九州大学学術情報リポジトリ
Kyushu University Institutional Repository
向坂逸郎先生のこと
田中, 定
https://doi.org/10.15017/4362521
出版情報:經濟學研究. 26 (5/6), pp.451-455, 1962-04-25. Society of Political Economy, Kyushu University
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向 坂 逸 郎 先 生 の こ と
学校︵第五高等学校︶の先輩という関係もあります︒
租が九大を選んだのは︑郷里に近いということもありますが︑
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意気込みをもって新鮮なスタッフを揃えておられ︑その魅力にひかれたことが大きな理由でした︒当時新聞などで伝え
られた経済科関係の陣容には︑高田保馬︑大森研造︑一二田村一郎︑竹内謙二︑石浜知行︑向坂逸郎︑被多野鼎︑小島精
一などの方々があげられておりました︒森耕二郎︑高橋正雄︑長田三郎先生などがつぎつぎに加わってこられました︒
経済科の学生数は二十七名だったので現在とは大変な違いです︒
帰朝された向坂先生がゆっくり構えてなかなか赴任されないので︑塚本一二吉さんが気をもんでいたというようなこと
もあったようですが︑やがて秋には二十八オの新鋭の気に満ちた先生がやってこられたわけです︒講義は原論ですがそ
の講義ノートは︑あとで改造社から出された﹁資本論大系﹂の中に桐当部分が生かされることになったものです︒王ミ
当時の九大法文学部は美濃部︵逹吉︶先生が非常な
九大法文学部が開設されたのは大正十三年九月のことですが︑租はその第一回生ですから︑ドイツ留学から帰朝して
十四年秋に九大にこられた向坂先生には最初から教えをうけているわけです︒先生はまた私の中学︵八女中学︶︑高等
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田 中 定
も昭和三年にお罷めになるまでずっと続けられ︑その間にヒルファデングの﹁金融資本論﹂を全部やっていただきまし
た︒その時のメンバーは十名ばかりいたと思います︒当時はまだ現在の演習室はないわけですから︑十一番教室の隣り
の︑今は経済史の書庫になっている部屋で行なわれました︒
演習のやり方ですが︑もともと先生は昔から時間的にはあまり︒ハンクチュアルな方ではなく︑三十分や一時間は遅れて
こられることもありました︒その間私たちだけでいろいろ議論をしておくわけです︒そのうちに先生がお見えになる︒
そこで問題になった所を先生にお訊ねするというわけですが︑その際︑いろいろ文献をあげて私たちに自分で勉強する
ようにさせるというのが当時の先生のやり方でした︒だから︑戦後になって先生の教えをうけた諸君が︑向坂先生とい
う方は大変激しい議論をされる方だ︑誤りをビシビシ指摘して苛責なく叩き伏せられるこわい先生だ︑という感じをう
けているようですが︑租どもにはそういう印象がないのです︒大体文献を示されることが主で︑自分の意見をこうだと
表面に出されることは︑当時はほとんどありませんでした︒出席している学生はその教えられた文献に取り組んで自分
で勉強するわけで︑だから︑皆の読んだ本を全部合せると相当な数になったと思います︒そして︑それが各人のその後
の学問的スタートになったと思われるむきがあります︒岡橋君は優等生で︑文学部に出かけてヘーゲル哲学を勉強して
いたように憶えています︒勉強は結局自分でするものだという教えをうけたわけです︒その頃は高田先生が原論の講義
をやっておられる︒また演習にマックス・ウェーバーをお使いになる︒向坂先生がお罷めになってまもなく赴任される
森耕二郎先生は︑その頃京都大学でリカード価値論の研究労賃学説の史的発展をつぎつぎに出しておられる︑そういう
零囲気の中で租たちは学生時代を過したわけです︒
昭和二年に﹁内肛事件﹂というのがあります︒今から考えるとこれは法文学部の︱つの危機であったわけです︒私ど
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第二十六巻第五・六号 も学生もやほり相当のショックをうけました︒郷里で新聞をみて驚いた私が向坂先生の所に行くと︑先生は非常に冷静で︑もちろん詳しいことは何もうかがえなかったのですが︑兎本角どうにもならないというようなお話でした︒この事件には︑向坂先生は勿論︑経済科の諸先生は全部圏外だったわけですが︑学生が集って︑そもそも内肛というものにどんな意味があるのか︑意味があるとしてもこんな形態をとるのは馬鹿気ている︑内肛反対︑いや唯の反対では済まなぃ︑絶対反対だ︑というようなことを協議したものです︒このように︑内肛というものほ絶対反対だという意見があったことは事実で︑これが学部がその後いろんな危機を乗りこえていくその大きな精神の一っになったと思っています︒
