九州大学学術情報リポジトリ
Kyushu University Institutional Repository
中世イングランド羊毛貿易の構造
山村, 延昭
https://doi.org/10.15017/4362477
出版情報:經濟學研究. 25 (1), pp.89-118, 1959-07. Society of Political Economy, Kyushu University
バージョン:
権利関係:
ングランドの後進性は︑
中批イソグラソド羊毛貿易の構造
ると
いう
︑
いわばイングランドは大陸諸国に対して︑
中
世 イ ン グ ラ ン
ド 羊 毛 貿 易
等の原材料︵これらは何れも巾世末期にステープル商品として指定された︶
山 の
第一号
八九
周知のように︑中抵イングランドの窪済的発展は︑大陸諸国のそれと較べるとかなり遅れていた模様で︑このようなイ
イングランドの海外取引をして︑大陸諸国に第一次生産物を輸出し︑代りにその加工品を輸入す
一種の従属国たる地位にあったのである︒
イングランドが大陸に輸出した原生産物として︑早くから小麦・魚類等の食料品︑羊毛・羊毛皮・毛皮・錫・鉛・木材
などが挙げられるが︑なかでも羊毛を中心としたい
(1
)
わゆるステープル商品の輸出は︑中世イングランドの輸出貿易の枢軸をなしていた︒
イングランドの気候・風土は︑大陸に較べるとはるかに羊毛生産に適していた模様で︑その羊毛は先進国大陸の毛織物 工業にとつて餃くことのできないものであり︑優秀なイングランド産羊毛の混入をまつて︑初めて大睦の毛織物工業生産
はその卓越性を誇示することができたゞといつても差し支えがないほどである︒したがつてイングランドの﹁寅金の蹄﹂
第二十五巻
村
構 造
延
昭
第二十五巻
﹁英国の花であり︑力であ 中世イソグラソド羊毛貿易の構造
( g
(t
he
go
ld
en
ho
of
)
の魅力は︑こよなき利潤を追求する商人にとつて払拭することのできないものであり︑それは正に﹁商
人の女神﹂
(t
he
go
dd
es
s o
f M
er
ch
an
ts
)
でも
ある
︒
商人によるイングランドから大陸への羊毛輸出は︑かなり古くから行なわれていた模様で︑
り︑歳入であり︑血である﹂羊毛輪出の記録は︑古くはローマ︑アングロ・サクソンの時代に現われ︑=ドガーの治世に
は︑その価格一ゥ=ィ︱二
0
ペンスと定められ︑これ以下で外国商人に販売することは禁止されたほどであった︒そして十二泄紀に始まったフランダース毛織物工業の発展は︑十三世紀になるといよいよ著しくなり︑十三泄約から十四世紀に
(6 )
かけてのイングランドからの羊毛輸出は︑その絶頂期に達する︒これについてはすでに述べた通りである︒
したがつてわれわれはこの論稿において︑
C.H
・グ>イ教授およびM.M
・ポスクン教授によって明らかにされた十( 7 )
三泄紀末以降十五世紀末までのイングランド羊毛の輸出数量を中心に︑それに若干の補正をなした統計表︵第一表︶を示
( 8 )
すことによって.﹁イングランドの黄金羊毛﹂
(E
ng
la
nd
・s
go
ld
en
fl e
e c e )
の輸出がどのような推移をたどったかを考察
してみることにしよう︒
次の表をみれば分かるように︑おおよそ十四泄紀の中頃までは漸次的ではあるが羊毛輸出数董は増大していると考えら
百年戦争初期に行なわれた一六六三年のカレー・ステープル︵後述︶の設立によるステープル商人の羊
毛貿易の独占傾向が始まるとともに︑次第に減少の傾向をたどりはじめ︑
に伴うステープル商人内部での大資本と小資本の分裂時には最盛期の半分以下となり︑十五泄紀の三十年代からは一万ナ れるのであるが︑
一三九九年のカレー・ステープルの確立•それ
第一
号
九
0
(第一表〕 十三批紀末一十五批紀の英国羊毛輸出統計表(年平均)
中 枇 イ ソ グ ラ ソ ド 羊 毛 貿 品
の構造
年 代
I
数量(サツクス) 1 1 年 代 1 数量(サックス)1273 32,743 1429 ‑ 1432 9,749
1275 ‑ 1330 8,294
1357 ‑ 1360 35,840 1435 ‑ 1438 2,353 1363
I
I 30,000 (以下) 1438 ‑ 1446 9,719 1366 ‑ 1368 26,634 1446 ‑ 1453 7,909 1377 ‑ 1380 21,627 1453 ‑ 1456 9,290 1392 ‑ 1395 19,359 1456 ‑ 1459 7,664 1399 ‑ 1402 15,032 1459 ‑ 1462 4,976 1402 ‑ 1405 10,864 1462 ‑ 1465 7,044 1405 ‑ 1408 14.221 1465 ‑ 1469 9,316 1408 ‑ 1420 14,687 1469 ‑ 1471 7,811 1420 ‑ 1426 13,926 1471 ‑ 1476 9,091 1426 ‑ 1429 15,437 1476 ‑ 1479 7,502 1479 ‑ 1482 9,784為一号
九
生産も別稿で示したように︑新しく形成されつつあった富農層 毛生産の減退︑などが考えられるのである︒ ところで︑このように十四世紀中葉以降︑
間に︑羊毛貿易が急激な減少を示した理由は何か?この点われ
時期
が︑
ほぼステープル商人による羊毛貿易の独占化傾向が始 まった時と一致していること︑またこの時期には全ョーロッパ の人口の三分の一を奪ったと伝えられる黒死病のイングランド
への
波及
(‑
︱
1 1四八ー五
0
年 ︶
第二十五巻 ほぼ一世紀ほどの
による農村の荒廃︑それに伴う羊
プル商人の独占化傾向と結びついているわけでなく︑
しかしながらこのような羊毛貿易の衰退は︑必ずしもステー
また羊毛
われには︑まず第一に羊毛貿易の衰退のみられるようになった このことは注意されなければならない︒ 中葉以降は平均して最盛時の四分の一以下に減少しているが︑ いうほど急激な減少を示しているのである︒そして十五枇紀の ックスを超えることなく︑また少ない時には二千サックス台と
