地図など参照)O原初年代記は、開聞説話につづいてヨ

‑ロツパ諸民族の分布を述べているが、そのなかに「ザウォローチエのチュ‑ジ人」 (3aBOJiOMbCKa兄MHD^b) なるものをあげている(FICPJI.T. I. CTp. 4.除村訳3貢) 。チュージ人とはフィンランド人で、そのうちド ヴィナ地方に居住していたのがこのサヴォロ‑チエのチュージ人である。ナソノフは、はじめフィンランド人に 占められていたドグィナ地方に、スラグ人が移住・発展しはじめたのは、 11坦紀後半から12世紀にかけてで、

やがてその移住しTニスラヴの間に階層分解がおこり、 13‑14世紀に「ドヴィナの貴族」が成立した、と見てい ち(A.H.HacoHOB, YKa3. coiHeHne. cTp. 103.) なお、ノヴゴロド年代記にしきりに出てくるチュー ジ人は、ドヴィナのそれでなく、フィンランド本土のそれである。

(3) 「ゲラ‑モタ」 (rpaMOTa)は文書、文書にかかれた法、規定などを意味するo

(4) 「恵与状」 ‑ 「ジャ‑ロワンナヤ‑ダラーモタ」は、その内琴に重きをおいて、 「特許状」と邦訳され ることもあるo田中顔児・米JH正夫訳麻「ロシア史の時代区分(上)」 49百、 129頁、 194頁。

(s) Ae3X.I.No. ll.

(6) AC3H. I.No.7. CTp.21.

(7) 「ノウゴロド行政法」の他に. AC∋H.NoNo.5,6,12,22,25,26,27.

(8) ACこうH. I. No. 5.なおこのダラーモクについては、 nPn.I. erp. 423‑425,436‑438,458‑459, B./J.FpeKOB, KpeCTt甜e Ha Pycjj. kh. I. M.ユ952. CTp. 527‑530.参照。

(9)州.H.TiすⅩOM叩OB, HCTOMHHKOBe^eHeim HCTOpHH CCCP. Bbin. I. 1962. CTp. 216.

TaM xe.  (ll) TaM *e, CTp. 174.

G.Vernadsky, Medieval Russian Laws. New York. 1947. pp. 20, 57‑60.

(13)例えば、 L.K.Goetz, Das russische Recht. Bd. 4. Stuttgart. 1912. SS.8,34,352,453.

(14)前掲田中・米川訳編「ロシア史の時代区分(上)」 12貢、 15貢。田中氏は「行政管理状」を「14‑15世 紀のロシア地方行政を規定した文書」と定義づけている(同書12貢の訳註) 0

(15)拙稿「イワン3世の1497年法典‑本文試訳ならびに註解」 (奈良学芸大学紀要8巻1号) 、 「ホロープ所 有についての法史的一考察」 (同、 10巻1号) 。

AC3H. I・ No.5 「しこうして、全ロシアの司教キプリアンは修道院長と修道院の農民に次のごとく 述べた:すべての者が余のグラーモクによって歩め、 ‑修道院長はシロタ‑を守れ、シロターは修道院長に服 従し、修道院の賦役を果たせ」

HnJl. cTp.175‑176.なお、この1016年記事の問題点については、拙稿「ノヴゴロド史研究の課題と 方法」 (奈良学芸大学紀要、人文・社会科学第13巻)参照。

AC:3N.I.No.25.    TaM ace, No.27.    Tain xe, No.22.このグラーモクは、イ ワン3世によって1488年3月にベロゼ‑ル地方に恵与されたが本稿はこれを「ペロゼール行政法」と呼んで多 く引用するので、簡単にふれておく。イワン3世は1488年に先立つ十敬年前からベロゼ‑ル俣国に支配権を及ぼ しはじめ、ベレヤ‑ベロゼール侯ミパイルといくつかのモスクワ侯国に有利な条約を結んできたが、 (Zinr.

NoNo. 64,65,67) 、 1482年の条約でミパイル床はベロゼールをイワン3位に譲り、ただ自己の生存中のみこ

(7)

れを所有・支配することを的した(flflr.No.75) 。1486年4月にミパイル侯は、ベロゼールをイワン3性に 譲与する遺言状をのこして死摸しamr. No.so) 、ここにベロゼ‑ルは完全にモスクワ韻の一部になった。

「ベロゼ‑ル行政法」は、その2年後に発布されたのである。ドヴイナ行政法成立の事情(本稿第1節に詳論)と かなり異っていることに注意されたいoなお、ベロゼ‑ル行政はAC∋N. I.No.22のほか、 npn.i.cTp.

170‑174.にもテクスト刊行あり、同書CTp.208‑219に註釈がある。同法英訳としては、Horace W.Dewey.

The White Lake Charter. A Mediaeval Russian Administrative Statute, Harvard University,‑

Speculum, vol. XXXII, No. 1. January 1957.参軌 A.H.KonaHeB, McTOpra 3eMJieB刀aAemia 6ej[03epCKoro span (XY‑XVIbb.) 1951.はベロゼ‑ル行政法の背景をさぐるための必読文献に属す る。

担1)ドヴィナ行政法をふくむこの文書集は、それ自体として考察に価するものである。チェレープこンはそ のなかの個々の文書をあげるに際して、旧刊本史料集を引用しているが、現在ではわが国でも新しい刊行に収 録されているものによって直接に個々の文書を検討できるようになった。文書集の内容を、新旧刊本の対照、各 文書の成立時代などを含めて掲げておく。JIJI.は rn6.0‑IV‑14 の第何薬かを示す。 (あ) jut.1‑10.大

侯ワシ‑リ2位と大ノヴゴロドとのヤジェルビ‑ツァ条約. 1456年、 (AA:). I. No.57‑58, TBHn. No.

22‑28); (い) Ji.ll. 1471年モスクワのノヴゴロド攻撃のときモスクワ大侯に属していたドヴイナ各地の地名 秦.1462‑1470(AA三3. I.No. 94, I. AC三m. I. No. 14) ; (う) jui. II06.‑12.大侯イワン1位の恵与 状、 1328‑1340.(AAこう. I. No. 3. TBHn. No.84. AC≡)H.I. No.2. nPn.I. CTp. 165‑166.);(え) ji.1206.1328‑1340.大侯イワン1位とノウゴロドとの海上航行についての指示書(AAこう. I.No. 2 TBHn.