先生の御宅は柳原にありました︒濠に面した村上さんという方の持家で︑そこに淑やかで美しい奥さんと新居を構え
られていたわけです︒家中本だらけで︑奥さんが実によくその本を掃除されていたのを覚えています︒租どもは時々お
宅にお邪魔したわけですが︑ともかく本が一ぱいで話すような場所は階下にはないのです︒そこで二階が応接間になっ
ていたようですが︑なにかお茶をつぎたすような用事ができた場合︑ベルなどはないので︑オーイというのが何か具合
が悪いのですかね︑先生はゲンコツで畳をホコリが出る位ドンと叩かれる︑そうすると奥さんがしとやかに上ってこら
れる︑という仕組みになっていました︒全く︑オーイとどなる以上の日本男子ぶりでした︒話しこんでいる中に遅くな
る︑そして御馳走になる︑ということもしばしばでした︒勿論酒は当時から全然なかったわけで︑よくスキ焼きを御馳
走になりました︒何回位御馳走になったか︑それは覚えていません︒
そうする中に︑お罷めになる昭和一一一年を迎えるわけです︒おそらく四月頃福岡を離れられたと思います︒その時のこ
とはまだはっきり思い出すのですが︑駅までお送りしようと思ってお宅におうかがいしました︒すると奥さんが髪を結
って帰ってこられました︒そして︑多分前から頼んであったんでしよう︑先生の
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ヂーを持って帰られました︒それで四五三
たことと思います︒ ﹁我等﹂をやっておられた嘉治降一さんにすすめられて︑私は 先生は自分もヒゲをそって︑綺麗なご夫婦で沢山の見送りの中を家を出られました︒罷められる時︑か︑何かそんなものと思うのですが郵便局に金を受取りにいかれると︑局員が︑まだお若いのにどうしてこんなに早くお罷めになるのですか︑勿休ないではないですか︑と去ったという話もあります︒二十八オから三年たっているわけですから三十一オです︒改造社のマル・エン全集の話は当時すでにあったと思います︒東京に行けば兎も角その仕事で一
福岡におられる時︑由布院でカウッキーの﹁農業問題﹂の訳を仕上げておられます︒どうして農業を勉強されるので
すかとお訊ねすると︑私は矢作︵栄蔵︶さんの弟子で矢作さんの助手を長いことやっていたからね︑というお話でした︒
先生が罷められてから五・六年後︑たしか昭和八年頃︑
一年ばかり地代論争に参加したことがあります︒書いているうちにいろいろ判らないことが出てくるものですから︑
度だけ先生に手紙を出したことがあります︒その時の御返事は︑公けにされている著書や論文にみられるのと同じょう
な克明なもので︑私の考え違いを一々明確に指摘していただき︑学生時代の先生の印象︑つまり学生に自分で勉強させ
るという態度とは別の面に接した気がしました︒
九大を罷められた後の先生の生活は︑マル・=ンの仕事をやっておられる間はともかく︑昭和十二年の人民戦線事件
後は︑随分ひどいものだったと思います︒ドイツの歴史や経済地理の本を訳したり︑戦争中はジャガイモ作りが大変上
ともかく︑そんなことでもわかるように︑非常に清潔な生活を送られ︑それだけにたいへん苦労され手になられたり︑
二十一年になってお迎えするということが決って︑波多野先生が先生と石浜先生の二人をお迎えする交渉をなさった ぱいなのだ︑という話は聞いていましたから︒
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一時恩給か退職金
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第二十六巻第五・六号 が︑しかし二十六年からは前期も後期もちゃんと時間割を組んでいただくようになりました︒
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と思います︒その時の話によると︑大学の教壇にはもう絶対立たぬというつもりでいたが昔の教え子である田中君や岡 橋君たちの顔を見たいと思ったらふらふらと承認されてしまったとのことです︒ああいう状態の時ですから一年の半分 はこちらで練塀町の石橋さんのお宅にお泊りになり︑あとの半分は東京ですごされ︑講義は集中講義という状態でした 蜂蜜を流しこむのが一番美味だといわれる無類の甘党振り︑犬の話︑絵の趣味︑散歩好き︑先生に関する話はいろい
ろあるわけです︒柳原時代︑日曜のくるのが楽しい︑ゲーテを読めるから︑と一云っておられたことなども思い出します︒
絵のお話をうかがっても︑犬のお話を聞いても︑先生のお好みは常に第一級のものを選ぶというような風があるように 思えます︒やって良いことと悪いこととを常に考えて毎日の生活を送られる先生の厳しい生活態度にいつても触れなけ
ればないないと思いますが︑これくらいで勘弁していただきます︒
お こ と わ り
この文章は田中先生の談話の速記を編集委員でまとめたものです︒この計画をたてた時︑田中先生は生憎病気入院中で御執筆
を お 願 い す る こ と が 出 来 ま せ ん で し た の で
︑ こ の 方 法 を と り ま し た
︒ 編 集 委 員