ば毛織物輸出の始まった十四世紀中頃と較べて︑十五批紀末の 物生産それ自身は急激に上昇しており︑政策的考慮を除外すれ 場︑いいかえれば流遥構造の変化がそれである︒これを示すものとして︑次の表を掲げることにしよう︵第二表︶︒
この表によれば︑イングランドからの毛織物輸出は︑十三批
紀に始まった毛織物生産行租の変革︑すなわちフリング・ミル
( 12 )
の採即および=ドワード三泄による毛織物保護政策の効果な
批紀には毛織物輸出の好不況の波は著しいのであるが︑これは
( 13 )
イングランドの対︿ンザ政策の影響でありイングランドの毛織
〔第二表)
どもあって︑十四世紀の半ばころから次第に発展し始め︑十五 の変化︑そしてそれにもとずく毛織物輸出貿易の新たなる登 る︒したがつて羊毛輸出貿易の衰退へと向わしめたものとして
(9
ノは︑これとは別の事情が存しなければならない︒それは羊毛を
原料とするイングランド毛織物工業の発展︑すなわち生産構造
十四世紀一十五世紀英国毛織物輸出数量統計表(年平掏)
を 中 心 と し な
がら、後述のようにますます発展しているのであ
年 代 I
数量(ヒ:~
セス) 1 年 代 I 数量 (1:::゜ーセス)3,040 1438 ‑ 1448 55,074 1355 ‑ 1357 7,485 1448 ‑,1450 35,078 1357 ‑ 1360 9,346 1450 ‑ 1459 39,083 1366 ‑ 1368 14,593 1459 ‑ 1462 31,933 1377 ‑ 1380 15,449 1462 ‑ 1465 25,855 1392 ‑ 1395 43,072 1465 ‑ 1469 39,664 1399 ‑ 1402 27,760 1469 ‑ 1471 27,610 1402 ‑ 1405 24,502 1471 ‑ 1476 43,12:J 1405 ‑ 1420 28,862 1476 ‑ 1479 51,889 1420 ‑ 1423 36,359 1479 ‑ 1482 62,586 1423 ‑ 1438 40,444
中批イソグラソド羊毛貿易の糠造第二十五巻第一号
九
毛織物輸出は二十倍にも逹するという飛躍的な発展を行なっているのである︒
( 14 )
このように羊毛輸出の衰退に逆比例して毛織物輸出の増大がみられるのである︒グレイ教授によれば︐事実︑当時一サッ
( 15 )
クスの羊毛重量はニ︱
1t
ad
s であり︑各サックスごとに
4 . m
ビーセスの毛織物が生産されたといわれるのであるが︑それ
にしたがえば一万サックスの原料羊毛はほぼ四万三千ピーセス分の毛織物に換算できるのである︒これによって︑例えば
ニニ九ニー九五年の年平均輸出量一九三五九サックスを︑
ックスの輸出減となるのであるが︑もしこの数字がそのまま毛織物生産に向けられたものとすると︑
毛織
物輸
出数
量四
︱︱
‑︑
0
七︱一ピーセスに丁度相当するわけである︒事実この数年間︑毎年三万ピーセス以上の広巾毛織物が輸出されており︑その残部一万三千ピーセス︵羊毛三千サックス相当分︶が国内市場に向けられると仮定しても︑当時の羊
毛輸出量の減少は︑たんに生産量の減退を表示するものでなく︑逆に︑その背後に生韮構造の変革︑すなわち毛織物工業
( 16 )
の繁栄にもとずく︑毛織物輸出の増大を内蔵しているのである︒
次にわれわれは十五抵紀において︑羊毛が毛織物と比較して︑イングランドの海外貿易の中でどのような地位を占めて
( 17 )
いたかを別の側面から検討してみることにしよう︒以下に掲げる英国海外貿易の価格表がそれである︒︵第一二表︶︵第四
( 18 )
︵1 9
)
表︶︵第五表︶
第三表をみれば分かるように︑一三五三年のステープル大条令直後の羊毛輸出年平均貿易価格総額二七七︑七一六示ン
一六︑四八二示ンドを造かに凌駕しており︑輸出全体の九九・七パーセントという圧倒的比率を示し
中枇イングラソド羊毛貿品の構造 ドは︑毛織物輸出の
第二十五巻
第一
号
九
三一六三年のそれ︵三万サックス以下︶と較べると︑ほぼ一万サ
一三九ニー九五年の
(第三表〕 1354年の輸出貿易価格表(年平均)
、 \
羊 毛I
毛 織 物I
Leather関 税 士ノ 尤(99.7%) 277,716 尤(0.3%) 16,482 え95
除 関 税 尤196,082 尤16,267 え89
尤81,624 尤 215
関 税
(99.6%) (0.4%) 尤6
〔第四表〕
~I 羊毛
毛鵬り1 訪轟填 I プ亡酒ぇ靡賞閾 wax
関税共 尤73,100え119,400 釦1,500I £46,900 え104,300 尤1,000 (35.8%) (58.5%) (5.7%)
,除関税 尤56,000え115,400 え7,000 尤45,100 £100,600 尤1,000 (31.4%) (64.7%) (3.9%)
関 税 尤17,100尤40,000 尤 500 尤1,800尤 4,700
゜
(78.2%) (18.5%) (2.3%)
〔第五表〕 1479‑82年の英国海外貿易価格表(年平均)
冒 三 羊 毛 毛織物
i 篇 言 ヽ I ブド噴;靡言鳳
wax:関税共 尤89,100 £138,500 え14,600 え29,200尤174,900 尤5,500 (36,8%) (57 %) (6 %)
:
:除関税I 尤68,500 え134,000 尤14,000 え28,100
ぇ
167,700ぇ
5,500(31.6%) (61.9%) (6.5%)
£20,600 え 4,500 え 600 尤1,100 え 7,200
゜
関 税 (80.1%) (17.6%) (2.3%)
された
︱︱
九四
00
ポ
ドは︑毛織物輸出に投資 出
価格
七︱
︱
‑
‑
0 0
示ン
八年には︑すでに羊毛輸 ち正確には一四四六ー四
1446‑48年の英国海外貿易価格表(年平均)