No.85. AC3H. I. No.3.nPn. I. CTp. 166) ;(お) ji. 13.大侯アンドレイ‑アレクサンドログイチ のドヴイナに対する指示書. 1294‑1304. (AA3. I. No. 1. TBHn. No.83. ACこうH. I. No. 1.nPn.

I.erp. 165) ; (か) n. 1306.大侯ドミ‑トリ‑イワノヴィチの扶持恵与状. 1363‑1389.(AA9. I.No.6.

FBHn.No.87. AC≡M. I. No. 4. nPn. I. CTp. 166.); (き) JIJI.14‑1606.ドヴイナ行政法. 1397.

(AA9. I. No・ 13. TBHn. No.88. AC∋H. I.No. 7. IIPn. I. dp. 162‑164. XpecTOMa 只nO

〃CTOpHH CCCPC月peHe丘ID打x BpeiweHm.oKOHia XV Be式a. noノq Pe月.礼H. TガXOM叩OBa. cto. 534‑

536.) ;(く) jui. 17‑18.大侯ドミ‑トリ‑イワノヴイチとノヴゴロドとの条約1371‑1372. (AA3. I.

No.70.rBHn.No.16.); (拷) Ml. 1806‑21.モジャイスク侯イワン‑アンドレイヴイチとセルプホ‑フ侯イ ワン‑ワシリェヴィチとの条約.1461‑1462. (AA9. UNO.70. RJXV. No. 63.) ; (こ) nn. 24‑2706.

ポ‑ランド王兼リトワ大侯カジミール4悦と大ノヴゴロドとの条約1448‑1461.(AA3. I.No.87. TBHn.

No.77. nPn. I. cTp. 247‑251.) ; (き) n. 28‑2806.タタール税拠出についてのノグゴロドから大岸ワ シ'; 2位‑の約定書. 1448‑1461. (AA三3. I.No.32. TBHn. No.21) ; (し) jiji.2906.‑3206.以前に モスクワ侯もしくはモスクワ貴族に属していたドヴィナ各地の地名表. 1471‑1476. (AA3. I.No.94. I.

AC∂M.I.No. 16.) ; (す) ji. 33‑3306.大便イワン3榎のノヴゴロドに対する土地返却状. 1476年4月6 日. (AA9. I.No. 101. AC:)H. I. No.20) ; (せ) JUl. 34‑35.モスクワ大侯に属していたドヴイナの諸 郷とそれらを管轄したモスクワ貴族の表. 1471年3月25日. (AA3. I. No. 94,甘. AC3H.I No. 15.) ;

(そ)ji. 36‑3606.ヤジェルピーツァ条約によるモスクワに対するノヴゴロドの賠償金支払書. 1456. (AA9.

I.No.59. TBHn. No.24.) ; (た) ji. 37‑3706.オボネジの土地買取り状 1434年または1460年(AA9.

I.No.27. TBHn. No. 93.); (ち) JUl. 40‑49.大侯イワン3世とノヴゴロドとのコルストゥイ二条約.

1471年8月11日. (AAこうI. No. 91. TBHn. No.26‑蝣27. UPn. I. CTp. 251‑259.); (つ) jm. 4906.

‑50.イワン3世に対んるノヴゴロドの支払約定書1471年8月9日(AA三). I. No. 90. TBHn. No.25);

(て) jiji. 5ト5406.ノウゴロド裁判法1471‑1476. (AA:ラ I. No. 92. nPn.I. CTp. 212‑218.) (と) n. 55.ノヴゴロドの大侯イワン3位に対するピネガ・メザニ等についての土地放棄書1471年8月‑12 月 (AA9.I. No. 93. AC∋H. I. No. 17.) .

JI.B.Mepen肘H, ApxHBU Xff‑XV BB H. I. CTO. 334‑407. TJI. 6‑a兄. ≪HoBropoノncKHe

(8)

1397年のドヴィナ行政法をめぐる諸問題 (石戸谷)

37

aoKyiueHTbi MOCKOBCKOrO BejIHKOKHHHCeCKOrO ApxHBa≫

H.爪.KapaM3i川, HCTOpH只rocy.ノnapcTBa Pocch員CKOro. H3月 2‑oe, t. V. npi子Me^aHH只CTp.

142‑144. No. 244.なおカラムジンは、 CTD. 234‑293に当時のロシア語への訳出も試みている.

(24)この事情については、 rBHn. cTp. 144.およびAC∋H・ I. CTp 22参照。

E.S.Tobien. Die aeltesten Gerichts‑Ordnungen Russlands nach alten, bisher entdekten und herausgegebenen Handschriften, B.I.Dorpat, 1846. SS. 32‑36.

(26)ドゲイナ行政法のテクスト刊行史に概括を与えているものとしては、 JI.B.4epenHHH, ApxHBH XF

‑XY bb CTp. 397, npHM. 182.

(27)本稿註(21)の(き)参照。本稿では、この AC:〕H.I. N0. 7をテクストとして利用するが、古いスラブ 文字を AC9日 のように再現するのはわが国の現状では印刷技術上の困難が多いので、現代ロシア文字にか えて引用する。.