十五世紀の中頃︑すなわ
これらの表によれば︑ 物語っている︒ び第五表はそれを如実に 完了したといわれている
( 20 )
のであるが︑第四表およ 織物輸出貿易への転換が 年代には羊毛貿易から毛 紀にはいつて︑その四十 ている︒しかるに十五批
中批イソグラソド羊毛貿易の構造第二十五巻第一号
九四
中枇イソグラソド羊毛貿易の構造第一号
九五
ンドの三分の二以下にすぎず︑この割合は十五抵紀の末葉(‑四七九ー八二年︶に至ってもほぼそのまま維持されてお
り︑毛織物の
一三
八︑
五
00
ボンドに対して︑羊毛は八九︑一
00
ポンドという数字を示している︒この数字を別の観点
から︑すなわちイングランドの輸出全体の中で考察してみるならば︑羊毛の三六ー七︒ハーセントに対し︑毛織物は全体の
( 21 )
五七
l
九゜ぐーセントという大きな役割を担つている︒このように十五抵紀の中頃にはイングランドの海外輸出貿易の比重は︑羊毛から毛織物へと構造的転換を遂げているの
であるが︑ここでわれわれが注意を払わなければならない別の問題がある︒すなわち関税のそれである︒第三表︑第四表
が示すところによれば︑羊毛の輸出税年平均総額は一四四六ー四八年には
一七
1
0 0
ボン
ド︑
一四七九
i
八二年には二0
︑ 六
00
示ンドにのぼるのに比し︑毛織物のそれは前者の場合四︑
000
示ンド︑後者の場合四︑五00
ポンドである︒
これを輸出関税全体の中での割合に換算すれば︑羊毛の七八
i
八0
︒ハーセントに対し︑毛織物は一八︒ハーセント前後にしかすぎない︒これをさらに輸出・輸入両関税を合計して考察するならば︑羊毛がいずれも関税収入の六
0
︒ハ
ーセ
ント
強を
占めているのに対し︑毛織物のそれは一三︒ハーセント強にしかすぎず︑王室財政収入の中で占める両者の比重は問題にな
( 22 )
らないのである︒
以上︑中泄末におけるイングランド海外貿易の中で羊毛輸出貿易が如何なる地位を占めているか︑という問題を量的・
質的に検討することによって︑羊毛輸出貿易の競争者として十四世紀中頃から毛織物輸出貿易が登場し︑十五世紀の中頃
には羊毛から毛織物輸出への転換が完了していたこと︑しかしながら王室財政の基盤はいまだ依然として羊毛輸出貿易の
第二十五巻
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~←謡廿心今い涵捩孟
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狛約祁臨0¥‑J
今心枇曲駕唸尉鰤軋糾器心ふ足中、兵ピ投心投今゜己E.H. Carus ‑Wilson,. Medieval Merchants Veuture, Iutroduction, p.̲ xiv. S. Dowell, A History of Taxation・artd:Taxes
. : in England, 1888, Vol. 1, p. 164. S. Thrupp, The Grocers of London,(in‑ed., E. Power & M. Postan, Studies、inEuglish
trade in the 15th Ceutury, p. 262.)
S
「四芍恥鵬紐咄輝謬料'匹頭心暉咋均諏譴お繹恥臼砂,""知心額釦塁畔ふ▽認畔. Al
砂瞬揺四霞」
(M.M. Postan, The Trade of Medieval E~rope, in Camlerige eco. Hisf. of Europe, ][, ・p. 235.)§Lipson,・A short history of wool and its'Manufacture, 1953, p. 16. E. Power, The wool trade・in tho 15th Century,(in
• ed.: E. Power .& M. Postan, op. cit., p.39.)
~E. Power, Me̲dieral Evglish wool trade, 1941, p. 20.
豆底逢塘妃哉『樹囲る母届述Qil,(孟栂嫁』兵用ー
1
く嵐゜至
苺語「 KI 杓— °I'-~
恒‑<Q染怪心印L.[:... —!.L.1 ・ 11 羊
Q速迩溢擬」(『磁迩愉詈慰』総寸戦)犠匿゜E
H. L. Gdy, English Foreign Trade from 1446 to 1482, in ed. E. Power & M; Postan, op. •cit., appendix A, p. 401. M.M. Postan op. cit., p. 193, 1.J共,il,1:::::‑,°f'‑;‑..̲>,(op. cit., p. 17)匹華凸砂痴露山畔,..J~O
~E.Lipson, op. cit., p. 16.
否「←因廷睾V認ふや'1挙旦'枇叩頴唸已罰堂0関苗冥築合心~::::-.藻睾ぷ心全投合ぐ如(H.L. Gray, op. cit. p. 11.)
゜
宮ed.E. Power & M. Postan, op. cit., appendix A, p. 401. M. M. Postan, op. cit., p. 193. ;J Q裟仕山麟湿芯要出如投→具゜
言EH. Caru炉Wilson,op. cit., pp. 183‑210衷ヨ朕「ゞ廿=‑‑K醍起日線以笞
t
i-(l『',\I-{;、,L:=-,』聾麟怪月」(『瑚菜酌運』~)1‑1111
亘゜旦W.Cunningham, Growth of English Industry and Commerce, early and middle ages, 5th ed., pp.305‑9.塁渡ヨ桜「+団羊嘉此蒋全心凡→トヤ¥.L・トに'(¥出ヤ)j'¥,
—
''t< ,.¥J拒概暴日継」(『虚迩囲繕』..,,.)<11
―用亘゜含E.H. Carus‑Wilson, op. cit., p. xix.
塁E.Power & M. Postan, op. cit., p.362.
里H.L. Gray, op. cit., pp. 11‑2.
巨Camden'sBritannia, 1695, p.389,(in John Smith, Chronicon Reticum‑Commerciale or Memories of wool ets., 1747., p.43)
弓:母怪゜
室H.L. Gray, op. cit., p. 18. 号ミ母怪゜
室ibid.,p. 36. 弓〇迅怪゜
忌田造旦竺1回回
1(
母(淀ヨ悠君諷渥認早兵冨)゜忌舟ヤ全t<• 心ャ~>--入点獣Q宝蒜以ヨ菜已’柚\j\J..>J距謳暴〇鑑王悩誕丑廷'1
111
ば0‑1(0
母且兵I1
埃くや硲0.;20:忍1)tjJll<‑
回回母足竺<某兵I1心柴碁,‑.J¥‑)
ニ
Kl(op. cit., Introdnction, pp. xx‑xxi.)0喜君澁刈匡話'+‑臣羊嘉Q丑・歴Q¥j¥J蓋暴箋王涵竺柚卯涵Q巨゜←ーギ入"'‑‑‑
!J..
,‑.Jふヤ知投合ぐ兵茶'+‑回羊属朕足竺1110
゜←ーギ¥"'‑‑‑'+‑団羊嘉丑惹国0゜(~ギ¥"'‑‑‑'〈入~~<羊保臣旦竺ぐ<゜(~ギ¥"'‑‑‑叫紀絵旦聟呉,̲.)¥‑)勾Kl(op. cit., p.xx.)゜
丑羊ャゞ'"¥ll'‑入に枇肝誕唸〇聴坦捻1j十団都綜1rr栢兵キ
ープルの指定に集中的に表混されている︒ 中世イソグランド羊毛貿品の構造
十五批紀の一羊毛貿易の構造を語るに際し︑まずはじめに︑われわれはカレー・ステープル
(t he St ap le at Ca ls is )
の
存在を無視するわけにはゆかない︒すなわち︑当時イングランド産羊毛は︑
ーランド等のいわゆるネーザーランド地域︑ カレー以外に︑後述のようにホーランド︑ジ
およびイタリイに輸出されていたのであるが︑なかでもカレーは当時イング
ランド底羊毛の唯一の通蹄として指定されており︑
それが営むもろもろの機能によって︑英国の経済的発展に多大の影攀
zを与えることになったからである︒
一三四七年カレーは=ドワード三世のひきいるイギリス軍によって占領され︑
(2 )
I︱一の講和条約によってイギリス領土として最終的確認がなされた︒これ以後ほぼ二百年にわたつて︑すなわち︑女王メ
アリ﹈治批の末期一五五八年のカレ﹈陥落まで︑
役割を担うことになったのである︒ 第二十五巻
カレー・ステープルの股立は︑以下の行諭で明らかにされるように︑
カレーはイギリスの大陸における拠点として︑政治的・経済的に大きな ところでカレーの政治的・軍事的側面については必要な阪りでとり上げることにして︑その経済的意義はカレー・ステ
カレー・ステープルの指定は︑イギリス領となって間もない一三六三年に始まる︒それより前一三四八年には錫・鉛・ 百年戦争の前半︑ 悶飾掲拙稿参照︒ 第一号
一三六一年のプレティ 九
八
毛織物等のステープルがカレーに設立されているのであるが︑
を初めとする︒
わち
︑
第一号 スペイン人等によって輸出されていた︒ カレーが羊毛ステープル都市として指定されたのは六一一一年
一三六九年の戦争再発にもとずくカレーの危機は︑カレー・ステープルの指定を取り消し︑ステープルは
(8
)
イングランドに帰るよう命ぜられた︒しかしながら政策の変更にもとずかぬステープルの移動は︑その原因の排除︑すな
カレーの安全性の回復とともに︑旧に復する︒翌七
0
年カレーはステープル都市として再指定されることになる︒三一九九年にはカレーは永久に唯一のステープル都市として指定され︑
(4
)
ープル廃止の時まで︑そこに存続することになったのである︒
は︑農民的牧羊業の発展と︑それに伴うステープル商人の生成によって間もなく解消する︒
九九
一五五七年のステ
(5 )
すでにみたように︑中世初期の羊毛貿易は外国商人によって担当されていた︒しかるに輸出貿易における外国人の優勢
国民的商人層は︑羊毛輸出貿易における外国人の優越的地位を奪い始める︒すでに︱二七三年︑総額︱︱︱︱‑七四三サック
の羊毛輸出中︱‑︑四一五サックスを輸出しており︑これは全体の三四・九パーセントを占める︒残りの八︑
OOO
サックス(二四•四゜ハーセント)はイタリイ商人、五、二八0
(一
六・
一︒
ハー
セン
ト︶
は北
フラ
ンス
人‑
︱一
六七
八︵
一︱
・ニ
︒ハ
ー七
ント︶はプラバント人が輸出しており︑なおその残部はドイツ人︑南フランス︑
英国商人による羊毛輸出は急涼に前進し︑十四世紀末には︑
んどみえなくなる︒しかもイングランドの羊毛輸出に従事するほとんど唯一の外国商人たるイタリイ人も輸出全体の五分 の一を取り扱っているにすぎず︑それも遠隔のイタリイ向け羊毛輸出に従事していた︒その上このイタリイ貿易の中にす
中批イソグラソド羊毛貿易の撰造 その後一︑二の中断があるが︑
イタリイ人を除いて︑外国商人の姿は羊毛貿易の中からほと
第二十五巻 ステープル商人を先頭にする
(6 )
ら十五泄紀の終りまでには︑英国商人が競争者として現われたのである︒ 第1一
十五
巻
ところでカレー・ステープルの指定は︑外国商人に対する国民的商人
11
ステー︒フル商人の勝利を意味する︒
商人組合による羊毛貿易の独占は次の条項によって確認される︒
ロ羊毛・毛皮・羊毛皮・ウーステッドとして知られる毛織物・チーズ・バター等︑あるいはその他海外に連ばれるであろ
う商品を︑イングランドその他のわが領内から輸出する大・小・内・外の全商人は︑
も︑前記ステープルに対する義務として︑関税と特別税をまず支払い︑そこで前記メーカーとコンスタープルの管理下
(7) に、ステープルのマナーに従って〔商品〗を販売のために陳列すべきであり、その他の場所では罰金を課すであろう。」
このようなイギリス商人による羊毛輸出貿易の支配権の確立は︑
合(
th
e
St
ap
le
rs
C
om
pa
ny
)の
機構
の完
備を
もた
らす
︒
一三六=一年カレーに設立されたステープル商人組合の正式の名称は︑
dw
el
li
ng
no
we
t a
Calais"というのであるが︑このような長い名称を持った組合が︑
of
England'`という名前で一般に呼ばれるようになったかは明らかでない︒設立当時の組合は︑カレー交易を希望する
イギリス商人全体を包含しており︑したがつて設立当初の組合は﹁制限組合﹂(the
de
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ne
d
Co
mp
an
y)
では
なか
った
︒
組合のメンバーは︑もともと﹁プルーュジからカレーに移動した羊毛︵輸出︶商人であり︑多くの点において=ドワード
(8 )
三泄
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身分