(28)前掲拙稿「イワン3位の1497年法典」では、歴史的術語の解明に力をそそいだが、本稿では第2節にお いても条文の趣意の取り方に重点をおく。

1 ドヴィナの歴史とドヴィナ行政法の成立

ドヴィナ行政法がモスクワの大侯ワシ‑リ‑l健によって発布きれたことは、その序文に明ら かである。しかし、今日に伝わるその写本は、同法の成立年代については何も記していない。参 考に資すべき他の人物の名などもそこには兄いだきれない。それにもかかわらず、もしわれわれ がロシアの年代記を注意深く読むならば、ワシ‑リー1世の時代、すなわちかれが大侯位につい た1389年から(同年5月病床の父より大侯位を譲られ、同8月ウラジーミル市で即位式挙行) 〜 1425年2月病穀するまでの間に(29)、ドヴィナ行政法が成立したようなおよその時点を設定するこ

とは、年代記がそのことに全く言及していないにしても、さして困難なことではない。われわれ がいま試みようとするのは、ドヴィナ行政法の成立年代を機械的に設定することではなくて、同 法成立の背景をきぐることである。その際、まず注目きるべきは、モスクワ侯国とドヴィナとの 関係である。たしかに、ドヴィナ地方をモスクワ侯国領と見なしたからこそ、もしくはそれを主 張し得る状況にあったからこそ、。ワシ‑リー1世はドヴィナ行政法を発布したのである.では、

われわれは、モスクワ侯国がドヴィナ地方を自国領の一部として見なし、または主張した事実を いつごろから確認できるであろうか。この点について、まず検討さるべきは、第3代モスクワ侯 たりしイワン‑カリクー(1世)以来の歴代モスクワ侯が例外なくのこしている遺言状であろう。

ロシアの遺言状には、たんに土地寄進を指示しているにすぎないものもあるが、領主階層ではむ しろ財産分配を主な目的にしてこれが作成されている。とくに歴代モスクワ諸侯の遺言状は、そ の所領分配を詳細に記しており(]0)、それらの遺言状にあげられている地名の数の増加は、そのま まにモスクワ侯国の領土的発展の縮図である。ところが、いま、 「ドヴィナ」もしくは「ザヴォ ロ‑チエ」なる地名に注目を向けてその遺言状にあたってみると、それはようやくイワン3世の 遺言状(1504年)において長子ワシ‑リー(3世)にモスクワ侯国領の一つとして譲与されている のである(3D。他方ドヴィナ行政法発布者たる大侯ワシ‑リ‑l世の遺言状を見ると、それは、 (1) 1406‑1407年ごろ、 (2)1417年7.月ごろ、 (3)1423年3月の三度にわたる三つの遺言状が作成され、

今日に伝えられているにかかわらず、どれひとつとして諸子への所領分配のなかに「ドゲイナ」

もしくは「ザウォローチエ」なる地名があげられていないのである(32)。少なくともワシ‑リー1

° ° ▼ ° ヽ ° ° t ° ° ° ° ° ° ° ° t  t ° t ° °

世が遺言状を書かせたこれら三つの時点では、ドヴィナはモスクワ侯国領とは考えられていなか ったのである。では、イワン3世以前にドヴィナはどこに属していたか。これを示すのが、ノヴ

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ゴロドと諸侯との条約、もしくは、 「契約文書」である(33)。この種の文書で今日にのこされてい るのは1264年のトゲェリの大侯ヤロスラフとノヴゴロドとの条約を最古とするが、以後1471年の イワン3世との条約(いわゆるコルストゥイニ条約)にいたるまで、そこには「これがノヴゴロ

ドの郷(BOJIOCT打)である.'」にはじまる‑条項があって、そのなかには終始一貫して「ザウォ ローチエ」が加えられているのであるOのみならず、ときには「汝は、ウォロクのかなたに(3a

<*a当

Bojiok,b、(引用者註、すなわちザヴォロ‑チエに、ドヴィナに)汝の家来を遣わさない、ノヴゴロド人を 通わす」(34)とあって、ノヴゴロドが遠隔の地ドヴィナのトゲェリ侯国による侵略を警戒している ことを知る。ただし、この条件は、トゲェリとノヴゴロドとの間では後者の譲歩を次第に余儀な くされたようで、 14世紀初頭の諸条約では、トゲユリの大侯がドヴィナで「セレプロ‑を取る」

ことが認められたり、 「貢物をノヴゴロド人に売る」とされたりしている(53)これらの譲歩は、

勿論、ドヴィナをノヴゴロド韻と確認させた上で、ノヴゴロド侯を兼ねた(36)トヴェリ大侯のドヴ ィナに対する態度として、ノヴゴロドが承認したものである。このような曲折を経ながらも、ド

(10)

1397年のドゲイナ行政法をめぐる諸問題 (石戸谷)

39、

ヴィナはノヴゴロド領として存続したのであって、やがて14世紀中葉ごろからモスクワ侯国がト ゲユリ侯国をおさえて次第に強盛になってくると、ドヴィナをうかがう勢力として、このモスク ワ侯国がノヴゴロドの前に立ちはだかってくるのである。その一つの頂点が、まさにワシ‑リーー 1世時代にあたるのである。

ノヴゴロド年代記は、 12坦紀後半に、ノヴゴロドからドヴィナに「徴税人」 (flaHbHHK)が赴 いたこと、あるいはドヴィナで徴税人が殺されたことを伝え37)、また1196年にはノヴゴロド侯位 を追われたヤロスラフ侯がトルジョークにあってノヴゴロドとドヴィナとの連絡を妨害したこと を記している(38)。12世紀後半には、ドヴィナに対するノヴゴロドの支配が及んでいたと考えてよ かろう。年代記は、 13世紀のドヴィナについての何も語っていない。しかし、さきにノヴゴロド

と諸侯との条約で示したように、おそくとも同世紀の後半には、ドヴィナ‑ザヴォローチエが、

ノヴゴロド領たることが諸侯によって再確認されている1324年に、ノヴゴロド人はモスクワの 大侯ユリーとともにウスチュグを占領し、ドヴィナに達している(39)。ノヴゴロド年代記もモスク ワ年代記も、その記述が簡略で詳細を知り得ないが、ユリーの目標がウスチュグに、ノヴゴロド 人の目標がドヴィナにあったにせよ、両者の共同動作は、その後のなりゆきを考えると不可思議

とされるかもしれない。しかし、トゲェリ侯国という共同の敵の存在によって、この疑問は解 ける。大侯ユリ‑がオルダ‑においてトゲェリ侯ドミートリ‑に暗殺され(1325年) 、弟イワン 1世がそのあとをおそうが、ドミートT)‑がオルダーでタタール汗によって斌殺された(1326年) ことは、モスクワ侯国が対オルグー外交政策に成功していく前兆でもあった(40)。イワン1世は、