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あっ
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いかなる状態または条件にあろうと
カレー・ステープルの管理機関たるステープル商人組
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いつから6三
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第一
号
10
0
ステープル
第二に羊毛関税および特別税
Su
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y
組合のメンバーは︑カレー貿易に従事することを望むロンドン︑ボストン︑イプスビッチ︑
(9 )
成されていたのであるが︑その成員の大多数がロンドン商人であった︒そして組合貝の資格を渡得するためには︑入会金
︵ 応 芦 乳 言 環 芦 唱 立
︶ ま た は 一 定 の 年 季 奉 公 を 必 要 と し た
︒ 設 立 当 時 の 組 合 員 数 は 不 明 で あ り
︑ ま た 一 定 の 年
(1
1)
代にわたっての完全なメンバーのリストはないのであるが︑十宜抵紀にはその数一︱
1 0
0
四
00
人を数えたといわれる︒
そして現実の貿易に従事したのは組合自体ではなくして︑組合に加入せる個々のメンバーが︑自己の責任において取引を
行ったのである︒
‑ T } ヽヽ 41 Lv
ステー︒フル統治の機関として︑若干の幹部を選出し︑これにその全権を委ねることになっ
ステープル商人達はカレーの町において︑毎年一人のメーヤ︵市長︶︑た︒すなわち︑
官︶を︑若干の補助職員
(m
in
or
o f f i
c e r )
とともに︑選出し︑これに
Co
mm
un
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y を維持するための無制限の司法権を与
( 12 )
えた︒これらの幹部団はステープル所属の全商人から委託された権阪にもとずき︑そのメンバーの選定︑および除名等を
ステープル法
(S
ta
tu
te
St
ap
le
)
を制定することによってカレーの町を統治し︑また国王から委託された羊毛関税
( 13 )
の徴収︑その他細かくは宿舎の割当︑商品の陳列等に至るまでステープルに附随する一切の業務を取り扱ったのである︒
いまカレー・ステープルが演じた公的機能の特徴を挙げるならば︑第一にカレー守備隊を維持するための費用として︑
将来の羊毛関税を担保とした借款を与え︑
( 14 )
オニスト的規制を行ったことであるが︑これについてはいまは詳しく述べないことにして︑
中批イソグラソド羊毛貿易の構造 そしてこれらの商人達は︑
第二十五巻第一号
1 0
︿ルなどの商人によって構
および二人のコンスタープル︵治安
を政府に代つて徴収し︑第三にプリ
ステープルがその与えられた
羊毛検査のための精密な機構を組織し︑維持し︑また密輸を監視する行政機関
an
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であっ
国王・商人および商人相互間の非常に複雑な金隔業務を処理する金融機関a
f i n a
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y
であり︑これらの業
しかもステープルは︑ある意味において︑政治的・外交的機関
a
p o l i
t i c a
al
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diplomatic
bo
dy
でもあ61
た ︒
このような諸機能の複合体として成立するステープルは︑十五世紀の初めまでにその全機能を確立し︑各治批の初頭に
( 16 )
その組織と特権を確認されることによって︑イギリス産羊毛のほぼ五分の四をその支配下におく巨大な独占組合に成長し
たのである︒
ところでカレーがステープル都市として指定された坦由は︑E・パワーも述べているように︑当時カレーはイギリスの
新領土となったばかりであり︑強力な守備隊によって防衛されており︑その上イギリス羊毛の最上の顧客たるフラング﹈ 固 務を通じて︑諸々の信用手段が育成された︒ (四) (三)
f
こ ︒ あった
︒
(::::)
H
中批イソグラソド羊毛貿易の撰造
特権を通じて演じた諸機能を列挙するならば︑次のようなものであった︒
第二
十五
巻
ステープルは議会によって制定される法律以外に︑その領城内における羊毛売買を律するあらゆる法律︵いわゆる
ステープル法︶を制定することのできる立法機関a
l eg i
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であ
った
︒
ョーロッパの﹁商人法﹂
th
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を執行する最す重要な法廷の一ったる司法機関aJ
ud
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dy
で
第一
号
1 0
中批イソグラソド羊毛貿易の構造 ス︑ジーランド︑オラング等の毛織物工業都市︑
( n )
隣接した便利な場所であったからである︒ およびブルージュ︑
アントワープ︑ベルゲンなどの国際的大市場都市に しかしながらステーブル都市としてカレーが指定されたことによって生じた不都合な側面を見落してはならない︒すな
わち
︑ カレーは当時の毛織物生産地域の一ったる北部イタリイから非常に離れており︑また北西ヨーロッバの戦争地城と 接触しすぎていた︒しかもカレー自体は︑もともと商業都市ではなくして軍事都市
(g
ar
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n
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wn
) であり︑それがた
( 18 )
めに取引の拡大にとつては梃めて不適当であったことである︒
カレー・ステープルが北イタリイの毛織物工業中心地から離れていたことは︑
力は
︑
第一号
ステープル商人組合の貿易管理を十全な らしめることができなかった︒イタ
l J イ向け羊毛の若干は︑カレーを通過した後︑ネーザーランド経由で陸路アルプスを
( 19 )
超えて運ばれるか︑さもなければカレーの港から再びイタ
l J イに向けて運び出された︒アルプス越えの場合︑徴税はルク センプルグ公またはプラバント公の手を経て行なわれたのであるが︑この場合ステープル組合によってなされる最大の努 イタリイ人がカレーで購入した羊毛をネーザーランドで販売しないようにすることであった︒そのため︑
ルの特権を確認した一︱︱一七六年の勅令は︑
外で販売しないという保証が与えられた際に︑
イタリイ商人がカレーで睛入した羊毛は︑直ちに包装され︑それをイタリイ以
( 20 )
イタリイに送ることを許可するよう規定している︒
しかしながらこのような不便な方法は永続するはずはなく︑事実︑
イタリイ向け羊毛の大部分がステープル通過免除の 王室特許状
(R
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al
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nc
es
) を獲得することによって︑ジプラルタル海峡
( S t r
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︑あるいはいいか
第二十五巻
1 0
︱ ︱
1
ステープ
第一号1
C ?
四
( 21 )
えてモロッコ海峡
(S
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M a r r o k )
経由で直接イタリイに出荷されていたのである︒また時おり︑ネーザーランド
で羊毛を販売しないという保証の下に︑イタリイ人がネーザーランドに羊毛を直接出荷することを許可した王室特許状も
これらの王室特許状の名儀人はイギ
l J ス商人であったのであるが︑実際に羊毛輪出に従事したのはイタ
l J イ商人であ
り︑その証拠に課税は外国人レート︵後述︶で行なわれている︒イギリス商人は外国商人から名儀料を取得した︒
このイタリイ向け羊毛の輸出は︑十五世紀初頭には主としてロンドン︑
中頃には有名なヴェニスの﹁フランダース船隊﹂はほとんどロンドンを去り︑
( 22 )
港となった︒
このようにイタリイ商人は︑
人の支配外にあったわけであるが︑しかるにステープル商人達は彼等の統制が羊毛輸出を減少させ︑また彼等が国内で生
産者から羊毛を購入する場合︑イタリイ商人と競争することによって︑羊毛価格を騰貴せしめるという事実に長い間気付し
( 28 )
かなかったと云われる︒しかしながらこのようにしてうかつであった組合も︑次第にイタリイ人との競争が力
V I
・ス
テ
ープルの破滅に導くという確信を抱くようになり︑前述の王室特許状に反対するようになったのであるが︑この特許状下
付と引き換えの冥加金が困窮せる王室財政の有加な財源の一っとなっていたがためにこれを阻止することは実際には困難
であ
った
︒
与えられているようである︒ 中批イッグラソド羊毛貿易の梅造第二十五巻
サンドウィヅチ︑サウザンプトンであったが︑
サンドウィッチとサウザンプトンが重要な
カレー・ステープル通過免除の王室特許状を獲得することによって︑事実上ステープル商
けて生産された羊毛を︑時にはネーザーランドに︑
第一号
10
五
カレーのステープル商人組合は︑良質
カレー・ステープルの支配権を握つているステープル商人組合の統制からまぬがれた商人は︑
ない︒イギリス商人の中にも︑このような事実がある︒Berwickの商人は︑Cocket,
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︑そ
の他
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ットランド産の羊毛を︑直接ネーザーランドに輸出することを許された︒またNewcastle'on,
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通例は指定の港たる
(2
5)
の羊毛輸出港は主にニューキャッスルとサンドウィッチであったが︑このようなカレーヘの積み出しを先れた北部の羊毛 は︑ネーザーランドの奢修毛織物工業の巾でその使用が禁ぜられた品質粗悪な下級品であった︒しかしながらこの禁令を
侵すふとどきな毛織物業者も多く︑また専問に廉価な下級毛織物を生座する町も存在し︑下級羊毛の需要増大に伴い︑
テープル商人の取り扱う良質羊毛の市場が狭められる幣害もあった︒したがつて︑
な羊毛と同じょうに下級品を︑その支配下におくための努力を続けた︒この理由︑およびその他の事情によって︑
( 26 )
キャッスルからの羊宅輸出は︑十五批紀の中頃には年平均五
00
サックスで︑それ以後は次第に衰退してゆく︒
ところで︑その場所が北酉ョーロッバの交戦地域とあまりにも接近しすぎていたというカレーの位置は︑十天批紀を通
じての絶え間のない戦乱と︑政府の無能によって︑ますます都合の悪いものになってきた︒
羊毛を購入するためにカレーを訪れるドイやフランスの商人ばかりでなく︑
達も︑長期にわたる戦乱の中で︑その取引をしばしば中断させられるという苦悩を味わねばならなかった︒それと同時
中批イソグラソド羊毛貿易の構造第二十五巻
ス
No
r , イタリイ商人ばかりでは
N orthallertun,
およびTeesからTweedにか
( 84 )
Br
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に輸
出し
た︒
これ
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デュ
ー
ステープル商品を販売するステープル商人
中批イソグラソド羊毛貿易の猜造
に︑政府の財政的貧困および不安定性は︑ステープル商人達に莫大な負担を強いることになった︒すなわち︑高額の羊毛
特別税および力
V
l防禦の費用などを︒
カ>ーの防備は︑ステープル商人にとつて死活問題であることは明らかである︒力
v
1占領当初には︑
組合自体が︑同時に︑軍隊の役割を果したようである︒町から=ドワードの軍隊が撤退した時︑組合はフランス軍の侵入
に備えて︑商人とその奉公人の中から一
00
人の剣士
(h il lm an )
と二
00
人の射手
(a rc he r)
を選ばねばならなかかつ
た︒しかも政府の軍隊に対する支払いの延滞によって生じる兵隊の掠奪に備えて︑組合自身が︑規則的に政府に代つて軍
隊の給料を支払うという責任を持つ必要があった︒したがつて組合はこれまで以上に︑王室財政機構の中で重要な役割を
︵ 町︶
演ずるようになった︒
山
E. Po we r, Th e w oo l t ra de in h t e 1 5t h ceutury,
in e d . E . P ow er
&
M. Po st an
̀
o p. cit••
p . 4 7.