その治世中に、タタ‑ル汗に納める税、いわゆる「チョ‑ルヌイ‑ボール」 (nepHb:泊 Sop)な どの問題で、しばしばノヴゴロドと武力衝突しているが、 1337年にはその軍隊をドヴィナに派遣 している。これについてノヴゴロド年代記は、イワンが「十字架接吻を忘れて」 (HenoM只HyBTサ KpecTHaro uejiOBaHHa)と、非難している′41)ィヮン1世病没の翌年、すなわち1342年に、ノ ヴゴロド人ルカ‑ワルフロメエフは、 「ホロープを集めて」ドヴィナに赴き、オルレーツの町を 建設し、ドヴィナでさらにエムツァの住民をあつめ、 「ドヴィナ河に沿うザヴォローチカヤ地方 全てのポゴストを占領した (D3H 3eMJIK) 3aBOJIOHKVK) no 加HHe, Bee norocTbi Ha lUHTt) (4')。ノヴゴロド年代記は、かれ、ルカが「ノヴゴロドに聴従せずに」 (He nocjiymaBも HoBropo^a)この行動をおこしたとし、またルカがまもなく現地で「ザウォロ‑チエ人」に殺さ

れたことを同情をもたずに記している.かれの行動が私的な野心によったからであろう B.H.

ペルーナ‑ドスキーはルカが東方に「巨大な領主直営地」をつくろうとしていた、と推定してい

る(43)○

このようにして、 12世紀以来、ドヴィナはノヴゴロド領、それも徴税の対象として考えられて いたようである。ノヴゴロド人がしばしばドヴィナで殺害されているという記事は、現地人がノ ヴゴロドに心服していなかったことを示している1380年のクリコヴォの戦は、モスクワの大侯

ドミ‑トリー=ドンスコイがタタール軍に対して勝利を占めたとはいえ、その支配から脱するこ とになったのではない。依然としてモスクワはロシア人からタタール汗に納める税について責任 をもたらされた1386年に、大侯ドミートリーはノヴゴロドに軍隊をつれて臨み、 8千ルーブル をとった。これは、ノヴゴロド人がヴォルガ沿岸を荒らした賠償のほかに、ノヴゴロドが拒否し ていたタタールへの税をふくんでいた。しかも、この年ノヴゴロドからは市政長官フョードルニ チモフェーヴィチらが「ノヴゴロドがザヴォロ‑チカヤ地方に課した5千ルーブリを取りに」出 動しているのである(44)大侯ドミートリーの時代には、モスクワとノヴゴロドとの武力衝突は、

(11)

この1386年のときだけであり、しかもドヴィナをめぐる争いとしてではない。これに対して、大 侯ワシ‑リー1世治下のモスクワは、ノヴゴロドとの衝突四度に及び、しかもそのうち三度まで が直接ドヴィナに関係しているのである。

その四度の戦争とは(l) 1393年、 (2) 1397‑1398年、 (3) 1401年、 W 1417年に行なわれたものであ る1393年の戦争は、大司教裁判権およびタタール税の問題を原因とし、モスクワ軍がノヴゴロ ド国境の要地なるトルジョーク、ウォロク‑ラームスキ‑などを占韻したのに対し、ノヴゴロド 軍がモスクワ侯国を背後からつき、結局講和におわっている(45)。このときの戦争で注目すべきは

ドヴィナがノヴゴロド軍のモスクワ攻撃の根拠地になっていることで、モスクワ年代記は、 「ザ ウォローチェから多くのノヴゴロド人が集って、多くの船に乗って(Ha MHoaex‑b Hacaaex h yuiKyexも) 、ウスチュグ市を占領して火を放ち、教会を掠奪した」 (46)と述べている.

あと三つの戦争は何れもドヴィナ攻略を原因にしているが、そのうち1397‑1398年の戦争がロ シアの諸年代記、なかんずくノヴゴロド年代記に詳細に記述され、およそロシア史家にしてこれ に言及していないものはない。そして、ドヴィナ行政法がワシ‑リー1世によって発布きれたの が、この戦争の過程においてであることに諸家の見解は一致している。ドヴィナ行政法成立の背 景をさぐるために、やや詳しく考察しよう。

1397‑1398年戦争の発端について、モスクワ年代記は、 1397年の条でいきなり、 「この春ドゲ イナ人が大侯ワシ‑リー‑ドミトリェヴィチに降伏し、委ねた(^ajiHC∬ BejnイCfl) 。そして大侯 はノヴゴロド人と和を絶った。ノヴゴロド人は、大侯のもとに司教ヨアンおよび市政長官なるボ グダンとクリルを派遣した。大侯は、かれらを聴き入れず、和を結ばずに(6e3 MHpy)かれら をかえした。 」(47)と記している。ウスチュグ年代記もほぼ同様で、大侯がノヴゴロドに「宣戦布 告状」 (pO3MeTHafl)を送り、 「ドヴィナ人に対して軍隊を派遣した」云々と伝えるのみであ る(46)。こえて1398年にノヴゴロド側の大規模な反攻作戦が展開きれるのであるが、 1397年の事件 についてノヴゴロド年代記は、もっと具体的に記している。モスクワ侯国、その一部としてのウ スチュグがドヴィナへの距離においてノヴゴロドよりはるか近いにかかわらず、ノヴゴロド年代 記の記述が最も詳細であること自身が、すでにノヴゴロドのドヴィナ‑の関心の深さを示すもの であろう。ノヴゴロド年代記で特徴的なのは、ワシ‑リー1世がドヴィナに対して降伏の勧告を したという記事である。大侯は「己れの貴族ら」(複数に注意!)を「ウォロクのかなた、ドヴィナ に」派遣したが、勿論外交使節としてではなく、兵力をともなったと考えるべきであろう。この

とき流血的な衝突はなかったが、貴族らは大侯の意をドヴィナ人に伝えて次のようにいっている : 「大侯に服属するように(HT06土ji ecTe 3b^ajiec只3a kf了HHb Bejl打KbIH)、しかるにノヴゴロド とは断絶するように(oraHJieca)、しかるに大侯はノヴゴロドから汝らを守ろう(SopOHHT王イ)と欲 している、しかるに汝らの側に立とう(CT0月th3a Bac)と欲しているO 」この勧告は、一種の 煽動でもあり、本国ノヴゴロドに対するドヴィナ人の不満をたくみに利用したものである。年代 記の記述からは、ドヴィナ人がさきに積極的な反乱、もしくは何らかの反ノヴゴロド的な行動を 起こした徴候が認められないので、底流としてあった本国に対する反感を利用するとともに強制 ないし脅迫がモスクワ側から加えられたことも認めねばなるまい。大候ワシー>)‑の勧告に対し て、 「イワン‑ミキーテン、およびドヴィナの貴族、および全ドヴィナ人が、大侯の側に服属し

た」 (HBaH't MhkHTHH'b H OOHpe ABHHbCKblH H BCH RBIイH只He 3a BejiHKbiH kh只3b 3aノIajiecn)

のである。このイワン‑ミキ‑テンとその兄弟らが反ノヴゴロドの中心人物であり、 1397‑1398

(12)

1397年のドグィナ行政法をめぐる諸問題 (石戸谷)

41

年のモスクワによるドヴィナ占領がやがてこれを放乗せざるを得なくなったあとでも、モスクワ 側が兄弟のひとりをドヴィナ工作に利用したことについては、後に見るであろう。イワン‑ミキ

‑テンら貴族を先頭とするドヴィナ人は、 「大侯に対し十字架接吻をした」 、すなわち服従を誓 ったのである、このあとで、かれらドヴィナの貴族がノヴゴロド貴族の所領やノヴゴロドの郷を 手中におさめたことは、翌年についての年代記記述によって知られる。大侯ワシ‑リ‑l世は、

このようにして、ドヴィナを無血占領することに成功するとともに、ノヴゴロド国境の要地であ るトルジョーク、ウォロク‑ラームスキー、ベジェ‑ツキ‑‑ベルフなどをノヴゴロドから「奪 った」 (OTH只Jl)。その上で、ノヴゴロドに対して「十字架の文書を破棄し」(xpecTbHyfo rpaMOTy BTjCKHyjIも) 、ノヴゴロドもまた同様の挙に出た。ここに両国の関係は完全に断絶したのであ

*m

このような事態にいたっても、ノヴゴロドは直ちには軍を起こさなかった。ノヴゴロドの政治 外交に発言権をもっていた司教イワンのモスクワ訪問を機に、使節を同行させて、ワシーリー1 世に対し、キリスト教徒の間に「流血を見ないように」 、ドヴィナ以下のノヴゴロド領をノヴゴ

ロドに「返還し」 (CTyjIHJTbCfl) 、 「ノヴゴロドに対し旧によって処するように」 (noiiijio oh to k HoByropoノ汀V B CTapHHV)交渉させたのである。しかし、大侯は申し入れを拒否し、 「不快 (HejiK)6be)をノヴゴロドから取り去らず、和を結ばなかった」のである(49)ここにおいて、ノ ヴゴロドは、領土回復のため武力に訴えることに決して、翌1398年に立ち上ったのである。ノヴ ゴロド年代記によれば、ノヴゴロド人は大侯の「強圧」 (Haci壬jibe)を非難し、 「 (大侯が)壁 ソフイヤより、大ノヴゴロドより、わらの父祖の地(OTHHHa H ACZUffla)なる付属都市と郷を 奪った」ことに露骨な怒りをぶちまけ、 「心を一にして」 (3a oノamn>)それらを取りもどすこ

とを誓い、司教にその「祝福」を願って、それを与えられた上で、二人の市政長官を指揮者とし て、近隣の国境地帯でなく、ドヴィナのオルレ‑ツをめざして出征の途についた。ここにも、ノ ヴゴロドのドヴィナに対する深い関心が見られるとともに、遠いドヴィナヘの出征をいとわない のは、平常からそことの連絡が密接であったからであろう。また、戦略的にモスクワ侯国の背後 をつこうとしたこと、あるいは、ドヴィナの情勢が急を告げるものであることを察したであろう

ことも考えられる.ともあれ、各地をモスクワ軍に占穎されながら、そのうち、まずドヴィナを 目標にして進発していることが注目される。

しかし、途中で(その地点は明記されていない)遠征軍はドヴィナの‑中心地ヴェ‑リの郷司 (おそらくそこから逃避してきた)に出あい、現地ドヴィナのいっそう詳しい情報を得て、鉾先 を転じてベロゼ‑ル、クペンスキ‑郷、ウスチュグ、と転戦して、一部別働隊はガリーツをも攻 略した。これらモスクワ領において(ただし、ベロゼールはまだ完全なモスクワ韻でなく、独立の侯国で あった)、町に放火したり、捕虜・財産をとったりした。ウスチュグはモスクワからドヴィナにい たる要衝の地で、ここを占拠してから、ようやく最初の目標地たるドヴィナのオルレーツに向っ て北上し、この都市を4週間の包囲の後、ついに陥落させた。戦争の結着について考察するまえ に、上にあげたヴェ.)‑の郷司のもたらしたというドヴィナについての情報を分析しておく必要 がある。というのは、モスクワ側がドヴィナをその支配下においたあと、どのような情勢がそこ に展開されたかは、この情報以外には年代記に徴するものがないからであり、またドヴィナ行政 法が発布きれたのはモスクワによるドヴィナ占領の成功から、この情報にいわれている事態発生

までの間と考え得る公算が大きいからである。

ヴェ‑リの郷司が提供した情報は、大別すると次の三点に要約される: (i)「大侯の貴族アンド

(13)

レイが、イワン‑ミキ‑テンおよびドヴィナ人とともに、聖ソフィヤの郷たるヴェーリを占拠し 人命とひきかえに買戻し金(oKy汀b)を取った」、 (2) 「大侯のもとから、ロストフの侯フョード ルが、町を(引用者註.オルレ‑ツ市を指す)支配し裁判し(6JOOCTI壬 V Cy′叩TH) 、ノヴゴロドの.