図百年戦争の簡単な経過については︑今井登志喜﹃英国社会史﹄上︑増訂版︑一二四ー八頁参照︒
⑱
Li ps on , T he Ec on om ic His to ry f o E ng la nd , T be i M ci dl e A ge s p 4 8 . 0 .
囚G︑
Un wi n, Th e M er ch an ts Ad re nt ns ei s C om pa ny n i t he Rei gn f o Elizabeth,
in S tn di es i n E co no mi e Hi st or y, T aw ne y ed
••
p .1 4 3 .
張漢
裕﹁
ステ
ー︒
フル
及び
ステ
ープ
ル商
人の
歴史
﹂︵
﹁重
商主
義研
究﹂
所収
諭文
︶ニ
ニ
0
頁 ︒⑤拙稿﹁ステープル商人の形成とエドワード一・ニ批の経済政策﹂︵﹁経済論究﹂第4
号 ︶
⑥
E. Po we r, o p . cit••
pp . 39
1 4 0
. mH•
H a . 1 1 , Th e C w, to ms
‑R ev en ue f o En gl an d, o V l. 1 , 1 88 5 , p . 3 3 ・
第二十五巻第一号
1 0
六
ステープル商人
⑰ E . Po we r, op. c it . , p . 4 1.
⑱
E . Ri ch , op . c it . , p p. 7ー
8.
⑳
E. P ow er , o p. c i t ., p . 4 4.
闘
i bi d . ,p . 4 4. E . Ri ch , op . c it . , p .
8.
中批イソグラソド羊毛貿易の構造 ⑲
i bi d . , p . 7 .
⑯
i bi d . , p . 44
⑮
i bi d . , pp . 72
ー7
3.
⑭
E . Po we r, op. c it . , p . 7 3.
⑧
E . Ri ch ,
The O
rd in an ce Bo ok of Me rc ha nt s o f th e Sta pl e, 1 93 7, p p.
7ー
9 .
⑥
E . Po we r, op. c it . , p . 4 1 .
第一号
10
七 ⑩
E ,
Po we r
& M.
Po st an
̀
op . c it . , p . 6 3 5.
⑪
E .
Ri ch , o p. c it
・' p. 6 ,
E・パワーによれば︑組合のメソバーは︑エドワード四批時代一︱
10
0人以上︑十六世紀初頭には四
00
人に
張氏によれば︑ニ︱一六三年のステー︒フル指定によって︑二十六人の幹都が選ばれ︑内二人はメーヤー︑
1 1
十四人がオルダーマソであったという︒精しくは前掲書ニニニ頁︒
( H•
Ha ll , op . c it . , p . 3 3
ー3 4
.
︒︵ワーによれば﹁カレーの英国商人は︑町中に勝手に住むことを許されなかった︒ステー︒フル組合は正
規の許可をうけた﹃主人﹄の名簿をもつていて︑その人々の家に宿泊することを許した︒﹂という︵﹃中世の人々﹄三好洋子訳ニ︱︱︱︱︱
頁)。この他組合の重要な仕事として、羊毛の重量・品質を監視する必要があった(H•
Ha ll , op . c it . , p . 3 4. )
︒
( H•
Ha ll ,
0 p .
c it . , p . 3 2.
のぼったと云う︒
(o p. c it . , p.41.)
第二十五巻
次にわれわれは︑羊毛取引をめぐる十五世紀イングランドの流通構造を明らかにしなけれはならない︒流通の構造を明
らかにする場合︑われわれは生産構造の分析を前提することなしにそれを語ることができないわけであるが︑ここでは行
諭の都合上必要な限りで取り上げることにして︑その全面的な検討は別の検会に譲ることにしたい︒
中泄イングランドの羊毛は︑古くからほとんど唯一の﹁換金作物﹂として大陸に輸出されていた︒このような外国市揚
向け羊毛の輸出担当者たるステープル商人︑
前記カレーその他に輸出したのであろうか︒いまこれを主としてE・バワーに拠つて示すならば︑次のごとくである︒
すでにみたように中冊羊毛貿易の第一段楷は︑羊毛生至者と外国商人との直接取引契約であり︑これが十三批記の一般 闘
E . Ri ch , p p.
8 ー
9.
閥ibid••
p.
4
3.
闘
ib id
・' p.
5 1 .
闘
E . Po we r. , op . c it . , p .
43
.
屈
E. Ri ch , op . ci t, p.
8.
図
i bi d . , p .
44
.