諸郷から税をとる(nouIJIHH ガMaTH)べく、ドヴィナに到着した」 、 (3)「ドヴィナの軍司令官イ ワンとコノンは、己れの親兵隊とともにノヴゴロドの郷とノヴゴロドの貴族の〔郷〕を、お互の, 間で分けた(noaeji.ガuia co6e ^acra) 」。 (1)にいう貴族アンドレイなる人物は、前年1397年に 大侯ワシ‑リー1世によってドヴィナ工作のために派遣された貴族のひとりとして、その名を連 ねている。かれが、どのような経路でヴェーリにあらわれたかは知る由もないが、現地ドヴィナ の反ノヴゴロド勢力の急先鉾たるイワン‑ミキーテンと行動を共にしていることが注目される。

(2)においてわれわれは、ドヴィナ行政法にいう「代官」 (HaMecTHi壬K)を見ることができる。ロ ストフの侯は、モスクワの大侯に対してはいわゆる「勤務侯」の関係にあり、かれがドヴィナの.

中心都市オルレ‑ツに、支配し裁判し税を取るた馴こ来た、というのは、ドヴィナ行政法にいう 代官の任務を帯びてきたものである。しかも、それが実際に行なわれたことは、オルレ‑ツを奪 回してこのロストフ侯フヨ‑ドルを捕えたノヴゴロド軍が「取られた裁判税と税を取.り戻した」

(B3Hiua rlpHcya M刀H nOIUJIHHbl, HTO nOHMa^Tj)とノヴゴロド年代記が伝えていること からも疑を容れない。 (3)は、さきにもふれたように、ワシ‑リ‑1世の勧告に対して同調したド

ヴィナの貴族が、自らの手に土地をおきのたことを示しており、モスクワがドヴィナ貴族を掌握 する手段の一つのあらわれでもある。要するに、モスクワ支配下のドヴィナは、モスクワ派遣の 代官をいただくとともに、モスクワとドヴィナ貴族との密接な提携があった、と見られるのであ る。

1397‑1398年のモスクワ‑ノヴゴロド戦争の結着について、若干の注意すべき点をあげれば、

軍事的に勝利をおきめたノグゴロド側は、上述のように代官が徴取した税などを取りもどし、モ スクワの代官を廃止するとともに、現地での制裁として、ドグィナ人の「犯罪と罪に対し」 (3a hx npecTyruieHi杷H 3a i壬X"b BHHy) 2千ルーブリの金と3千頚の馬を取り、 「大侯の商人から 買戻し金3百ル‑ブリを取った」 (y rOcTH KH5I3H BeJIHKOrO B3HIIia C ro^OBt OKVrla 30O pyfjJieB・b) 。ここに「大侯の商人」といわれるものがあげられていることは注目に価するOドゲ

ィナ行政法は「ドヴィナの商人」について多くを規定し、しかもそれはかれらに特典を与えるも.

のである(詳しくは後述) 。他方、史料によって「ノヴゴロドの商人」がドヴィナに往来したこ とが確認されないにしても、さきにあげたノヴゴロド人の往乗は、これを予測させる。この三種 の商人の対立競争が考えられるのであり、モスクワによるドヴィナ支配とドヴィナ行政法の発布 は、ノヴゴロド商人を排除し、モスクワの商人とドヴィナの商人の利益をはかった、と見られ る(50)ドヴィナ行政法には、モスクワ商人のことは一言半句もふれていない.しかし、ノグゴロ

ド年代記の上の簡単な記事からして、われわれはモスクワのドヴィナ進出が商人層の利害に答えー て行なわれた、ということも推定できると思う。ノヴゴロド・モスクワ間の和平交渉は、 1398年 秋に、ノダゴロド側から、管長パルフェ一二、市政長官エシ‑フ、千人長オナーニらから成る使, 節団が送られ、 「大侯と旧によって和を結ぶ」ことで成立しT:.この年冬、ノヴゴロドのドヴィ

ナ遠征軍はノヴゴロドに凱旋し、 「裏切者」 (nepeBeTHi化)イワン‑ミキーテンは、 「橋から 投げ込まれる」という死刑を通用され、その兄弟ゲラシムは修道院に幽閉きれ、同じ兄弟のアル

ファン(二アンファル)は、ノヴゴロドに運行される途中の脱走に成功した。

(14)

1397年のドダイナ行政法をめぐる諸問題 (石戸谷)

43

1397‑1398年戦争の経過は以上のごとくであり(51)、ドヴィナ行政法そのものにも年代記にも、

ドヴィナ行政法発布の年代を明白に示していないにもかかわらず、それがこの戦争のなかで短期 間とはいえ、モスクワがドヴィナを支酉己していた間の成立であることは、ほぼまちがいないであ

ろう。しかし、念のために1401年、 1417年の戦争について、ドヴィナ行政法が成立し得るような 状況がそこに展開されたかを、見ておこう。これは、同時にモスクワ・ノヴゴロド間のドヴィナ 問延の性格究明にも資せられるであろう。

1401年の戦争の主役は、ウスチュグに亡命していたアルファンと修道院から逃亡した「破戒僧」

(pocTpura)ゲラシムの二人兄弟で、このドヴィナ貴族の反ノヴゴロド的企図‑ドヴィナ侵入 に対して大侯ワシ‑リーは「軍隊」 (paTb)をおくって支援した。侵入軍は「キリスト教徒を 絞首し、他の者を斬り、かれらの財産と商品を奪い」 、ノヴゴロドの貴族アンドレイ‑イワ‑ノ

ヴィチやノヴゴロドから現地に派遣されていた二人のドヴィナの市政長官を捕えている。しかし ワガの市政長官らが反撃にうつり、アルファン兄弟は敗走し捕虜もとり返えされた(52)‑この戦争 をはじめる前にアルフ7ン兄弟は、 「協約に基づき(Ha MHpy)十字架接吻をし」 、 「大侯ワシ

‑リーの命によって(noBejieH打eM,ら)進発した、と年代記は伝えている。大侯が、 1398年以後に もドヴィナを断念していなかったこと、反ノヴゴロドの中心人物にしてドヴィナ貴族なるアルフ ァン兄弟を利用していることが注目されるが、いうところの「協約」がドヴィナ行政法そのもの を指すとは考え難い。臣従の誓いに似たものであろう。

1401年の戦争が、ドヴィナ貴族の亡命者を利用してなされたのに対し、 1417年には、ワシーリ

‑l世は積極的なドヴィナ攻略を自ら計画し、その全権を弟ユリ‑(ガリーツの侯)に委ねた(53)。

ユリ‑侯は自分の軍司令官グレ‑プを総指揮者として「大侯の世襲領ヴヤートカ」に軍隊を集結 させて、そこからドヴィナに侵入させている(54)。侵入軍は、エムツァやホルモゴ‑ルを占領する などの一時的成功を見せたが、占師ま永続きせず、ノヴゴロド年代記やウスチュグ年代記は、ノ ヴゴロド側が捕虜を取り戻した上、 「掠奪者を迫って」ウスチュグにまで攻め入ったことを伝え、

モスクワ年代記も全体として簡略ながら、 「ザウォローチエ人」すなわちドヴィナ人が「そのと きウスチュグを攻めた」と記している(55)。この戦争もまた、モスクワ側がドヴィナ行政法を発布 し得るような情勢をもたらさなかったと見てよい。 1417年には、モスクワが積極的なドグィナ攻 .略を企てたが、前記の軍司令官グレ‑プが「ノヴゴロドの逃亡者たちとともに」 (c HOBoropo‑

^HKHM打6erjinne)出征したとして、セメンとミパイルなる人物が年代記に示きれている(56)複 雑な政治情勢、ノヴゴロド内部の対立がワシ‑リー1樫のドヴィナ侵入を勇気づけたことも否定 できないであろう。

要するに、ドヴィナ行政法はその内容からして、モスクワの大侯ワシ‑リーが代官に与えた指 示であるとともに、ドヴィナ人に対する特典の若干をも保証している。そのような行政法が発布 きれ得る段階としては、 1397‑1398年戦争のとき以外には考えられない。しかし、この戦争の過 程のなかで、もっと精密にドヴィナ行政法の成立時点を求めるとなると、ロシア・ソビェト史学 でも見解は対立してきている。すなわち、 1397年説(モスクワがドヴィナを服従させその支酉己下 においたとき)と1398年説(大侯の代官としてロストフ侯フョードルが赴任するとき)との対立 である(57)一部には、 1397‑1398年としてあえて精密な年代設定をしないものもある(58)。われわ れとしては、1397年説にくみしたいと思う。たしかに、ロストフ侯が代官として赴任するときに出 されたという見解にも一理はある。しかし、実はことことが逆に1398年説をとらせないのである。

というのは、チェレ〜プニンも指摘しているように(59)、ドヴィナ行政法は、その前文において、

(15)

代官を、ドヴィナ貴族からえらぶにせよ、モスクワ貴族から任ずるにせよ、と述べている。この ようなことは一般の行政法には見られないことであって、既述のようにモスクワ側がドヴィナ占 静こあたって利用したドヴィナ貴族を意識しての言葉である.分りやすくいえば、ドヴィナ貴族 に、かれらが代官にえらばれる可能性を誇張しているのであり、その可能性がのこされている段 階、ロストフ侯がまだ代官に任ぜられていない段階、すなわち1397年こそドヴィナ行政法の成立 時点を見るべきであろう。このことは、一年の差という些細な問題でなくて、ドヴィナ行政法発 布の趣旨、同法の性格規格にもかかわることである。ほとんどの行政法が「恵与状」的な性格を もっているとはいえ(既述) 、とくにドヴィナ行政法にそれが原著であることについては、以下 の考察、とくに本稿第3節が明らかにするであろう。

1の註

nCPJI.XXT. cto. 217, 218, 246. flflr. No.12.

(30)歴代モスクT7諸侯の遺言状のなかで最も詳細・長文なのは、イワン4也のそれ(RRT. No. 104)守 あって、現存写本にして、ほぼ40葉に及ぶが、その大半は所領分与に関することである。

(31) 「‑しこうして、己れの息子ワシーリーに己れの但襲韻地、ノウゴロドの大侯韻を与う.かれに大ノダ ゴロドをすべてとともに,五つの州(17月THHa)とともに、 ・・.与うO ・‑しこうして、己れの息子ワシ‑.)‑に すべてのサヴォローチエの地方を、オネゴ、カルゴポ‑レ、およびすべてのポオネ‑ジ工、およびドヴィナお

よびワガ、 ‑およびすべてのドヴィナの、およびザヴォローチエの地方を与う0 ‑・」 (RUT. No.

JXJXT. NoNo 20,21,22.

個 ノウゴロドと諸侯との「契約文書」については、拙稿「ノヴゴロド史研究の課題と方法」 (奈良学大紀 要、人文・社会科学第13巻)参照。

(34) ≪A 3a Bcwiok th CBoeTO Myサa He c/iaTH, Mara HOBropo^aa. ≫ rBHFI. No.l. ct. 22 (12,

64年頃) npn.丑. dp. 136. 146 (KOMMeHTapH兄).

(35)ドゲイナの件で、ノヴゴロドに譲歩させるのに成功したのは、トゲェリの大侯ミパイルで、両者の条約 には、次のような項目が入ってきている:≪A 3a Bojiok‑To6e cepeSpo HMaTH≫(TBHn. No. 6. 1304・

‑1305年) : ≪A 3a BojioK‑‑‑npo^a月TH TH且aHb CBO兄HOBropcuimo≫ (rBHIl. No. 7. 1304‑1305 午) ; ≪A 3a Bojiok'i th cjiaTH CBoero My)ォa H3'i> HoBaropoノIa B・i. ABy Hoca^y rlo noiujiHHe; a oIl兄Tb exaT珂Ty^H ace Ha HOBaropoAa; a c,ら H描3y th He cjiaTH;‑‑≫ <XBHn. No. 9, 10,1307 ‑

1308年) 0

(36)ノグゴロド共和国の「ノヴゴロド庚」を理解することは、ノヴゴロド史研究の基本的条件の一つであ る。トゲェリ大侯もモスクワ大侯もこれを兼ねた。いまこれに言及するいとまはない。前掲拙稿「ノヴゴロ ド史研究の課題と方法」を参照されT=い.

Him CTp. 201.  (38) Him CTp. 221,229.  (39) HFIJl. CTp. 339.  (40) nCPJl. XXV.

CTp. 166‑168.  (41) HHJl. CTp. 347.  (42) HrUI. CTp. 355‑356.  (43) B.H. BepHa且CICH凸, HoBropoa打HOBropoノHCKa月3eMjiH b XY Beiくe. M‑JI. 1961. CTp. 53.  (44) Him CTp. 380‑381.

nCPJI. XXY. ctd. 213.  (45) HIM. ctd 386.  (46) nCPJI. XXV‑ ctd. 220. (47) nCPfl.