中枇イソグラソド羊毛貿品の構造
およびその他の商人は︑いかなる手続きを経て︑その商品を購入し︑それを
第 一
i十五巻第一号
10
八
中世イソグラソド羊毛貿易の構造第一号
10
九 的特徴であった︒しかるに十︱︱一批紀ボから十四批紀にかけて︑農民経済の発展を社会的基礎として︑国表的商人たるステー︒フル商人が登場し︑生薩者と外国商人のあいだに介在し︑羊毛貿易をめぐつて外国商人と競争関係にはいる︒ところで農民経済の発展にもとずく農民層の分解は︑上層農民の中から買占商人
11
羊毛仲買商人を析出する︒析出された羊毛商人 は︑国内羊毛取引に従事することによって︑生産者と輸出商人︵ステープル商人および外国商人︶とのあいだに介在する
(1
)
ことによって︑独自的機能を営むことになる︒これが第三段階である︒
ところで中批の羊毛生産は︑①チルタンの丘陵地帯に属したオヅクスフォドシャア︑ベークシャア︑
逆にリンカンシ ィルトシャア︑⑳ヨークシャア︑リンカンシャアの原野と高原︑③コーツウオルドの丘陵地帯︑国シュロップシャア︑
(2 )
リファドシャア等の辺境蛾を四大生産地として︑ほとんどイングランド全体に及んでいたのであるが︑生薩された羊毛は
(3 )
生産地によって品質に差違があり︑したがつて羊毛の価値はそれにもとずいて分類されている︒
(4
)
いま一四五四年の有名なセリー商会の記録によって︑その主なる価格を表示してみよう︵第一表︶︵第二表︶︒
第一表の場合︑紐かくは石十一に分けられるのであるが︑このリストにはニューキャッスル港から連ばれた北部諸州の 羊毛と西部半島のものが欠けている︒また第二表の場合︑三十一等級に分けられるのであるが︑これら二つの表を検討し
てみた場合︑その理由は不明であるが︑第二表のバーグシャア羊毛は第一表のそれの二倍以上の価値を有しており︑
リンカンシャアの
Ke
st
ev
en
やウィルトシャアの羊毛も第二表では第一表よりも高く見積られている︒
ャア
の
Li
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se
y
Ma
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h
や︿ンテイントシャアの羊毛は第二表において低く評価されているようである︒
第二十五巻 また
ヘ
ハンプシャア︑ウ
これら諸々の品質のイングランド産羊毛の中で高級品に属するものは︑
の手を経て︑ネーザランドおよびイタリイの高紋毛織物
th
e
f i n e
c
lo
th
下級毛織物
th
e
co
ar
se
l c
ot
h
の原料として使用されるため︑国内市場向けを除いた大部分が︑
(5) イに輸出されていたことは︑前節でみた如くである︒
いたのであるが︑そのかたわら生涯者からも直接羊毛を購入していたといわれ.
〔第一表〕
カレーならびに北イタリ
輸出用羊毛の購入は︑中間商人たる地方の羊毛商
wo
ol
ma
n,
wo
ol
mo
ng
er
または
br
og
ge
r
の手を通して行なわれて
﹁コーツカオルド︑その他の羊毛生産埠
の生産に用いられ︑また下級羊毛も同じ地城の ス テ ー プ ル
商人、その他一部分はイタリイ商人
品 種 I 価 格
the Mush of Shrnpshfrc and I 14
Leominster Sake mark
Leominster in Herefordshire 13
Catswold 121;,j!
II
High Lindsey in Lines 8L,2
Low Lindsey, young Cotswold
and Herefordshire outside the
Leominster district
‑
‑ ‑
Cley, Newark, Lindsey Marsh,
Noth Halland (Lines), Banted
Down and Gloucestershire
‑ . ‑
Notts, Berks an South Holland
. . ・・‑"・‑‑・・‑ ‑‑‑ .. .
Southray, Middlesex, Yorks and Kent
Suffork
‑
‑ ‑ ‑ ‑‑‑‑‑ ‑ ‑‑‑ ‑ ‑ Sussex
〔 第 二 表
J
品 種・ ―‑
I 価格
— - ‑‑‑‑‑ ‑‑‑・, —』
Marsh wool
I ' o
markCotswold fiine 18
Lindsey and Berks 16II 渥
Norfork
I 四
Yorks 10屯
II 中枇イソグラソド羊毛貿易の構造第二十五巻第一号
︱
10
で︑中間商人や生産者から羊毛を買い集めるのが︑
(6 )
ので
ある
︒﹂
ここに十五批紀のステープル商人組合の有力な一員であったセリー商会︑ならびに
J・ラッセルの取引状態を例示して
みよ
う︒
セl J
ー家の場合︑主にウィリアム・ミッドウインターとジョン・プッシュという二人のノースリーチの羊毛商人
(7
)
と取引を行っていた︒
﹁普
段︑
セリー商会は春秋にコーツウォルドをまわる二人の代理人をもつていた︒
リチャード・セリーはみずから仲買人と会見し︑また彼の兄ジョンは農民逹から羊毛を買い集めるために雇われ︑時には チの大仲買商
W
・ミドウインター︵かれから羊毛の大都分を得た︶とJ・セリーによって集められた羊毛に対し︑また地方の生産者の私的グループ
︵そ
れぞ
れ四
︑0
九八
︑一
︑ニ
ニ四
︶︑
Pr
es
to
n
の
Ri
ch
ar
d
Co
ol
ys
(四五四︶︑その他を含んでいる︒
取引を行ったステープル商人は︑周知のヨークシャア・ステープル商人で︑
遺言状(‑四三五年︶によって明確に示されている︒彼は﹃転売するためにヨークの森の農民達から私は羊毛二
0
ポンド(8 )
を︑同じょうにリンドシエイの農民達から一
0
ポンドを買った﹄と書き遺している︒﹂中世イソグラソド羊毛貿易の構造
Wi
ll
ia
m S
yg
er
から購入した四五八
︵か
れら
から
羊毛
を購
入し
た︶
ランカシャアのごとき遠方まで出かけ︑
第一
号
ステープル商人の大事な仕事であり︑そこから彼等はその商品を得た
一サックス当り五セントを支払った︒
に対して︑支払いを行ったことを示している︒これらは
Ca
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第二十五巻
同じように生産者と直接
一時ョーク市長となったジョン・ラッセルの 一四八二年の計算書は︑商会がノースリー コレスポンドが開始されたとき︑老