XXV. CTp. 227.  (48) yJIC. ctd. 66. 「ウログタ‑ベルミ年代記」 ncp/i. xxi.)も、この戦争に ついては特別注目に価する記事をもっていない。

(49)ワシーリ‑l世がノゲゴロドにとくに敵意をもつようになったのは、大司教キプリアンが1319年司教裁 判権の問題で「ノヴゴロドに対し、大いなる不快をもった」 (HnJI. CTp. 385.)ころからである。チホミロフ は、このキプリアンが、いわゆるミャスニコ‑フスキ‑型写本ルースカヤ‑プラーゲダIlpaBノqaPyccKaa. I.

TeKCTH. 1940. CTp. 181‑200.)をふくむ「コルムチャヤ」を北方ロシアのために編果させたと考えているO (M.H.THxoMHpoB, MccjieAOBat川e o PyccKO員npaBAe. 1940. CTp. 137‑138) チェレ〜プ二ンは\

(16)

1397年のドヴィナ行政法をめぐる諸問題 (石戸谷)

45

これをさらに発展させて「ドヴィナ行政法」の起草参加者としてのキプリアンを想定している(/I.B.

Mepem川H, ApxHBH Xff‑XV BBl. I. CTp. 401) あり得べからざることではない、というのがわれわ れの見解である。

(50)モスクワの商業については、M.H. Tjすxomhoob, Cpe月HeBeKOBa月mocKBa b Xff‑XV BeKax 1957.

CTp. 121‑160; A./I‑XopomKeBHi, ToproBJia BejiHKoro HoBropo且a c Ylpiす6ajITHKO員 H 3aIla^HOft EBpono員b Xl‑XV bォくaX.刺. 1963.

1397‑1398年の′ドヴィナをめぐるノヴゴロドニモスクワ戦争については、 JI.B.'‑IepenHHH, ApxHBu

Xff‑XV BB H. I. CTp.397‑398; Ero me, 06pa30BaHHe pyccKoro aeHTpajiiイ30BaHHOrO

rocyaapcTBa.B XF‑XV BeKax. H3ノ江. coi;‑SrKHOM. JIHTepaTyPW.州1960. CTp. 697‑702; C.州・

CojIOBbeB, MCTOpHH PoCCf川c apeBHeftiuHX BpeiweH. KHHraI (tom 3‑4).刺. 1960. CTp. 359‑

361; B.H.BepHaノICKI寸員, HoBropoノ% H HOBrOOOACKaf1 3eMJI兄 b XV Bene. ct.218‑220; OnepKH

HCTopHH CCCP, nepKoJI 4>eoAajiH3Ma IX‑XV BB. I. (XF/‑XV bb.) CTp.185, 242‑243.などがその 大体を述べており、 14世紀後半ロシアの注目すべき戦争としている。

HEIJI. cTp. 396. yjlC. CTp. 68.この1401年戦争がモスクワ年代記(ncpji. xxv)に、何ら言及 きれていないのは、印象的である。モスクワ大侯の軍隊がさほど重要な役割をなしていなかったからであろう か。ウスチュグ年代記は、アルファンに協力した兵力を「大侯の軍隊」と記さず、 「ウスチュグ人とともに」

アルファンがドヴィナに侵入したと伝えている。

yjIC. CTp. 71.  (54) HnJl.CTp.407.  (55) nCPJL XXV.cto. 243.  (5G) HUT!. CTp. 407.

このノヴゴロドからの逃亡者について、 B.H.ベルナードスキーは、ノヴゴロドの脱走農民盗賊を主体とする ドヴィナ攻撃、という評価を1417年戦争に与えているが、 (B.H. BepHaACK戚 yKa3. coiHeHHe. CTp.

221.)この2人の人物を脱走農民とするのは疑問があり、さらにその戦争の性格規定には賛成できないO (57)この両説の対立については、 Jl.B.MepenHH, ApxHBH XIV‑XV bb. CTp. 398.

(58)例えば、 A.A.ジーミン・かれはドヴィナ行政法成立の時代を「1397‑1398年」とし、 「より正確に決 定することは困難である」としている(npn. I. cxp. 185)

JI.B. HepenHHH, ApxuBbi XF‑XV bb ctd. 398‑399.ドゲイナ行政法成立年代を1397年におく見解 は、チェレープニン以後、ソビェト学界に次第に支配的になりつつあるように思う。例えば、チホミロフ「史 料学入門」 (本稿註、 9‑ll) 、アカデミー監修の OnepKH hctodhh CCCP (本稿謹、 51.)ダニ‑ロワ

(本稿註61)そしてAC三m.I. N0.7など、何れも1397年成立としている。

2 ドヴィナ行政法の裁判法的性格とその法史的地位

ドヴィナ行政法が、その成立の契機として恵与状的な性格をもっているとはいえ、同法がその 内挙において裁判法としての条項をもっていることをわれわれは否定できない。ロシア法史の研 究史が、ドヴィナ行政法をキエフ国家のルースカヤ‑プラーゲダからモスクワ国家法典への発展 の移行段階における一つの、しかも貴重な法記念碑として見なし、その立場から同法を分析して いること(60)にも充分な理由がある。ドヴィナ行政法を恵与状と規定したロジジェストヴェンスキ I(61)の功績をみとめながらも、チエレ‑プこンは恵与状と裁判法との二つの要素がいりまじって いる点を指摘している(62)。どの条項が恵与状的なもので、どれが裁判法としての条項かを判然と 区別することは困難であるォ3)。しかし、大まかにいえば、第1条から第11集までは、そのなかに

ドヴィナ貴族に対する何らかの顧慮が考えられていたような条項が認められるにせよ、裁判法的 な性格が強い。他方、第12条から第16条までは、裁判にふれてはいても、全体としてはドヴィナ の商人に対して特権を許している条項である。そこで、まず第1条から第11条までを、分裂時代 の法史料として、ルースカヤ‑ブナ‑ヴダからモスクワ国家法典への一段階を示す法史料として

参照

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